<今月読んだ本>
1)Numbers Don’t
Lie(Vaclav Smil);Penguin Books
2)鉄道の科学(川辺謙一);講談社(ブルーバックス)
3)迷走するボーイング(ピーター・ロビンソン);並木書房
4)強い通貨・弱い通貨(宮崎成人);早川書房(新書)
5)このドキュメンタリーはフィクションです(稲田豊史);光文社
6)戦時下の政治家は国民に何を語ったか(保阪正康);NHK出版(新書)
<愚評昧説>
1) Numbers Don’t Lie
-“数”に基づく社会科学研究に特化。ここから確かに現実世界が見えてくる-
小学校6年生(1950年)のとき、創刊されたばかりの「少年朝日年鑑」なる年鑑を買ってもらった。大冊・大判で社会科や理科に関連する統計や解説が主体の内容だった。参考書として役立つばかりで無く、特別な目的なしに開いたページを読むと、思いがけない知識が得られ、読み物としても楽しめた。社会科や理科が好きになったのはこの年鑑のおかげだ。高校へ進むと「日本国勢図会」の存在を知り、爾来時々購入しては国の現状を数字で眺め楽しんできた。本書もそれに類する書物で、絞り込まれた71のトピックスを数字で解説するものである。1月に書店で見つけ購入したが読み始めたのは4月初旬から、一気に読み通す本でもないので11月までかかってしまった。因みに、訳本は2021年3月「世界のリアルは「数字」でつかめ」なる邦題でNHK出版から出ている。
著者は本欄9月に「SIZE」を取り上げた際紹介しているが、再度ここに転記する;1943年チェコスロバキア生れ、1969年のソ連軍進駐で米国に亡命、ペンシルベニア州立大学で地理学博士号取得、現在カナダ・マニトバ大学特別栄誉教授、カナダ王立協会フェロー。専門は、エネルギー、環境変化、人口変動、食糧生産、技術革新、公共政策と広範。
71のトピックスは七つの章立てに分けられる。1.People、2.Countiries、3.Machines,Designs,Devices、4.Fuel and Electricity、5.Transport、6.Food、7.Environment、がそれらだ。個別トピックスは概ね現代に関するものだが、「ピラミッド建設に要した労働力は?」のように、時に思いがけない話題も散見される(この後に「失業率の数字は一様ではない」が続くことから、無縁ではないが)。また、各章・個別トピックスの導入部では歴史的背景説明が説かれる(Transportの章の導入部は「狭まる大西洋;帆船からジェット機まで」)。いずれのトピックスも統計や経年変化、予測値などの数字が中心となるが、これを著者がどう料理するかが読みどころとなる。通奏低音のように響いてくるのは、流布されている通説に対する疑義・警告、特に広義の環境問題(食品ロス、食肉生産、輸送手段エネルギー効率、住宅空調など)におけるそれらだ。いくつかのトピックスで内容紹介に代えたい。
本書には日本・日本人がわりと取り上げられている。「高くなる身長」の項でオランダ人が最も高く、欧米では背の高いほどCEOになりやすいという俗説(身長遺伝説)を述べたのち、東アジア人中でも日本人の伸びが著しい例を1900年から2020年までの18歳男子平均身長の変化で示す。1900年の160.0cmは1940年までは163.2cmと漸増だが1960年には166.3cm、1980年は170.2cmと急速に伸び、2020年には172.6cmに達し(こんなに高いとは本書を読むまで知らなかった!)、身長が栄養状態と密に関係することを示し遺伝俗説を否定する。著者は日本人の伸びを牛乳摂取量と関係付け、中でも終戦後の学校給食の効果に着目する。もう一つはFoodの章で寿命と食生活の関係から日本人の長寿の因を探る。結論は肉食増加では無く、一日の取得カロリーの差にありとする。米人は過剰カロリーで肥満体率が著しく高いのだ(最近は日本人も肥満体が目立つが・・・)。
Environmentの章にある驚くべき視点を二つ。「牛と人間」では、牛のゲップがCO₂発生源として問題になっていることを導入部で語ったのち、牛の頭数(15億頭)×重量(平均400kg)=600mt(百万トン)、世界人口(77億人)×50kg=3.9mt、をはじき出し、今や地球は「牛の惑星」になっていると警告する(またFoodの章でも牛の飼育効率の悪さを数字で示している)。もう一つは携帯用機器組込みICと自動車の年間エネルギー消費量比較。自動車0.7(exajoule;10の18乗ジュール)に対しICも0.4と決して低くない。AIの実用化とそれによるクラウド用コンピュータ増加などを考えるとき、ICの省エネ対策にも目を向けるべきと説き。その電力確保も種々問題含みであることを縷々述べる。
データは2020年まで、いささか古いが大勢に影響はないだろう。興味を持たれた方は邦訳をお薦めする。
2) 鉄道の科学
-鉄道ファン再学習最適の書-
子供は誰も乗り物好きだ(と思っている)。私もご多分に漏れず、自動車・鉄道・飛行機・船、いずれも大好き、今でも乗り物愛は子供のままだ。ただ終戦直後見かける自動車は格好悪い木炭エンジン車ばかり、飛行機は禁じられ、船は港へ出かけなければ目にすることはできない。結果として身近な乗り物は鉄道に限られる。小学生時代目指したのは鉄道技術者だった。小学校6年生の時Oゲージ(軌間32mm)の鉄道模型セットを持っている級友が居り、自分もそれを作ってみようと思い立った。近郊電車の1両、屋根と床は板材、前後・側面はボール紙で作り、モーター・パンタグラフ・台車・連結器は市販のものを購入した。外装は当時人気の湘南電車風にオレンジとグリーのツートンカラー。友人宅の線路とトランスでこの模型電車が動いたときの感動は忘れられない。電車が動く原理はこれで理解できたと思っていた。たまたまフェースブックで本書広告を目にし、読んでみた。なんと鉄道に無知だったことか!これが読後感である。
ブルーバックスが科学技術を平易に解説する新書であることは承知していたが、最近は全く手にしていない。久しぶりに読み、改めてその取っつき易さを再確認、新知識を習得できた。とかく乗り物は本体(車体・機体・船体)中心になりがち、本書でもそこに多くの紙数を割いているが、それにとどまらず、運用・保守・設備(信号・橋梁・トンネル・給変電など)にも触れて、全体システムとして理解できる構成になっている。また、新幹線のような最新鉄道ばかりで無く、路面電車や山岳鉄道の技術にも言及する。記述内容は挿絵・図・写真を多用、説明も初心者向け、小学生でも十分読みこなせる。一方でオールドファンを覚醒させてくれる話題も事欠かない。二、三その例を。
車体関係で学ぶことが多かったのは台車周り。高速でのカーブ通過、防振・防音、動力伝達に関する技術だ。鉄道ファンを自称しながら恥ずかしい話だが、車輪がレールの接する部分(タイヤに相当)が外へ向かい径が小さくなる(傾斜している)理由を知らなかった。カーブをまわる際外側は距離が長くなるので、早く進む必要がある。自動車では差動歯車でそれを調整するが、鉄道の車輪は左右直結でそれはできない。これを遠心力を利用して調整するためにタイヤ部分が傾斜しているのだ。傾斜のあることで線路と接する車輪の円周が内外変わって、左右のバランスがとれるのだ。車体の章では、このほか車輪駆動システム、パンタグラフ、連結器、ブレーキ、防振装置、列車制御装置なども詳述される。
線路の章も多々新知識を得た。線路は下から上へ路盤・バラスト道床・枕木・レールで構成される。地盤、走行する車両、列車編成、スピードなどによって、その構造・構築方法や使用資材、保守作業内容が変わってくる。新幹線が開業する遙か以前1955年、フランス国鉄がスピード記録に挑戦する。線路は在来線、その速度は331km/時で当時の世界記録となる。この実験後の線路の状態が写真に収められ本書に掲載されているが、レールが大きく曲がっており、その後を次の列車が走れば脱線必定。数分おきに300km/時で運行する我が国新幹線が、いかに高度な線路敷設・保守技術に支えられているか、改めて知ることになった。
運用の章では、よく知られるダイヤ編成から発し、安全システム(各種信号、標識)、駅改札システム(最新は顔認証)や自動運転まで、最新情報が網羅されている。
模型に発した浅薄な鉄道ファンとして、多様な楽しみ方に目覚めさせてくれた一冊だった。
著者経歴が変わっている。1970年生まれ、東北大学大学院の修士課程を修了した技術者、大手化学企業で半導体開発に従事した後、2004年著述業に転じたとある。既刊書はすべて自動車、鉄道関係である。
3) 迷走するボーイング
-新自由主義経営がもたらす凋落への道。多くの日本企業はここから学べ!-
1956年9月の講和条約調印少し前から、戦後禁じられていた航空関連の活動が始まり、航空雑誌を目にした鉄道技術者志願の中学生は飛行機少年に転じた。羽田や米軍基地で実物を目にする機会は多かったし、大学生になると“東京ソリッドモデルクラブ”に入会、1/50の木製機作成に励んだ。しかし、実機に搭乗する機会はなかなかやってこず、それが叶ったのは1968年(昭和43年)の秋だった。和歌山工場から東京出張の際規定旅費(新幹線利用)に自費を追加、伊丹から羽田へ飛んだ。搭乗機はボーイング727(B-727)。2回目の飛行は1970年6月、初の海外出張でパンナムのニューヨーク便、使用機はB-707。帰途は就航間もないジャンボ機B-747。爾来国内外で多くのボーイング旅客機に乗り、上記の他720(707の短距離バージョン;海外のみ)、737、757、767、777、787と7シリーズすべてで飛んでいる。JALがダグラス機を使用していたことや欧州ではエアバスが多く就航していたこともあり、他社の飛行機にも乗っているが、時間・距離ともボーイング圧勝の搭乗歴である。そのボーイングが最近おかしい。新鋭機787のバッテリー事故、2度にわたる737-MAXの墜落、新スペースシャトル打ち上げの延期、そして直近のストライキ。タイムリーに出版された本書でその因を探ることにした。
米国航空機製造会社はロッキード、マーチン、ダグラス、グラマン、マクドネル、ノースロップなどすべて航空技術者によって創設されたのに対し、ボーイングはシアトルの豊かな材木商ビル・ボーイングの趣味から発したところに違いがある。後発であった同社の発展のきっかっけは第二次世界大戦におけるB-17爆撃機生産、最盛期には日産12機に達したとある。そしてその後継が日本にとっての疫病神B-29となる。ジェット旅客機への進出も爆撃機が契機。米空軍最初の大型ジェット爆撃機B-47(エンジン8基)は、押収した独空軍技術資料から学び後退翼を採用、これが707に生かされ、世界初のジェット旅客機コメット(平行翼)やダグラス他に差をつけ、後に続く7シリーズ(成功したB-17、B-47の7を生かす)開発につながっていく。一時は大型旅客機市場で圧倒的なシェアーを誇った同社だが、2020年の納入実績(原著出版は2021年)はエアバス社566機に対しボーイング157機、この凋落はどこにあるのか?これを追及していくのが本書の骨子である。
縦糸は1967年に型式証明を取得し、改良を重ねて未だ生産を継続する、驚異的長寿命の737型最新バージョンMAXと最新機787の2機種。いずれも事故に焦点を当てて衰退の具体例としての役割を果たす。横糸は経営環境。歴代経営者(CEOのみならず、候補者や技術責任者を含む)を実名で多々登場させ、彼らの言動から企業文化の変化が、開発・生産・販売の現場におよぼす影響を深掘りしていく。この過程では社内事情ばかりでなく、航空行政や経営思想の変化にも目を向ける。主題は事故機の技術的問題より、経営環境変化に置かれ、根底にある新自由主義(株主利益最重視)批判が論旨となっている。
レーガン政権下で顕著になる規制緩和は新自由主義に基づくもの、連邦航空局(FAA)業務の民間委託のような行政に直結することばかりでなく、株主重視の経営方式が技術屋集団の航空機メーカーにも波及していく。GEのCEOジャック・ウエルチの信徒たちが役員に入り込んでくるのだ。その極めつけが、1997年経営に行き詰まったマクダネル・ダグラス(MD;軍用機中心で冷戦終了の影響大)をボーイングが吸収合併した際経営陣に加わるMDのCEOストーン・サイファー、GE出身でウェルチの崇拝者。この時代からボーイングは営利追求型に大きく舵を切り、その後のCEOもこれを継承する。大胆なアウトソーシング、コストと納期重視の開発(安全は二の次)、悪名高いランク&ヤンク(ウェルチ経営手法;毎年成績下位10%を解雇;経験を積んだ高給技術者狙い撃ち)、ベテラン工員の多いシアトル(組合活動が活発)から賃金の安いノースカロライナへの新開発機工場移転。加えてMDの経営は安定度の高い軍用機重視、リスクの高い民間機ビジネスへの投資を絞り込む。
787バッテリー事故は、バッテリー・メーカーに丸投げしたことに発する(バッテリー本体はGSユアサだが、電力供給システムとしては仏タレス社がまとめる)。防火ボックスを重量増加・コストアップで削ったことが原因だった。
737MAX墜落事故の背景は複雑だ。計画段階から安全性を種々の角度からチェックする部門が、納期短縮とコスト削減で年々縮小されていることに根本原因がある。先にも述べたように737は長寿、この過程で10種を超える派生型を開発・就航させている。そのコックピット操縦システムを大幅更新することなく小改造を積み重ねることで、古い型式証明や操縦資格の適用延長をしてきていたのだ。その結果、他機では当然装備されている電子チェックリストが採用されず、依然分厚いマニュアルで異常時対応をせざるを得なくなっていた。事故のきっかっけは些細なセンサー保守ミスにあったが、その情報を処理する機動特性強化システム(一種の自動操縦システム)がセンサーの誤信号で作動、操縦不能となってしまったのだ。電子チェクリストが備わっていれば素早い対応で避けられたに違いないのだ。
著者の結論は「集団浅慮がはびこった結果」。これは利益を専ら自社株購入に充てる最近の我が国製造業にも当てはまる警告ではなかろうか。
著者は生年不詳。スタンフォード大学歴史学修士、ブルームバーグ記者。
4) 強い通貨・弱い通貨
-ニクソンショックで基軸通貨の座を降りたドル、依然覇権通貨ではあるが、その近未来は?-
原油の価格はバレル(容積)とドルで表わされている。これは就職したとき(1962年)から現在まで変わらない。馴染んだこの相場感覚はエネルギー環境変化をマクロに把握するには好都合だ。この業界常識の数値理解が一気に改まったのは1971年のニクソンショック。それまで360円/ドルが308円となり、さらに1973年には変動相場制となって円高が進んだときだ。このとき初めて為替レートと自社経営が直結した。それだけではない。この間は大規模工場建設の最中、取引先の中には製品・サービスを輸出する企業もあった。そこから聞こえる声は海外ビジネスの苦境だった。これで自社の経営のみならず、国家財政や貿易収支にも目が行くようになり、円安が(石油会社はともかく)我が国にとっては望ましいものと思い込むようになる。これに疑義を感じ始めたのは現役退職後、財政赤字が続く中、大量に国債を発行し、金利が低下しても円高傾向が一向に収まらないことだった。これはいまだに私には謎である。この財政金融政策が円安に結びついたのはアベノミックス下黒田日銀総裁による異次元緩和策採用以降、就任時のレート80円台が現在は160円台に迫っている。ドルに対して円の価値は半減してしまったのだ。輸出産業はこれで潤うかもしれないが、いまや食料・エネルギーの輸入大国、このまま行けば外貨が枯渇、IMFの管理下に置かれるのではなかろうか?こんな不安で本書を手にした。
著者は1962年生まれ、1984年大蔵省(現財務省)入省、主計官などを経て副財務官で退職した通貨の専門家。東京大学大学院客員教授・都市銀行顧問。
読後感を先に述べれば、通貨問題を初歩から学ぶという点において、極めて優れた構成・内容・筆致、関心のある方々に是非一読をお薦めする。先ず通貨というものの基本概念を学べる。次に異なる通貨間取引の問題点・歴史的変遷を学べる。そして現代最も重要な意味を持つ国際経済と通貨の関係、つまり強い通貨・弱い通貨について学べる。しかし、円安不安は解消されなかった。著者の問題意識は“誰がドルを殺すか?”(取って変わるか?それはあるのか?)である。
物々交換から始まった商取引。その不便を解消するため生み出されたのが通貨。しかし、通貨そのものにたいした価値はない。第一次大戦後のドイツの超インフレ下では紙としての本来の価値と等価になってしまったのがその好例である。対して多少の変動はあっても、金・銀などは普遍的な価値を持ち、金本位制はその代替として信用されてきた。ゆえに大英帝国の通貨ポンドは長らく国際通貨として君臨した。しかし、帝国の衰退でそれを維持できなくなり、1944年連合国が戦後の復興策を検討したブレトンウッズにおいてドルを基軸通貨とする固定為替制度が決する。このとき米国は世界の金7割を保有していたのだ。戦後1ドルが360円と決まるのもこの体制の下である。しかし、冷戦やヴェトナム戦争で米国の金も流出、兌換不可となって停止され(ニクソンショック;1971年)、それに続くスミソニアン合意(1973年)で変動相場制に移る。その後さらに低下するドルの価値を支えるためプラザ合意で円高(ドル安)を容認する(1985年)。
しかしながら、唯一の国際決済通貨でなくなってもドルは依然としてトップの座にあり、ユーロ、ポンド、円がそれに続く。ドルは基軸通貨ではなくなったものの“覇権通貨”ではあるのだ。そこへ躍進する中国経済を反映して人民元が登場、シェアー拡大・支配力強化をうかがっている。これが国際通貨の現状だ。
黒田異次元緩和は円の価値をドルに対し大幅下落させた。本来中央銀行は通貨政策を担う機関ではないのだが、結果として公定歩合によってレートが動くことから、昨今日銀の言動が注目される。通貨の強弱はどう決まるのだろうか?広義の経済力(GDPとその成長力、国家財政、金融政策、国際収支など)が中心を占めるのは間違いないのだが、その国に対する無形の信用力が大きな役割を果たすと著者は見ている。その視点から、加盟各国が個別財政金融政策を採りながら域内統一通貨ユーロを使うことの齟齬、政策決定過程・情報公開に難がある中国の人民元、いずれも信頼度においてドルに劣り、それに取って代わる可能性はなしとしている(円・ユーロ同様の補完通貨)。では「誰がドルを殺すのか?」、著者はもしそれがあるとすれば米国自身として、「「誰もいなくなった」世界を恐れる」と結ぶ。確かに次期トランプ政権にはそんな危険性をはらんでいるような気がしてくる。
多くの図表や数値を用い、説明も平易、おまけにミステリーファンとしての遊び心も窺える。ドル覇権確立までの章は「鷲(米国の意)は舞い降りた」、ポンド凋落では「死にゆく者への祈り」、人民元の興隆では「レッド・ドラゴン」、ユーロの出現は「大いなる幻影」、地盤沈下する円は「Yの悲劇」、国際通貨の今後を語る「そして誰もいなくなった」、いずれも著名なミステリーあるいはサスペンス小説からの借用である。
5) このドキュメンタリーはフィクションです
-あらゆるメディア作品・報道はフィクションです。意外と歯応えのあるメディア論-
私の読書傾向は極端にノンフィクションに偏っている。本を読む動機の主因が(興味のある分野に限るが)“好奇心を満たす”ことにあるからだ。情感よりも事実、これが満足度評価基準である。TV番組も同様、ニュース・天気予報を除けば、限られたNHKのドキュメンタリー番組を視るくらいである。現在よく視ているのは、「呑み鉄本線日本旅」「にっぽん百低山」、それにシリーズ3回目となる「映像の世紀」、ちょっと変わったところでは中小・中堅工場をお笑いトリオが訪問紹介する「探検ファクトリー」くらいである。ここにかつて人気が高く、私も楽しんだ「プロジェクトX」が20数年ぶりに装いを新たに復活してきた。初回から数回視たが、期待外れでその後ほとんど視ていない。“作られたノンフィクション感”“感動させよう感”が鼻につくのだ(前シリーズは事実と異なることを盛り込み中止となった)。これに比べれば「探検ファクトリー」の方が素直に受け入れられる。そんなとき、この嫌悪感をズバリ指摘するような本書のタイトルを目にし、早速読んでみることにした。
ジャーナリスティックな題名から、二、三の映像作品を俎上に上げ、面白おかしく揶揄する軽い読み物を予想していた。届いた本書をひもとき、プロローグに目を通し「これは!?」となった。「広辞苑 第七版」の“ドキュメンタリー”を引き、「虚構を用いずに、実際の記録に基づいて作ったもの。記録文学・記録映画の類。実録」と紹介。それゆえ多くの人にとって、ドキュメンタリーは「脚本や仕込みのない、事実のみを記録した映像」であり、「客観性や中立性が守られる」作品をイメージさせる、と意訳する。その上で、前者については「強い作為性こそが、作られたドキュメンタリーの本体である」と-正反対の見解を開陳、後者について「客観性・中立性でないからこそドキュメンタリーは面白い」との反意を述べて常識を覆す。つまりドキュメンタリーというのは作品になった段階で事実ではなくフィクションになってしまうのだと。「これは歯応えがありそうだ」が読前感。全くその通りの読後感。本格的なドキュメンタリー論であった。
著者は1974年生まれ。映画配給会社に入社。その後、出版社でDVD業界誌の編集長を務めたのち独立。現在は作家・コラムニスト・編集者。
本書の構成は、ドキュメンタリーの面白さを浮き彫りにする論点を抽出、その代表作を例に、見方を論じる形になっている。論点は、被写体(人間以外を含む)への関与、被写体と制作者の関係(父の死を追う娘の作品)、外国人目線(まるで007のスパイ映画もどきの、紀伊大地のイルカ追い込み漁をほぼ盗撮で撮った「コーブ」)、ストーリー展開(歴史改竄例として「映像の世紀」)、脚注(解説の扱いや、エンディングの一言)による作意、お笑い番組やプロレス中継の内実、などがそれらだ。
被写体の題材選択だけでもそこに制作者の意図があり、カメラワーク、映像のつなぎ方、やらせや誘導質問、用意されたシナリオ、さらには虚偽まで、ドキュメンタリーが虚実ない交ぜであることを具体的に示し、それが制作側だけでなく、ときに取材対象者の自己宣伝(ブランディング)まで加わり、真実とは真逆の方向に進んでいくことさえ起こる。そして、このことは程度の差こそあれ、視聴者も承知の上で楽しんでいると断じる。その典型例がプロレスだ。演じる側は極めて周到なシナリオを用意、誰も真剣勝負と思っていないが、迫真的演技にファンはすっかり虜になってしまう。
結論は;「あらゆるドキュメンタリーはフェイクドキュメンタリーである。それを前提にドキュメンタリーを楽しんでほしい」と言うことのようだ。そこで「新・プロジェクトX」が私にとって何故面白くないのかを再考してみた。わかったことは「製造業の出番が少ない」(期待する題材でない)ことだった。工学分野は作意の入る余地が少ない。これをストーリー化するところが不自然になる。それに反し、関西のお笑いトリオが進行役務める「探検ファクトリー」は意識的にエンタメ化しているにも拘わらず圧倒的に現場寄り、これが「新・プロジェクトX」との違いだった。
タイトルには軽薄さをおぼえたが、本書の内容はしっかりしたメディア論。“ドキュメンタリー”を“新聞報道”と置き換えても通用しそうだ。
6) 戦時下の政治家は国民に何を語ったか
-軍事主役、政治脇役の昭和史に一石を投ずる書。24人の政治家演説を棚卸し裏読みする-
歴史好きながら、明治維新以前の日本史には何故か興味を持てず、恥ずかしながらその知識はせいぜい中学生程度、関連図書も数冊しか書架にない。それに比べると昭和史は満洲物を含め数十冊になる。生きた時代であるとともに、生まれ育った満洲が今日の日本の運命を決したとの歴史認識だからだ。その昭和史に関する作家で評価するのは、小説では吉村昭、歴史家では本書の著者保阪正康である。両者とも特定人物に過度にのめり込まず、静かで客観的な筆致が好ましい。その保阪が戦時の政治家の発言を材料に昭和史に切り込む新たな切り口に惹かれ、本書を読むことになった。
新たな切り口というのは、取り上げられる政治家の肉声録音を文字に起こし、そこから各人の発言の背景や狙い、あるいはその後の影響力を探る手法にある。これが文献資料だけで語られる歴史とは異なる、不思議な読書環境に引き込んでいくのだ。
取り上げられる政治家は24名(首相経験者14名)。退役を含め軍人が9名と最多だが、髙橋是清や松岡洋右のような有力閣僚、社会民主主義運動家の安部磯雄・大山郁夫、憲政の神様尾崎行雄、反軍演説を国会で行った斎藤隆夫など、バランスに配慮している。“戦時”に関しても熟慮の跡がうかがえる。終戦時の首相鈴木貫太郎を最後にしたのは当然だが、トップに田中義一を持ってきたことは、著者の昭和史観への視座を知るという点で意味がある。田中は普通選挙法(成人男子の大部分が有権者になる)下初の総選挙(1927年4月)で選ばれた首相であるばかりでなく、この年5月に起こった山東事件(天津付近に居留した日本人殺害)で対中武断外交策を採り、これが満州事変・支那事変へとつながる動機となったからだ。
政治家それぞれの演説評価は、以下のような流れで語られる。先ず政治家としての略歴を手短に紹介、次いで演説内容をそのまま示す。このあと当時の社会情勢の下でその内容を著者の歴史家としての眼で分析・考察する。無論読みどころはここにある。この考察は民間人(非軍人)に対しては政策(軍縮、金解禁など)や信条(憲政擁護、社会民主主義など)を掘り下げているのに対し、軍人に対しては政治家あるいは首相としての適性、力量に重点を置く。
対象者24名の過半を超える首相就任者の在任期間を見るとき、1936年に起こった2.26事件前後で顕著な違いが見て取れる。それ以前では5.15事件で暗殺された犬養毅を除けば、短くとも1年を超えているのに対し、それ以降では近衛と東條を除き極めて短命なことである。最短は阿部信行の4ヶ月、林銑十郎5ヶ月、米内光政6ヶ月など、就任の決意を述べてはいるものの、ほとんど国政に意味をなさない。著者は彼らの発言を深耕し「2.26以降の首相は総じてその任を果たすのにふさわしい人物とは言えなかった」と総括し、最長在任であった東條についても「典型的な大日本帝国の軍人で、特に思想はなく、むろん優れた歴史観もなく、戦争という軍事の一断面のみに知識が偏在している」と厳しい評をくだす。この評価は私が学んできた知見とほぼ一致する。それに対し第一次近衛内閣発足に当たっての近衛演説に対する考察には違和感を覚えた。演説は対支強行策を述べているのだが、「歴史上では、近衛の性格の弱さといった見方がされるが、事実は軍部のゴリ押しによる政治への抑圧であった」と近衛をかばうトーンになっている。天皇の信認と国民の期待が大きかった背景を考えると甘い気がする。
本書で最も感銘を受けた演説は、首相でも閣僚でも軍人でもない、一代議士の斎藤隆夫が昭和15年(1940年)2月議会で行った「反軍演説(支那事変撤退収拾案)」である。軍部はこれに激怒、議会に除名を迫り、議会も7名の反対者があったものの、圧倒的多数で除名を決議する。しかし、昭和17年の翼賛選挙で非推薦となりながら当選(出身は但馬出石(兵庫県)とあるからそこが選挙区であろう)、気骨のある政治家とそれを支える有権者の存在はあの時代にあって希有なこと、当時の日本人をある意味見直す結果になった。
すべて公式発言だけに“よそ行き感”は免れぬが、時代順に並べ背景解説を加えることで、とかく軍事中心の昭和史が別の角度から見えてくる一冊であった。
-今年の3冊(掲載順)-
①
帆神(玉岡かおる);新潮文庫(187回)
水主(水夫)から有力廻船問屋まで昇り詰めた実在の人物工楽松右衛門の伝記小説。強力帆布の発明がカギ。
②
日ソ戦争(麻田雅文);中公新書(193回)
条約・法規無視のもう一つの戦争。ロシアの戦争文化を考える。
③
メトロポリタン美術館と警備員の私(パトリック・ブリングリー);新潮社(196回)
警備員から見た、教養主義とはひと味異なる美術鑑賞。
-写真はクリックすると拡大します-
0 件のコメント:
コメントを投稿