<今月読んだ本>
1)関東大震災(吉村昭);文藝春秋社(文庫)
2)武藤章(川田稔)文藝春秋社;(新書)
3)交通崩壊(市川嘉一);新潮社(新書)
4)「若者の読書離れ」というウソ(飯田一史);平凡社(新書)
5)スターリンの図書室(ジェフリー・ロバーツ);白水社
6)日本銀行 わが国に迫る危機(河村小百合);(新書)
<愚評昧説>
1)関東大震災
-百年前の大震災を50年前に著したものだが、その生々しい臨場感は現代に違和感なし。さすが吉村昭!-
母は1912年(大正2年)生まれ、関東大震災が襲った1923年には満10歳、小学校3年生だったはずである。住いは東京市本郷区(現文京区)千駄木町に在った。この日は9月1日(土)、始業式があったのがどうかは聞きそびれたが、地震が起こった時間11時58分に自宅にいたことは確かだ。終生この時の恐怖が身にしみ込んでおり、地震を感知すると大騒ぎして裸足で庭や玄関先に飛び出していた。そんな母の下で育った私も小学生くらいまでは地震恐怖症だった。母の家は幸い倒壊・焼失することもなく家族にも被害は無かったが、しばらく庭に蚊帳を吊って過ごしたと言っていた。本年はあの大震災から100周年、母の体験談以外にも、あの震災に関し断片的には知識はあったが、全容を知りたく本書を手にした。
あとがきの日付は昭和48年(1973年)。丁度50年目、それを期して発刊されたものであろう。そこには、私同様、両親から幼児期聞かされた人心の混乱に戦慄をおぼえ、災害時の人間に対する恐怖感が筆をとらせたとある。当時の地震学の実態から綿密な被害記録まで大震災を広範にカバーするものの、重点が“人心”に置かれていることは確かだ。本書に主人公は不在だし、全編を通す人物もいない。知名人は、寺田寅彦や二人の地震学者(大森房吉、今村明恒;この二人は100周年の新聞記事やTV番組にも登場)、法学者吉野作造、後藤新平くらいで、あとは市・区の職員、警察官・消防士、そして多くの罹災者ばかりである。著者の作品はフィクションとノンフィクションとの境が判然としないものが多いが、本書は完全なノンフィクション(無論著者の構成や表現に創意はあるが)と言っていい。
先ずデータが克明だ。あの大震災を報じる記事に、死者・行方不明者の数は必ず出るが、倒壊家屋数や発火源に触れることはまれだ。これらについて本書は東京市内(当時は15区、ほとんど山の手線内および浅草・本所、深川)はもとより府郡部(山手線外の大部分)・近県(神奈川、千葉)まで数字を列挙する。火災発生件数(最初の火元、ここから類焼していく。本書で初めて知ったが、火元で一番多かったのは薬品、炊事ではないのだ)最多は浅草区の23ヵ所、家屋の全壊・半壊数で日本橋区は不明となっているが、何と一坪も残らず100%焼失しているのだ。家屋倒壊率から言えば横浜は東京市より酷く、全家屋数に対して20%に達している。外人居住区など石造り・レンガ造りが被害を多くしている。数字は震源地、地形の変動(隆起、沈下)や気象などの基本データは無論、遭難列車や鉄路の混乱も具体的に取り上げている。
このように数字を多数引用しているものの決して無味乾燥な内容ではない。紙数を大幅に割いているのは被服廠跡(当時は空き地)の惨事と朝鮮人虐殺である。“人心の混乱”、“流言飛語”の恐ろしさを生々しく知らされる。まだ生存者がおり、それらに取材するとともに東京都や旧内務省(警察・消防を主管)の資料を丹念に当り、正確を期そうとする姿勢が読む者に伝わり、吉村調にすっかり惹き込まれてしまった。そして、書き出しと終末で読み物として確り完成させる。
書き出しは大正4年(1914年)11月10日京都御所で催された大正天皇即位礼、地震学の泰斗東大地震学教室大森房吉教授もそこに参列している。まだ京都に滞在中の12日九十九里一の宮を震源とする地震が発生、在京の助教授今村明恒は余震に対するメディアの不安に応え“大地震60年周期説”を発表、ここから起こった社会不安を鎮めるため、帰京した大森は今村説を否定する。終末、大森は国際学会参加のため豪州にあり、そこで大震災を知り、自らの誤りを認め、帰国間もなく病で他界する。何ともドラマチックな終わり方である。
細部に執筆時と現状研究に差があるが、関東大震災を知るためにこれ以上読み応えのある作品はないのではないか。また資料としての価値もある。
2)武藤章
-総力戦体制未完を憂慮しながら開戦に同意、最年少刑死者となった軍務局長の足跡を追う-
後年“活字中毒者”と言われるくらい身の回りにある印刷物を手当たり次第読むようになるのだが、小学生の時に新聞に目を通すことは滅多になかった。それでも記憶に残るのは1948年(昭和23年、4年生)11月の極東国際軍事裁判におけるA級戦犯判決結果を報じる1面記事である。死刑7名、外交官(重光葵、東郷茂徳)を含む複数の官僚が有期刑、その他が終身禁固だった。知っている名前は東條英機だけだったが、初めて目にした“死刑”という文字に強烈な印象を受け、あの新聞を眺めたことを覚えている。その後昭和史の知見を深めるにつけ、7名(東條英機、板垣征四郎、土肥原賢二、松井石根、木村兵太郎、武藤章、広田弘毅)の略歴を知ることになるのだが、東條と唯一の文民である広田弘毅、満州事変に深く関わった土肥原・板垣を除けば興味の対象外だった。ただ残る3人のうち、気になったのが武藤章である。それは山本七平が著した「一下級将校の見た帝国陸軍」を読んでいるとき、フィリピンで囚われの身となりその収容所内での体験を記した場面に登場したからだ。「体中にみなぎる一種の緊張感、「彼だな」と私はすぐに気がついた」とあり、「収容所に入れられても、他の将官とは全く違う、彼の持つ一種異様の威圧感」を語っていた。機会があったらこの男のことをもっと知りたいと思いつつ、今日に至った。著者もあとがきで「武藤についての、まとまった研究や著作はほとんど見当たらない」と記すほどなのだ。
軍の組織は軍令系と軍政系に大別される。司令官・参謀・部隊長など実戦を計画し戦うのは軍令、予算・人事・装備などを戦略に沿って整えていくのが軍政である。軍令のトップは参謀総長、軍政のトップは陸軍大臣。戦場での華々しい活躍とは距離を置くので、軍政は軍令にくらべ地味な存在であるが、実はこここそ陸軍の要なのだ。そして武藤は陸大卒時恩賜の軍刀拝受の俊秀、軍令系(参謀本部班長・課長、北・中支那方面軍参謀副長など)も務めているが、軍政畑の能吏なのである。2.26事件で、満州事変で、ノモンハン事件で、支那事変で、欧州大戦開戦で、独ソ戦で、仏印進駐で、三国同盟で、日ソ中立条約で、大東亜戦争(太平洋戦争)開戦で、彼はどう考え行動したか、これらを詳らかにするのが本書の主意である。その結果、A級戦犯として起訴され、死刑判決を下される。7人のうち最年少の56歳、中将であった(他の5人は大将)。刑の決め手は戦場の行為とは無関係、開戦時陸軍省軍務局長(少将)であったことによる。
陸軍省は、人事局、兵器局、整備局などいくつかの局や兵器廠・研究所のような外局から成るが、軍務局は言わば筆頭局、国防政策・組織編制・動員計画を主管、予算を握り、議会対応も任とする。武藤はここで軍務課高級課員(課長補佐)、軍務課長などを経て1939年9月30日局長に任ぜられる。解任され近衛師団長(スマトラ在)に転ずるのは1942年4月、中隊長以来久々の部隊指揮、これ以降中央に戻ることは無かった(最終任地はフィリピン、第14方面軍参謀長(中将))。この解任の裏には、軍務局長として戦争の早期講和を願い、それを親しい関係者(岡田啓介元首相、東郷茂徳外相など)に漏らしたことが東條首相兼陸相の知るところとなったことにある。
1920年代から陸軍省・参謀本部の要職に在った軍人達の共通認識は、1)世界大戦は再び起こる、2)それは直接的な軍事力に留まらず国家の総力を挙げたものになる、というものである。この前提で国家戦略を策定するには、1)いずれの国を仮想敵国とするか、2)それに対する総力とは如何なるものか、3)それを如何に整えていくか、を具体化する必要がある。武藤が軍務課員時代から取組んできたのがこれらの課題である。総力戦体制実現のために軍中心の政治を望み大臣の現役武官制を復活、一方長い軍政経験から国力の限界を熟知していたゆえ、戦闘拡大(動員を含む)には慎重論で常に臨んでいる。例外は内蒙古工作と華北分離工作(いずれも満洲と隣接)、これは総力の根幹と見做す諸資源確保のためである。ドイツの西欧制覇、独ソ戦初期の快進撃、これらに便乗する安易な南進論・北進論を抑えるために参謀本部と激論を戦わせる。相方は陸士同期の田中新一作戦部長。南部仏印進駐で対米関係が悪化しても何とか外交(中国からの撤兵にもやむを得ずの考え)で解決しようとするが、ハル・ノートでとどめを刺され、苦渋の決断(開戦同意)をする。
武藤が拘留中著した「比島から巣鴨まで」を始め、在職中の講演録・著作・配布物・関係者の回顧録と証言を丹念に集め分析した武藤章像は、信念に忠実な迫力のある行政官の姿を浮き彫りにし、昭和史に新たな視点を与えてくれた。
著者は1947年生まれ、名古屋大学名誉教授、専門は政治外交史・政治思想史。
3)交通崩壊
-廃線・廃業する鉄道、進まぬ路面電車再興、自動化・EV化で変わるクルマ社会、混乱する歩道、統合性を欠く交通政策を問う-
2020年1月31日60年保持してきた運転免許証有効期間が切れ、それ以降クルマなしの生活になった。仕事(通勤、出張)を除けば、ほとんどの移動手段はクルマだったから、免許証返上後はバス・鉄道利用、それに徒歩へと一変、暮らし方まで新しくなった。例えば買物、クルマがあるときはそれが基本だったが、今では駅・スーパー・団地を巡回するコミュニティバスに頼っている。週4回のプール行きは路線バス利用。いずれもバスのダイヤに予定を合わせなければならない。最も気を使うようになったのは歩行中の自転車、狭い歩道では危険極まりない。自動車運転時は自転車の歩道走行はむしろ歓迎だったが、今では正反対、凶器にさえ感じる。状況が変われば交通に対する考え方も変わる。“交通崩壊”のタイトルから最新の交通事情を知りたいと思った。
視点は、現状のわが国交通政策に重点が置かれ、そこに統合的な政策が欠けていることを指摘し、個別のテーマに移る。それらは、鉄道、軌道(路面電車)、自動車、道路の4点、それぞれの問題点と著者の考えを手短にまとめると以下のようになる。
鉄道;四つのテーマのうち“崩壊”を代表するのが鉄道である。JR各社と地方鉄道の廃線・廃業が相次ぎ、2000年以降(許可制→届出制)その路線数は45、距離は1160kmに達している。廃線の理由は収益性、いまだ運行中の路線も多数その候補になっており、新たな新幹線開通も影響して、旧国鉄路線は寸断されてきている。第三セクター化も根本的な解決策になっていない(例えば、上下分離;路線・駅舎管理と列車運行経営母体を分ける)。中でも問題なのがJR北海道・JR四国で、民営化当初から三島JR(九州を含む)支援策が適用されてきたものの、JR九州を除き赤字は増加の一途である(九州の黒字も不動産業に依って維持)。国土強靭化(災害対応、安全保障)、地方活性化、環境対策、観光政策など単純な収益性以外の要素を勘案した鉄道政策を、欧米の多くの事例を援用しながら、具体的な財源案や利用促進策(空路や自動車利用への制約)も含めて提言する。
軌道;かつて大都市域内交通の主体は路面電車(トラム)であった。東京では都電がそれだが、モータリゼーション到来とともに漸次廃線となり今残るのは荒川線のみである。しかし、近年欧州中心に市街活性化と環境問題解決の手段として、低床式路面電車が復活してきている。わが国でもコンパクトシティ構想の中で一時注目され、富山市の成功例などよく知られるところだが、今や“路面電車待望論”はすっかりかげを潜めてしまった(直近宇都宮のLRTが話題になってはいるが)。彼我の違いはどこにあるか、著者は現地調査を踏まえ、都市政策の違いがその根本に在ることを明らかにする。例えばフランス、ストラスブールやリヨンの場合中心部へのクルマ乗り入れを厳しく制限し、周辺部に駐車スペースを確保してトラム利用を促進している。また、これに要する財源として地域税や交通税あるいは駐車料金に賦課する制度を導入してそれに充て、その額は運賃収入を上回るほどになっている。またイタリア・ボローニャの歴史保存地域における架線を不要とする蓄電池走行トラムのアイディアなどインバウンド政策の一環として参考になる。
自動車;ここで語られるのは“崩壊”ではなく近未来のクルマ社会である。いわゆるCASE(Connected(インターネットとのつながり)、Autonomous(自動化)、Shared&Service(共有・共同利用)、Electric(電化))の視点から、新しいクルマ(主としてEV、自動運転)について論じ、国内数個所で実験的に始まった例を紹介(永平寺町のZEN drive、茨城県境町;いずれも専用EV小型バス)、EV化の問題点(例えば、EV用電池生産に必要な電力との関係)や自動運転のための新たな法律整備の必要性を訴える。
道路;最も混乱が酷いのは歩道である。本来軽車両として車道通行原則の自転車がなし崩し的に歩道走行可になり、自転車利用者が道交法(原則車道)に全く疎いことから近年自転車関連事故が多発していること、加えて電動キックボードの走行(車道-歩道切替可)まで認めることになったこと(大手海外業者と一部政治家の結託)で、さらに歩行者の安全が脅かされている。欧州の場合、一見歩道走行が行われているように見えるが、自転車専用レーンが確保された所以外は“歩道走行不可”なのである。
本書で取り上げられた鉄道以外は全て道路と密接に関係する。ここで問題なのが道路行政のあり方である。国土交通省・地方自治体の交通関連部署以上に権限を持つのは警察、これが混乱に拍車をかけている。他国でこれほど警察が力を持つところは皆無なのだ。崩壊・混乱を収めるためには、この次元から見直さなければ抜本的な解決策は見つからない。
チョッと「欧米では」が鼻につくが、わが国が直面する交通問題をコンパクトにまとめ、著者なりの改善案を提示していることを評価したい。
著者は1960年生まれの交通ジャーナリスト。日経記者を経て退社後大学院で研究、学術博士号取得。現在立飛総合研究所理事。
4)「若者の読書離れ」というウソ
-若者の読書量は変わっていない。大人・識者が読ませたい本を読んでいないだけだ-
1980年代後半から役員として毎年採用試験最終面接の機会を持った。この面接は内定者が対象、合否を決めるわけではないので、双方気楽な会話のやりとりとなる。毎度問うたのは「新聞に毎日目を通すか?」「読書量(雑誌を除く)はどの程度か?」である。総括すると、新聞を毎日は読んでいない学生が大半、読書は幅があるものの、年数冊のレヴェルであった(ただ、ある国立大学文理学部の女子学生で一週間10冊位と答えたIさんのことは今でも忘れられない)。そんな訳で、当時から若者の活字離れを憂慮していたのだが、本書のタイトルはそれが“ウソ”と否定するわけだから放置するわけにはいかない。
先ず、私の“若者”認識は高校後半くらいから20歳代まで(大学生中心)だが、本書の対象は小学校高学年からせいぜい大学教養課程まで、重点は中高生になっている。これは著者が義務教育期間における読書習慣(義務的なものも含め)に注視していることによる。1980年代から子供の本離れが進み1990年代末期に平均読書冊数・不読率が最低となる(2000年不読率(%):小;16.4、中;43.0、高;58.8)。これに危機感を持った文科省は2001年図書館法を改定するとともに、「朝の読書」(授業開始前5~10分)活動などを展開、2010年にはV字回復しているのだ(2010年不読率(%):小;6.2、中;12.7、高;44.3)。このような長期マクロ読書調査データを見ると、高校生のそれは特に“読書離れ”というような状態でないこともはっきりする。大学生に関して同様の調査はないものの、日本人全体と高校生・大学生の不読率はほぼ同じというデータもあり、“若者の読書離れ”を決め付けるには論拠が乏しい。むしろ、東西古今言われ続けてきた「近頃の若い者は」と出版物売上げ低下によるもの(特に雑誌、これは1975年以降小中高ともに右下がり傾向が続く)、さらに識者や書籍関係者(特に司書)が推奨する書物(特に文学全集)が好まれないことを、同様な感覚をもつジャーナリズムが共鳴し作り上げた神話というのが実態といえそうだ。
マクロデータ分析の次に著者が取り組むのは、小学校高学年から高校生までに人気のある作品を読んでみることである。巷間“若者の読書離れ”を主張する者がほとんど現状のヒット作を自ら読み通していないことを指摘した上で売れ筋に目を通し、ニーズと型を整理する。三大ニーズ;①正負両方の感情を揺さぶる、②思春期の自意識、反抗心、本音に訴える、③読む前から得られる感情がわかり、読みやすい。四つの型;①自意識+どんでん返し+真情爆発、②子供が大人に勝つ、③デスゲーム、サバイバルゲーム、脱出ゲーム、④「余命もの」と「死者との再会・交流」。
学校読書調査に基づく、具体的人気作の分析は詳細を極める(この章がもっとも長い)。児童書、ライトノベル、一般文芸書、ノンフィクション、エッセイなどカテゴリー別に80冊くらい取り上げ、前記のニーズと型でその人気の由来を解き明かしていくのだ。一般文芸で東野圭吾「マスカレード・シリーズ」、エッセイでブレディみかこ「僕はイエローでホワイトでちょっとブルー」などの名前が出るものの、ほとんど著者名・作品名は知らないものばかり、マンガやゲーム、合成音声ボカロイド利用動画(例えば、初音ミク)を小説化したものなど想像を絶する。ここでいかに私が若者の読書に無知であかるを思い知らされた。
非常に気になったことに読書意欲に関する考察がある。これは著者の意見ではなく引用になるが(行動遺伝学者安藤寿康「生まれが9割の世界をどう生きるか」など)、本好きは読書環境(家庭、教育、経済力など)ではなく“持って生まれた資質”(著者は“遺伝”を使っているが家系・血統とは関係ないので正しい用法でない)が大きく影響するとある。私は信じないが、如何なものであろうか?
著者は1982年生まれ。出版社でカルチャー誌や小説の編集に従事したのち、独立して出版に関する調査・執筆を行っている。
5)スターリンの図書室
-狡猾・陰険・冷酷な独裁者スターリンの知られざる一面を、蔵書に記された書き込みから甦らせる-
本欄で取り上げる図書は原則自費購入である。年齢を考え蔵書も終活対象になり、極力高価な単行本は買わないことにしている。しかし、本書を新聞書評で知った時“スターリン”と“図書室”の双方に強く惹かれ、即Amazonで調べたところ“在庫切れ”とあり楽天ブックスでも同じだった。こうなると無性に欲しくなり、最寄りの八重洲ブックセンターに出かけたが自分では見つけられず、店員に調べてもらったところ「5千円近い本ですが、有ればお求めになりますか?」と確認された。スターリンに関する書物は伝記・評伝を中心に何冊も持っているが、書籍をテーマにしたものは皆無、「蔵書(あるいは本棚)を見ればその人が分かる」とはよく言われるくらいだから、そこに書き込みまであると知らされれば、少々無理をしても手元に置きたい。400頁近いハードカバー、確かに知られざるスターリン像を垣間見ることができ、投資した甲斐があった。
スターリンは1953年3月5日モスクワ郊外の別荘(ダーチャ)で死去した(享年77歳)。死因は脳卒中。この別荘の中核は図書室、付帯する事務室での執務を好んだという。この時点で残された書籍・冊子・定期刊行物の総計は、クレムリンの自宅・執務室に保管されているものも合わせておよそ2万5千点。死後ここを博物館とする計画があったが、フルシチョフのスターリン批判後計画は頓挫、蔵書は各所の図書館や文書庫、倉庫などに四散、1980年代後半共産主義の権威が揺らぐと、スターリン研究が復活、国立社会政治図書館などに集められてくる。
本書は、スターリンの蔵書を単に分析したり読書歴を経時的に追ったりするものではない。視角をいくつか変え、その視点での読書と彼の言動を結び付けていく。例えば、初期のボルシェビキ指導者、レーニンやトロツキーとの対比。いずれも読書家で、人間の思想と意識のみならず人間の本質さえも読書によって変革できると信じており、スターリンもその一人だった。
別の視点として、読書と著述の関係を調べあげ、革命成就とその後の体制固めへの影響を著者なりに示す。ここでは、党内の主導権把握に至る過程での読書内容や執筆活動を詳らかにする。レーニンはもとより政敵トロツキーの著作もよく読み込んで論破、レーニンの後継者の位置を確かなものにしていく。また、彼の考え方をたどる論考・演説・講演・各種冊子を紹介するとともに、晩年これを全集に編むべくもくろむ姿を描いてみせる(13巻まで出たが、フルシチョフが継続出版禁止、未完)。この視点から見えてくるスターリン像は、党広報紙プラウダの編集責任者も務めた“書く人・編む人”である。演説より文筆に長けた論客、これが他の指導者と異なる特質と言えそうだ。
何と言っても本書の肝は“図書室”。1925年に完成、専属司書を雇い、分類法を自ら定めるほどここに入れ込む。死後散逸した蔵書の一部が何ヶ所かの図書館・文書館に集まり、そこから仮想図書館が再興しつつある。蔵書の種類は、マルクス主義哲学(レーニン作が最多)、経済、政治が多くを占めるものの、古代史・戦史から芸術社会学、児童心理などにもおよぶ広範なもの、小説もロシア人作家に留まらずジャック・ロンドン、マーク・トウェインなど英米人による作品も含まれている。好みの順位は、①歴史、②マルクス理論、③小説となる。
その中で最も注目すべきは、余白やしおりへの書き込みや下線・囲み(ロシア語でポメートキー)、ここからスターリンの思考・思想が読み取れる。自伝・日記を残さなかっただけに、スターリン研究に貴重なものであろう。書き込みは、長いものもあるが大半は一言二言、軽蔑する時は「ふん、くだらん」「でたらめ」「無意味」など、賛成・賛嘆では「そうだ、そうだ」「良し」「的中」など、困惑・疑問には「ふむ、そうかな~」「本当か?」「間違いないか?」、そして一番多いのが「NB」(キリル文字ではVn“注意”の意)である。短いが独裁者の感情が生々しく伝わってくる(見開きに数葉の写真あり)。ロシアの研究機関はこのポメートキーの索引を作り今も継続中という。
著者がスターリン蔵書研究に取り組み出したのは2010年から。もともとソ連・ロシア外交・軍事史を専門とするアイルランドの歴史学者(生年不詳、ユニバーシティ・カレッジ・コーク名誉教授)としてソ連崩壊後頻繁にロシアを訪れていたことに発する。コロナ禍で影響を受けたようだが2022年に原著出版、言わば最新のスターリン伝記である。政治・軍事をテーマとする多くの伝記とは異なり、“読書”というレンズを通して描くスターリン像は、猜疑心のかたまり、陰険で冷酷な独裁者ではなく、勉強家で知性的なもう一人のスターリンを歴史に登場させるもので、スターリン研究の新たな一面を開く作品と評価できる。
6)日本銀行 わが国に迫る危機
-亡国の異次元緩和、あふれたカネは日銀に戻り当座預金という負債になる。金利を上げれば自らの首を絞める。恐るべき金融・財政崩壊を予見、国民の自覚をうながす-
老い先短い身とはいえ、死後を含めて日本の将来はおおいに気になる。国の安全保障(食料を含む)、少子高齢化と人口減、IT利用新産業の遅れ、そして最も危惧しているのが国の借金(GDPの2.6倍に達する巨額の国債発行残高)である。最大の保有者は日本銀行、先ごろの日銀政策決定会合ではインフレ進行を認めつつも、各国の利上げ政策に反し、金融緩和を継続することした。問題解決の先送りである。実は、金利を上げることは、日銀の債務を増加させ、果ては債務超過に陥る危険が高いからなのである。
中央銀行の債務超過は何をもたらすか、ここに至った財政・金融政策を分析(特に黒田総裁下の異次元緩和)、財政金融破綻にならないために国民の自覚を促す啓発・警告の書である。
著者は1988年京大法学部卒、日銀入行、現在日本総合研究所主席研究員。短い期間だが内部事情(金融研究所と推察する)に通じている人だ。
国債は本来恒常的な財源と見るべきものではなのだが、バブル経済崩壊後漸増の傾向にあった。その後リーマンショック、東日本大震災への緊急対応でさらに積み増される。しかし、突出するのは第2次安倍政権以降、それまで700兆円強であったものが在任8年の間に1000兆円近くまで膨張している。アベノミックスによる異次元緩和の結果である。2022年度の日銀バランスシートでは資産として国債が550兆円、超金融緩和により市場にあふれた金は準備預金制度の下日銀に当座預金として還流、500兆円が負債の側に計上されている。金利が上がればこの負債は増加し、日銀は赤字に転じて、やがて債務超過になる可能性が高いのだ。世界がインフレの中にあり各国中央銀行が金融引締め策を採る中、日銀が緩和策を継続せざるをえない理由がここにある。その結果として円安が進み、諸物価高騰となるが日銀に打つ手はない。
既に退任していた安倍元首相は2022年5月地方講演で「日銀は政府の子会社のようなもの」と語ったという。黒田日銀は当にその通りの政策を続け、中央銀行としての本来の役割(中立性のある客観的な金融政策)を果たさなかったわけである。結果として、著者は「現在の財政状態は敗戦直後と同レヴェルまで悪化している」と断じ、ここに至った経緯を主要各国中銀(米国のFRB、EUのECB、英国のBOE)の諸策(前例のない政策は期限を定め、効果・副作用を確認してつぎの段階に進む)、財政破綻したギリシャ、キプロス、アイスランドの対応策、さらには敗戦直後の我が国財政・金融状況を援用、現今の危機的状況を詳らかにする。著者は金融の専門家、根本問題は政府財政政策の緩みにあるとしつつも、黒田日銀の異常性を鋭く厳しく追及、個人的にはここから中央銀行の何たるかを学んだ。
もし日銀が行き詰まればどうなるか(これは国の財政破綻とほぼ同義)。終戦直後(1946年)政府が採った諸策でこれを再現して見せる。預金封鎖・新円切替え・引出し制限・財産税(25~90%)導入・戦時補償特別税(国の借金は踏み倒す)導入、を矢継ぎ早に実施(1946年内)、内国債の償還だけは行って、辛うじてデフォルトを免れる。現在の我が国個人資産は2000兆円、これを終戦直後と同じやり方で召し上げることができれば国家財政破綻・日銀崩壊は避けられる。しかし、終戦時と違い経済のグローバル化もあり、混乱は一国に収まらず、IMFを始め諸国・諸機関が介入してくる可能性も高い。また、占領下とは異なり民主制の下での合意形成は容易ではない。
これのような状態を避けるには如何にすべきか。著者はそれを以下のように整理する。1)ここに至った根本原因は、現在の政治(野党も含む)・行政体制(これに迎合するメディアも同罪)を生み出した国民の“甘え”、“無理解”、“無責任”にある(バラマキの享受者は国民)。先ず、国民一人ひとりがこれを自覚し、自分の問題として考える。2)担税力のあるものは相当いるので、現状の高齢富裕層(自民党支持者の中核)に有利な税制を改めるとともに、国民全体の税負担も増やす。例えば、家計資産1000兆円の65%は60歳以上が保有、高齢者福祉財源は“同世代が支える”ようにする。法人税の応能負担(円安で潤った分などその典型)。3)政府・議員は国債を恒常的な財源と考えない(長期国債償還60年ルールは1964年オリンピック開催で出来たもの。これはインフラ投資だったから許された。それが他の長期国債適用期限になってしまっている)。自民党の一部には80年、さらには無期限(利払いだけ続ける)を主張するものまでいる。4)日銀を本来の“中央銀行”として立て直す(政府の子会社でない)。
財政・金融問題の構造をズバリと、しかし分かり易く説明する内容(豊富な数値データ・表・グラフ)、同感するところが多かった(甘えと自覚、同世代負担など)。老い先、さらにその先(子・孫の時代)に不安は倍加したものの、読んでためになったし、広く読まれて欲しい一冊である。
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