<今月読んだ本>
1) 板垣征四郎の満州事変(関口高史);光文社(新書)
2)記者は天国に行けない(清武英利);文藝春秋社
3)侵蝕列車(サラ・ブルックス);早川書房(SF文庫)
4)映画をつくる(山田洋次);大月書店
5)LIFTOFF(エリック・バーガー);化学同人社
6)飛行士たちの話(ロワルド・ダール);早川書房(文庫)
<愚評昧説>
1) 板垣征四郎の満州事変
-極東軍事裁判は構想者より実行者に重かった?満州事変、石原莞爾は起訴されず板垣征四郎は絞首刑-
本年6月満洲ツアーに参加した。おそらくこれが最後の海外旅行になるだろう。旅程は大連・旅順→瀋陽(奉天)→長春(新京)→ハルビンを7泊8日で廻るものだった。この地を去って79年、私の参加目的は第一に誕生(1939年)から引揚げ(1946年)まで過ごした新京を訪れ、往時を回想することだった。そして第二とし満州事変の痕跡を垣間見る機会を期待した。奉天には引揚げ途上一ヶ月近くとどめ置かれたが、廃工場跡の収容施設から一歩も出ることはなく、市街は無論、満州事変の前哨戦とも言える皇姑屯事件(張作霖爆殺;1928年)も事変の発火点である柳条湖事件(満鉄路線爆破;1931年)など、子供には知るよしもなかった。それだけに、両所とも市街地に近いことから、今回これらに触れる機会があることを願っていた。しかし、それは叶わなかった。この旅行を振り返って見えてきたのは、新京における満州国皇帝溥儀の仮宮殿(現博物館)見学を除けば“満洲国の歴史”には一切触れないことだった。旅行社は何か制約を受けているのかも知れない。帰国後まもなく本書の出版を知った。満州事変書籍は十数冊を超えるが、板垣征四郎を主題とした本は持っていない。柳条湖事件当日板垣は奉天にいたはずである。あの土地の記憶が薄れる前に、彼の挙動を追ってみたい。これが購読の動機である。満州事変といえば石原莞爾というくらい、石原の存在は大きい。にもかかわらず、極東軍事裁判で石原は起訴さえされず、事変の主導者として板垣は絞首刑になる。ここも知りたいところだった。
本書は満州事変を中心に据えた板垣征四郎の伝記であるとともに、事変までの板垣の言動と裁判における証言・回顧を配し、あの裁判で裁かれた訴因が、個人に帰せられるものかどうかを問い直す内容になっている。また、論旨としては満州事変をそれに続く支那事変(日中戦争)、大東亜戦争(太平洋戦争)への“発端”とする従来の歴史観とは異なり、もともと満洲の地は長く無政府状態(清朝発祥禁断の地、馬賊・軍閥割拠)に近く、主導権争いの中でそれに連動する排日運動対応の“結果”として生起したとの見解を採っている。つまり、このような支配権が曖昧な経緯・状況の下で、軍中央のみならず、政治家・経済人、ジャーナリズム、時には文化人・学者までもが満洲を我が国の生命線と考えるような世論が形成され、関東軍にある種の圧力がかかっていたと見るのだ。そしてその時期、高級参謀(複数人いる参謀のまとめ役。石原はその下の作戦参謀)であった板垣に重くのしかかり、実行を決断させさたと見るのだ。
伝記であるから、幼少時から刑死までの経緯を追うのだが、そこには子供の時から死を前にして家族に残したものまで膨大な資料が動員され、一面で見えてくるのはごく平凡で家族思いの人物像だが、他方で作戦日誌や訓示などから窺えるのは、世論と組織の大勢に流されていく、謹厳実直な上級公務員像でもある。満洲国設立を画策した石原は極東軍事裁判で起訴もされなかったのに反し、行動計画の実質的な責任者(軍指令官は本庄繁中将、参謀長兼務だったが終戦直後に自決)であった板垣にすべての罪が負わされることになるのだ。本書の読後極東軍事裁判の判決傾向を調べてみると、思想家や計画立案者よりも実行計画推進責任者に重ぃ刑が下されていることと東條との距離感が影響していることが分かった。石原は東條と対立、戦前予備役になったのに対し、板垣は事変のあと陸軍次官さらには陸軍大臣を務めており東條との関係も悪くない。その違いが大きかったようだ。
本書の問題点は文献・参考資料類からの引き写しが多いことである。約600頁の内半分近くが引用文。出典が明らかだから著作権問題はなかろうが、人文科学分野の研究として「これでいいのだろうか?」と疑問が残った。
著者は1965年生れ。防衛大学校人文社会学部卒、陸上自衛隊(空挺団、陸幕監部(情報)など)・防衛大学校勤務ののち一等陸佐で退役、現在軍事研究家。
2)記者は天国に行けない
-巨人軍球団代表としてリーグ3連覇しながら、ナベツネと衝突し辞任した、敏腕事件記者の半生記-
小学校2年生の転校時ちょっとしたいじめに遭い巨人ファンになれなかったことから、アンチ巨人に転じ、三原マジックで弱小球団大洋ホエールズが1960年優勝して以降この球団のファンとなった。所帯をスタートしたのが横浜であったとのこともあり、今はその後継ベイスターズを応援している。また、これも小学校在学時ことだが、読売新聞の販売促進員が来宅。「朝日はインテリが取る新聞。面白くないでしょう」とやり、母が「私は高等女学校を出ています!」といつになく激しい言葉を返した場面に直面、爾来「読売はスポーツ・芸能新聞」と蔑んできた。つまり、読売グループは日本テレビを含め私にとり天敵感覚である(とは言っても、近年の政治的スタンスははるかに朝日よりは自分に近いと思っているのだが・・・)。その読売グループで著者が巨人軍球団代表になって数年後、コーチ陣人事で読売新聞社長ナベツネ(渡邉恒雄)と衝突、馘首されたことは承知していた。あれからどのくらい経っただろう。本書の新聞広告に、「(キミが)記者会見したら、これは破滅だぞ。破局だな」とあり、天敵の恥部を覗いてみたくなった。
本書は自伝であるとともに、読売新聞社会部史、さらには同時代の他紙も含む事件記者史ともいえる内容。入社時には既にフリーランスのジャーナリストやノンフィクション作家に転じていた著名読売先輩社会部記者(黒田清、本田靖春など)や朝日・共同通信・日経から赤旗・農業新聞・地方紙(東奥日報など初任地青森・東北が主体)まで多くの記者が実名で報道テーマとともに登場、社会部記者の取材最前線や記事の裏話などが臨場感をもって詳述される。
著者の略歴は以下の通り;1950年生れ→1975年読売新聞社入社・青森支局に7年勤務→1982年本社社会部(記者→デスク→部次長)→2001年中部本社社会部長→2002年本社編集委員→2004年運動部長→同年8月(アテネ五輪中)巨人軍取締役球団代表兼取締役編成本部長(局次長相当;2007年からセ・リーグ3連覇(常務まで昇進);代表と言ってもオーナー、社長に次ぐNo.3)→2011年オフシーズン来期コーチ人事をめぐりナベツネと衝突、11月解任→以後読売と訴訟問題で争いつつノンフィクション作家として現在に至る。因みに、ナベツネは1926年生れ→1950年入社→著者入社時(1975年)は政治部長兼編集局次長→1991年社長→1996年~2004年巨人軍オーナーを兼務→2004年野球賭博事件でオーナーを退任(事件以上に球界支配批判の高まり)→2024年12月没。
本書は自伝ではあるが、生家や高校・大学時代は時に触れるものの、実質は入社以降現在に至る半生記である。全体で600頁8章構成の内球団経営に関する章は一つ、その点では広告のキャッチコピーはまさに撒き餌であるし、この部分はワンマン社長に抗した一社員の回顧録、少々言い訳・申し開きの感が強い内容。それに比べれば社会部記者としての活動の方がはるかに面白い。無論そこでもナベツネとの対決(間接的なものが多い;社内のナベツネ忖度)があり、グループ内でのナベツネ像が伝わってくる。
著者が本社社会部記者として主に担当したのは警視庁と国税庁。国税庁は最強の情報機関だがカラオケの締めは“くちなしの花”、守秘義務の固まりである。これをなんとかこじ開け1991年四大証券の大手顧客損失補填を暴く。これが社長賞受賞となるが、パーティーの席上渡邉社長から「魔女狩りはやめろ!」と説教される。証券会社のトップは皆ナベツネの友人なのだ。必ずしも著者の特ダネではないが、原子力船むつの顛末、日航機御巣鷹山墜落事故、防衛省汚職などよく知られた事件の報道事情なども興味深い。
さて、球団代表解任事件。2011年巨人はリーグ優勝する。大物FA獲得より内部育成重視の著者はそれに適したコーチ人事を計画、優勝直後原監督のみならずナベツネにも内諾も得る。ところがクライマックスシリーズで敗北。ナベツネは怒り心頭、原監督に事情聴取し独自案を作成、著者を呼んでそれを飲ませようとする。既に新コーチ陣に内示しており、著者は納得しない(「俺は辞める」と言っていた球団社長は豹変)。ついに記者会見を開き、自らの辞任を公表してしまう。結果、解任ばかりか読売を追われ、損害賠償の訴訟を起こされ(1億円)、社友資格も失う。この年は開幕直前に東日本大震災、それでもナベツネは開幕延期に反対したり(結果的には延期)、秋のオフシーズン燦燦会(財界人応援団)感謝会では自粛ムードで簡素化されたそれ(サイン会や写真撮影中止)を、「(顧客サービス無視は)懲罰もの!」と演壇上から非難、従来の形式に戻したりする(このパーティーは著者の責務ではない)。オーナーを降りたとは言え、プロ野球盟主意識はそのまま、周辺もそれを甘受せざるを得ないのが巨人軍を含む読売グループの実態、反骨精神旺盛な著者には許せない状況が解任劇の裏にあったのだ。
読後感として強烈に持ったのは、「ブラック職場そのもの。こんな仕事(事件記者)はやりたくないし、とても務まらない」である。ただ、リアルな記者活動が生々しく書かれ、報道ジャーナリズムに関心が高い者、それを目指す若い人には、必読と言っていい内容でもある。
3)侵蝕列車
-鉄道SF奇譚。北京-モスクワ間に広がる<荒れ地>を疾走する長距離列車内で起こる異常事態の数々、列車は無事モスクワにたどり着けるか-
技術者として本来興味を持つべき分野にもかかわらず、SFは完全に読書対象外だ。もともと小説をほとんど読まない上に、天体(除くロケットや人工衛星)や生物学・生理学(除くAI)に興味をまったく覚えないこと、がそうさせてきたのだ。本欄紹介でSFと言えるものは2022年3月の「地下鉄道」くらいしか思い浮かばない。これは米国東海岸沿いに秘密裏に設けられた逃亡奴隷を支援する空想地下鉄道の話であり、未来の先端科学技術とは無縁、鉄道に惹かれて読んだ次第である。本書もそれに近いテーマ、19世紀末北京とモスクワを結ぶ空想シベリア鉄道(実路線とはまったく異なる)が舞台となる。表紙の蒸気機関車に惹かれ、どんな鉄道物に仕上がっているのか、読んでみたくなった。原題は「The Cautious Traveller’s Guide to The Wastelands(用心深い旅人への<荒れ地>案内」)、この<荒れ地>通過中の奇妙な出来事をストーリーとする空想サスペンスである。現代とは無関係とも思える、邦訳の“侵蝕”とは何を意味するのか?
著者経歴がこの作品と深く関わっているように思えるので略歴を記す。生年不明の英国人女性。日本・イタリアで英語教師を務めた後、中国古典幽霊譚「聊斎志異(りょうさいしい)」の研究で博士号取得。現在英リーズ大学東アジア研究科勤務。因みに「聊斎志異」は、17世紀後半〜18世紀初頭蒲松齢(山東省出身)によって著わされた「怪異を装った、人間社会への鋭い批評文学」とのこと。
この架空シベリア鉄道は1850年に起案されるが、沿線には広大な<荒れ地>が存在し、ここに立ち入った人間が眠り病・記憶喪失・体調不良など様々な<荒れ地>病を発症するため、先ず中国・ロシアそれぞれの側に長大な壁を建設、その後鉄道敷設が20年かけて行われ1870年代に開通する。開通に時間を要したのは建設作業員がこの病に冒されぬよう、特別仕立ての列車を用意し工事を進めたからだ。1898年モスクワを発った乗客にこの病人が出たため、列車は北京に止め置かれ、時間をかけて徹底的な原因究明が行われる。その結果、窓ガラスに生じたひび割れが原因とされ、調査とその修復作業に時間を要し、モスクワへの復路は1年後の1899年となる。
列車は20両編成、一等と三等の寝台車・食堂車・図書館車・サロンカー・医療車・警務員車・庭園車(鶏飼育や生鮮野菜栽培)・列車長車などからなり、前後には監視塔・観測塔を備え、当に走る豪華武装列車だ。
乗客・乗員はロシア人・中国人は無論、英国人、フランス人など。日本人の地図作製者(鉄道に雇われ、沿線を観測して路線沿線の変化を記録・描写する)も乗っている。乗車目的もさまざま。この路線の異常現象を匿名で投稿しているジャーナリスト、破損したガラスを製造したガラス職人の娘も父の汚名を晴らすべく偽名で乗車、<荒れ地>の異常現象を科学的に解明することを狙う英人科学者は列車を停車させ下車のチャンスを狙う。一方会社側も悪い噂を封じる目的で警務員を配している。主人公はこの列車内で十数年前誕生し、母を産後の病で失い、乗務員たちに育てられ、今は車内雑務をこなす中国人の少女。北京-モスクワ間6400km、この間<荒れ地>内では給水(屋外作業は潜水服のようなものを着用)の一時停車はあるもののノンストップで走行。15日で終わる旅は、列車のトラブル、そして<荒れ地>での予期せぬ出来事で23日を要し、その間彼らの車内行動が数々のミステリアスな出来事を生む。どんなミステリーかは読んでのお楽しみ。
先述のごとく「聊斎志異」は「怪異を装った、人間社会への鋭い批評文学」。本書も自然を征服せんとする人間に対する批判の意図が読み取れ、過去に舞台を借りた、現代近代文明に対する警告の書とも言える。
4)映画をつくる
-寅さん監督の映画づくり公開します。ひたすら面白く・楽しくを目指した結果が、長期人気シリーズにつながった-
中学生の時から映画ファンだったから、洋画・戦争映画・字幕の話・ハリウッド史・俳優の伝記など映画に関わる本はずいぶん読んできた。しかし、書架をながめてみると、淀川長治・佐藤忠男などを始めとする映画評論家が著わしたものが大部分、映画制作に関するものは一冊もない。そんな時本書の広告を目にし、映画館では観たことはないがTV放映の寅さんシリーズはいくつか楽しんだし、“新装版”にも惹かれ、読んでみることになった。オリジナルの発刊は1978年。何故今頃これを再版?と思ったが、疑問はまもなく解けた。松竹創業130周年記念として著者が監督した「TOKYOタクシー」が封切られる直前、映画の広告とセットだったのだ(新装版まえがきにそれが窺える)。読後直ぐに映画を観に行き、本書を意識しながら鑑賞した。著者の制作意図通り、映画のラストシーンでは年甲斐もなくハンカチを取り出すことになった。
構成は3部から成る;第一部は映画と私(映画人としての経歴、考え方)、第二部は素材と脚本(主題選定や技術)、第三部が映画づくりの現場(演出、俳優(特に渥美清との関係)、スタッフ)。
第一部;著者は1954年東大法学部卒、在学中映画研究会のメンバーであったことから松竹を受験するが、当時は就職難で入社試験の受験生は採用若干名に対して二千人。不合格となるものの、この年日活が製作を再開、何人かの監督がそちらへ移ったため、助監督として追加採用される。同期にはのちにヌーベルバーグの旗手となる大島渚がおり、彼は始めから監督志望だったが、著者は明確な目標はなく、脚本書きを兼務、「いじましい話ばかり」と批判されながら、B級と見られていた娯楽映画に起用され、次第に認められていく。よく知られた初期作品に、社長には散々脚本をけなされた、「下町の太陽」(主演倍賞千恵子の歌のおかげで大ヒット)がある。このあともハナ肇主演の「馬鹿まるだし」シリーズなどを監督、おかしい映画・面白ぃ映画づくりを目指し、TV作品「男はつらいよ」を1968年よりシリーズ製作、これが1969年映画化され、定番ヒット作品となっていく(本書オリジナル版出版時で21作、最終は48作(49作目準備中渥美清死去)。
「おかしいとは?」「面白いとは?」を考えたすえ得た結論は、「観客と作り手の共感」、馬鹿馬鹿しいあるいは何気ない会話の中にどこかでふと思い当たることがある、ここがポイントとなのだと。文芸作品製作に惹かれたことはなかったが、一方で“庶民的”を意識したこともなく、普通に暮らしている日本人を描くよう心がけている、と製作姿勢を総括する。
第二部;作品をつくるうえで最も大切なことは“どうしても作りたいという気持ち”。意図やテーマを前もって明確に決めて作ったことはない。これを焼き物作と対比して語る。この際重要なのはモチーフ(主題、動機)であり、「家族」を例に解説する。これは九州の炭鉱閉鎖で老父を同道し北海道へ移住、酪農を始めるまでのロードムービー。素材は近郊電車の駅と車内で見かけた、二人の子供と移動中の建設労働者とおぼしき家族にあった。父親は駅で焼酎を求め、車内でちびりちびりとやっている。子供たちは、見慣れぬ土地に不安と期待ない交ぜの落ち着かない様子。これを傍目で見ていて気になり、生活のための移動に伴う期待と不安をモチーフ(表わそうとする中心思想)とする映画をつくることを思い立つ。因みに「男はつらいよ」のモチーフ(動機)は“渥美清で作品をつくりたい”である。事前に渥美清ととことん話し合い、彼の経験談から脚本を膨らましていく。モチーフが明確であれば、技術(撮影など)の占める位置は微々たるものとの考え。フランス映画「男と女」を例に「華麗な映像」だけ真似ても何も生まれてこない、と往時の日本映画撮影テクニックを批判する。
第三部;演出家の最も大切な資質は「大勢のスタッフ(俳優を含む)の気持ちを一つの仕事に向けて集中させることの出来る能力」と述べ、オペラ「カルメン」の演出から「男はつらいよ」まで例に挙げてそれを語る。脚本はあっても撮影状況は変化し、それに臨機応変に対応しなければならない。演ずる俳優ばかりでなく、カメラはもちろん小道具さえその影響を受ける。シリーズ化した「男はつらいよ」では強力なチームができあがっており、監督が細かい指示をせずとも、それぞれが果たす役割を心得ており、その場に相応しい準備・行動をしてくれる。
この部の最後は“渥美清さんのこと”、1978年のことだから生前の話だが、「渥美清という人は、いわば私心を去り、無心の境地に達することに不断の努力をしている人だと思います」と始め、その人柄・俳優としての所作を述べ、賛辞を贈って締めくくる。
本著読了後「TOKYOタクシー」を観に出かけた。後半から、おそらく最後はこうなるだろうと予想し、結末はほぼその通りだったが、それでも涙を抑えられなかった。小難しい場面や凝った技術は皆無、半世紀前に語った映画づくりの姿勢は変わらず、山田作品を久々に堪能した。
5)LIFTOFF
-イーロン・マスクが創設したスペースX社、今や600回を超す打ち上げ成功でビジネスに圧勝。しかし3号機までは失敗、苦難の日々を関係者の聴取りで著わした作品-
本項を書いているのはクリスマス・イヴの24日、二日前に種子島から国産測位システム(GPS)衛星「みちびき」を載せたH3ロケット8号機が打ち上げられたが、第2段ロケットエンジンのトラブルで失敗に終わった。H3は民営化を進め低価格化、我が国衛星打ち上げビジネス本格参入のエースと期待されていただけに残念だ。初号機の失敗も含め成功率は6/8(75%)となり、とても他の打ち上げロケットと競争にならない。民間会社でこの世界に初めて参入したスペースX社のファルコン・ロケットは、2008年の4号機成功以降既に600回近く打ち上げられ、ミッション失敗は1回に過ぎない(発射直前のエンジン・トラブルや再使用回収失敗はあるが)。成功率は桁違いだ。たまたま本書読了直後にH3打ち上げが失敗に終わっただけに、彼我の差に衝撃を受けた。本書はイーロン・マスクが2002年スペースX社を創設、1号・2号・3号と失敗したあと2008年4号機で成功するまでの物語である。それ以降の話も簡単に記されているが、詳しいことは続編「REENTRY」となる。
2002年末イーロン・マスクは、創業したインターネット・オンライン決済企業PayPalが通販会社eBayに吸収され際CEOを退任、かねてから興味を持っていた火星探査を具体化すべくスペースX社を立ち上げる。オフィスの場所はロサンゼルス北部にある貸し工場。先ず手がけたのは人集め。本書はこの人集めと広義の人事管理(働かせ方)がロケット本体開発以上に紙数を占める。本書に登場するのは50名程度だが、スペースX社が成長していく過程で、3000人近くまではマスク自身が面接して採否を決めたといわれる。一つの特徴は、初期のリーダーこそ経験者を選ぶものの、総じて若く、大学卒でストレート入社をする者が多い。理由はチャレンジングな仕事に情熱を傾け、ハードワークに耐えられるからだ。読んでいてもブラック職場のきつい環境がひしひしと伝わってくる(休日出勤、週80時間労働など当たり前)。創業から5年で打ち上げ成功、一気に成長するカギはここにある。
もう一つ注目すべきは設計・開発方法。従来の一般的な手法は線形設計;複雑なシステムを構成する各部をひとつずつ、安全性や信頼性を確認しながら一歩一歩進めていく方法。人も時間もかかるやり方だ。それに対し、スペースX社は反復設計を適用;目標設定が終わると直ぐに概念設計に入り、主要各部を製作、ベンチテストで手直し・改良していく方法。特にエンジン開発ではこれが威力を発揮する。
発射基地は当初ロス北方のバンデンヴァーグ空軍宇宙基地を予定していたが、のちに陸軍のミサイル実験場であったマーシャル諸島のクワジェリン環礁に決まる。美しい珊瑚礁以外何ものもない僻地でのテストや発射は予期せぬ出来事の連続だ。2006年3月ファルコン1号機(エンジン;マーリン1)が打ち上げられるが、燃料漏れ火災で1分後に墜落。同型2号機2007年3月打ち上げ。第一段目は成功、第二段目のエンジン制御不能で失敗。2008年8月3号機発射。切り離しに成功するが、一段目のロケットが二段目に追突し(一段目ロケット停止がわずかに遅れる)、失敗。そして、それから1ヶ月後第4号機でやっとダミー衛星を軌道に乗せることができる。この成功で最初の顧客マレーシアの衛星を打ち上げ、さらにNASAが進めるCOTS(Commercial Transportation Services;国際宇宙ステーションへの人・物資の輸送)計画参加が実現、その後の事業拡大につながっていく。4号機の打ち上げ時期、マスクはテスラの経営拡大にも取り組んでおり、一時はテスラかスペースXかの選択を迫られほど資金調達に苦慮していただけに、この成功は大きい意味をもつことになる。打ち上げ成功と事業の収支は別物。この事業開発(打ち上げ顧客獲得)を担当していたのは空軍から転じた女性技術者。彼女は4号機以降のビジネスも担当、やがて社長(COO)となる。この間ロケットの再使用を可能にし、ファルコンはエンジンを多発化(ファルコン9(9発)、ファルコン・ヘヴィ(27発)、2010年代の終わりには商業衛星打ち上げビジネスで2/3のシェアーを占めるほどの大企業となる。なお、ファルコン9以降の発射基地はケープカナベラルに移っている。
因みに、ファルコン1(打ち上げ停止);全長20m・重量27t(燃料を含む)・積載貨物重量420kg~670kg(軌道による)、ファルコン9;全長48m・重量333t・積載貨物重量8~22t(ロケット使い捨てケース)、H3;全長63m・重量574t・積載貨物重量4~6.5t。
著者はヒューストンで新聞記者を長く務め、現在は主に科学分野を扱うジャーナリスト。本書はイーロン・マスクを始め多くのスペースX関係者にインタヴューしてまとめられたもの。それぞれの個人的体験(採用、業務、ときに退職)が、イーロンと会社を浮かびあがらせる。LIFTOFFは“打ち上げ”、続編REENTRYは“帰還”、多分再使用のためのロケット回収が中心と推察、いずれ読んでみたいと思っている。
6)飛行士たちの話
-自身の戦闘機パイロットとしての体験をもとに、短編の名手が描く、戦争文学連作集-
第二次世界大戦において英国は世界規模で戦った。英本国・大西洋・欧州大陸・北アフリカそして日本とは香港・シンガポール・インパール・マレー沖・インド洋で激戦を戦わせた。この他にも映画「ナバロンの要塞」の舞台となったギリシャ、そしてほとんど知られていないが、中東ではレバノン・シリアが仏領であったことから、パレスチナを拠点にヴィシー政権の仏軍とも干戈を交えている。本書の著者は職業軍人ではないがシェル石油勤務の後空軍に志願、戦闘機パイロットとなり、5機撃墜者に与えられるエースの称号を持つほど優れた戦績を残している。その主戦場は中東・北アフリカ(飛行指示に間違いがあり、燃料切れで墜落負傷)・ギリシャ。戦後その体験を基に数々の航空短編小説を発表、本書はいわば処女作(原著1946年刊)で10編が収められており、邦訳も半世紀近く前に出ているが、入手したのはその復刊版である(早川書房創立80周年記念)。
英軍機で登場するのはグロスター・グラジュエーター戦闘機とホーカー・ハリケーン戦闘機。両機とも著者の操縦経験がある機種。グラジュエーターは複葉機でもう第一線機ではないが、中東戦線では偵察に使われていたようだ。ハリケーンはスーパーマーリン・スピットファイアーと並びバトル・オブ・ブリテン(英独航空戦)を勝ち抜いた主力戦闘機として知名度が高い。タイトルの“飛行士”は無論戦闘機乗り。ここから熾烈な航空戦が描かれることを期待したが、空戦シーンは2,3話の中でわずかに語られるだけ。
当時植民地であったケニアで飛行訓練を受けている狩猟家が語る「あるアフリカの物語」は夜な夜な牛乳を飲みに来るヘビを利用した復讐話、ギリシャの小島から脱出する際パイロットと空爆で娘を亡くした両親のやりとりを静か記した「昨日は美しかった」、宮崎駿監督が「紅の豚」や「風立ちぬ」の一シーンにとりいれたといわれる「彼らは歳をとるまい」、読んでいてこれは映画になるなと思ったのは、空戦で片足に負傷、パラシュート降下するものの失神、気がつけば病院の個室、足は切断されているが英人医師・看護婦は丁重に看護してくれる。しかし苦労して窓際に向かい牧草地はるか先ある看板を読むとフランス語で「猛犬に注意」(題名)、「???」。こんな飛行士たちの奇妙な体験、語り次がれてきた神話、失われた戦友の回顧などを、ときにユーモラスに、ときにミステリアスに、ときに警句のように、ときに幻想的に語り、鋭いオチで締めくくる。短編の極意を知り尽くした名手の作品が並ぶ。
戦争を扱いながら、ミステリーや冒険小説、スパイ小説などとはひと味違う作風は、一つの分野に拘泥せず、否、むしろ意識的に転換を図ろうとする、作家としての生き方にあるのではなかろうか。著者のもう一つの活動分野に童話作りがあり、その代表作「チョコレート工場の秘密」は映画化もされている。ここから振り返ると本書が大人向け童話ではないかと思えてくる。
・本年読んだ本は70冊(73巻)。今年のベスト3は以下の通りです。
①
果てしなきイタリア旅行;二村高史(草思社);5月紹介
全20州250以上の村や町を公共交通機関で走破
②
修理する権利;アーロン・ペルザノースキー(青土社);8月紹介
自動車・家電・IT機器、修理困難加速。技術・経営・法律・環境面から考察
③
翠雨の人;伊与原新(新潮社);8月紹介
放射能測定分析の世界的権威、猿橋勝子の伝記小説
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