<今月読んだ本>
1)激甚気象はなぜ起こるのか(坪木和久);新潮社(選書)
2)総力戦としての第二次世界大戦(石津朋之);中央公論新社
3)5G(森川博之);岩波書店(新書)
4)百人一首の図像学(岡林みどり);批評社
5)裁判官も人である(岩瀬達哉);講談社
6)漱石作品(夏目漱石);新潮社(文庫5巻)
<愚評昧説>
1)激甚気象はなぜ起こる
-今そこにある激甚災害、気象学者が明かす我が国に特有の気候・気象環境-
著者(1962年生れ)がまだ若い頃、幼い娘に「パパ、フルーツとスイカと、どっちが好き?」と問われて、一瞬「エッ?」と答えに窮する。しかし、今この種の質問が頻繁に著者に発せられる。「昨今の異常気象は地球温暖化によるものでしょうか?」と。地球温暖化は“気候”、異常気象は名の通り“気象”、学問的にこれは次元の異なる世界なのだ。つまり、地球物理学(気象学)の観点からすると“気候”は長期・広域が対象、“気象”は短期・特定域が対象なのだ。しかし、著者は「そうですね」と答えるようになってきている。直接的な因果関係はともかく、遠隔広域気候変動が局地気象に影響を及ぼしているのは研究から明らかになってきているからである。
本書は終盤地球環境問題に言及するものの、中心テーマはあくまでも“気象”にある。今月初めの九州北部を襲った豪雨はさすがに記されていないが(梅雨が、九州では豪雨型になり易いことは記されている)、昨秋千葉県を中心に吹き荒れた台風15号、19号や平成30年7月岡山県の広い範囲に水害をもたらした豪雨(西日本豪雨)、2018年年初の北陸地方豪雪など、直近の異常気象が具体例として取り上げられている。これに直結する台風、梅雨前線、秋雨前線などの発生や挙動原理、局地予報の難しさ、それに対する我が国気象学や関連災害対策の現状など、著者らの研究活動を中心に解説し、最後にそれへの対応策を提言する構成になっている。
伊勢湾台風(1959年9月;著者は名古屋大学教授ゆえ、これに対する研究、データが多い)もたびたび援用しながら、今世紀に入ってからの異常気象による大きな被害状況を気象情報を突き合わせて分析する。これは、中緯度、大陸の東側、大洋の西側に位置することと深く関わる地理的宿命なのだ。広域気象(偏西風/貿易風、エル・ニーニョ/ラ・ニーニャ、大陸北東(日本から見れば北西)寒気団、熱帯性低気圧)の視点から、とにかく渦(高気圧/低気圧)が生じ易く、これに海水の蒸発量がまた高い。台風、豪雨、豪雪、熱暑、竜巻、いずれも大気(の不安定)と水蒸気がもたらす異常気象なのだ。
それでは異常気象と大気・水蒸気の関係は如何に?台風・豪雨を特に取り上げてこのメカニズムを、気象理論と実際のデータを用いて解説する。主役は積乱雲、この生成・成長が図や写真まで動員して詳しく講じられる。例えば、雨が出来る過程;海水の蒸発→大気温度・圧力差に依る急上昇→積乱雲の発生→高空で雪片に変化→下降して雨滴に→大粒の雨に成長→豪雨。雨滴は決して描かれるような涙型ではなく、おはじきのような円盤型なのだ。この大粒の雨が水害や土砂災害をもたらす。
何と言っても異常気象のエースは台風(これによる豪雨を含む)。上陸・接近前に進路や規模を予測できれば被害はかなり抑えられる。我が国官庁への大型電算機の導入は気象庁から始まるくらいこの方面への電算機利用は歴史があり、著者らもスーパーコンピューター「京」を使ったシミュレーションモデルを駆使して進路・雨量・風速予測を行っているが、これがなかなか難しい。局所の短時間予測はモデルが複雑な上に、出来るだけ直近の実測データ(初期条件)が欲しいのだが、ここに一つの限界がある。かつては米軍機が台風の眼の周辺・上空まで飛び、ラジオゾンデなどを用いてデータ収集を行っていたのだが、それが気象レーダーや気象衛星に変わり、モデルは高度化しても初期条件データの質が低下しているため、全体の精度が上がらないのだ。研究用にときに民間機をチャーターし測定器を積み込んで、台風に向かうこともあるが、費用とタイミングに大きな制約がある。因みに、米大陸東南部を襲うハリケーンに対しては今でも米軍機が飛んでいるし、台湾も専用機を持っており、著者はこの両国を台風観測先進国としている。
著者は北海道大学理学部で学び、北大低温科学研究所、東大海洋研究所などを経て、現在名古屋大学宇宙地球環境研究所教授。北大時代の恩師は雪の博士中谷宇吉郎の弟子、そして中谷は寺田寅彦に学んだ。「天災は忘れたころにやってくる」は寺田の言と伝えられているが、それはどこにも残されていない。しかし、寺田の随筆「天災と国防」(1934年刊)にはそれに類することが繰り返し記されている。本書でもこの「天災と国防」がしばしば引用され、結び近くに以下が記される。
「文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向があるという事実を充分に自覚して、そして平生からそれに対する防御策を講じなければならないはずであるのに、それがいっこうにできていないのはどういうわけであるか」と平時における準備の重要性を説いている。一世紀近く経った現在でもそのまま通用する警句に身につまされるものがある。
本書は、編集者から「対象読者は一般文系の人」と指定されたようだが、著者が「専門用語も遠慮なく出てきて、やや難解な部分もあるかもしれない」とことわりを入れている。確かにその通りだが、そんな部分を飛ばし読みしても、直面する異常気象理解の妨げになるどころか、それを深め、災害への備えに一助となる内容である。
2)総力戦としての第二次世界大戦
-欧州における10大作戦、勝敗を決した兵力兵站は分かるが、“総力”が見えてこない-
科学技術戦としての第二次世界大戦を追う者にとって、太平洋戦域に比べ欧州戦線は圧倒的に幅もあるし奥が深く、調べ甲斐がある。特にシステムとして兵器を分析評価する時、それが顕著だ。欧州での科学技術戦は第一次世界大戦ですでに始まっている。飛行機、潜水艦、戦車、電波兵器、いずれも後に戦略兵器に発展するものが実戦投入され、第二次世界大戦との戦間期に、これらの運用思想(戦略・作戦・戦術、兵器体系、兵種・軍種)の検討が各国で進められた。つまり科学技術先進国が割拠する欧州戦域が先端兵器激突の場となったのは自然な流れなのであり、戦後数多著された戦史や回顧録、さらには戦争小説まで、欧州における戦いが、広義の機械力とエネルギーの戦いであったことを露わにしている。ただ我が国からは遠く離れたところで行われた戦いゆえに、日本人に依るものは数も限られ、内容も欧米文献(独語からの英訳版を含む)をなぞるものが多く独自性に乏しい。そんな中で最近岩波新書が大木毅著「独ソ戦」を発刊、著者がドイツ語を解することや冷戦終結によるロシアの情報開示も利して、従来と異なる独ソ戦観(国防軍も深く関わった絶滅戦争)を示し、大きな話題を呼んだ(2020年新書大賞受賞)。今回取り上げた「総力戦」も事前に内容チェックを行ったところ欧州で戦われた10作戦を対象としていることを知り、新しい知識を得られることを期待し、また著者が防衛省防衛研究所戦史研究センター長であることにも惹かれて読むことになった。注目点は“総力戦”である。
取り上げられた10作戦は;西方電撃戦、バトル・オブ・ブリテン(英独航空戦)、大西洋の戦い(潜水艦戦争)、バルバロッサ作戦(独ソ戦)、北アフリカ戦線、イタリア戦線、ノルマンディ上陸作戦、戦略爆撃、マーケット・ガーデン作戦(オランダ、ベルギーへの空挺作戦)、バルジの戦い(独軍最後の反攻)、である。いずれも著名な戦いで、戦史・戦記のみならず、小説や映画の題材としても数々の名作が生まれ、本書の中でも映画に触れるところが何度もある。著者は映画ファンでもあるのだ(私もほとんどの作品を観ている)。
記述内容はどの章も、いくつかのエピソードを挟みながら、作戦計画、作戦展開、兵力(兵器性能を含む)、指揮官の資質・判断、勝敗の帰結と進み、最後に“著者が考える総力戦”について解説・論評する構成になっている。しかし、紙数は圧倒的に作戦展開に割かれ、総力戦部分はタイトルに比し軽い。
実は、各章に先立つプロローグで、「10の作戦はいずれも戦場の趨勢を決する戦いではあったが戦争の決定点ではなく、つまるところそれは国の総力で決まる」とし、その総力の因子として「技術(生産を含む)」「個人の資質(リーダーシップ)」「広義の意味での社会」の3点を挙げ、これらの相乗効果として総力が生まれるとしている。しかし、「技術」と「個人の資質(リーダーシップ)」は作戦展開や兵力に関する記述で意図するところが伝わるものの、著者が最重要因子と言う「広義の意味での社会」が何を意味し、具体的にどんなものかが今一つ明確になってこないのだ。ある時は兵員数や産業動員力、ある時は資源や物量(兵器、弾薬、燃料、食糧、建設資材、被服、医療品)、ある時は輸送力。個々の作戦におけるそれらの影響度は誰もが知るところである。これらを社会科学の視点から共通項として整理出来れば総力の概念が確り理解できるのだが、そこまで煮詰められていない。また、国家経済の分析(これが最も重要)やイデオロギー・宗教と戦意の関係あるいは政治と軍事のかかわり方を掘り下げることもしていない。多少“社会”に関係するのは、これもプロローグに記されているだけだが、フランス革命に依る“臣民”から国民への変化とそれに伴う軍事組織改革(戦闘力の強さ)くらい。結局、欧州戦線10大作戦概説の感しか残らなかった。
著者は大学で英文学を学んだ後(1985年)英国に留学、ロンドン大学におけるオリエント・アフリカ研究で修士号を取得、1993年に防衛研究所に入所、ここからロンドン大学キングズカレッジに派遣され、そこで戦争学を修めている。不満が残ったので防衛研究所なるものを少し調べてみた。防衛省内の位置付けは防衛大学校や防衛医大と同格で省内のシンクタンク的存在。年間予算16億円、人員132名その内研究者85名。最も重要な役割は防衛政策の研究(政策研究部)。戦史研究センターは部レベルの組織。本書は、研究成果をまとめたと言うよりは、著者の関心事を一般向けに書き下ろした性格が強いように感じる。
3)5G
-デジタル変革(DX)の基盤だが、全体システムが整うまで5Gスマホに飛びつくことはない!-
最初の携帯電話所有は1996年第2世代(2G)のもので会社から支給された。専ら業務連絡用である。2003年退職を機に個人用にしたが依然として2Gでiモードは使えたが通話とメール専用で、ネットに接続することはほとんどなかった。2007年ビジネスの世界を終え英国に滞在するため海外ローミングできる3G対応の機種に変えた。この頃が携帯を最もよく使った時期である。2017年10年を経て充電寿命が短くなり、電池交換も断たれたので新しいものが必要になった。既にスマートフォン(スマホ)が普及していたからそれへの乗り換えを検討したが、ほとんど在宅で携帯は外出時の非常連絡用、コストパフォーマンスが著しく悪いので3.9G(限りなく4Gに近い)のガラ携にした。この間使用上Gの変化を実感したことはない。ネット利用は自宅のデスクトップの方が画面やキーボードも大きく使いやすいので、この環境で何ら日常に不自由はない。しかし、世の趨勢を見ていると、高齢者でもスマホが扱えないと、いずれ厄介者になるような不安も感じている。行政、医療、交通、金融・支払い、各種予約など。一体全体、5Gで通信さらには社会環境がどう変革していくのか?個人としてそれにどう備えるべきか?そんな観点から本書を紐解くことになった。
5Gと組み合わされる話題は専らスマホとDX(デジタル変革)、ICTの世界に長く居た者にとって「また(変革)か!」の感である。そして「日本は遅れている!」と不安を煽る(特に日経系メディや米系コンサルタント、話題勝負の軽薄な学者)。近いところではドイツが言い出したインダストリー4.0(第4次産業革命)がいい例だ。ドイツの実態は決して報じられているようなものではない。何故か?通信インフラの基幹をなす地上通信網の光ケーブル敷設が著しく遅れているのだ。5Gでは米国・韓国さらには中国が先陣を切っていると喧伝する。確かにスマホの発売は早かった。しかし、いずれの国とも光通信網普及度で我が国のはるか後にある。特に広大な米国や中国では光ケーブル敷設に経済的な限界がある。
5Gは無線通信規格(通信速度など)、今騒いでいるのは端末(スマホ)と基地局間の通信のみ、社会変革をもたらすには発信元から受信先まで、全体のレベルが上がらなければ意味がない。光ケーブルに次いで重要なのは基地局(親局、子局)。携帯電話の基地局は通話中心で人口密度を基準に設置されてきた。過疎地で通じないのはその例である。しかし、遠隔医療サービスや自動運転となると全国くまなく設ける必要がある。しかも電波として極超短波を利用するため到達距離や遮蔽物対策に制約あるので数も多くなる。既設4G設備とのベストミックスを考えながら新基地局を展開していく必要がある。設置場所、大きさ、価格、様々な問題がそこに在るのだ。本書を読むと5Gとそれら通信インフラの関係がよく理解できる。
基地局設備では話題のファーウェイが先陣を切り(競合他社;エリクソン、ノキアより2~3割安い)、我が国通信機メーカーの存在感は薄いものの、全体基盤はトップレベルに在る。決して焦ることはないのだ。
では5Gで何が変わるのか?先ず押さえておきたいのは4Gとの違い。4Gまでは人が対象だったが5Gではあらゆる物が対象になる(真のIoT環境)。4Gとの技術的な差は、相対的なものであるが、「超高速」「低遅延」「多数同時接続」の3点である。それぞれが独立変数ではなく、基本的には「超高速」が他の効果をもたらしている。「低遅延」は遠隔地からの医療手術や自動運転などわずかな遅れも許されない場に必須。「多数同時接続」は無人工場実現には不可欠だ。ゲームはAR(拡張現実)・VR(仮想現実)で一層臨場感を持つようになるし、スポーツでは携帯端末で見たいところをリアルタイムでクローズアップして全体と部分を同時に観戦できる。著者は、4Gはゴーカート、5GはF1とそれを例え、「そんなことは4Gでも出来る」と言うような声に警告を発する。
インターネットもインフラだった。グーグル検索も一種のインフラである。しかし、それらは確実に社会変革をもたらしGAFAを生み出した。5Gというインフラが作り出す新しい社会モデル、ビジネスモデルは何か?そここそが5Gの肝である(映画のダウンロード時間など誇張も甚だしいし本質的な革新点ではない)。現時点では通信事業者も具体的なアイディアは無い。
著者は1965年生れ、東京大学大学院工学系研究科教授(電子工学専攻)。OECDデジタル経済政策委員会副議長、総務省情報通信審議会部会長などを務めている。
モバイル変遷史やデジタル覇権争いなど、技術分野以外のテーマも取り上げており、通信の世界全体を展望するのに格好の入門書である。
4)百人一首の図像学
-万葉・古今に隠された暗号メッセージ、北斎はこれを解いたか?-
推理小説はいつの時代もよく売れている。私が興味を持ったのは中学生時代シャーロックホームズやアルセーヌ・ルパンを知ってからである。前者では「踊る人形」(暗号小説)後者では「八点鍾」(八つの独立した短編が一つにまとまる入れ子構造)が記憶に残る。高校・大学時代はしばし遠ざかっていたが、就職して寮生活をするようになるとそれが復活、月刊誌「エラリー・クウィーン ミステリーマガジン」を定期購読し、東都書房が発刊した「世界推理小説体系」を24巻まで買いそろえた(全25巻だったが転勤で最後の1巻は欠けてしまった)。ただこれも長続きせず、30歳過ぎるとたまに新聞や週刊誌に連載される松本清張を読んだくらいで、最近はとんとご無沙汰である。ただこの流れの謎解き部分はスパイ小説につながっており、暗号や隠喩から事件が進展・解決するところは、推理小説と共通する味わいだ。そして本書のような文芸研究にも、推理小説びっくりの謎解きはあるのだ。
本書は百人一首の出典となる万葉集や古今和歌集あるいは伊勢物語などと北斎の「百人一首姥がえとき」が絡んで、奈良・平安時代と江戸時代を結ぶ社会(統治から世相、文化まで)分析を行う、極めて挑戦的な研究報告である。しかもその分析手法は、歌番を始め歌語の音(オン;例えば因幡=イナバ=178)、暦法あるは読み込まれた景観の図形化や詠み人に関わる家紋の図柄など、広義の数理を用いて、数々の日本史上の出来事を独自解釈してゆく、先例のない研究手法を採用している。例えば、天智天皇(白村江で敗退)から天武天皇への代替わりと秀吉(朝鮮征伐に失敗)から家康への政権交代を、天智天皇の歌と北斎が「えとき」を描いた時代背景(徳川末期)とを数理を論拠に重ねる、と言うようにである。この隠喩は著者の前作「狂歌絵師 北斎とよむ 古事記・万葉集」(本欄-118(2018年5月)で紹介)の主題でもあったのだが、今回はさらにそれを数理面で掘り下げているところが、前者と異なる点である。
この数理視点からの歌や絵の分析・解釈を通して、著者は奈良・平安時代すでに日本人は円周率や無理数(√5=2.236=富士山)あるいは太陽暦(閏年を含む)の計算法や数値を知っていたと推理し、また歌の背景理解の一助に修学院離宮を訪れ、庭の作りや詠み人と縁のある紋様(図像)から歌の真意を探り「えとき」にそれを援用する。
本書は小説ではないのでストーリーに惹かれて読み進められるものではないが、複雑な数理的入れ子構造を持つ“謎解き”と言う点において興味深いものであった。本来は日本文芸史研究の一分野なのだろうが、それには全くの素人である私には、大胆で意表をつく仮説設定とその証明手法に驚愕の連続、この道の専門研究者は如何に評価するのか聞いてみたい、そんな思いが読後に残った。しかし私にとっては日本数学史の一端を知ることが出来たことは大きな収穫であった。
著者は、東大で農芸化学を修士課程まで学び、化粧品メーカーの研究職に長くあった人。四半世紀前異業種交流会で知り合ったときには日本文化研究に転じており、ファッションを中心としたミラノ・ロンドン・東京の比較文化をテーマに研究活動を行っていた。日本古典の研究は退職後日本語創生・発展過程を多角的に調査・研究することから始め、爾来十余年、前書と本書で努力・研鑽の結果が結実した。その第ニの人生の過ごし方にも学ぶところは多い。
5)裁判官も人である
-公明正大、公平無私、不偏不党、不羈独立、憲法保証があっても行うは難し、が現実なのだ-
小学校から高校まで社会科の授業は特別に興味深かった。他の教科と比べ実社会に直結した知識がふんだんに得られる気がしたからだ。従って成績も良く、試験で誤った問題は今でも記憶しているくらいだ。その間違いの一つに、中学1年生頃学んでいた“三権分立”に関する試験問題がある。三権が立法・行政・司法であることは理解していたが、問題は「三権を実施する機関を記せ」と言うような意のもの、回答として、「国会・内閣・裁判所」と書いて×をもらった。正解は“最高裁判所”である。おかげで司法分野の法務省や検察庁と裁判所の役割の違いを凡そ理解し、司法試験に合格した修習生でも判事(裁判官)は成績優秀者しかなれないことも知った。加えて山口判事神話(戦後誰もがヤミで米を調達する中、それを違法として配給だけでしのぎ餓死)が刷り込まれている。裁判官は清廉潔白、公明正大な人とのイメージがその頃から出来上がっていた。そんな“特別な人”を“ただの人”にしてしまうようなタイトルがのぞき見根性を刺激した。
日本国憲法第76条は司法権、裁判権に関する条文である。その第3項に「すべての裁判官は、その良心に従い独立してその職務を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」とある。中でも重要なキーワードは“独立”。若くして判事補に任じられた者は、文字通りこの条項に従って職務を遂行しようとする。しかし、しばらく実務を重ねるとこの“独立”が絵空事であることに気づかされる。本書はこの“裁判官の独立”が中心テーマ。どんな裁判官がいかなる案件で独自見解を妨げられたり、独自判決ゆえに不遇なその後を送るようになったりしたかを例示しながら、根本根源を探っていく。行き着く先は最高裁判所行政(特に人事)。つまり、三権分立と言いながら司法は立法・行政に著しく影響を受けているのだ。
本書には書かれていないが、2019年度(令和元年)の司法試験合格者は1502名、その内判事補(裁判官)任用者はわずか75名(因みに副検事は65名)。いかに法曹界で裁判官がエリートであるか、この数字が著している。
判事の出発点は判事補12号から始まり判事補1号でひと区切り。ここまでおよそ10年。次は判事8号から高裁部統括(裁判長資格)あるいは地裁所長クラスの判事1号で判事号俸は終わる。この先の俸給は東京高裁長官(高裁でも別格)→最高裁判事→最高裁長官と上がっていく。判事補1号までは特別な事情が無い限り同期は同じ扱いである。ここから判事4号までも多少の差は付くがまず順当に昇格していく(18年程度)。大きなハードルは判事4号から3号への昇格で3号になると地裁の裁判長(20~30年)を務めることになり、初めて自ら法律解釈を行い、判決を下すことが出来、判例が残る。判事を志したものにとって、目指すゴールである。この昇格のカギを握るのは、最高裁事務総局人事局。修習所における評価(判事補への採否はここの教官が決める)、任官後陪席(左が下位、右が上位)としての言動(内容、処理件数)、上司の評価などを勘案して赴任先を決め、選別を進めていく。エリートのキャリアパスは、大都市の下級裁判所と修習所教官・事務総局を行き来すること。中でも最高裁判事をサポートする総局調査官室勤務は重要だ。
“裁判官も人である”から順調な昇進を望む。ここに“独立”との折り合いが問題になってくるのだ。そしてこれは若手ばかりではなく、ベテラン裁判官も同様である。最高裁の考え方(判例、先例、慣例)と異なる意思表示(陪席としての意見;記録に残る)や判決を行うことが、如何に個人としての先々に影響するか、多くの事例が実名入りで語られる。“独立”が干渉されるのは;違憲判決、国の行政施策遂行差し止め(例えは原発停止)、重大判例の逆転(冤罪追及案件など)、検察見解との齟齬、(事務総局が望まぬ)司法改革への積極的な参加などがその代表例である。その先に、僻地勤務、昇進遅れ、左遷、時には前例のない判事補再任拒否(事実上の解雇;1件のみ;青法協活動家)が待っている。
当然だが、裁判官が人としての在り方を問われ悩むのは昇進以上に法律解釈・判断にある。特に死刑判決はまさに苦渋の決断。尊属殺人や冤罪殺人事件に関する、被告の証言、厳しい検察官の追及、弁護士の反論・反証、不十分だった裁判官の証拠検証(検察の資料に頼りがち)を詳細に語られると、裁判官の苦しみみを他人事ではなく仮想体験させられる。この辺りの臨場感はノンフィクション作家としての力量と言っていいだろう。
司法試験合格者増員(増えたのは弁護士ばかり。減員要請が出ている)、法科大学院創設(次々と廃止されている)、裁判員制度(実は、冤罪などの責任回避策が最高裁の狙いである;元最高裁長官の発言)など司法改革が一見進められているように見えるが、法曹一元化(弁護士、検察官からの判事任用)は最高裁の頑強な抵抗で実現していない(もう一歩というところで小渕首相が急逝し立ち消えになる)。守旧的な“裁判所ムラ”は何も変わっていないのが実態なのである。
著者は1955年生まれのジャーナリスト、ノンフィクション作家。本書は週刊現代に連載されていたものをベースに大幅加筆したものである。
6)漱石作品(5巻)
-叙事詩から西洋歴史幻想小説まで多彩な文体、時代を的確につかみ将来社会を予測する。さすが近代日本一の大文豪-
漱石作品を5巻読んだ。1巻は中短編集なので作品数は11になる。「坊ちゃん」「吾輩は猫である」「三四郎」「草枕」「倫敦塔」「カーライル博物館」「幻影の盾」「琴のそら音」「一夜」「薤露(カイロ)行」「趣味の遺伝」がそれらだ。これらの内「薤露(カイロ)行」は数行読んでやめにしたし、「幻影の盾」は飛ばし読み、「猫」もそれに近い。ただ読み飛ばした2巻の理由は異なる。
「猫」は、始めは面白いと読み進むが、やがてストーリー展開がまるで感じられず、同じような話の連続で飽きてくる。これは中学生時代と同じである。対して「幻影の盾」は英国の中世を舞台にした幻想小説で、この種の小説には全く興味がない。「薤露(カイロ)行」も書き出しで英国神話(「円卓の騎士」が下敷き)と分かり読まなかった。
何故今頃漱石を?第一の理由は、先月の本欄で取り上げた「漱石と鉄道」にある。同書の中で漱石が近代文明(鉄道)の利便性を認めながら、それに対する批判も強かったと記されていたので、その部分をもう少し知りたいと思ったこと。第二は、今に人気を持続する漱石の作品を前述の2巻(「坊ちゃん」「猫」)にしか直接触れていなかったからである。
確かに、多くの作品に鉄道、駅、汽船などが登場するが、あまり好意的な描写は無い。また都市化の進捗にネガティブな反応が目立つ。ただし、目を通した限り、文明の利器としての各種技術を直接非難するものは無く、むしろそれらに依る社会や人間の変化に不安や不満あるいは疑問を呈するところが陰に陽に見て取れる。
漱石文芸論など語る資格はないが、“技術”に焦点を当てて彼の近代文明との関係を考察すると、出発点は英国留学(1900年~1902年)にあったように思う。帰国少し前「漱石発狂す」の情報が日本に伝えられるが、当時最も進んだ近代都市ロンドンで、その近代化に馴染めぬ姿が「倫敦塔」や「カーライル博物館」にはっきり表れている。地下鉄、スモッグ、都市の過密化がそれらだ。処女作「猫」のホトトギス掲載が1905年で他の作品はそれ以降。我が国の近代化(西欧化)も一段と進んでいる。「あの陰鬱な倫敦が東京に再現する」こんな気分が作品に反映さたのではないか?これが下司の勘繰りである。
「草枕」の書き出しは、有名な“智に働けば角が立つ。情に竿させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角人の世は住みにくい”で始まる。しかし、今回いろいろな漱石を読んで感じたのは「漱石は義理人情あるいは意地を、一見智と同列に扱いながら、重視したのではないか?」と言うことである。「坊ちゃん」などその典型と言って良い。智を理と置き換えればここにも西欧文明批判がうかがえる。維新後伝統的な勧善懲悪・義理人情を否定する風潮が幅をきかす中、それを生かそうとするように見える作風に意外な感さえした。漱石の人気が今に持続するのはのは、こんなところにあるのかも知れない。
社会変革に関する点で気がついたのは、ある種のフェミニストとも言える女性たちのことである。「猫」の“鼻の娘”、「坊ちゃん」のマドンナ、「三四郎」の美禰子、「草枕」の那美、皆男たちを翻弄する。描かれる新時代の女性像に漱石の先見性(?)が垣間見られ、驚かされる。
まとめ読みして最も感心したのは、題材と文体の多様性である。「猫」などは「一体全体これが小説なのか?かと言ってエッセイでもないし」と思わせるが、解説の伊藤整に依れば、留学時英国で一定の人気があったスタイルらしい。漱石は早速それを処女作に取り込んだわけである。「倫敦塔」は導入部では紀行文と思わせながらミステリアスな終わり方をする。このミステリーに近いのは「琴のそら音」も同様で、東大近くから小石川の一軒家に戻る雨の夜道は恐怖小説の感さえある。この延長線に幻想小説がある。「幻影の盾」「一夜」(これは男二人・女一人が語り継ぐ、一種の連歌のような形式)がそれらで、解説ではしばしば訪れた重度の鬱状態と関連付けている。現代の小説にいちばん近いのは「坊ちゃん」だが、この歳になって読んでみると、中学生時代の単純な勧善懲悪物と言う読後感とは異なった味わい、「坊ちゃんと山嵐は勝者だったのか?」が残った。つまり、敵役の狸(校長)、赤シャツ(教頭)、野だ(図工教師)は討たれるわけではないからだ。この何か引っかかる結末は「三四郎」「草枕」にも共通する。最後に「良いなー」と終われたのは中編の「趣味の遺伝」、日露戦争で戦死する親友、その母、親友を慕う女性の話である。冒頭のシーンは新橋駅に凱旋する帰還兵、鉄道を舞台とするがここに近代文明批判は一片もない。
漱石作品はまだまだある。文庫の初版は昭和20年代半ば発行、今に版を重ねる。明治の文豪でこれほど多くの作品が読めるのは他にない。それだけ現代にも評価される内容と言うことだろう。他の作品も読んでみたい気になっている。
(写真はクリックすると拡大します)