<今月読んだ本>
1)本ができるまで-増補版-(岩波書店編集部);岩波書店(ジュニア新書)
2)甘粕大尉(角田房子);朝日新聞出版社(文庫)
3)ヤルタの娘たち(キャサリン・グレイス・キャッツ);中央公論新社
4)ジジイの昭和絵日記(沢野ひとし);文藝春秋社
5)消された外交官宮川舩夫(斎藤充功);小学館(新書)
6)天気予報はなぜ当るようになったのか(長谷川直之));集英社(新書)
<愚評昧説>
1) 本ができるまで-増補版-
-物作り重視の書籍制作解説書、ITによる激変についていけていない-
もとは乗り物好きに発するのだが、軍事技術特に飛行機・戦車・潜水艦の発達史にのめり込み、それらと企業における情報技術(IT)導入・活用に着目、実務を進める上で大いに参考にしてきた。1990年代初めから、これを本にすることを夢想し、出版社勤務の友人に相談したり自費出版セミナーに参加したりした。また、本ブログもそのための準備・訓練活動の場として立ち上げたが、実現は容易ではないことが分かってきた。そんな過程で、PC活用に長けた友人からブログ掲載記事を書籍仕様に整えるソフトウェアを紹介され、「原稿を送ってくれば、試作してやる」とまで提案された。いわゆるデスク・トップ・パブリッシング(DTP)である。電子書籍に留まるならば名案だが、紙の本にするにはこれも問題含みで、いまだ着手できていない。
本書を見つけたのは書店の新刊書コーナー。本覧でも書籍出版に関する著書はいくつか取り上げているが、“ジュニア”に目が行き、本好きな孫にプレゼントするつもりで購入、渡す前に内容チェックをと読んでみた。
多くの本作りをテーマとするものは、一応印刷や装丁など外見にも触れるものの、主体は中身(コンテンツ)にあり、作家の作業や編集の仕事が中心となる。本欄で直近紹介した国語辞典刊行を扱った小説「舟を編む」がその好例だ。しかし、本書は物作りの面に徹底している。活版印刷、写真印刷、カラー印刷、印刷機、活字書体(フォント)、活字作成、印刷インク、用紙(品質、サイズ)、製本方式などがそれらだ。つまり書籍作成の技術解説書の性格が強い。技術者として仕事をしてきた私にとって、未知の技術を知る楽しみは随所にあったし、これまでの経験も理解を助けてくれたことは間違いないが、最新の本作り紹介としては疑問を感ずる内容であった。
本書の初版出版は2003年、既に編集などへのコンピュータ利用は進んでいたもののDTPが個人レベルになるまでには普及していない。従って、グーテンベルクの活版印刷技術に始まる印刷方式の歴史的発展を解説することに多くの紙数が割かれている。特に、アルファベットのように文字数が30に満たない世界と数万におよぶ漢字を扱う我が国では製本過程が欧米とは大きく異なり、この部分を詳述する。例えば、書体や本のサイズに合わせて活字を拾い頁毎に揃える文選・植字工程は人海作戦、それが写真付きで説明される。これは日本で書籍を作ってきた“歴史を学ぶ”と言う点で、それなりの意義があるのだが、初版から四半世紀近く経た現在、2013年一度改定されているものの、書籍作成のIT利用環境は一変、そのままでは誤解を招く恐れさえある。
そこで「あれから20年、現在の本づくり」の章を新たに加え「増補版」としたのが本書である。増補された新章は約30頁、ITが随所に導入され、先の文選・植字などほとんど無人化され、最終印刷工程を除けば激変していることが分かる。現代の本づくりを語るなら、この章を中心に据え、これに合わせ内容を一新して、新しい出版物とすべきだ。無論孫へ贈ることはヤメにした。
2) 甘粕大尉
-無政府主義者大杉栄殺人事件の首謀者を綿密に追ったクールな伝記-
「アマカッサンのおばあさんがのう・・・」、恒例の年始参りに世田谷の伯母(父の姉)を訪問したおり播州弁で父との交わされていた会話である。アマカッサン宅は伯母の家と生け垣を隔てた隣家、その生け垣越しに縁側が見えるほどだ。中学生の私にその話はまったく理解できないものだったが、帰途父が「あそこに甘粕大尉の母親が住んでいるんだ」と語り、関東大震災時における「大杉栄殺人事件」のあらましを語ってくれた。本書は事件の責任を一人で被り通した、憲兵大尉甘粕正彦(1891年~1945年)の伝記である。私より若い世代には、映画「ラストエンペラー」で坂本龍一が演じた人物と言えば通じるのではなかろうか。満洲史をたどるには欠かせぬ人物。単行本発刊時(1975年)求めているのだが、“増補改訂版”とあったので、あらためて読み直すことにした。
著者(1914年~2010年)の経歴で際立つのは、高等女学校を終えたあとソルボンヌ大学(仏)に留学、第二次世界大戦勃発で退学、帰国していることである。甘粕は事件服役明け陸軍の計らいでフランスに逃避行しており、著者は戦後その足跡を現地で追い、満洲時代へ至る心境の変化を探る。甘粕物で、在仏時代を本書ほど克明に調べ上げた作品(孤独、貧困、陰鬱)を知らない。夫角田明は元毎日新聞社会部長も務めたジャーナリスト。戦後の渡仏は夫のパリ転勤に依る。執筆活動に入ったのは1960年頃から。ノンフィクション受賞作品をいくつかを残している。
「大杉栄殺人事件」とは、1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災二週間後。無政府主義者の大物大杉栄、内妻伊藤野枝、大杉の甥(妹の子)橘宗一(6歳)を憲兵が拘引絞殺、3人の遺体が麹町憲兵分隊の古井戸から見つかった事件である。甘粕は当時東京憲兵隊渋谷分隊分隊長であったが麹町分隊長も兼務していた。行方不明になった3人の捜索過程で陸軍・憲兵隊は当初拘引そのものを否定していたが、やがて遺体が発見され、事件が明るみになる。軍法会議に引き出されたのは甘粕と一人の下士官だが、最終的に有罪判決を受けるのは甘粕のみ、懲役10年の刑である。しかし、1926年には釈放されるので、実質は2年強の服役にすぎない。出獄後一旦川渡温泉(宮城)に身を隠したのち、結婚間もない新妻を伴いフランスに渡ることになる。すべて陸軍の計らいだ。なぜここまで殺人犯である甘粕を特別扱いにするのか。甘粕を扱った作品は、本書を含めこの点を探るが、いずれも真相究明には至っていない。ただ、本書では存命中の多くの軍関係者に聴き取り調査を行い、東京憲兵隊司令官(少将)の周辺(上部を含む)にその因を絞り込む。大杉は優秀な成績で陸士を卒業したものの、無政府主義者に転じたことを「許せぬ」とする空気が陸軍内にあったからだ。
甘粕は陸士を500人中43番の成績で卒業、歩兵科に進むがここで膝関節炎を患い、憲兵への転化を余儀なくされる。この決断は陸士時代の教練班長東條英機の助言に依るところが大きい。のちに東條は関東軍憲兵隊司令官、関東軍参謀長に任じており、この師弟関係が甘粕の満洲における隠然たる力のバックボーンになっている。フランスから帰国後軍の意向で満洲に渡り、当初は特務機関と深く関わる工作グループを動かし、先に触れた清朝廃帝溥儀の担ぎ出しもその一環である。満州国が建国されると、民意をくみ上げまた国の施策を下達する翼賛組織である協和会総務部長に収まり、新国家運営の重責を担うことになる。その象徴的な扱いは、満州国を承認した国々(独・伊・スペイン・バチカン)への表敬使節団副団長(団長は財務大臣韓雲階)として渡欧、ヒトラー、ムッソリーニ、フランコ、教皇に会見していることに見られる。
満州国が少し落ち着いたところで満洲映画協会(満映)理事長に収まり、映画・演劇・音楽など国の文化政策推進に傾注、レベル向上を実現している。1945年8月15日終戦、日本人満映関係者の即時帰国手配や満人に依る満映運営態勢を整えたのち、8月20日青酸カリを用いて服毒自殺、昭和史の暗部は明らかにならぬまま今に至る。
著者の描く甘粕像は極めて真面目な人柄、闇の世界で生きる陰湿な人物とは真反対、交流のあった人々の信頼は極めた高い人物だ。東條英機・板垣征四郎・土肥原賢二(いずれも大将(最終)・A級戦犯(死刑))、石原莞爾(中将、満州事変首謀者)、のような軍人から、小沢開作(征爾の父、協和会幹部)、山口淑子(李香蘭)、朝比奈隆(指揮者)、森繁久弥(いずれも満映関係)まで援用して、殺人者イメージを払拭する内容だ。増補改訂は単行本発行時の内容訂正、特に震災時朝鮮人ばかりでなく中国人も虐殺されており(陸士同期生が関係)、その関係者を発刊後訪ねた経緯を語り、甘粕事件を補完するものであった。甘粕のみならず、著者も極めて生真面目な人なのである。
甘粕は長男、父(内務省勤務)が早世したため妻や子供のほか母も満洲に帯同していたが、終戦直後彼らを日本に送り返し、無事帰国している。「アマカッサンのおばあさん」はその人だったのだ。
蛇足;満洲国承認謝意を示す訪欧団団長韓雲階財務大臣邸は私の住んでいた社宅と隣接、50世帯近い社宅区画全体と同じ広さがあり、時々豪勢な野外パーティが開催され、2階の我が家からそれを眺めた記憶がある。その韓雲階は戦後米国に亡命している。
3) ヤルタの娘たち
-ローズヴェルト、チャーチル、ハリマンの娘たちが体験したヤルタ会談。裏面史として価値あり-
「風と共に去りぬ」で知られるアトランタには提携先の本社が在り、たびたび訪れる機会があった。また、ここには横河電機の米国本社と工場もあり、大学の同じ研究室で学んだ親しい友人も駐在していて、ある休日近郊まで足を延ばす観光に誘ってくれた。そこで最も記憶に残るのがウォームスプリングス(文字通りの温泉地)にあるフランクリン・ローズヴェルト(FDR)の別荘(リトルホワイトハウス)訪問である。1945年4月12日FDRはここで静養中、脳溢血で亡くなるが、ベッドを含めその時の状態を残したまま見学できるようになっている。別荘は傾斜地に建てられた簡素なもので、寝室は比較的下の方に在り、日当たりの良い部屋だが極めて質素な作り、ベッドも鉄パイプ製の機能一辺倒のもの、第二次世界大戦を取り仕切った名家出身者の最期の場としてはいささか粗末な感を覚えた。ここで初めて知ったのだが、忌の時ベッドサイドに居たのは家族ではなく、ルーシーという愛人だったことである。本書ではこの件を含め、首脳陣を巡る女たち娘たちとヤルタ会談の関わりが語られ、興味深い裏面史を描き出す。
著者の生年は不祥だが、ハーバード大学で歴史学を修め、ケンブリッジ大学で現代ヨーロッパ史研究により修士号、さらに本書出版(2020年)後の2023年ハーバード大学ロースクールの法学博士号を取得している。本書が単行本第一号とあるから作家よりは歴史研究家というところであろうか。
ヤルタ会談の主役はFDR、チャーチル、スターリン、題名の“娘たち”から「もしやスターリンの娘スヴェトラーナも?」と期待したが、それはなかった。FDRの長女アナ、チャーチルの次女セアラ、それに米駐ソ大使エイヴレル・ハリマンの次女キャシーの3人が“娘たち”である。アナは主婦かつ地方新聞経営者だったがこの時はホワイトハウス棲まい、セアラは舞台俳優だが空軍婦人補助部隊で写真偵察の解析を行う士官、キャシーはジャーナリストでロシア語に精通、大使館で父のスタッフを務めている。キャシーは仕事柄対外折衝の場を経験しており父親と一心同体、積極的に動き回るが、アナとセアラはこの会談で初めて父親の副官に任ぜられ、不安と期待がない交ぜな状態で代表団のメンバーとなる。アナの心配事は父の健康状態、いかにFDRの休養時間を確保するかだがこれがなかなか思うようにいかない。セアラは軍勤務で公務の経験はあるものの国際会議は初めて、チャーチルが彼女を起用したのは親族回顧録執筆のための記録員としての役割もあった。
ヤルタ会談の主題は;東西からの攻撃停止線(連合国の同士討ちを避けるため)、ドイツ降伏後の統治形態(存続可否を含む)、ポーランド問題(国境、政体)およびこれと関わる東欧・バルカンの勢力圏設定、戦後の国際安全保障体制(国連)、それに対日戦へのソ連参戦とその見返り、である。ヤルタ会談関連著書同様本書もこれらにすべて触れるものの、議論の内容に深入りしない。本会議のメンバーは総勢30名弱(一国10名前後)で、当然ながら“娘たち”がそこに含まれることはない。出席者との私的会話、父親との何気ないやりとり、あるいは表情・体調からそれを推察するしかない。そして、ここから彼女らなりの課題解釈を加え、母、夫、兄弟・姉妹、近しい友人にそれを手紙などで伝えているのだ。
そこから見えてくるのは;一般論・総論での合意を目指し、ソ連に対する楽観論に終始するFDR。FDRの重点関心事は、(のちの)国連創設とソ連の対日参戦。体力は限界に近く、結論を急ぐ。英国参戦の大義名分はポーランドとの軍事同盟。チャーチルはポーランド問題解決の具体策と反共主義者としてのソ連警戒観(冷戦を予測)から東欧・バルカンの行く末を案じる。そして、米英の間で徐々に進む分裂につけ込むスターリン、という構図だ。この各国事情(米英の離反とそれを利用するソ連)は多くのヤルタ会談物と変わらぬが、体調不良からくるFDRの対ソ楽観論と結論を急ぐ言動は娘のアナばかりでなく、セアラやキャシーの報告にも記されており、「もしFDRがこれほど衰えていなければ」の思いが拭いきれない。
さて冒頭のFDRの死を看取った愛人ルーシーの話。彼女はニューデール時代の秘書、住まいはホワイトハウス内にあり不倫関係陥る。これがエレノア夫人の知るところとなり離婚騒動の結果、FDRは「二度と会わない」ことを誓い、ことを表沙汰にせず収める。しかし、密かに二人の音信は続いており、エレノアの不在時FDRは私的なディナーに招待することを思い立ち、それをアナに打ち明け、彼女はそれに同意する。つまり激務が続くFDRに真に必要なのは政治的支援でなく、心の安寧だと見抜いていた結果である。ファーストレディーとしてつとに有名なエレノアや息子たちでなく、彼女を会議の副官として選んだ理由はそこにあったのだ。FDRの最期を知ったエレノアはアナに「あなた知っていたのね!」と難じ、その後の母娘関係は冷たいものになる。
会議主題以外にも女性ならではの観察がおよんでおり、これはこれで面白い。三首脳はそれぞれロシア皇帝や貴族の別荘に宿泊する。主会談の会場はFDRの宿泊するリヴァディア宮殿。ナチスに一時期占領されており、応急復旧作業でなんとか利用できるようになったもの、収容人員(米国代表団は500人を超す!この数は初めて知った)に限りがあり高位高官でも相部屋、トイレ・浴室はまったく足りない。元帥といえどもバケツトイレで用を足す。それも順番待ちで!
歴史的会談の内実をユニークな視点で世に知らしめるという点で大いに評価されるべき一冊だが、問題は翻訳にある。英文和訳として間違いはほぼ無いと言えるのだが、こんな翻訳本を名の通った出版社が出すとは信じがたい、という出来であった。いくつかその例を挙げてみる。①英文の構成は日本文に比べ倒置法や関係代名詞などの利用が多い。これを原文通り並べると、日本文としては不自然な表現になりがちだ。本書は、句読点も含め、原文忠実スタイルで、平易な日本文になっていない。②英単語にどの日本語がその場に最も相応しいかを考え抜いていない(本書の中に「スキーのスロープで接触したソヴィエト市民」とあるが、この“接触”は身体的接触と誤解されぬよう“接した”とすべきだ。“スキーのスロープ”も“スキー場”でいい)。③注が多く、これが原注なのか訳注なのか明示されていない。この種の本の読者なら当然知っているようなことまで注をつけ、煩雑極まりない。ひどいのは原著のスペルの誤りを正すことまで注記している点だ。表に出すことに何の意義があるのか?!完成度の低い翻訳文から推理するのは、先ずAI翻訳をかけ、それを訳者が修正する手順をとったのではないかとの疑念である。スペルの間違いで混乱したAIが意味不明の翻訳を行い、著者がそれを発見・修正し一本取った気で、訳注としたのだろう。とてもプロのやることとは思えず、二度とこの翻訳者の本は買わないと決めた。
4) ジジイの昭和絵日記
-同世代の自分史。のぞき見を楽しんだが、戦後の満洲は異次元だった-
NHKの大河ドラマはまったくと言っていいほど視ないのだが、番組予告や社会現象の一端から、どんな題材がテーマになっているかは、おおよそつかんでいる。この知見に基づけば、戦国時代から江戸幕府開闢までの覇権争い、長く続いた江戸時代のエポックメーキングな出来事、それに幕末から維新にかけての近代国家誕生過程における大変革の特記事項、が圧倒的に多い。もし、この大河ドラマ放映が延々と何世紀も続いたと想像してみると、昭和という時代はこれらに匹敵するほど、日本史の中でクローズアップされるに違いない。海外領土の拡大、太平洋戦争、敗戦とそこからの復興など、ドラマの題材に事欠かない。こんな時代を生きられたことを幸運だったと常々感じている。そんな昭和ジジイの著わした自分史、少々調べてみると2章構成のひとつが“満洲”とあったことから、「もしかすと在満経験者?」と読んでみることにした。
残念ながらその期待は当らなかった。著者は1944年愛知県生まれ、児童向け図書の編集者からイラストレーター(当初は兼業でカット、挿絵を描く)に転じた人。中国でこれらを出版したことがきっかけで、満洲をしばしば訪れるようになったようである。
誕生から今日までの変遷をたどる、自身の体験を中心とした自分史だが、5歳下とはいえ時代が重なり、また兄が私とほぼ同年、さらに少年時代に愛知から首都圏に移ったことから、名古屋・東京・千葉と題する第1章は土地勘も加わり、共感を覚えるところが多かった。ただ、決定的に違うことは、兄の影響で学生運動に深く関わっている点である。高校生時代の1960年安保、大学進学後の佐藤首相南ヴェトナム訪問阻止羽田闘争、美濃部都政礼賛、共産党との関わり、などがそれらだ。こんなバックグラウンドゆえ、まともな就職先が見つからず、零細な児童図書出版社に入社、編集・営業ときには挿絵を描くことさえ厭わない(高校時代は絵画部)、何でも屋として過ごす。
出版業に席を置いたことが高校時代の同級生椎名誠との関係を深め、やがて彼とともに1976年「本の雑誌」を創刊することになり、著者の人生を大きく変えていく流れが始まる。安く仕上げるために表紙作成を担当、これがイラストレーターへの道を開いていく。このような自身の仕事や出版業界の話を骨格としながら、その時代の政治経済情勢から家庭内の諸事までそこに重ね、身近な昭和を語っていく。読者の昭和ジジイにも「あるある」の連続なのだ。
やがて独立、ビジネスの大変さをあれこれ語るが、挿絵を例にその難しさを語るところが面白い。「パチンコに明け暮れている男」と文に書かれていたら、パチンコ台の前で玉を出している絵では、当たり前すぎて失格。パチンコ屋からうなだれて酒場に向かう、男の後ろ姿を描かなくてはならない。そして、うらぶれたような、はかなげな町の風景をその背景とする。さらに電信柱の張り紙の文字もかすかに残したい。「なるほど」と納得。新聞小説の挿絵も奥が深いことを知り、見る目が変わる。
さて、満洲である。著者が関わった出版物のいくつかは中国訳になっている。それを通じて中国に知己が出来、1992年初の訪中、やがて満洲を訪れるようになる。著者の趣味は登山、長野県の山をあちこち巡る内に、この県から多くの開拓団が出ていることを知る。2013年満洲へ第一歩を踏み出し、爾来仕事の合間や余暇を利用し何度も訪満、知人の助けも借りて奥地の開拓地を踏査、“王道楽土”が開拓団にとっても現地の人にとっても、全くの偽りであったことを明らかにする。著者が日本人であることを知ると、今でも敵意をあからさまに表わす人たちさえいるのだ。“五族協和”など一部の日本人の勝手な妄想であったことを改めて教えられた。
自分史ゆえに身近な話題に終始するが、それだけに同時代人にとって世相と自身の関係を思い起こさせてくれ、私の「ジジイ昭和日記」として楽しんだ。
5) 消された外交官宮川舩夫
-革命前のロシアに留学、ロシア・ソ連スペシャリスト外交官、なぜ彼はモスクワで獄死したのか-
1945年8月9日、ソ連による満洲侵攻は、あの時期起こった日本の悲劇(東京大空襲、沖縄陥落、広島・長崎への原爆投下など)の中でも、自ら体験したことだけに、格別な思いがある。それだけに小説も含め多くの書物で、種々の角度から、それを知ることに務めてきた。しかし、対ソ停戦交渉に関わる、本書に記された秘話はまったく知らなかった。平積みになっていた本書を見たとき、「一体何があったのか?」と惹かれ、早速読んでみた。
本書は1890年(明治23年)山形県で生をうけ、ロシア・ソ連の専門家として数々の重要外交案件に関わり、1950年(昭和25年)モスクワで獄死した外交官宮川舩夫(ふなお)の伝記である。かなり変わったキャリアをもつ外務官僚だが、その最後が獄死であることは異常だ。しかもその死が遺族に伝えられるのは、日ソ国交回復1年後の1957年末までかかっている。外交官が戦犯として裁かれた例はあるものの、それは外相や大使級の人物、開戦や三国同盟が起訴理由である。終戦時宮川はハルビン総領事、停戦交渉では通訳兼民間人保護が主務であった。にもかかわらず交渉後の9月逮捕・収監、モスクワに移送され、裁判も行われず獄に留置されたまま1950年病死するのである。ソ連は何を隠したかったのか、宮川の職歴をたどりながら、著者が追い求めるのがこの“秘密”である。
宮川とロシアの縁は19才で東京外国語専門学校(現東京外国語大学)露語科に入学したときに始まる。在学中外務省の留学生試験に合格、1911年(明治44年)サンクトペテルブルク大学に入学、その後第一次世界大戦開戦で一時帰国し外交官試験に備えているが、1917年(大正6年)のロシア革命勃発で急遽大使館員としてロシアに戻るよう命じられ、その後のパリ講和会議代表団の一員としてロシア語を生かすことになる。この外交官試験受験問題はのちにもう一度生ずるが、そこにはロシア語とロシア事情に精通している彼を、外務省トップや大使が重用し、専門官に閉じ込めておきたい意図があったと著者は推察する(試験合格者は他国勤務がある)。ただ、有能な彼を低位の官位とどめ置くことは適切でないと考え、1922年(大正11年、32歳)、合格者と同格の処遇を行うことを決する。
その後の宮川は広田外相の下でのソ連担当書記官、モスクワ大使館一等書記官(大使重光葵)、1941年松岡外相下での日ソ中立条約交渉など日ソ外交の最前線で活躍、1944年5月ハルビン総領事に就任する。
さて、政策決定者でもない職業外交官の宮川を何故ソ連は拘束し、裁判も行わず獄に留置し続けたのか。宮川のハルビン勤務はこの時が初めてだが、ハルビンは対ソ諜報戦の最前線。陸軍のハルビン特務機関がそれを差配していたことは明らかだが、総領事館も当然公開情報を含め情報収集分析に努めていたから、同類とみられていた可能性は否定できない。事実ハルビン特務機関長秋草俊少将は「スパイ罪」で禁固25年の判決を受け、服役中獄死している。しかし、宮川の勤務期間は終戦までの1年余、この間の仕事が重罪に値するとは考えられない。残るのは、長期にわたる対ソ外交で培った人脈である。彼らの中に宮川の帰国を望まない人物(複数)が居り、罪状も明らかにせず、その死を密かに願っていたのではないだろうか。誰が何を隠したかったか、本書でそれを詰めるところまでは達していない。
著者は1941年生まれ、東北大学工学部中退後民間の機械研究所に勤務、その後ノンフィクション作家に転じたとある。既刊書に中野学校に関する著書が多いことから、本書も諜報戦を意識した趣が随所にある。しかし、私は総合職外交官が主流を占める中で、専門職(でスタートしながら幅を広げる)外交官の活動紹介として興味深く読んだ。
なお、宮川の長男渉は父と同じ道をめざし外交官試験に合格、駐フィンランド大使を務めた。
蛇足;6月25日~27日、酷暑のハルビンを観光した。目玉はロシアそして散在する日本の名残。旧領事館は駅前大通り(紅軍街)の西側、特務機関は東側一本裏の通りに在り、徒歩数分の距離。この両所を訪れることは無かったが、同じ大通りに面し駅に最も近い旧ハルビンヤマトホテルでロシア料理の夕食を摂った。
6) 天気予報はなぜ当るようになったのか
-確かに天気予報は当るようになった。その背景を理解するとともに、気象庁の役割・仕事を知る-
スポーツクラブの開館は8時半、四季に関わらず、それより30分以上前から集まる仲間がいる。今や私にとっては他人と話す、身体を鍛えること以上に貴重な時間帯だ。先ずはその日の天候から話が始まる。そんな折「最近は天気予報がよく当るね」と言う話をした数日後、本書を書店で目にした。帯の「気象庁長官が明かす舞台裏」で購入決定。
天気予報は子供の頃から身近な存在だったが、“当らないモノ”の代表、著者も本書導入部で、「戦争中「気象台」と3回となえると敵の弾に当らないと言われていた」、と自嘲気味に、かつての天気予報の評判を紹介している。しかし、気象の変化は運動方程式や熱力学の方程式で説明がつくことは早くから分かっており、まだコンピュータなど存在しない1920年代ルイス・リチャードソンという英国の科学者(数学者・気象学者・心理学者)が明らかにしている。しかし、計算量が膨大で6時間先の予測計算にひと月かかり、とても使い物になるものではなかった。1955年アメリカ気象局、1959年には我が国気象庁がコンピュータを導入、リチャードソンの夢を実現させていく。加えて気球から気象レーダー、人工衛星まで気象観測センサーが充実、これを世界規模で測定(2万点)・共有、コンピュータの性能が上がるとともに予測域の編み目を細かくすることで天気予報が当るようになっていくのだ。このような技術進歩の結果、今では「降水短時間予報」は250m四方の予測を5分間隔で1時間先まで提供できるようになっている。こうなると経験に頼ってきた予報官は不要になるかと言えばさにあらず、天候と我々の日常生活への影響を推察するのも予報官の仕事、詳細で正確な数値予測データを基に、それへ適切なコメントを加える。傘を用意すべきか、服装はどうすべきか、などと。
本書の内容は天気予報に限らず、気象庁の役割変化にも言及する。特に気象関連防災活動との関わりである。豪雨・豪雪・洪水・土石流・高潮・竜巻・落雷・酷暑・厳寒、いずれも予測だけで気象庁のお役目はごめんという訳にはいかない。警告レベルを定め、内閣府、国土交通省(河川、港湾、道路)、地方自治体、メディアと連携し、安全確保の責を担っているのだ。「見逃しよりは、空振りを恐れず」がモットー。ここまでに至る気象行政の変革・進展を学ぶことも出来た。
予報細部にも関わらず一章を設けているのが「線状降水帯予測」。2020年7月の熊本県球磨郡集中豪雨を例に、その難しさを解説する。線状降水帯という言葉そのものが新しい気象用語であり、研究領域であるのだ(2000年頃気象研究所で集中豪雨を研究する者が名付け親)。雨量だけでなく湿度のデータが影響してくるのだが、アメダスは雨量計中心、湿度計の増設を図り、精度向上に努めているとのことだ。
また、グローバルな気象問題、地球温暖化対策でも気象庁は重要な役割を担っており、本来的に国境の無い気象観測・予想の世界、ここでも日頃知られていない活動が多々あることも教えられた。
著者は1960年生まれ、1983年気象庁入庁、2021年~2023年第27代気象庁長官。
本書は多くのデータや図表を用い、小学生の高学年くらいから理解出来る、平易な文章で気象庁の組織・仕事あるいは気象用語を解説する内容。天気を話のきっかけにする、格好の参考書である。
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