<今月読んだ本>
1)漢文ノート(齋藤希史);東京大学出版会
2)工学部ヒラノ教授と最後の学生たち(今野浩); 青土社
3)現代ロシアの軍事戦略(小泉悠);筑摩書房(新書)
4)銀ぶら百年(泉麻人);文藝春秋社
5)日本の近代建築ベスト50(小川格);新潮社(新書)
6)戦術の名著を読む(木元寛明);祥伝社(新書)
<愚評昧説>
1)漢文ノート
-学びて時にこれを習う、亦た説ばしからざるや(論語 學而1)。久し振りに学びました-
小学校から高校まで国語と言う教科は全く興味が持てず、それ故不得意科目であった。中学校時代には水を張ったバケツを持って廊下に立たされたり、習字道具を頻繁に忘れ顔に×印を書かれたりした(今なら先生が罰せられるが)。漢字の読み書きや意味を学ぶことの必要性は理解していたからそれなりに努力したし、読書への関心はジャンルを問わず当時から現在まで持続しているから、日本語や日本文と疎遠だったわけでもない。また、社会人になれば読み・書き・話すコミュニケーションが必須となるが、格別この能力を問題視されたこともない。いったい国語教育とは何なのか?いまだ解けない疑問である。
高校の国語は現代文・古文・漢文から成り、それぞれ異なる教諭が担当、3年間学んだ。この中で唯一惹かれたのが漢文、特に漢詩である。あとにも先にも国語教育で触発されたものがあったのはこれのみ(厳密には“国語”ではないが)。漢詩の何に惹かれたか。他の言語表現では決して味わえない“眼に訴える力”にである。字を見るだけで、読まずとも(と言うよりほとんど読めないのだが)情景が浮かんでくる。教科書だけでは飽き足らず出版されたばかりの吉川幸次郎(当時京大教授)著「新唐詩選」(岩波新書)を買い求めたほどである。若き日の刺激的な出会いを再びと手にしたのが本書、漢文に触れるのはあれ以来である。
本書は東大出版会の月刊PR誌「UP」に連載された同名のエッセイをまとめたもので36話から成る。寄稿が3カ月単位であったことから掲載順ではなく春夏秋冬に各9話割り振られている。エッセイゆえに形式・内容は特に定まっておらず、気の向くままに話が展開していく。ただし“漢文ノート”ゆえ中心を占めるのは当然漢文である。引用される原典は四書五経、漢詩の類で、特に漢詩が多用されている。この部分は、先ず原文(漢字のみ、返り点無し)があり、これを読み下す日本文が続き、最後に訳注がある。漢字原文の部分が読み下せないのは読書として難儀なところだが、書き出しは軽妙で、取っつき易く、内容に含蓄があり、言葉と古典を学ぶと言う点において一読の価値がある。
題材は先にも書いたように様々。ただ副題に“文学のありかを探る”とあるように、我が国古文・近代文学や彼の地のその種の活動と関連付けて語られる。例えば、“かすみ”、万葉集を始め和歌には春霞オンパレードだが、漢詩では朝霞・晩霞は頻繁に出てくるが春霞は稀だ。ここでは“もや”ではなく“朝焼け”・“夕焼け”を表し、我が国の“かすみ”のイメージとは異なる、と言うように比較を行う。また、外国人をもてなすために建てられた鹿鳴館命名の由来を一時期勤務した奈良女子大時代の回想から始め「呦呦鹿鳴 食野之苹」(ようようと鹿は鳴き 野の芩(きん)を食む)が「詩経」にあり、これが賓客をもてなす表現であるとしたうえで、この解釈の時代変化(本来は“答礼”の意)に蘊蓄を傾ける。そこから詩の本来の意義は憶え朗ずるだけでなく“使える”ことにあることを、論語(季氏編、子路編)を引用しながら解説する。極めつけは合格率数%の科挙、如何に優れた詩文を作れるかがカギなのだ。合格者(20~30名)は杏園で歓待される。“斗酒なお辞せず”の斗酒はもともと“微酒”だったが、史記(三国志の部分)にある「則与斗卮酒」(すなわち斗卮酒を与えよ;斗は柄杓、卮(し)は杯)が大酒に転ずるきっかけになったと推理する。“読書”はいつごろから?韓愈(かんゆ;8世紀の文人・官僚)の文章に「符読書城南」(符城南に読書す;符は韓愈の子)とあるのが初出らしい。“書斎”は漱石の「猫」の苦沙弥先生から始まり、王勃(おうぼつ;初唐の詩人)に「書斎望暁開」(書斎暁を望んで開く)や杜甫(盛唐)が遠く離れた李白を偲んで詠んだ「寂寞書斎裏」(寂寞たり書斎の裏)にその起源をたどる。身の回りにある言葉が次々と現れ「そうだったのか!」の連続、漢文本体は飛ばし読みだが期待通り漢字独特の表現と雑学を堪能した。
著者(1963年生れ)は中国語学中国文学専攻、京大助手、奈良女子大助教授を経て現在東大大学院人文社会科学研究科教授。
2)工学部ヒラノ教授と最後の学生たち
-学部卒の博士誕生は最短で5年、ヒラノ教授は3年後に停年退官、他大学からの転入生は果たして博士号取得成るか?-
30代を過ぎたころから仕事の延長線でいくつかの学会と関わるようになった。やがて研究会の主査や幹事を務め、終盤はフェロー称号を受けたり理事の任に当たったりした。お陰で学界ばかりでなく社会的にも著名な先生方と親しくお付き合いいただくことができた。そんな中に敬愛する一流大学教授(工博)が居り、折に付け先生を話題にしていたところ、ある時若手のこれも一流大学の研究者(工博)から「あの先生まだ一人も博士を出していないのを知っていますか?」と問われ、「まさか!」と絶句した。大学人の評価としてそんなことが対象になるとは知らなかったこともあるが、学界・実業界・官界さらにはジャーナリズムにも重用されている人だけに信じられなかったからである。
実は、博士を育てその先の道を付けることは、外からうかがえない苦労の連続なのだ。ヒラノ教授は東工大在職中9人の博士を誕生させたが、その中で最も苦労した学生を主人公に据えて本書の物語は展開する。
工学系大学院の指導教官と学生の関係は師弟と言うより共同研究者に近い。優秀な院生が居れば教授の研究成果(特に論文の質・量)も高まるし、院生も博士取得後恵まれた就職先を見つけやすい。ただ大学院に進学するからと言って全員が金(キン)と言うわけではなく、銀や銀未満が混じるのが実態。特にバラつきが大きいのは他大学からの転入生(入試要)と留学生(文科省設定の特別枠)だ。修士課程の2年はともかく、銀以下にとって博士課程3年で博士号を取得することは簡単ではない。また、バブル経済崩壊後は博士号を取ったからと言ってその先が保証されるわけでもない。
1998年1月半ば大学事務局長(文科事務官)からヒラノ研究室院生希望者に関する情報がもたらされる。文部省元高等教育局長の孫、東京理科大学経営工学科をトップで卒業見込みの学生、酒井俊介である。博士課程まで進み将来は研究者・大学教員になることを希望している。ヒラノ研究室の定員は5名、内部からの推薦入学者が例年2,3名いるので他校からの転入者は残り2,3名となる。俊介は30人の受験者中1番と微差の2番で無事ヒラノ研究室入りを果たす。ただ問題がないわけではない。俊介は理科大に入る前2度医学部受験に失敗しているのだ。2浪は就職の時どうしても不利になる。もう一つはヒラノ教授が3年後に東工大の停年を迎えることだ。つまり博士課程の指導は1年しか担当できず、後継者にあとを託さざるを得ないのである(事実上最後の学生)。東工大の博士審査パスの必要条件はレフリー付き一流学会誌(海外を含む)に3編の論文が掲載されることである。果たして修士課程の2年と博士課程の1年でそれが叶うか。ヒラノ教授自身の研究テーマの減少(学生の程度にマッチした)、金融工学に対する“技術一筋”教官の反感、夫人の病の進行、俊介両親の離婚、研究費の捻出(科研費が頼りだが研究題材枯渇で苦心)、自身の再就職先さがし。様々な障害がヒラノ教授と俊介の前に立ちはだかる。果たして俊介は無事博士号を取得できるのか。
博士課程を担当する教授の役割・使命、そこで学ぶ学生の資質や行動さらには運、自身が学んだ東大(修士)・スタンフォード大学(博士)の大学院、我が国文系博士の実態(米国PhDが圧倒的に多い)、学歴ロンダリング(特に東工大は多い)、大学院留学生(極端に玉石混交)、大学院卒業後の進路、様々な話題を交えながら工学系博士誕生までの諸々を紹介。我が国大学院教育に関する実態と問題点を露わにするユニークなセミフィクション(小説風実話;登場人物はほとんど実名)である。俊介のその後と教授との関係にもかなりの紙数が割かれているが、それは読んでのお楽しみ。子・孫あるいは知人友人に大学院進学希望者が居たら大いに参考になるだろう。
3)現代ロシアの軍事戦略
-ウクライナ侵攻でメディア注視の学者が1年前に著したロシアの基本軍事戦略。何と“弱者の戦略”なのだ!-
ロシアのウクライナ侵攻は1カ月を超しても戦いの趨勢が見えてこない。2014年のクリミヤ半島占拠(第1次ウクライナ侵攻)とは大違いだ。前回の侵攻は西側に「ハイブリッド戦争」として強いショックを与えた。さしたる戦闘を行わず広大な半島を短期間で制圧してしまったからだ。今回は何が違うのだろう。本書を読めば何か見えてくるかも知れない。そんな期待でページを繰ることになった。結論から言えば遅れの因を突き詰めることは出来なかったが、戦いぶりと比較する材料はふんだんにあり、今に相応しい一冊であった。
本書の発刊は2021年5月、あとがきは同年2月、つまり今次のウクライナ侵攻1年前のことである。私の購入も同年10月、国境付近の演習報道が断続的にあったような気はするが、それが動機ではなかった。著者は1982年生まれの政治経済研究者(東大先端科学技術センター特任助教(最近専任講師)になったようだ)、専攻はロシアの軍事・安全保障、あとがきでは研究者と言うより「職業的(軍事)オタク」と自嘲しているが、ロシア軍事に関する知見はなかなかのものだ。ここに至る経歴は、修士卒業後外務省専門調査員(2009年)、ロシア科学アカデミー研究員(2010年)を務め、本書には書かれていないが夫人はロシア人である。12ページにわたる参考文献リストの3頁はロシア語のもの、先行著書(「プーチンの国家戦略-岐路に立つ「強国」ロシア」(2016年刊))などが注目を浴び、最近NHKをはじめTVにコメンテーターとして登場するのもうなずける。
先ずソ連崩壊後のロシア安全保障環境を俯瞰する。何と言っても大きいのはNATOの東方拡大(戦略縦深の喪失)。サンクトペテルブルク(プーチンの地盤)から見たエストニアの軍事基地は大阪から見て倉敷に人民解放軍が駐留するのに等しいとの例えは分かり易い。次いで国家崩壊に伴う経済の混乱・低迷に触れる。通常軍事力は著しく低下、年間軍事費(購買力平価)はその額650億ドル程度、米の7300億ドル、中国の2600億ドルとはくらぶべくもない。地上軍の兵力は定数100万人だが実数は90万人(徴兵25万人、契約兵40万人、将校20万人、その他)、対するNATOは在欧米加軍を含めて320万人、明らかに「(核を除けば)弱い大国」なのだ。
この「弱い大国」のこれまでの軍事活動(2014年のクリミヤ半島制圧(第1次ウクライナ侵攻)、旧ソ連邦国家紛争への介入、シリア紛争支援等)をつぶさに分析、それなりの成果を収めた要素を探っていく。第1次ウクライナ侵攻におけるクリミヤ戦で特徴的なのはほとんど死者無しにそこを制圧していることである。情報戦(通信網寸断;ロシア製軍用電子機器に組み込まれたバックドアー、電磁波作戦;敵砲弾の電磁信管への干渉、フィッシングメール偽情報発信)・インフラ破壊(電力網)と特殊部隊中心の作戦である。つまり多様(ハイブリッド)な作戦を組み合わせた勝利なのだ。これは言わば「弱者の戦略」、2013年当時の参謀総長ゲラシモフ大将の提示した“ゲラシモフドクトリン”に確り示されている。
戦争・紛争の想定;ロシアのような広大で歴史が異なる他民族を含む国は対応策も多様性が求められ4分類されている。①武力紛争(限定的、国内・国外)、②局地戦争(国家の境界付近)、③地域戦争(隣接国家間)、④大規模戦争(大規模な国家間、国家連合との戦争)がそれらだ。ロシアは④のタイプの可能性は低いと見てその対処能力は核を除いて低下させ直近で起こる可能性のあるのは①②③として軍事力を整備してきた(例えば師団を旅団編成へ)。しかし、この種の戦いでも決定的勝利は地上軍の投入が必至との考えは変わらず、それへの対応は地上戦力(+戦術核;対NATO)としている。戦術核使用はいきなり戦場に投入するのではなく、初めは被害の出ない所でデモンストレーション、次いでデモ効果を高める限定使用、本格的投入の三段階を踏むようだ。なお戦略核はあくまでも④の抑止力の位置付けとしほとんど触れていない(戦略核部隊は大統領直轄)。
シリアのような遠隔地の紛争に対して用いるのが「限定行動戦略」。これは空軍力や偵察・指揮能力のみロシアが提供しこれに現地軍や民間軍事会社を糾合して戦うやり方である。場合によってはこれを旧国内(アルメニア、アゼルバイジャン、ジョージアなど)騒乱にも適用する。
また宇宙戦略についてはかつての宇宙大国からの凋落は著しく(特に衛星技術)、ここでも「弱者の戦略」として他国の軍事衛星活動を妨害する(破壊を含む)ことに主眼が置かれているようだ(本格的宇宙戦争へ復活の動きはあるが)。
これだけ対応策の整っているロシア軍が何故今回はもたついているのか?第1次の作戦実施時期は2月下旬で今回と変わらない。異なるのは前回の作戦域が親ロシア勢力の強いクリミヤとドンバズに限られていることだ。つまり、情報と支援体制の寄与度に大きな違いが見える(兵站も軽い)。また、(第1次に学んだ)ウクライナ軍の力を見誤ったことも考えられる。それに西側(特に米国)の諜報活動による早期警戒体制も大きく与かっている(第1次は奇襲)。そして、政治と軍事の齟齬(軍は限定作戦、政治は政権転覆)も勘繰ってみたくなる。これが本書から推察する素人の現状分析である。
実戦解析(例えばシリア紛争;ドクトリンでは非接触戦争指向で精密誘導兵器重視を謳うものの経済的な理由で充分投入できず、ほとんど非誘導弾を多用、結果として無差別、今回のウクライナも同じか?)、「ロシア連邦軍事ドクトリン」(2010年発布、2014年改訂)を始め軍公式文書調査、毎年(6月~10月)実施される大演習分析(2008年から2020年までの演習内容をテーブル形式にまとめている。想定は先の4段階の内第3段階までだが動員はときに30万人にも及んでいる)、ロシア軍事思想家・研究者の系譜深耕(特に非軍事的闘争論は興味深い)など、“戦略”策定の基となる各種ロシア軍事情報も確り書き込まれており、今のウクライナ戦を現在進行形で学ぶ参考書として格好の一冊と言える。強いて難点をいえば、“戦略”に行き着く説明が廻りくどいこと(ある意味“オタク的”)、有用な情報満載だけに索引が欲しかったことである。
4)銀ぶら百年
-子供の時から馴染んできた著者による銀座ガイド。よく知る店、転業した店、移転して続いている店、廃業した店、百年の歴史を紙上で辿る-
私の高校生時(1954年進学)都立高校は学区制で中学校の在った台東区は荒川区・足立区・中央区と一緒に第5学区を構成していた。その内荒川・足立は同級生も少なく、高校生にとって面白味のある場所もなかったので足を踏み入れたこともない。それに比べ中央区は日本橋界隈の商店街や横山町・馬喰町の問屋街、築地市場や月島の町工場、さらに銀座に家や店があるものが多く、中学生時代(個人商店が主体)とは異なる家庭環境の友人ができた。だから銀座を特別な場所として意識したことは無かったし、成人しても上野界隈に次いで我が街のような感覚で街歩きができた。また、夜の世界も赤坂や六本木あるいは新宿より落ち着ける場所だった(限られた店だが)。
今年の元旦、我が家の新年会で何かの拍子に話題が銀座におよんだとき、孫娘(10歳)が「銀座ってなーに?」と聞いてきた。横浜育ちでディズニーランドやスカイツリーくらいしか知らない子にとって、大人たちが話す“銀座”はワンダーランドと映ったらしい。「そうか、銀座を知らないのか!じゃあ、春休みに案内してやろう」と約束した。しかし、考えてみれば最近銀座へ出かけるのは年に2、3回(主として友人の作品展や昼食会)、この際おさらいをしておこう。そんな動機で本書を手にした。
著者は1956年生れ、雑誌の編集者(職場は築地)を経てフリーの作家になった人。本書を読むと下落合で育ち幼時から母親と銀座へ出かける機会を持ち、中学は慶應義塾中等部、そこには銀座に店が在る友人も居たので早くから親しい街だったようだ。
本書は銀座通連合会のPRウェブサイト「GINZA OFFICIAL」に連載された「銀ぶら百年-イズミ式銀座街並細見」の記事をまとめたものである(一部は広報誌「銀座百点」に掲載)。取り上げられた店舗・事業所・組織は29、これに1丁目から8丁目に至るコラム4回が加わる。いずれもそれなりの由緒ある場所で、百年を語るのにふさわしい。この間現在まで存続するもの、店はあるが場所が移ったもの、商売替えをしたもの、現存しないが百年を語るため往時を偲ぶもの、それに取材後廃業したものなどがあり、銀座の1世紀から世相の変化を窺うこともできる。
“銀ぶら”と言うフレーズが生まれたのは震災前の大正初期、昭和初期「モガ・モボ」が闊歩する時代に定着、戦後の「銀座カンカン娘」時代を経て現在に至る。一般に銀ぶらとは中央通り(かつてはただ“銀座通り”と言ったが)をぶらつくことを言うが、本書では昭和通りや西銀座辺りまでかなり広い銀座を扱う。おそらく連合会の範囲がその辺りまで達しているのだろう。業種は、飲食・ファッションが比較的多く、文具・画材・民芸品・楽器からパイプ店・印刷所・出版社・学校まで広範だ。ただ、現代のブランドショップやデパートなどは話の中には出てくるが取材対象ではない。デパートで唯一取り上げられているのは天下堂。明治42年頃開業、今の8丁目辺りにあり、永井荷風がここの屋根裏(最上階で当時銀座で最も高かった)からの景観を書き残しているものの、早々に銀座史から消えている。
比較的よく知られ現在も残っているのは、伊東屋(文具)、三笠会館(レストラン)、ライオン(ビアホール)、不二家(洋菓子・ミルキー;著者幼児時代の思い出の場所)、名士が顧客のはちまき岡田(小料理)、西銀座デパート、ビルでは4丁目の三愛、最近レトロビルとしてTVなどに取り上げられる旧銀座アパート(奥野ビル;画廊が多く友人のコレクターがここに隠れ家を持っている)、それに明治11年(1878年)創立以来同じ場所に在る泰明小学校(私の母方祖父母は卒業生)、米倉(理髪)、山野楽器店、などが取り上げられている。
オーナー・経営者・従業員への取材、関連文献調査、それに著者との関わりを交え(この部分がただのPR紹介記事と違い面白いところ。例えば、5丁目に在ったテイジンメンズショップ(2021年5月春閉店)は著者の大学時代の想い出深い店(VANのアイビールック))、それぞれの現在に至る歴史、商品、今のビジネス事情を5~6ページにまとめている。残念なのは地図の類が一切ないこと、銀座になじみのない人にいささか不親切だ。
久し振りの銀ぶら計画(本日決行)、孫娘が喜びそうなのは不二家くらいだが、本書のお蔭で私なりの楽しみ方が出来そうだ。
5)日本の近代建築ベスト50
-モニュメンタルな国立西洋美術館、東京文化会館、代々木体育館から小教会、個人住宅まで戦後近代建築の代表作を簡潔にまとめた建築評。これを持って街を歩こう-
4年前から補聴器を装着している。着けた当初は高音が強すぎるくらいで演奏会など楽しめたし、TV放送の言葉も問題なく理解できた。しかしここ2年くらい聴力劣化は著しく、何度も調整しているが、もはや名演奏は音痴だしTVもニュース・天気予報以外はよく聞き取れない。もう耳で感じ取る催し物(演劇や講演を含む)はダメ、残るは視力のみと言った状態なのだ。読書は一先ず置いて、「これからは絵画・美術鑑賞」とその方面の入門書などに手を出しているが、このところのコロナ禍で美術館へも近づき難い(人混みだけでなく予約も面倒)。屋外中心にいつでも鑑賞出来るのは、景色を除けば、建築・建造物(橋梁・塔など)くらいだ。設計思想・デザイン・構造・資材・施工・使い勝手、様々な角度からこれを見つめる眼を養いたい。そんな思いで本書を手にした。専門家はどこを見ているのかと。
著者は1940年生、大学で建築を学び歴史ある建築誌「新建築」で編集に携わり、その後いくつかの出版社でも編集を主務としてきた人。自身のブログでは「建築おたく」と称しているが、本書を読めば立派な建築評論家であることがわかる。
我が国において“近代建築”と言う言葉が使われるときそれには二つの対象がある。一つは明治期からの欧風建築、もう一つは1920年頃から始まった鉄・コンクリート・ガラスを主材料とする建築である。本書で取り上げる作品は後者で、それもごく一部を除き(レプリカ・大規模修復)戦後に限っている(特に1960年以降の「モダニズム建築」)。それは‘60~70年代が近代建築史の中でも二度とない重要な瞬間と著者が考えているからだ。その依って来たるところを個々の作品説明で行っていくのが本書の骨子である。
50の選択は無論著者の独断。基本的に竣工期順に紹介していく。トップバッターは「自由学園明日(みょうにち)館」(フランク・ロイド・ライト、1922年(学園移設で一時期荒廃していたものを1997年大修復))、池袋と目白の中間に在り、ここは私も外から見ている。ラストバッターは「十和田市現代美術館」(西沢立衛、2008年)。建物の概要、建築としての特色(特に著者が評価する点)を解説するとともに、施主・建築家あるいは施工にまつわるエピソードを交えて1件4頁(写真を含む;モノクロで小さいのが難点)にまとめて紹介する。
著名建築家で複数取り上げられている者を多い順に並べると、前川國男;5、丹下健三;3、村野藤吾;3、磯崎新;3、アントニン・レーモンド;3、大江宏;2、ル・コルビジェ;2、吉阪隆正;2、白井晟一;2となる。比較的よく知られた建物は;広島平和記念資料館(1955年)・代々木体育館(1964年)・東京カテドラル(1964年)(以上丹下)、西洋美術館(1959年、コルビジェ)、東京文化会館(1961年、前川)、日生劇場(1963年、村野)、中銀カプセルタワービル(1972年、黒川紀章)、表参道ヒルズ(2006年、安藤忠雄)など。これらに混じって長年通ったパレスサイドビル(1966年、日建設計(林昌二))が選ばれていたのがうれしい。ユニークなのは南仏にあったコルビジェの休憩小屋(オリジナル1952年)、これをものつくり大学(埼玉)が内部の家具から金物・ネジ仕様まで忠実に再現しもの、コルビジェ財団から正式にレプリカとして認定されている。また夭逝した蒲原茂雄(34歳没)に依る小菅刑務所(1929年)を選んでいるのには意表をつかれた。「美しい白鳥が飛び立とうとしているような建築」と評している(中央の時計付き監視塔からの連想だろう)。また工事を担ったのは建築経験のない受刑者だったとある。
作品を通して解説される師弟関係やライバルに関する話が面白い。コルビジェの弟子は渡仏順に前川・坂倉準三・吉阪の3人、西洋美術館は簡単な図面のみコルビジェが描き、細部は彼等が協力して仕上げていった。時間を経るに師の思想を離れるのは一流なら必定、坂倉は旧神奈川県立近代美術館(鎌倉、1951年)を作るに際し、師の嫌った大階段を採用している。もっと激しかったのは丹下と磯崎の子弟関係、代々木体育館設計中に磯崎は丹下と袂を分かっている。しかし東京カテドラル(1964年)で行われた丹下の葬儀(2005年、91歳没)では磯崎が涙ながらに弔辞を読んだと言う。この丹下とライバルだったのは大江宏、二人は東大建築科の同期(1938年卒)、卒業に際して優秀者に与えられる辰野賞も一緒に受賞している。二人の目指したのは和洋の調和、コンクリートで和を表現する丹下、内部に木材を多用して和を醸し出す大江。それぞれの代表作品は香川県庁舎(1958年、丹下)、香川県文化会館(1965年、大江)、今も斜め向かいでその違いを見せている。ここは二人の巌流島なのだ。
“ベスト”とはいえ評は必ずしも賛辞ばかりではない。代々木体育館の大幅予算超過(丹下は田中角栄蔵相に直訴)、西洋美術館の問題点(柱や照明)、モダニズムの時流に反した日生劇場批判に対する後年の再評価など辛口寸評が薬味として効いている。特に丹下作品については“時代の画期”としつつも“写真写り第一”で施工・居心地・管理に問題ありと厳しい評を下す(これに対して前川は“居心地第一”)。また、コンペでは審査用提出資料が大量になる傾向にあり、組織力の弱い者が参入しにくくなっていることも問題視している。
建築見学のガイドブックとして好適、首都圏に在るのは50の内28、かなりが公開されているので本書を片手に出かけてみたい。なお、著者について少し調べてみたところ、“東京建築散歩 近代建築の楽しみ”と言うブログを運営していた。本書で紹介されたものがそこにも掲載されており(タイトルは多少異なるが)、写真はカラーで大きく数も多くてより理解を深める。でも興味があったら本を買ってあげてください。
6)戦術の名著を読む
-戦いの基本は戦術。元戦車連隊長が選ぶ、戦術理論、実地適用、状況判断、情報処理、戦場心理に関わる名著13冊のダイジェスト-
ビジネスマン人生45年、子会社や他社に変わっても常に石油と関わってきた。入社来20年間は工場勤務、この間2度の石油危機を体験した。一回目(1973年)は第4次中東戦争、二回目(1979年)はイラン革命が引き金だ。今度のウクライナ戦争で既に高止まりしていた原油価格がじわじわと上昇している。本社は原油の選択・切替・確保やタンカーの手配、さらには政府政策の対応で右往左往だろう。全社的な戦略・作戦の見直しである。私が務めていた会社は小売対象の営業部門は無く、実質工場が唯一の最前線。直ぐに大規模な操業変化は無いものの作戦変更にいかに応えていくか準備は怠れない。つまり日常の運転を維持しながらの戦術対応である。24時間運転を数年連続する装置工業、新原油や省エネのための設備改造は簡単ではない。そこで出てきたのが「コンピュータで何とかならないか?」との声である。結論から言えばシステム屋にとって石油危機は神風だった。今まで投資回収の難しかったアプリケーションが価格上昇で容易にペイするからだ。工場の課長は軍隊ならば中隊長と言ったところか、どの部門よりも先に激戦地に投入され成果を上げる。後に本社管理職、子会社経営に当たったが、企業人人生を振り返ると、苦労も多かったが遣り甲斐のあったのは戦術指揮官として戦ったこの時代である。軍事と企業経営の関係を追ってきた軍事オタクとして、思い入れ深い戦術に関わる名著は無視できない。どんな本から何が学べるか、そんな観点から読んでみることにした。
著者は1945年生まれ、防衛大学校卒業後幕僚監部(旧軍の参謀本部に相当)勤務、戦車大隊長・連隊長も務め、2000年陸将補で退役、現在は軍事史研究家(特に戦術研究)。既刊書「気象と戦術」を本欄で紹介している(2020年6月)。
戦術学習・研究のジャンルを以下の五つに分類する。①戦術学の基礎、②戦術の適用、③状況判断、④情報活動と後方支援、⑤戦場真理。それぞれのジャンルを概説した後、著者が“名著”とするものを取り上げ、著者・著書の来歴、要旨、学ぶべき点を解説する。
①では「指揮官の戦術能力がすなわち部隊の戦闘能力の限界」とし戦術学習・体得の重要性を訴え、戦術は術(アート)と言う暗黙知部分が大半を占めるので自己研鑽が王道として、知識習得のために以下を推奨する。「戦争概論」(ジョミニ)、「アメリカにおける秋山真之」(島田謹二)、「海軍基本戦術」(秋山真之)、「戦理入門」(戦理研究委員会;メンバーは旧陸軍将校36名)、の4編、いずれも戦術学の基礎に関するものである。ジョミニはクラウゼヴィッツほど著名ではないが、スイス人でスイス軍、フランス軍(ナポレオン軍)、ロシア軍で通算70年におよぶ軍歴を持つ(最終階級は大将)。中公文庫「戦争概論」(佐藤徳太郎訳)は原本ではなくサマリーとのこと。
②では軍事組織が保守的・教条的であることを「将軍は前の戦争で次の戦争を戦う」と言う警句で批判、創造性・柔軟性を求め、以下を参考書としてあげる。「改訂版 ヨーロッパ史における戦争」(マイケル・ハワード;ロンドン大学戦争学部創設者)、「機甲戦」(J・F・Cフラー;英陸軍少将、初期の機甲戦の提唱者)、「オペレーションズ(1982年版)」(米陸軍ドクトリン参考書)、「ソ連軍<作戦術>縦深会戦の追求」(ディヴィッド・M・グランツ;米陸軍大佐、ソ連軍作戦術研究の第一人者)。ナポレオンの砲兵運用、戦車の集中利用、米軍による戦術の上位概念としての作戦術導入、トハチェフスキー(ソ軍元帥)の縦深作戦、いずれも伝統とは異なる戦い方が紹介される。
③では戦場での決断は指揮官専権事項、最重要ミッションとして決断にいたる状況判断の過程とプログラム化について考察する。ここで取り上げられる著書は;米陸軍野外教令FM6-0「Commander and
Staff Organization and Operations」の翻訳「指揮官および幕僚の業務提要」のみ。ただし、ハーバード・A・サイモンの「意思決定の科学」が本資料と相互に影響し合ったことが縷々述べられている。要は指揮官が、状況が刻々変わる中で恣意的に意思決定することを避け、一般的・合理的意思決定する過程をプログラム化したものである。これは幕僚のいる大隊以上と中隊以下では異なり下部ほど即断即決手順となっている。本書の内容はオンデマンド版や電子版で読めるとある。
④は前線での戦闘を支える情報と後方支援に関する参考書2点。要点は平時と有事の切替である。これが下手だったのは旧日本軍、優れているのは米式マネージメント。取り上げられるのは失敗例として「大本営参謀の情報戦記」(堀栄三)、第1次湾岸戦争有事対応で手腕を発揮した米陸軍兵站担当W.G.パゴニス少将(のち中将)の著した「山・動く」。両書とも実戦担当者の体験談で他の著書のように教科書的でない。
⑤は戦闘における兵士の心理状態に関するもの。戦闘は、死の恐怖、摩擦、霧、偶然などが複雑に絡み、兵士の心身に強烈なストレスを与え、軍隊が健全性を失うことも生ずる(殺戮マシーンに変じる)。戦場心理について2著を取り上げる。「戦場における「人殺し」の心理学」(デーヴ・グロスマン;兵士からたたき上げた米陸軍士官学校心理学・軍事社会学教授)、ナポレオンは「最も危険な瞬間は勝利の直後である」と言っておりグロスマンはこれを交感神経系と副交感神経系のバランスから説き、補充兵の重要性を唱えている。もう一冊は「動くものはすべて殺せ」(ニック・タース;米調査ジャーナリスト、社会医学博士)、これはヴェトナム戦争における米兵による戦争犯罪を扱ったノンフィクション。第2次世界大戦従軍者の平均年齢が26歳だったのに対しヴェトナム戦争は19歳、充分は訓練も受けずに戦場に投入されたティーンエイジャーが平常心を失うのは必定だった。戦争心理、確かに戦術指揮官が学ぶべき重要事項である。
上述のように内容はすべて軍事そのもの、直接企業経営に結ぶところは少ないが、組織の柔軟性・敏捷性、意思決定のプロセス、情報の重要性、平時と有事の切替、人事管理、底通するリーダーシップ論、いずれも企業活動への適用を意識して読めばそれなりのアイディアや行動規範が浮かんできそうな著書ばかり、いくつか読んでみたい気になっている。
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