<今月読んだ本>
1)まどわされない思考(デヴィッド・R.グライムス);角川書店
2)ヒトラーの脱走兵(對馬達雄);中央公論新社(新書)
3)鉄道復権(宇都宮浄人);新潮社(選書)
4)スマホ脳(アデッシュ・ハンセン);新潮社(新書)
5)竹中平蔵-市場と権力-(佐々木実);講談社(文庫)
6)戦場のコックたち(深緑野分);東京創元社(文庫)
<愚評昧説>
1)まどわされない思考
-ポスト・トゥルース(脱真実)の時代、溢れる偽情報にまどわされない方法教えます-
5,6年前現役時代の後輩からフェースブック(FB)友達の誘いを受け、「あまり投稿することもないと思うが…」とことわった上でSNSの世界に踏み込むことになった。短い言葉(140字以内)をつぶやき続けるトゥイッターや交信をマメにしないと仲間外れになると言われるLINEよりはましと思ったからである。予告の通り、自分から投稿するのは旅行トピックスとブログ記事更新通知くらい、頻度もせいぜい月2,3回である。また、友達もこちらから積極的に求めず、よく知った人から要求があったときのみ承認しているので、60人弱で留まっている。
誘いを受けた時先ず決めたことは、時事問題に関する情報発信は原則しないと言うことである。理由は、短いコメントでは誤解を招きかねないと懸念したからである。実際投稿に手短に賛意を書いたら反意ととられたこともある。ただ、この種の情報を積極的に発信する人はその嗜好・思考が分かって、それはそれで面白い。そこを利用して好みにピンポイントで情報提供し、場合によって本人に気づかれず、影響を与えることも可能だ。ブレグジットやトランプ政権誕生の裏にSNSが大きな役割を果たしたのは、巧みに加工された情報提供にあったとも言われている。既存メディアが衰退する一方でSNSを中心に多様な情報が身近に提供される“Post Trues(世論を形成する際に、客観的な事実よりも、むしろ感情や個人的信条へのアピールの方がより影響力があるような状況)”の時代、「何が真実か?」を自ら見極める力がより重要性を増している。本書はこのような風潮に警告を発し、それに対する備えを啓発するものである。
既存メディア・新メディア、意図的・偶発的を問わず、少し考えればおかしなあるいは間違った情報が巷間溢れている。それを6部22章にわたって、具体例を挙げながら分かり易く説いていく。例えば、第1部は理性と言う視点、有名な三段論法における矛盾例を教授する。1)すべての人間は死ぬ→ソクラテスは死んだ→したがって、ソクラテスは人間だった、この展開は正しいが、2)すべての犬は死ぬ→ソクラテスは死んだ→したがって、ソクラテスは犬だった、と結論付けることも可能になる。これは「後件肯定」と呼ばれる論理思考の陥穽で、この論法を用いればどんな偏った世界観も表面的には正当化できるとし、理性の欠如に注意を喚起する。以下、原理主義の危険性(信じ込んでしまうことで生ずる確証バイアス)、統計・確率の誤用・悪用、(性格判断に巧妙に利用されるような)どちらにも解釈できる表現法、バランス論の欠陥(過度にバランスを意識すると少数意見が強くなる)、科学と似非科学の違い(明らかに似非科学であるものを専門家でも論破できないケース)、などがそれぞれの部を成す。具体的な事例は、進化論に関する宗教上の反対、地球温暖化への懐疑的意見(著者;温暖化進行論肯定)、原発の是非(著者;
CO²排出削減からの原発推進賛成;原爆と原発の違い)、子宮頚管癌ワクチン接種の効果(副作用の被害の過大報道;理論・実績でなく感情論優先;これで日本とデンマークは早期に接種を中断した)、自然療法vs科学療法、いい加減なサプリメントの効用、など身近な話題が取り上げられている。各部前半は一般論、後半を具体例で構成、理解しやすくしている。「少し考えればおかしいと分かるのに」の“少し考える”視点の数々が、情報に対する感度を高めてくれる。コロナワクチンなど格好の演習問題だ。少々残念なのは、索引が無いことである。もしこれが充実していれば、多方面で利用できるのだが。
著者はアイルランド人の科学ジャーナリスト、オックスフォード大学を卒業後当該分野で活動、BBCの科学コメンテータを務め母校で教鞭もとっている。
2)ヒトラーの脱走兵
-ダントツだった独国防軍兵士の脱走と刑死者数、何が彼らをそこまで追い詰めたのか?-
私の軍事に対する関心は専ら科学技術戦にある。この視点で軍事・戦争を見ていると“脱走兵”などいずれの国の軍人にしても興味の対象外であった。本書が書店で平積みになっているのを見た時の第一印象も「何で今頃こんな本が?」の疑問だったが、“ヒトラー”に惹かれて帯の裏を見返すと「捕らえられて死刑判決を受けた脱走兵だけで3万人以上と、英米に比べて際立って多い」とあり、続いて「その多くは戦闘中ではなく、民族殲滅に加担したくなかったからだ」と書かれていた。「一般の兵士はこんな思いで戦場に在ったのか?」と意外な感を持った。ナチスに責任を全部負わせ“勇敢だった国防軍”を称え、西独さらには現在のドイツも戦争責任のみそぎは済ませたように振舞い、時には日本のそれを難ずることさえある国。その知られざる一面を検証できるのではないかと読むことになった。内容は予想通りだった。ナチスと国防軍は一体、絶滅戦争に関わった軍司法官(ナチ党員を含む)は戦後早々に復権、“臭いものの蓋”を開けようとする者に対して政府も一般国民も極めて冷淡であることが明らかにされる。本書はその恥部を暴き復権に苦闘してきた人々の戦後史である。
第二次世界大戦における脱走兵数:独36万人、米2万1千人、死刑判決者(脱走以外を含む):独3万5千人(陸軍のみ)、米162人、死刑執行数:独2万人、米1人。因みに脱走以外の罪で死刑を執行された者は米146人、英40人と言う数字がある。米英の場合罪状のほとんどは強姦・殺人であり、如何にナチスドイツ下の死刑執行が異常値であるかが分かる。ドイツの場合死刑判決の最多罪状は「国防力破壊」で、ここには純然たる脱走の他、戦時反逆、兵役義務違反(これを扇動した者を含む)、帰郷・休暇違反、不服従、自傷、反ナチス活動、規律低下などを含んでいるが、死刑執行者の過半は脱走兵扱いだったようである。死刑判決を受けながら執行されなかった者は収容所・刑務所に拘留されその後懲罰部隊に送られ多くが戦死している。これもほとんど死刑と同じだろう。
誰が何に基づいて判決を下したのか?これが本書の一つの大きな追及課題である。国防軍でこれを担当したのは各レベルの軍司法官、彼等の登用要件は、法曹資格を持ちナチス党員かその支持者である。つまりこの段階で国防軍とナチスは一体化されているわけである。判断基準は帝政時代から継続する「帝国軍法典」だが、これが司法官によってナチス流に拡大解釈され、適用範囲が広がっているのだ。根底にあるのはヒトラーの「わが闘争」にある「前線では人は死ぬかもしれない、だが逃亡兵は死ななければならない」の一言である。第一次大戦では脱走だけで死刑になった者はわずか18人(死刑判決数150人)に過ぎないものが、第二次世界大戦では上記のような膨大な数に達したことは、法律曲解の結果と言える(旧日本軍も含めどこの国の軍法も単なる脱走は10年未満の懲役)。
本書で取り上げられる復権活動組織「社団法人ナチス軍司法犠牲者全国協会」のリーダーであるルードヴィッヒ・バウマンの経歴はおおよそ以下の通りである。1921年ハンブルク生れ、ヒトラーユーゲント(ナチス党少年団)を経て1940年(19歳)で海軍に入隊、フランスの海軍基地で勤務中、捕虜や外国人労働者酷使を命じられ、それを忌避するため同僚と脱走→逮捕→死刑判決→恩赦(懲役12年)→東部戦線懲罰部隊→捕虜→解放・帰国(1945年12月)。戦後年金は拒否されまともな仕事にも就けない。脱走兵であることがわかると暴力をふるわれたり仕事を追われたりする。
一方でナチス党員あるいはそのシンパだった司法官たちは、しばらく鳴りを潜めていたものの(パージされたのは国防軍法務局長一人だけ)、西独の法曹界に復帰、自分たちの下した判決はナチスの命令であり、旧法にも違反しないと主張し、それを戦後ドイツ社会で認知させていく。新設された連邦軍もこれに同調、脱走兵を貶める反面、国防軍トップ(マンシュタイイン元帥、ロンメル元帥など)を英雄視する。
復権運動が表面化するのはアデナウアー政権が終わり社会民主党のブラントが首相になってから。紆余曲折はあるが連邦軍軍事研究所の研究者も加わり、1991年の統一ドイツ誕生後最高裁や連邦議会でこの問題が取り上げられ、2002年「ナチス不当判決破棄法」が成立し、名誉回復が成る。この過程で国内外のメディアあるいは世論が西独時代のナチスと国防軍の関係を見直すようになり、国防軍に厳しい目が向けられるようになる。バウマンが社会活動を始めたのは1980年代、20年かけてやっと歴史認識が改まったわけである。こう言う活動を忍耐強く続け歴史を正していく行動に、ドイツ観をチョッと見直した一冊であった。
著者(1945年生れ)は秋田大学名誉教授・教育学博士(教育文化学部長、副学長)。なぜ教育学の専門家がこんなテーマを?と思ったが、あとがきから歴史教育・政治教育の一環として「ナチス支配の過去の清算にかかわるドイツの政治」を研究したことから生まれた著書であることが分かった。バウマンは2018年7月に死去しているが、2016年本人に聞き取り調査もしている。
3)鉄道復権
-20世紀後半日本は鉄道技術・利用の頂点に在った。しかし、奢れる者は久しからず。日銀マンが警鐘を鳴らす-
子供の時からの乗り物好き、興味の対象は自動車→鉄道→飛行機と移り、大学時代再び自動車に戻り半世紀以上におよんだ。しかし、それも昨年免許証返納とクルマ処分で卒業、「これからは鉄道」と満を持し、オリンピックが終わったら息子夫婦の居る大分を訪ね、そこから別府・阿蘇・熊本などを廻ることを目論んでいたが、コロナ禍で出端をくじかれいつ実現できるか分からない。そんな無聊を慰めるため、ここのところ鉄道関連の書物に惹かれている。引退後専ら長距離ドライブに憑かれていたから2007年以降国内での長距離列車利用は数えるほどしかない(東海道新幹線のみ)。この間北陸新幹線や北海道新幹線が開通する一方JRを中心に廃線・廃列車のニュースが絶えず、総じて国内の鉄道は斜陽のイメージが付きまとう。「復権は可能なのか?」そんな思いで本書を手にした。
著者(1960年生れ)は大学卒業後日銀に入行、主として調査研究畑(調査統計局、金融研究所など)で仕事をしてきた人で、現在は関西大学経済学部教授。この間マンチェスター大学留学、一橋大学経済研究所専任講師などを務めている。本書の内容は、この過程で行ってきた鉄道事業調査研究に基づく、交通政策・交通経済面からの日欧鉄道比較論と言った趣である。
先ず20世紀末期まで日本が鉄道先進国であったことを、歴史を踏まえながら解説する。鉄道復権の先駆けとしての新幹線だけでなく、大都市中心に発展した国鉄近郊路線・私鉄網も輸送力・利便性で他国を圧していたことがよくわかる。特に私鉄は宅地開発と観光開発を両立させる平日と週末を併せて経営効率を高めて行ったことを評価する。しかし、新幹線は高速と大量輸送に傾注し快適性を欠いているし、私鉄は放射状にしか敷設・延伸されていない。加えてJRの場合、狭軌と標準軌、二つのゲージが存在することも、展開力に大きな制約となっている。これらに、今日の欧州との違いが生じてきた誘因があるとする。
これに対し欧州では我が国新幹線に触発されるまで鉄道は斜陽産業の代表だった。しかし、EU統合の深化、ドイツ統一、それ以上にクルマ社会の限界(渋滞、駐車場難)、さらには環境問題、地方活性化・都市再生の観点から鉄道を見直す機運が急速に高まり、着々と成果をあげてきている。ここには、従来の経済性一辺倒の発想とは異なる評価方法が導入され、それが社会に広く受け入れられてきている。例えは、“イコール・フィッティング”政策は公共インフラである道路を使う自動車輸送と等価条件になるようインフラ投資や税制を変えようとするものである。また、線路や駅舎のようなインフラ建設・維持と列車運行を分離する方式(これは日本でも一部行われているが)、パーク&ライド方式(市街中心部へ自動車を入れない)などの導入も積極的に推進されている。
フランスのTGV、ドイツのICE(いずれも新幹線に相当)は航空機との競争も意識し、ビジネス客取り込のサービスに工夫を凝らしているし、大量輸送よりは快適性を重視した車両設計で我が国新幹線とは一味違ったものになっている(一列5人対4人)。また、すべてを新設するのではなく在来線を強化して高速を可能にしているので建設費が安く済むほか、他国への売り込みにも有利だ(著者は鉄道輸出競争力の点で日本の現状を危惧している)。
著者が新幹線以上に力点を置いて語るのが路面電車の復活である。自動車に依る渋滞・混雑が著しく緩和されることで、商店街が活性化された例をいくつも示す。このカギを握るのは、先に述べた経済性以外の効果を如何に評価するかと言う点とLRT(Light Rail
Transit;軽便電車;低床構造)の導入、それに合わせた法規の整備である。このLRTに関しては富山のそれを成功例としてあげ紹介している(ここでも道路交通法との折り合いに問題があった)。
全体としてチョッと「欧州では」が気になるが、その点は著者も自覚しており、依然経済性重視で他の因子に配慮を欠く我が国鉄道政策に、欧州の考え方を伝えようとする姿勢は理解でき不快感は残らない。
もっと観光客に快適な新幹線を!かつてのように気軽に利用できる在来線再来を!どこへ行くのか不安になるバスより路面電車を!と鉄道復権を切に願うが、コロナ禍は公共交通にマイナスの影響も予測され(ソーシャルディスタンス、リモートワーク)、どうなるか?
4)スマホ脳
-長~い人間の脳進化の歴史、スマホ対話の速さに脳の働きがついていけない。何が起こっているのか?-
我々の現役時代1970年代から80年代にかけて、通勤電車内での読み物は主にスポーツ新聞、それにビジネス重視の日経、あとは週刊誌や文庫本・新書が少々と言うところだった。80年代から90年代にかけては分厚い漫画雑誌をめくる若者が目立つようになる。今世紀に入ると携帯の時代は専らメール、そして今はスマホ、紙の読み物はほとんど見かけない。依然ガラ携でそれも非常用、車中では専ら文庫・新書の私は当に前世紀の遺物である。他人のスマホをのぞき見する趣味はないが、偶然目に入るのはゲームやせわしない手の動き。LINEやトゥイッターではなかろうか?どうも電子本を読んでいる雰囲気ではない。中学1年生の孫は最近スマホを持つようになり、年始に来た時も落ち着きがない。「何に使ってるんだ?」と聞くと「LINEだよ」との答えが返ってきた。今度来たらこの本書の話をしてやろうと思っている。
著者(1974年生れ)はスウェーデンの精神科医。脳科学や心理学の視点からスマホによるコミュニケーションの特徴を分析したものである。従って論調は学問的・客観的で興味本位に読める書き方ではないが、記述は平易で、論旨毎に理解を深めることが出来る。
大事なメッセージは、“コロナに寄せて-新しいまえがき(原書は2019年発刊;日本語版は2020年11月刊)-”の冒頭の一文「この本は人間の脳はデジタス社会には適応していないという内容だ」である。
“適応してない”の論拠を以下のように展開していく。先ず、人類誕生時(この時今の脳の原型が備わる)、数十人の人間集団において意思疎通の必要性が生じ、脳がそれに合わせるように進化していく。以降言葉や文字でコミュニケーションを行い、社会の拡大や道具の進歩に応じて脳の構造もゆっくり進化してきた。このように環境変化に同調した十数年前までの脳の進化時間に比べ、インターネット、スマホ、フェースブックによるコミュニケーション方法・内容の変化は極めて短時間に起こっており、脳の進化が追い付けなくなって新たな問題が発生してきている。
例えば、脳内伝達物質ドーバミンは集中・選択機能に影響するものだが、チャット情報が来ると分泌が増加し、スマホを見たい衝動に駆られる。“いいね”が付いたかどうか、いくつ付いたか、反射的に行動を起こしてしまう。知らない間に脳がハッキングされた状態と同じことになる。つまり、即応が最優先され前の作業過程が脳に残っているのに次の作業に入り、それまで集中していたことが未完で終わる(マルチタスクの代償)。実際記憶力テストをすると、マルチタスク(スマホ対応)に慣れた若者の方が記憶力に劣っている結果も出ている(特に長期記憶)。また、この長期記憶に関する実験では、PCでメモを取らせた者と手書きメモの者を比較すると手書きの方が勝れている。
次の問題は、道具に依る新環境に同期できない脳がもたらすストレスである。適度なストレスは生存のために必須だが、その限度を超える傾向が高まり、鬱症状や不安を訴える人が確実に増えている。このストレス発症過程を脳の生理学的活動と結びつけて解説し、ここ10年で急増したこととスマホ普及の時期が相関すると推察する。
また、LED画面(ブルーライト)を頻繁に見ることによってメラトニン分泌が低下、睡眠不足(時差ボケ状態を誘発)に陥ると言うデータもある。
さらに、SNSは友達の輪を広げると喧伝されるが、種々の調査結果から、へヴィーユーザほど孤独を感じていることがわかってきている。やはり、現実に人と会う方が幸福感は増のだ。
衝撃的な章のタイトルに“バカになっていく子供たちが”がある。ここでは子供とタブレット端末の関係を多角的に分析しているのだが、その章の扉にはスティーブ・ジョブスの「うちでは、子供たちがデジタル機器を使う時間を制限している」とあり、これがこの章のまとめと言える。
著者は全面的にスマホを否定するものではない。まだ分からないことが多いとしながら、スマホの悪しき面を回避する策として、利用時間を制限、画面をモノクロにする、集中力を要する時は身近にスマホを置かない(電源を切るだけで我慢出来ればそれでOK)、就寝時は電源を切る、SNSでは積極的に交流したい人だけをフォローする、運動をする、などを薦めている。
私自身スマホは持たぬがPCを操作している時間は長い、いろいろ考えさせられる内容だった。孫はどう反応するか?
5)竹中平蔵-市場と権力-
-格差社会を増長させた新自由主義経済政策推進の元凶、その権力掌握の過程を丹念に追った力作-
本を読むときにはいつでも赤鉛筆やシャープペンシルが欠かせない。あとで利用する時の要点を印すことや、余白への書き込み用である。家で読むときはそれにポストイットや不要な紙を裁断したメモ用紙も身近に置いて、読んでいる時頭をよぎる短い単語を書き残す。今回のメモには、“いやしい”、“ずる賢い”、“厚顔無恥”、“策士”、“米国の走狗”“スパイか?”、“売国奴!”、“外圧仕掛人”、“せこい”、“虎の威”、“エセ学者”など悪口雑言が並ぶ。しかしその中に“能吏”、“努力家”と数は少ないが肯定的な言葉も記している。
元来この種(直近の国内政治)の出版物に手を出すことはないのだが、親しい友人から「面白い本だから是非」と薦められた。竹中平蔵・友人・私の共通項は和歌山にある。我々二人は和歌山県人でもなく竹中とは世代がひと回り違うから、無論友人でも知人でもないのだが、土地勘と竹中の出身高校(県立桐蔭高校(旧制和歌山中学校))が同じ先輩・同僚が周辺に多かったことから読んでみることにした。面白かった、しかしこれほど不快感の残るものも珍しい。
私の興味は和歌山に発するのだが、履物屋の息子であることは知っており、その後桐蔭高校から一橋大学進み卒業するまでの歩みに特記するような出来事はなかった。ただ感心したのは、経済的に苦しい(のちに夫人となる人におごってもらったりしている)中での自己研鑽(英語、経理)である。“努力家”と書き残したのはここにある。
就職先は日本開発銀行(現日本政策投資銀行)。ここで型どおり地方勤務を経たのち設備投資研究所勤務になったところから、銀行の本務から離れていく。1981年ハーバード大学国際研究所に留学、帰国後大蔵省財政金融研究室(のちに研究所)に出向してから政策エコノミストへの関心を高めて行く。ここで書き出しに述べた“能吏”、“努力家”の才能・資質が発揮され、出向は異例の5年におよぶ。室長が望むことを実現する手段をピシッとまとめ上げることが評価されてのことだ。上司にとって極めて頼り甲斐のある部下像が浮かんでくる。本人もこの仕事が気に入り、銀行に戻ることよりも大学人を目指し大阪大学助教授(出向扱い)の座を得る。しかし、この間評判を落とす事件を起こしている。米国留学時代同じ銀行の先輩と行った研究を銀行や共同研究者にことわらず単独で出版し物議をかもし、この論文を一橋大学の博士審査に提出するが不合格になる。一方財政金融研究室時代国際セミナーを主催するに際し、留学時代の縁を辿ってローレンス・サマーズやポール・クルーグマンなど著名な経済学者を招聘し、日米のつなぎ役としての地歩を固めていく。この関係は阪大助教授時代ハーバード大学で半年「日本経済論」を講ずる間シンクタンク国際経済研究所(IIE)の日本研究者との交流でさらに深まる。ここは“ジャパン・アズ・ナンバーワン”に巻き返しを図るための知恵袋なのだ。ブッシュ(父)政権がすすめる「日米構造協議」は第二の占領政策とも言われる強硬なもので、市場開放、内需拡大そのための大型公共投資を求めてくるが、竹中情報は重要な役割を果たす。経済学者としてのこの時のスタンスは米国の要求に沿う財政出動派、「外圧の民営化」と揶揄されるほどだ。
阪大の後、1990年新設の慶応義塾大学総合政策学部助教授に転じるが、4月~7月の集中講義で授業は済ませ残りはコロンビア大学客員研究員とし滞米、この時は自宅も購入して4年間生活の拠点は米国に移している(半年ごとに住所を移し住民税を両国で払わぬ策を講じる)。大学には客員研究員としての部屋どころか机さえもなく、実態はニッセイ基礎研究所(米)の研究員を兼務し、そこでせっせと日本情報を収集整理し米国の研究者に渡すのが主務だったようだ。つまり米国に自身を売り込んでいたわけである。
博士号がないため慶大でもなかなか教授に昇進できない。あれこれ手を使って何とか慶大の博士号が取れるところまで来るが、二股をかけていた阪大からもOKのサインが出るとそれに乗り換える。この安全パイ策は阪大助教授就任前に法政大学に対してもやっているし、政界に影響力を及ぼすようになると更に狡猾を増す。
教授職は自由度と権威が高まりサイドビジネスがやり易くなる。フジタ未来研究所理事長(マクドナルド)、国際研究奨学財団(現東京財団;船舶振興会がバック)理事などを務め、ヘイズリサーチセンターと言う政策コンサルタント企業を起こし、自民党のみならず民主党まで顧客として取り込んでいく。教授と理事職を巧みに使い分け、加藤寛慶大教授を介して橋本首相に近づき政界上層部と縁が出来、小渕内閣では経済戦略会議(公的機関)のメンバーとなって政策立案の中枢に加わっていく。このポストを利用し頻繁に渡米して米国の経済政策立案に関わる高官や著名な経済学者とのコネクションを作り上げ、小渕首相急逝後森首相の下で開催された沖縄サミットを裏で取り仕切る。
そして、2001年いよいよ小泉内閣誕生。森の権力低下を見通し小泉の勉強会を主宰していた竹中は経済財政担当相として入閣する。郵政民営化、銀行不良債権処理、人材派遣法改定、緊縮財政(地方交付税削減、公共事業縮小;かつて拡大策を唱えていたものが反転する)と、日本経済の骨格を揺るがす構造改革を次々に打ち出していく。これらの進め方が陰険だ。特命チームを気脈の通じたメンバーで構成、内部の議論は非公開で指針をまとめ、小泉首相だけに了解を得た上会議や閣議で決めてしまう(特命チームの一つに元社長がいたのを本書で知った!)。時には関係省庁や与党にも知らせず、先に情報を米国に渡し、その外圧を利用したりする。また、政策の実施に当たっては責任を政府でなく監査法人に負わせるような算段まで作り上げる(銀行の自己資本比率と繰り延べ税金資産;回収不能の際の準備金のようなものの税務上の扱い。りそな銀行のケースでは監査法人に自殺者が出ている)。時には、反対する担当大臣を首相に更迭させることさえ厭わない(柳沢金融担当相)。
問題は政策推進ばかりではない。改革に依る利権を巡る疑惑が数々あるのだ。郵政民営化の一環、かんぽの宿売却(売却先と価格)、トヨタに依るミサワホームの吸収など特命チームのお友達や身内が絡んでいるのだ。そして自身は現在人材派遣会社パソナの会長職にある。個人的には、人材派遣法改定こそ若者の将来の見通しを不透明にし、未婚者増・少子化、それがもたらす健全な消費の停滞の根源と思っており、許せない身の処し方である。
本書は2013年に単行本として発刊されたものなので、安倍政権には触れていない。しかし、その後も政治との関わりが全く無いわけではなく、内閣に属する会議のメンバーや政治家個人の勉強会など継続している。その発言は依然格差拡大の因である新自由主義的な考えであり、こんな人物が社会に影響力を及ぼすことは終わりにしたい。
著者は大阪大学経済学部卒、元日経新聞記者、現在はフリーランスのジャーナリスト。本書は大宅壮一ノンフィクション賞受賞作である。竹中本人には取材を拒否されたようだが、米国人を含む多くの関係者に聴き取り調査を行い、関連情報(著書、経済誌寄稿や対談での発言など)も丹念に調べ、かつ直近の経済学における竹中の立ち位置を明確にし、政策立案と経済学者の関係がよく理解できる。具体的には、我が国においては学者が政策立案の中枢に加わることを是としないのに対し、米国ではむしろそれに加わってこそ一流と評価されるようだ。その点で典型的な米国流学者なのである。学者以外の面でも伝統的な日本社会の倫理観から逸脱した人物であることがよく伝わる一冊であった。こう結言すれば「そこまでやらなければ岩盤既得権など崩せなかった!」との反論が聞こえてきそうだが・・・。
6)戦場のコックたち
-日本人女性作家に依る欧州戦線小説、料理よりは血の匂いが濃いミステリー。
第二次世界大戦の欧州戦線を日本人が小説にするのはSFを除けば極めて珍しい。私の記憶では逢坂剛の「イベリア・シリーズ」くらいである。このシリーズは逢坂が若い頃からスペインをたびたび訪ね彼の地の事情に通じ、英米の戦史を丹念に追って娯楽性にあふれる作品を仕上げているものの、主人公は日系ペールー人、その他の登場人物も日本人が多く、舞台は欧州でも所詮日本小説の域を出ていない。それに対し本書は日本と全く関係がない作品である。それが(私が)名も知らない、比較的若い女性作家(1983年生れ)によって描かれただけに希書と言える。
期待は“コック”だった。欧州戦記物は小説・ノンフィクションを数多く読んできたが、食事を中心に据えたものは無かったからだ。結論から先に言えば、導入部や一部の場面を除き、ほとんど料理の匂いはしてこない。戦線が移動するので戦闘用レーション(携帯食)中心、この旨い食べ方や米独レーションの比較、萎びた野菜や果物の調理・味わい、野戦調理器などが彩を添える程度、本質はミステリーなのである。
主人公ティムはルイジアナ州の田舎町で育った19歳の若者。米国参戦で第101空挺師団(実在した精鋭師団)に志願し中隊の五等特技兵(コック)として欧州に派遣され、そこで他のコックと伴に激戦地で起こる数々の謎を解いていくのが本筋になっている。
最初の作戦はノルマンディー上陸作戦。事件は大量(トラック一台分相当)の不味くて評判の悪い粉末卵の補給処からの消失である。誰が何のために、どのように持ち去ったのか?何故すぐ気がつかなかったのか?第二話はベルギーからオランダを経由してドイツ本土侵攻を目指したマーケット・ガーデン作戦(史上最大規模の米英協同空挺作戦;失敗)。米独軍がせめぎ合うオランダの小さな町で起こったおもちゃ屋夫婦怪死事件の謎を追う。他殺か?自殺か?第三話はドイツ軍最後の反攻バルジ大作戦。雪に覆われた森の中のタコツボで聞く怪音、仲間のコックの一人はこれで戦闘神経症となり、戦線離脱を余儀なくされる。怪音は何なのか?そして最後に明らかになる三話共通の秘密。
いずれも戦闘シーンに大部が割かれ、これがなかなかリアル。戦闘場面は無論、兵器の詳細から指揮・命令系統、負傷兵の扱いまで考証がしっかりできている。そしてこの戦闘行動のチョッとした場面に謎解きのカギが隠されているのだ。45年後のエピローグまた良い。
参考文献リストは4頁におよび、一部にはコメントを付し、特に第101空挺師団を扱ったノンフィクション「バンド・オブ。ブラザース」に多くを負っていることを明記、さらに文献翻訳協力者にも実名・略名で謝辞を添えている。極めて真面目で良心的な人柄が浮かぶ。
著者紹介によると、2010年デヴューの短編ミステリー作家、本書は初の長編とのこと。もし新しい軍事サスペンスが出たら是非読んでみたい。
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