<今月読んだ本>
1)アメリカ大統領と大統領図書館(豊田恭子);筑摩書房
2)新幹線、国道1号線を走る(梅原淳、東良美季)交通新聞社(新書)
3)計測の科学(ジェームズ・ヴィンセント);築地書館
4)最終飛行(佐藤賢一);文藝春秋社(文庫)
5)教養としてのイギリス貴族入門(君塚直隆);新潮社(新書)
6)本の身の上話(出久根達郎);筑摩書房(文庫)
<愚評昧説>
1)アメリカ大統領と大統領図書館
-図書館情報学専門家が綴る、フーバー、ルーズベルトとそれに続く11人の大統領記念図書館訪問記。自画自賛あり失政の言い訳あり-
大谷を始め日本選手の活躍でメジャーリーグのTV観戦が俄然面白い。それは日本人プレーヤーのいないチームにもおよぶ。その一つに妙な愛称のカンザスシティ・ロイヤルズ(王族)がある。石油とITが仕事である私にとって農業地帯の中西部は無縁の土地であったが、1995年秋ナッシュビル(テネシー州)で開催された米国石油学会参加の折り、モービル石油(日本法人)からタンクローリー出荷制御システムの調査を依頼され、カンザスを訪れることになった。中心都市カンザスシティはミズリー州とカンザス州を挟んで在り、私が泊ったのはカンザス側、翌朝迎えに来てくれた営業担当者によると、会社の所在地はここからクルマで1時間ほど西とのこと。平坦な地形に果てしなく穀倉地帯が広がる景観は、それまで知る米国とは全く別物であった。訪問先の会社は州間ハイウェイの両側に商店や工場が点在する小さな町に在り、何故こんな所に制御システムの会社が?といぶかしく思うような場所。昼食時オーナー(元大手自動車部品会社技術者)から、ここが彼の出身地であることを知らされ納得、その際彼が語ってくれたもう一つの話が、カンザスを忘れ難いものにした。それは「さらに少し西へ進めばアイゼンハワーの出身地が在り、そこは地理的に米国の中心である(東西、南北等距離交差点)」」と言うことだった。クルマの運転ができない著者がアイゼンハワー記念館にたどり着く苦労話の中に「米国のヘソ」が出てきて、あの大平原の記憶がよみがえった。
著者は1960年生れ、お茶の水女子大卒業後出版社勤務を経て米国シモンズ大学(ボストン)留学、図書館情報学修士号取得、帰国後JPモルガン(日本)、NTTデータでデータベース構築・管理に携わり、現在東京農業大学学術情報課程教授。2022年父の遺産を有意義なことに使おうと7回にわたり渡米、13の大統領図書館すべてを訪ずれてまとめたのが本書である。
米国大統領の公文書を議会図書館に集約することは1903年から始まっているが、大統領図書館設立は1955年成立した「大統領図書館法」以降となる。これ以前1941年F.D.ルーズベルト大統領は私費で図書館を設立(土地も一族所有地、運営は公費)、その一代前のフーバー大統領も自身の活動記録を中心に母校スタンフォード大学に研究所を作っている。しかし、法律制定後トルーマン、アイゼンハワーが図書館を建設したことを見て、1962年出身地(アイオワ州ウエストブランチ)に文書類を移し、フーバー記念館を作り上げている。法律制定前のこの二人、それ以降のトルーマン、アイゼンハワー、ケネディ、ジョンソン、ニクソン、フォード、カーター、レーガン、ブッシュ(パパ)、クリントン、ブッシュ(ジュニア)まで13人の大統領図書館を紹介するのが本書の内容である。調査開始時すでにオバマは大統領を辞して久しいにもかかわらず、取り上げていないのは従来方法での建設・運営が実状に即さなくなってきているからで、「おわりに」でその件に触れている。
各大統領図書館の説明は;①来歴:人となりから現役時代の重要政治課題対応、晩年の生活まで。ここは著者の調査中心に客観的にまとめられる。②大統領文書と図書館建設:収納されている文書類とその扱い、図書館と言うより記念館の性格が強い施設の建設・運用実態。公文書・私文書に関しては、範囲・量や管理方法の変遷と現状。建設に関する第一の問題点は財源。多くは記念施設建設・運用のための寄付で設立された財団に依るが、出資構成で性格が変わってくる。自身が最大の出資者であれば希望をかなえやすい。例えば、ジョンソンは「とにかくでかいやつを作れ」と要求、巨大な入れ物を建設している。もう一つの問題は設置場所;生誕地、居住地、出身校などが誘致合戦を繰り広げる。この過程で家族・財団と折り合いがつかず併設が生じたりする。例えば、JFKの場合ケネディ家(偉業)とハーバード大学(教育)の間でコンセプトが一致せず、記念館はマサチューセッツ州立大学に設置、ハーバード大学はケネディ公共政策大学院を発足させる。③ミュージアム訪問:展示物の内容や展示方法、訪問者像。研究者に価値があるのはアーカイブス(文書館)の方だが、訪問者は圧倒的に展示館が多く、著者もここにより訪問時間を割いている。郷土の英雄を称えたり自身の力を誇示したり(逆に失敗を巧みに糊塗したり)、かなり神格化バイアスがかかっていることを著者は冷静に分析、考察する。
ミュージアム(展示館)の展示方法には来訪者を楽しませる仕掛けがいろいろ工夫されている。例えば、現職時代大統領が決断に苦慮した問題を実体験させる“遊び”がある。トルーマン時代マッカーシー赤狩り旋風が吹き荒れる。音声の質問にYes/Noのボタンで順次答えていくと、最後に大統領もこれに加担したことが、当時の社会政治環境としてはごく常識的な決断であったことが分かる仕組みだ。レーガンの記念館には退役した大統領専用機(エァーフォース・ワン)が室内展示され、これが集客の目玉となっている。
どこの記念施設もそれなりに人を集めており、2019年の実績ではフーバーの3万人からアイゼンハワー、ケネディ、ブッシュ(パパ)の20万人まで、大方は10万人を超えている。しかし、文書の幾何級数的(特にEメールによるそれ以上の対数的)増加、公文書・私文書仕分け整理の限界(百年以上かかるバックログ)、これに依る資料の散逸、公費・私費分担問題(カネは出してほしいが口は出させない)、そして元・現大統領への公開制限権付与など問題累積。時代にそぐわなくなった大統領図書館法を無視するかたち(国立公文書館管理外)で、オバマ財団は直営の記念施設建設に踏み切っている(文書類はディジタルライブラリー化しWeb経由)。
現存の大統領図書館は人気もありユニークな存在であるが、これからの大統領(トランプ以降)に関し著者の見方は懐疑的だ。その主因として“大統領の尊厳”に対する環境変化を挙げている。つまり対立を煽りスキャンダルまみれの大統領に対し、超党派で支える精神が失われ、国民も大統領を単なる利益代表として選んでいるだけだと言うのだ。まったく同感だ!
独特の読後感は疲労感だ。いずれの記念館も辺鄙な場所に在り、クルマを運転できない著者は訪問に難儀する。書き出しで触れたアイゼンハワー記念館では大きな空港(カンザスシティ空港と推察)からマンハッタン(ブラックユーモアか!)と言うローカル空港まで小型機で飛ぶが、そこからの交通手段は皆無。結局記念館の職員に送迎してもらうことになる。大都市の大学校内だからと言って油断はできない。ブッシュ(パパ)記念館はテキサス農工大学(出身校ではない。広さは港区全体に匹敵)に在るのだが、大学中心部から徒歩で30分以上かかる。片道2車線の幹線道路沿い歩道も途中で消滅、クルマの疾走する道端をトボトボ歩みを進める。
2)新幹線、国道1号線を走る
-36m・30tの新幹線車両を4時間かけて48km陸送するルポルタージュ。地図と写真で神業紹介-
私の鉄道最寄り駅は京浜急行の金沢文庫、次駅は金沢八景。この間の西側には旧海軍用地を転用した(株)総合車輌製作所が在る。以前東急車両(株)金沢工場であったが2012年以降JR東日本の傘下に入り、時折新幹線塗装の車両が垣間見える。京浜急行と新幹線は標準軌、JR在来線は狭軌、工場側線は狭軌・標準軌の3線構造。この3線は京急逗子線につながり、JR逗子駅手前で狭軌はJR方面へ分岐していく。つまり狭軌の車両はJR経由で目的地に向かうのだ。標準軌私鉄(京成、都営)はともかく、新幹線車両搬出はどうなるのだろう?
本書は書店の新幹線開業60周年記念コーナーで見つけたものだが、発刊は2009年とかなり古いものの、新幹線車両製作工場から本線に乗り入れるまでの過程が写真・地図入りで解説されていたので、謎解きが可能ではと求めた。
開業前の新幹線試験線拠点は神奈川県西部の鴨宮。当時の新幹線車両メーカーは以下の5社(製作所);日本車輌製造(埼玉蕨工場)、汽車製造(東京工場)、日立製作所(山口笠戸工場)、川崎車輌(兵庫工場)、近畿車両(大阪徳庵工場)。この時の新幹線納車で輸送方式はすべて出そろっている。トレーラー牽引、船舶、在来線利用の3種である。ただし、営業用車両の搬入先は鴨宮ではなく、東は東京運転所(品川)、西は大阪運転所(摂津)となる。両所とも運転管理所ばかりでなく車両基地でもあった。その後の変化は、先ずメーカー起こる。汽車製造と川崎車輌は川崎重工の鉄道事業部門として併合され汽車製造の東京工場は閉鎖される。また東日本最大の製作拠点であった日本車輌蕨工場も、愛知県豊川市に新工場が完成するとこの地を去っている。運用側の変化は国鉄民営化。元祖新幹線はJR東海、東北(秋田・山形を含む)・上越・長野(北陸)新幹線はJR東日本、山陽新幹線はJR西日本、九州新幹線はJR九州、北海道新幹線はJR北海道、と経営主体が分かれることになる。この分割民営化と新幹線延伸は車両メーカーの経営にも影響する。日本車輌豊川製作所は元国鉄名古屋工場の分工場跡地に新設され、2008年にはJR東海の連結子会社となっている。また本書では一切触れられていないが、東急車両が新幹線車両製作に加わるようになるのも分割以降、現在はJR東日本の100%出資会社として名称も総合車輌製作所と変じた。
本書の出版は2009年10月、輸送実施時期はその年の4月。列車型式は現在に続くN700系(最新は700S型)。これはJR東海とJR西日本の共同開発に成るものだ。輸送経路は日本車輌豊川製作所からJR東海浜松工場まで、約48km。豊川製作所は在来線へ側線乗り入れしているものの、新幹線にはつながっていない。本書の中で他社工場から初期の新幹線車両を台車のみ狭軌用のものに履き替えて在来線で輸送する事例も紹介されるが、ここは手間と費用の点でトレーラー牽引方式が有利と判じられる。
両工場間には主管の異なる市道・県道・国道があり、道路構造(分離帯有無など)・車線数・道幅が変化、電線・歩道橋あるいは交通標識が時として障害となる。十字路・T字路での方向転換は当に神業だ。地図上のシミュレーションや現場検証を重ね綿密な輸送計画を作り上げ、いくつもの許認可事項(道路ばかりでなく車両も)をクリアーして実行可能となる。実施時刻は午前零時から4時過ぎまで。一回の輸送で2両(トレーラー2編成)、新幹線一編成全体16両を終えるのは8日を要する。台車や下部取付け物の一部は分離別送、それらを外しても1両30トンの重量があり長さは先頭車で36m。輸送編成は;先導車-本体トレーラー(牽引車+仮接タイヤ台車に載った新幹線車両;後部台車は無線操作で方向可変)-後導車-後方警戒車。これを日本通運の専門技能者(新幹線ばかりでなく、大型電気機械や風力発電の羽根なども扱う)10名と警備・誘導員の8人が担当する。本書はこの作業を著者2名(記事、写真各1名)がクルマで前後随走しながらルポルタージュする部分が中心となり、図面や写真をふんだんに使い、臨場感をもって難所通過が伝えられる。また、従事する人々の経歴や生活環境にもかなりの紙数を割き、血の通った仕事ぶりが、堅い技術物とは一味違った読後感を残してくれる。
ただ、同形式の車両を運用するJR西日本やJR九州の新車両輸送には触れるものの、JR東日本については、東北新幹線開業前小山新幹線車両センターへの輸送(東京第一運転所(大井)から都心を抜け、トレーラーで二日がかりで運ぶ)が紹介されるだけで、現状には全く言及していない。私の疑問、近くの総合車輌製作所で製作された車両がいかに搬出され新幹線に乗り入れるのかは不明のままである。台車に在来線用のものを仮接して輸送することの問題点は、新幹線開業前に限界測定車コヤ90を作製、これで横浜港駅~鴨宮間をチェックした話で理解できた。その結果は、支障物(プラットホームなど)21ヵ所、信号機57ヵ所、架線27ヵ所、その他の障害26件があり、プラットホーム対策は台車と車体の間に高さ調整用スペーサーを挿入してかわし、その他も線路移動など大掛かりな改修工事があったと記されている。京急逗子線は3線形式でJR逗子駅へつながっているが、そこから先はどうなるのだろうか?最寄りの国道16号線は片道一車線、どう考えてもそこをトレーラーで牽引して北区尾久付近に在る東京新幹線車両センターまで達するのは無理だろう。湾岸道路経由か?一度工場からの搬出を見たいものだ。
著者は、梅原が記事、東良(とうら)が写真、を担当。前者は1965年生れ、大学卒業後銀行勤務を経て出版業界に入り、2000年からフリーの鉄道ジャーナリストとなる。後者は1958年生れ、編集者、カメラマン、音楽PVディレクター、グラフィック・デザイナーとある。
3)計測の科学
-言語と同時に始まった計測。単位を巡る戦いは国家の命運を左右し、今やセンサー情報なしでは日々の生活もおぼつかない-
1962年10月半年におよぶ新入社員教育・現場研修を終え、正社員(それまでは試用者)として配属された職場は、和歌山工場工務部工事課計器係。工事課は100人を超す大所帯で課長の他に副長が居り、この人が計器係と電気係を担当していた。その副長からまず命じられたのが「来年の計量士試験に向け受験準備をするように」であった。そんな国家試験があることすら知らなかったから「いったい何のこと?」と驚いた。先輩に聞くと、取引用計測器の検定を行える国家資格だと言う。この資格者不在の場合は計量検定所や海事検定協会に計器の検査を依頼することになり、時間もカネもかかるので社内に複数人の資格者が必要なのだと。翌春二日間におよぶ筆記試験を大阪で受け合格、7月初め東京の工業試験所で面接試験がありこれも無事パス、“国家計量士”の資格を得た。制御システム技術者志願だったから思わぬ寄り道をしたような気がしていたが、その後計測→制御→情報と担当域を拡大するにつれ、計測こそ経営の原点と認識するようになる。
こんな経緯もあって計測に関する読み物を何冊も読んできているが、概ね科学史・文化史的な色彩の濃い内容だった。本書も大きな流れは歴史にあるが、国家統一・国内統治・国際関係など広義の政治史的な観点から、計測ばかりでなく通貨単位などにも触れ、その役割を再認識する結果になった。
計測の必要性は、商取引は無論、政治や宗教、治水や建築・土木、農牧畜業、地代・徴税などで早くから認められ、その後交通機関運用、軍事作戦、環境問題対応などさまざまな分野に広がり、いまやIoT(Internet of
Things;あらゆるものがインターネット接続される)の必須要素になっている。本書の書き出しも、古代におけるナイル川の水量測定(ナイロメーター)によって農作物の出来高予測を行い、食糧施策を行う話から始まり、現代に至る計測に関するエポックメーキングな出来事やそれと関わる人物を多々取り上げ、計測を身近なものにしてくれる。中でもメートル法の考案とその後の普及拡大は、直近の政治課題にもつながり興味深いものだ。
メートル法の考案・普及はフランス革命の結果である。フランスに限らず、歴史的に為政者の単位と庶民の単位が並存していた時代がいたるところにみられる。ひと言でいえば収奪する側とされる側の違いである。フランス革命の中から誕生したメートル法は権力者の単位を覆す意義が大きく、革命派は熱狂する。長さ1mは北極点からパリを通り赤道に至る子午線を基に定め、その長さを基に1000cm³の容器を満たす水の重さを1kgと定めたのだ。“何となく”科学的な印象を与える単位決定法だ(実は、何故極点と赤道間?歩幅の方がまだ分かり易いのでは?こんな疑問にも答えられないいい加減な単位なのだ)。欧州・地中海域制覇を進めるナポレオンも「征服者はいつか去る。だがこの偉業は永遠である」とその普及を進め、征服地に適用が広がっていく。しかし彼の失脚とともに一旦その勢いを失い、しばし多様な単位が復活する。これが再度覆るのはラプラス(数学者)やラグランジェ(化学者)が始めた度量衡委員会の発足。19世紀末期になると白金製のメートル原器・キログラム原器をフランスが作成、これが国際度量衡会議で原器として認められ、各国にそのレプリカが配布されることになる。だが時代が下ると要求測定精度はこれを上回るものを求め(例えば半導体)、長さは光速に基づくもの、重さ(質量)はプランク定数(光エネルギーと質量の関係)から求める方式に変わり、原器は役割を終える。
このフランス生まれのメートル法に馴染まなかった大国は英米の二国。英国はヤード・ポンド法の母国、米国もこれに倣ってきた歴史がある。しかし、英国は第二次世界大戦後大陸との関係が強まるにつれメートル法併用を法的に認め、EU加盟でさらに適用範囲を広げる。だが、ブレグジットでは再び英単位回帰が争点の一つになっている。事を複雑する背景に12進法や16進法がある。1ヤード=3フィート=36インチ、1ポンド=16オンス。さらに通貨も1971年までは1ポンド=20シリング=240ペンス(それ以降100ペンス)。五本の指をベースとする10進法は一見合理的な計数法と思いがちだが、本書によれば何かを等分する際、12進法は2、3、4、6が可能、16進法も同様に多様な分割が出来、10進法より実用的だったことがあるとしている。なるほどの感だ。逆にフランス革命では、1年10カ月構成の革命暦を定めるが、短命に終わっている。
米国独立戦争ではフランスが独立派を支援する。それもあり、ジェファーソンは独立後メートル法導入を推進する。しかし慣例のヤード・ポンド法に抗しがたく、その後も何度か法制定に前向きな機運も生まれているが、現在に至るまで公的には認められていない(多くの国際企業は社内基準として採用)。著者は反メートル法にいまだ拘泥する国として、米国・リベリア・ミャンマーの三国を挙げているほど、根強い抵抗がある。
ところで米国の州境に直線が多いのは何故だろう?通常、国境や地方の境界は自然環境あるいは部族や言語境界などが一般的なのだが、先住民の存在などお構いなしに、国がグリッド(碁盤目)計測で西部開拓分譲を進めた結果なのだ。これは植民地征服に明け暮れた欧州に依るアフリカや中東の国境策定にも一部通じ、計測悪用例の証といえる。
温度(華氏と摂氏)、エネルギー単位(カロリー、ジュール、BTU(英国熱量単位))、統計に基づく計測値(死亡率など)、IQ(知能指数と誤解されているが、本来特別な支援を必要とする子供を判断する一手法に過ぎない)などにもメートル法同様の複雑な背景があることを興味深く学んだ。残念だったのは長く従事した石油業界なじみの単位、バレル(樽;原油取引・処理)やガロン(ラテン語のバケツに由来;米国における石油製品取引が最もよく知られているが、牛乳など液体取引に広く利用)が一切出てこないことである。これらもきっと面白い話があるに違いないのだが・・・。
因みに、本書では全く取り上げられていないが、我が国古来の計測単位は尺貫法。土木建築や伝統商品(例えば日本酒)、和装品の取引に、坪、間、貫、匁、升、合、尺、寸、反などが慣例上使用されているが法的根拠はない(1958年以降禁止。計量法違反には罰金刑が科せられる)。
訳に不満はないが、原著のタイトルは「Beyond Measure(計測を超えて)」。無味乾燥な邦題に比べ、はるかに含蓄があり内容に相応しい。
著者は生年、専門領域不詳、英国のジャーナリスト。どおりで英国の話が多い。
4)最終飛行
-「星の王子さま」を著したサン・テグジュペリ、偵察機パイロットとして地中海に消ゆ-
「夜間飛行」と題する文芸作品があることを知ったのは中学2年生のときだった。朝登校すると教室の黒板の片隅に「夜間飛行某日某時」と書かれていることがあり、飛行少年に目覚め始めた私にとって「いったい何のことだろう?」と好奇心をそそられる謎の一行だった。秋の学芸会でその疑問が解明する。演劇部の先輩たち(高校生)がそのための稽古をしていたのだ。演じられたそれは、ラジオが載る机を前にした一人の男のところへ何人かの男が出入りし(終盤女が一人)、緊急事態を告げている場面、夜間の飛行に難渋しているらしいことは分かったが、中学生には難解な出し物だった。後年飛行機への関心が嵩じ航空小説を漁るようになると、いずれも堀口大學訳の「夜間飛行」(「南方郵便機」併冊)「戦う操縦士」「人間の土地」を購読、天が茶色に変色した新潮文庫は今も書架にある。作者はサン・テグジュペリ、「星の王子さま」の方が広く知られているようだ。本書はサン・テグジュペリが作家としての名声を確立後、第二次世界大戦で予備役から現役に復帰、1944年7月連合軍大陸反攻の過程で、偵察飛行中行方不明になるまでを描いた一種の伝記小説である。
物語は1940年5月のドイツ西方作戦から始まる。この時サン・テグジュペリは39歳、フランス空軍33-Ⅱ大隊の大尉で偵察を任務としている。第一次世界大戦で航空兵となり戦後フランス民間航空会社パイロットに転じていたが、ナチス興隆の中で現役復帰した結果である。年齢制限によって最前線で飛行することは許されないのだが、「南方郵便機」「夜間飛行」で高い評価(仏学士院賞受賞)を得ている作家であることから、有力な伝手を利用して飛んでいるのだ。フランスは敗走、ついに休戦協定を結ぶことになる。サン・テグジュペリはこの時アルジェリアに逃れ、予備役にまわされる。軍はナチスと和睦したペダン元帥のヴィシー政権の下に置かれるが、これに恭順するヴィシー派、抗戦を続ける国内のレジスタンス(共産党が主導)、ロンドンに亡命したド・ゴール派、北アフリカ植民地軍の中の抵抗勢力(ジロー将軍)など、休戦下のフランス人の対応はさまざまだ。いずれの勢力もサン・テグジュペリの名声を勢力拡大に利用しようと狙っている。彼が心ひそかに自身を位置付けるのはジロー派、ド・ゴールをただのハッタリ屋と見てのことである。ヴィシー派に加わる気は全く無いが、パリに一人残した妻コンスエロを救出し南フランスへ脱出させること、次の策として彼自身も米国(この時点では中立)に亡命(米出版社の招聘に応ずるかたちで)する計画がある。そのためにはヴィシー政府の発行するパスポートが必要となり、いっときヴィシー政府にすり寄っていく。米英政府も彼の考えに近く(ルーズベルト、チャーチルともにド・ゴール嫌い、ジローを担ごうとする)、これが次第に彼の政治的な立場を難しくしていく。この問題に絡むのが三つの主題;第一は、妻(エル・サルバドル系フランス人)コンスエロとの関係、決して愛情が覚めたわけではないが、身近に置くことを避けるのだ。例えば、米国に呼び寄せながらアパートの自室に一緒に住まず、高級ホテルのスウィートを住まいとして用意する。こんな仕打ちに、一度は離婚を決意する妻だが、踏み切れない。第二は、米国における創作活動。米出版社が彼を招いたのは新作を書かせるため。ここで「戦う操縦士」と「星の王子さま」を書き上げて出版。いずれもベストセラーになるが、そこに至る道は決して平坦ではない。そして第三が空軍への復帰である。それも最新鋭戦闘機P-38(偵察にも利用)への搭乗、連合軍の北アフリカ上陸作戦後、総司令官アイゼンハワーまで動かして実現する。1944年7月、既にノルマンジー作戦は成功、北アフリカ、シシリー、南イタリアと攻め上がってきた連合軍は空軍基地をコルシカ島にも設け、鉄床作戦(南仏上陸作戦)準備の偵察行を繰り返している。サン・テグジュペリにとって南仏は勝手知ったる土地、7月31日も僚機と飛び立つが帰途は単独飛行になり、その途上音信が絶える。これが最終飛行、44歳、これまでにもいくつかミスを犯している。操縦ミスか?機の故障か?敵戦闘機による撃墜か?いまだ謎は残されたままだ。
著者は仏文学・文化に造詣の深い直木賞作家(受賞作品は「王妃の離婚」(中世フランスが舞台))。参考文献には一切触れていないが、広範に米仏文献調査をしていることがうかがえる内容だ。しかし、それがかえって話をくどくする。私としては小説を楽しむと言うよりは、(本旨でないことは承知したうえで)飛行士としてのサン・テグジュペリに関する知識を広げたいと期待したので、外れだった。「夜間飛行」はじめとするサン・テグジュペリの作品も主題は“人間”であり、それが高い評価の主因だが、飛行に関するストーリー、描写も比較にならぬほど優れている。作家が他の作家の得意分野(この場合は飛行)をテーマに創作することの難しさを、奇しくも知ることになった。
5)教養としてのイギリス貴族入門
-英階級社会の最上位、世襲貴族は大地主。だが高貴なる者の義務は重く、それを維持することは容易ではない-
英国事情に通じた知人から「英国は階級社会。入り込むには入口が大切」と常々教えられてきた。現役時代、仕事を通じて多くの英国人と付き合いがあった。ほとんどは石油人だ。米ビジネススクールの英国人クラスメイトとは今も手紙・Eメールをやり取りする仲だ。ビジネスマンを辞め念願の英国に渡り、地方大学教授の下でOR史を学び、私生活の一端も垣間見た。しかし、残念ながら私の友人・知人は、良くて中流の中、大部分は中流の下といったところと推察する(決して経済力が低いわけではないが)。
滞英中訪れたチャーチルの生家ブレナム宮殿を始め、何ヵ所かの貴族の屋敷を見学するする機会があったが、庭園・領地をふくむその広さ・豪華さは、当に一国一城の主に相応しいものだった。しかしである、それらすべては今では財団(トラスト)の管理下にあり、貴族生活を維持し続けるのは容易でないことがうかがえる。英国貴族についてもう少し知りたい。これが購読の動機である。
英国の正式国名はUnited
Kingdom of Great Britain and Northern Ireland、イングランド・スコットランド・ウェールズ・北アイルランド連合王国、略はUKである。この国名が表すように、11世紀のノルマン征服来、大陸の複数の国々を含めこの国の統治形態は複雑を極めてきた。そんな歴史的変遷の中で際立つのは、他の国と比べ王権と地方有力者の力関係が分権的であることだ。代表的なものに、王が有力者の要求に屈して交わしたマグナ・カルタがある。このような統治環境の下徐々に出来上がっていったのが現在の貴族制度、そこに王との近さや支配領域の広さ、功績などから特別な尊称が生まれる。公・侯・伯・子・男、五つの爵位がそれである。世襲貴族創設は王権であるが、首相の助言(実質的に認可)を必要とする(一代貴族授爵は首相が候補者を提案、国王がそれを認める形式)。
2023年現存する世襲貴族は;公爵24、侯爵34、伯爵189、子爵110、男爵449、計806人となっている。直近の授爵はハロルド・マクミラン元首相(在任期間;1957年~1963年)に1984年伯爵が授けられたのが最後となっている。現時点で最も資産を有するのはウエストミンスター公爵当主ヒュー・グロブナー氏(1991年~)、資産額は99億ポンド(日本円で約1兆8千億円)、これは英長者番付で11番に位置する。北西イングランドに在る屋敷の敷地面積は1万1千エーカー(約43平方キロ)、江東区よりやや広い。ただし、資産の主要部分はメイフェア―(ロンドン市内の高級住宅街・商業地区)の土地である。所有する土地の広さが、かつては授爵の要件、1万エーカー(40平方キロ)が貴族とジェントリー(平民の最上階級)の境界であった。本書には千葉県よりやや広い地主貴族(サザーランド公爵家)も紹介されるが、19世紀後期で400人の貴族を含めて1700人弱で国土の41%を保有、そのトップの座にあったのがこの公爵家である。広大な土地保有のカギは“長男相続制”、他の欧州諸国が分割相続であることと顕著な違いである。ここから、次男以下は聖職者・軍人・法廷弁護士・高級官僚・大学教員・医師などに職を求めることになり、「専門職階級」が生まれ、これらがアッパー・ミドル(上層中産階級)を構成することなる。
貴族の格式を維持するのは容易ではない。農業不況、産業革命等大きな時代変革に資産活用を図れなかったものは没落していく(チャーチルの実家マールバラ公爵家もその一例。母親が米国大富豪の娘であったことで何とか体面を保っていた)。そして“ノブレス・オブリージュ(高貴な者の義務)”、慈善事業や芸術文化のパトロンと何かと出費がかさむ。さらに戦争となれば率先して最前線に身を投じなければならない。第一次世界大戦全期を通じて戦死者は8人に1人だが、世襲貴族に限れば5人に1人、相続人を欠き国土の半分の土地所有者が変わってしまうほどだった。
政治環境の変化も貴族に厳しくなっていく。労働党の誕生とその党勢躍進が大きく影響する。100万ポンド以上の土地所有者の相続税は、1919年~1930年の40%から1948年には75%までに達し、この重税が「ゆりかごから墓場まで」政策の主要財源となるのだ。そして授爵はいまや政治の道具に化してきている。誕生時は世襲貴族全員(最大時は約1千人)で貴族院が構成され、庶民院(中小地主、成功した都市商工業者まら成る)に対して強い牽制力を有していたものが、年々権限を縮小され、現在世襲貴族枠は約60人まで減じている。その一方で一代男爵授爵の権限が首相にあることから、近年世襲外の貴族院議員指名や閣僚任用にこれを利用することが保守・労働両党で行われる。サッチャー首相(保守)が201名の大量叙任を行ったことを革きりに、ブレア(労働)は357名、キャメロン(保守)は243名を一代男爵に任じて議会対策を行っている。直近のスナク首相(保守)がキャメロン元首相を外相に登用する際男爵位を与えたのも同趣旨だ。
著者は1967年生れ、関東学院大学国際文化学部教授。専攻はイギリス外交史・ヨーロッパ国際政治史。エリザベス女王崩御・チャールズ国王戴冠に際ししばしばTVや新聞で見かけた人。平易で知られざる話題に満ちた本書は、貴族のみならず現代英国社会理解の一助ともなる内容だ。
6)本の身の上話
-古書ビジネスの知られざる裏面。この道一筋の著者がその全貌をエッセイで公開-
小学生の頃、本は汚すものではないと教えられて以来、線引きや書き込みは無論、折り返しをすることすらしなかった。そんな習慣は20歳代後半まで続いたものの、その頃になるとビジネス関連書が増え、あとで参照するときに分かりやすく、と線引きや書き込みをするようになる。そして今やほとんどの本は、赤線がいたるところに引かれ、メモ付き付箋があふれ、欄外は書き込みだらけになっている。終活の中で書籍処分は大きな課題だが、このように汚れた本は希書であっても古本屋が引き取らず、紙くずとして処分するほかはないようだ。数年前“知の巨人”と称せられていた立花隆が亡くなり、その書庫を整理する様子がTVで放映された。そこでは著名人の蔵書は書き込みなどで汚れているものほど価値があると語られ、凡人との差を痛感させられた。本書はこの種の“汚れ本”ばかりではなく、古書の来歴・作者あるいは業界事情を交えた、56話から成る古書エッセイである。著者は古本屋の店員からスタート、古書店経営者さらに作家(1993年「佃島ふたり書房」で直木賞受賞)へと転じた人。現在この人ほど、古書を興味深く語れる物書きはいないだろう。
本書で取り上げられる古書刊行の時代は江戸から昭和まで。明治・大正・昭和戦前期が多い。従って、私にはなじみの無いものが大部分だ。選ばれた書物の分野は、一般刊行物(小説、ノンフィクション)から故人の追悼集、雑誌の付録、新聞の切り抜き、書画骨董品目録まで多岐にわたる。また当てる焦点も、作品・作者・歴史・社会(世相)・古書ビジネスの内実・著者の関心事など一様ではない。これを一話4頁+挿絵(関連する人物;南伸坊画)でまとめている。このような形式を採っているのは、それぞれの話が2019年10月12日から2020年10月31日まで毎土曜日の日経新聞に連載されたことによる。従って、全容を手短に紹介することは難しいので幾つかの話題を取り上げそれに代える。
「書き込みにそそられて」;ここで登場する人物は夏目漱石と乃木希典。『「書込み本」は、普通いたずら書きと見て傷本扱いである。しかし、文豪の書込み本とあらば、話は別である。夏目漱石は蔵書をノート代わりに使った。』とあり、『ハムレット原書に、スレカラシ大将ナリ、イヤナ奴ナリ』などと書き込んでいることを例示、『漱石の書込み本が市場に出たなら、本の種類に関係なく目の玉が飛び出るような古書価だろう』とつづき、『ただし、旧蔵者が漱石と証明されての話である。これはむつかしい。』と結ぶ。乃木希典も蔵書書込みでは有名、著者と格闘しているような「つぶやき」を随所に残している。
「愛すべき漫画の思い出」;昭和46年夏、福井英一「豆らいでん」なる漫画本を伊豆の氷屋で見つける。昭和29年発刊で当時の値段は130円、これにかなりの額を加えて譲ってもらう。通信販売で2千円の売価を付したところ引合いがあった。送金を確認して郵送。ところが数日後「1頁抜けている。大幅に値引きしてくれるなら・・・」との連絡がくる。紆余曲折の末モノを引取り返金するが、後日これが業界のくわせ者の仕業と判明する。欠落を理由に値引きをさせ、あとで復元し高額転売する手口なのだ。以後著者は貴重な古書には伝票に「落丁乱丁調査済み」を付して送付することになる。
「新聞切抜きも「古書」」;古い新聞スクラップは人気が高く、物によっては引っ張り凧。昭和十年代の書籍広告のみの切り抜きが、一冊にまとめられて古書展に出ていたが、一足違いでさらわれた、とある。また美智子上皇后が妃殿下時代、佐藤春夫の連載コラム「美の世界」を毎回切り抜かれ、保存されていたことが後年著者に伝わり、恐縮した佐藤が『美の世界』特製本を献上、「許されるならお手許の切抜きをお下げ渡しいただけまいか」とお願いしたところ、妃殿下が快諾され、それを小泉信三に託すことになる。
この「新聞切抜き」にはもう一話;新聞小説の完全な切抜き(第1回~最終回)も高く取引される。単行本との違いは挿絵の有無にある。
「世にも珍奇な贋物目録」;戦前の書画骨董品売立て目録は人気がある。戦災で焼失した美術品が見られるからだ。そんな中に、当時の権威ある鑑定家が高い評価を与えた美術品を記載した目録があり、古書展に出品されて高額落札するのだが、後日そのすべてが贋作であったと判明、目録そのものの価値も一気に下落してしまう。
古書の世界を知り尽くした、著者の軽妙な筆致に陶酔感さえおぼえた。
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