2022年12月31日土曜日

今月の本棚-173(2022年12月分)

 

<今月読んだ本>

1)戦争について(小林秀雄);中央公論新社(文庫)

2)伊能忠敬の日本地図(渡辺一郎); 河出書房(文庫)

3)プーチン戦争の論理(下斗米伸夫);集英社(新書)

4)翻訳、一期一会(鴻巣友季子);左右社

5)夢見る帝国図書館(中島京子);文藝春秋社(文庫)

6US Air Power around Japan(瀬尾央編);日本航空写真家協会

7)麦と兵隊・土と兵隊(火野葦平);KADOKAWA(文庫)

 

<愚評昧説>

1)戦争について

-一級文化人の戦争観。戦意高揚に加担せず、反戦にも組せず。付和雷同を戒める-

 


ノンフィクションが80%、小説はスパイ物か軍事サスペンスのみの私の読書では、著名な文芸評論家などほとんど無縁である。唯一著者の作品で読んだことがあるのは「読書について」のみ。本書を読むことになった動機は本年8月に紹介した「満洲国グランドホテル」にある。これは満州事変から終戦直後まで満州を訪れたり居住したりしていた有名人(政治家・軍人を除く)の言動を検証するもので、そこで記憶に残った一人が本書の著者小林秀雄である。彼は昭和13年(1938年)10月に満州を訪れているのだが、「満洲国グランドホテル」では二つの話が紹介され、それが極端に異なるのだ。最初は新京に在った官吏養成大学建国大学での評判「威勢のいいべらんめえ調にびっくり、それに真面目な学生たちが反感を持つありさまが容易に想像できる」と言う大学教官のコメント。第二は、このあと(11月)辺境の街黒河(東部ソ満国境)に設けられた満蒙開拓青少年義勇隊孫呉訓練所(16~18歳、約1400人)を訪れ、その環境の酷さ(特に住環境と寒さ)に涙する場面である。どちらが小林像として実像に近いのだろう。これを見極めたく引用されていた紀行文「満洲の印象」が載る本書を読んでみることにした。

本書は、昭和17年(1932年)10月に朝日新聞に寄稿した「戦争と文学者」から始まり『文藝』昭和1810月号「文学者の提携について」で終わる35編の評論・随筆・紀行と終戦翌年(1946年)荒正人・植谷雄高・平野謙など当時を代表する評論家との対談から成る、小林の戦中活動を総括する内容で、本年10月中公文庫オリジナルとして刊行された。

全体の読後感として「その時々において自分の率直な気持ちを表している」と印象づけられた。つまりむやみと戦意高揚を煽らないし、戦争批判を声高に叫ぶわけでもなく、また戦後その姿勢を懺悔して見せるわけでもない。むしろそのような動きに付和雷同するメディア、言論人あるいは大衆に対し、冷静に状況判断するよう忠告しているように読めた。戦場に赴いた時には常に兵士に目を据えて考察、彼等の挺身を率直に称える。これは戦後文藝春秋誌などで垣間見た、文藝批判における厳しい口調からは想像できない穏やかな戦争観であった。根本に在るのは「自分は文学者であり歴史家であって、社会・政治評論は門外漢」と言う姿勢だ(決して厄介な問題を逃げると言うわけではなく)。ただ戦時と言うこともあるのだろう、本居宣長(代表的研究対象)の国学・国史に基づく戦争(歴史)観が随所で援用されるのだが、これはかなり難解で辟易させられた。「満洲国グランドホテル」では「?マークの付く人物」と受け取っていたが、本書を読んだのちは「信用のできる人」に変じた。

「戦(いくさ)は好戦派という様な人間が居るから起こるのではない。人生がもととも戦だから起こるのである」(『文学界』昭和173月号;前年12月開戦直後に書かれたものと推察する)、なかなか考えさせられる言葉だ。

 

2)伊能忠敬の日本地図

-歩行距離35km18年におよぶ大事業が49歳から自費で始めた隠居仕事だったとは!-

 


本をどう選ぶのか?よく問われる。活字中毒者だが何でもいいと言うわけではない。白状するが、科学技術史と明治維新、昭和史を除けば日本史は対象外だ。他人に「これは面白いよ」と薦められるものに惹かれることも滅多にない。その点で本書は例外中の例外である。日本史の一部でありジム仲間(土木技術者)が語る本書の内容に「是非読んでみたい」と感じた本である。

本格的な地図関連図書で最も印象に残るのは1972年に読んだ堀淳一著「地図のたのしみ」(日本エッセイスト賞受賞)、直近でも「道をたずねる」「地図づくりの現在形」「地図鉄のすすめ」などを紹介してきた。しかし、地図好きにも関わらず、我が国近代地図作成の祖である伊能忠敬について何も知らないことに気づかされ、「読もう」となった次第である。

10章から成る本書は、厳密に分けられているわけではないが2部構成となっている。第1部は型通りの経歴・行動経過が記され、第2部は完成した地図とその複製図あるいは模写図の行方を追う著者の活動報告である。後者は全くの想定外、著者はこの部分に力を入れているので、書画骨董探しのような古地図探査を楽しむ結果になった。

著者は1929年生まれの元電電公社(現NTT)社員(電通大出身の技術者)、2020年没。51歳で公社退職、65歳まで会社経営に従事、1994年頃から伊能忠敬研究に専念したアマチュア研究者。

忠敬の生涯と活動を手短にまとめると;1745年上総小関村(現九十九里町)名主の末子として生まれ、佐原(現香取市)の酒造家伊能家の養子となる。家業を拡大(運送業、米穀販売、薪問屋、貸家経営、田畑耕作)、49歳で隠居、江戸へ出て天文方に師事、天文学と暦学を学ぶ。ここで地図に関心を持ち、地理不明確な蝦夷地の探査を提言し、自費でこれを行う。第1次測量は18006月に江戸を出立、本州は奥羽街道を往き、松前からニシベツ(現別海町)まで沿岸測量を行い180日で江戸に戻る。爾後10次まで、東日本・西日本・九州と進んで、1816年最終次伊豆七島・江戸内府で全国測量を完了する。3種の完成図(後述)が幕府上程となるのは1821年だが、それ以前1818年江戸亀島町(現茅場町)の地図御用所で病没。隠居仕事、自費(5次以降は官費となるがかなり持ち出し)、全測量日数3753日、推定歩行距離35km、そして一見最新地図と違わぬ完成度(経度測定が難しく東西方向にひずみがある)。信じ難い隠居生活である。

幕府に提出された地図「大日本沿海輿地全図」は小図(3枚、435千分の1)、中図(8枚、215千分の1)、大図(214枚、36千分の1)の3種が正・副2部あった。正は江戸城西の丸に保管されていたが1873年の失火で建物と伴に焼失、副は東大図書館に移されていたが、これも1923年の関東大震災による図書館火災で失われ原図は現存しない。ただ伊能地図は第一次から幕府はもとより諸藩の注目とするものとなり、測量地域を始め各所に部分的な複製や模写が残る結果になった。特に原図を針で突いて復元したものは歴史的価値があり、第2部はこれを求めて著者が日本のみならず世界(米・英・仏・伊など)を巡る話となる。1823年のシーボルト事件(伊能地図の海外持ち出し)ほど大事にならなくとも、幕末・明治初期部分的に海外流出した模写図が散在しており、これらのコピーや国内で見つかったものを合わせると原図に近い状態まで復元できるところまできているのだ。この部は著者の伊能地図にかける執念が窺える。

今思うことは二つ。本格的な伊能忠敬伝を読んでみたい、暖かくなったら佐原に在る「伊能忠敬記念館」を訪ね復元図を見たい、である。

 

3)プーチン戦争の論理

-盗人にも三分の理?ソ連・ロシア研究者が分析するプーチンの言い分-

 


ウクライナを初めて国家として知ったのは、中学の社会科テストだった。国連発足時のオリジナルメンバーを問う選択問題でその名があったのだが、ソ連と言う国の一部と思いこれを選ばず×を付けられた。正解が示されたとき「何故独立国なのか?」との疑問を持ったが質すことはしなかった。後年これは米・英・ソ・中が国連創設を検討した際、大英帝国がカナダ、オーストラリア、ニュージーランドなど多くの旧植民地国家を加えることにソ連が難色を示し、バランスをとるためベラルーシ、ウクライナ、バルト三国などソヴィエト連邦を構成する国々を加えるよう要求したことにあると知った。しかし、テスト時の誤りはその後もすっきり正されたわけではなく、ソ連崩壊後2003年からロシアビジネスに従事しウクライナを訪問してもロシアとの一体感は拭えなかった。戦争勃発後本欄(20225月)で取り上げた黒川祐次(元駐ウクライナ大使)著「物語 ウクライナの歴史」読んでその複雑な歴史を一応知ったが、この著書は戦争遥か以前に著されており、直下の状況との結びつきが薄い。そこで読んでみることにしたのが本書である。

著者は1948年生まれの著名なソ連・ロシア研究者(法政大学名誉教授)。本書の中でプーチン大統領(首相時を含む)と数十回会っていると記されている(単独で会話したのは一回。他は定期的に開催されていた会議のメンバーとして)。それだけに本書の内容はタイトルにもあるように“プーチン(すなわちロシア側)の論理”を解説するものになっている。ただし、それを正当化するものではなく、戦争を始めたことは愚行と断じている。

話は、今回の侵攻作戦概要説明に始まり、ロシアとはそもそも何か、ソ連崩壊後の旧連邦構成国の再編成とそこにおける西側との関係(主に安全保障)、背景に在る宗教問題、プーチン登場とその権力掌握の過程、ウクライナの国内事情(揺れる対露政策)、今後の見通し、と展開していく。なお、軍事作戦そのものには一切触れていない。

数々在るプーチン戦争論理で印象づけられた第一は宗教問題。キエフ・ルーシが両国の原点、精神的支柱が東方教会(ロシア正教)、その首座がキエフ(キーウ)からモスクワに移る。一体化の論拠はここにある。しかし、ウクライナ西部がポーランド・リトアニア大公国の支配下でカトリックの勢力圏となったことで二つのウクライナ(東部、西部)が生じ、この宗教問題が今次の戦争の底流ある。ここまでは最近のウクライナ解説に共通する部分だが、著者は共産党独裁下で禁じられていた正教の内奥に一歩踏み込む。それは地下で命脈をつないでいた正教の異端(教義ではなく儀式礼法)“古儀式派(正統派以上に反カソリック。ウクライナ東部にはこの信徒が多い)”の活動が戦争(同胞救済特殊作戦)発起の大きな動機と読む。古くはソ連外相を務めたモロトフ、グロムイコ、直近ではエリツィン大統領等が古儀式派に属し、プーチンの周辺にもその影がちらつく。いずれもウクライナ人ではないが、彼等のネットワークは無視できず、プーチンは2017年この派を正教として公式に承認している。民族以上に宗教が根元的一体感の基なのだ。

プーチンが主張する侵攻正当化理由でロシア人救済以上に重きを置いているのが国家安全保障、つまりNATO東方拡大問題である。これも既によく知られるところであるが、著者が力点を置いて説くのは西側の動きにある。ベルリンの壁崩壊直後、19902月ドイツ統一に関してゴルバチョフ書記長とベーカー米国務長官が交わした合意である。文書化はされていないが「1インチたりともNATOを東へ拡大しない」と約しており、コール独首相も同様の発言をしている。これを破ったのがビル・クリントン大統領、1996年の再選を目指し、五大湖周辺に1千万票あるポーランド、ウクライナ系住民の支持を得んとNATO東方拡大を訴え再選を果たす。後任のブッシュ(ジュニア)もこの政策をさらに進める。ロシア人(プーチン)にすれば、ワルシャワ条約機構は解体したのに何故そんなことをするんだ、となる。戦中・戦後の米駐ソ大使で「封じ込め戦略」を提唱したジョージ・ケナンも生前(2005年没)「東方拡大は冷戦後最大の過誤である」と批判するほど外交専門家には愚行と断ずべき政策なのだ。プーチンがウクライナNATO加盟に断固反対するのは、このような西側の事情もあってのことである。

宗教、安全保障に次いで言及するプーチン論理はウクライナの内政・外交の混乱である。各種の外交上合意(ウクライナの非核化(ソ連崩壊直後第3位の核保有国)、黒海艦隊の共同管理、東部諸州に関するミンスク合意など)がことごとく反故にされていくことで欧米・ウクライナ不信を募らせ、侵攻を決意させる。

では停戦は可能なのか?著者はこのカギは専らウクライナの国内事情にあるとし、停戦を望むゼレンスキー大統領と「完全勝利」を求めるクレバ外相との溝が埋まっていないことから、それが短期に実現されることはないと見ている。

既読のウクライナ物と大筋において整合性が取れ、かつ数少ないロシア視点で侵攻を考察しているところに価値を認める。

 

4)翻訳、一期一会

-売れっ子翻訳者とゲストに依る、独語ありハングルあり「枕草子」ありの翻訳合戦-

 


日本文化史の一端に翻訳史がある。漢字の輸入からひらがな・カタカナが派生し、和歌や随筆、小説が普及していく。四書五経を始めとする漢籍や仏典の翻訳・解釈はやがて国学へと発展する。幕末には「蘭学事始」に記された「解体新書」翻訳の苦労話がある。明治維新における近代化では英・米・仏・独語の原典を基に法学・医学・理学・工学の教育体系や社会制度が整備されていく。露語を含めた文学またしかり。翻訳の国際収支を考えれば世界断トツの債務国だが、だからと言って蔑む必要はない。これだけの外国文化・情報を咀嚼・消化し、自家薬籠のものとした国家・民族は他にないのだから。しかし、時代が下り翻訳の底辺が広がるとともにその質にバラつきが目立ってくる。当初はこちらの知識不足と思っていたが英語版の方が分かり易いことをしばしば体験、自分の理解力より翻訳者の力量が気になりだした。その頃出合ったのが発刊時上智大学文学部教授(比較文学)だった別宮貞徳著「誤訳・迷訳・欠陥翻訳」である。続編もあるそれは翻訳者(監訳者を含む)・原文・訳文を俎上に上げ具体的・徹底的にそれを追及するもので、爾後翻訳物を読んでいるとここで知ったことが気になり、内容に集中出来ないことすら生ずる。別宮の言わんとするところは「翻訳力は何よりも日本語を書く能力であり、翻訳者はまず文章のすぐれた書き手でなければならない」「二つの言語の出遭いの場では、単語・文形の<相似(アナロジー)>にしばられるのではなく、文意の<相同(ホモロジー)>を追究し、異なる文化風土のなかに息づかせることが大切である」となる。

書評で本書を知った。どうやら当代人気の翻訳者らしい(新潮文庫「嵐が丘」「風と共に去りぬ」の新訳など手掛けている)。彼女は翻訳をどう考えているか、それを知りたく手にした。

極めてユニークな構成だ。本書は翻訳問答シリーズの一巻で今回はその3巻目。著者がホストとなり、章ごとに異なるゲストが呼ばれ、外国語の例文をそれぞれ訳し、その後訳文を中心に意見交換する。翻訳例文は英語から日本語への翻訳ばかりでなく、日本語からドイツ語に翻訳されたものを日本文に戻すものや、英語原文をハングル文に訳したものを日本語にするなど、英語以外の言語も取り上げられている。ただ、必ず英語原文か英訳があり著者は専ら英文からの翻訳となる。

ゲストと課題:横尾忠則(画家);ノーベル文学賞を受賞したボブ・ディランの曲「Blowin’in the Window(風に吹かれて)」、多和田葉子(芥川賞受賞作家、在独でドイツ語小説を書いている。課題はドイツ語からの訳);「枕草子」「奥の細道」、ダイヤモンド・ユカイ(ミュージシャン);「Hotel California」、斎藤真理子(ハングル文翻訳家、ハングル文からの訳);「風と共に去りぬ」。

課題は詩の場合全文だが、小説・随筆は部分。原文(英語、日本語)あるいは翻訳対象文(ドイツ語、ハングル)の後に両者の翻訳文(日本語)が続き比較できるようになっている。この後に続く対談が本書の骨子、導入部は原典や作者にまつわるゲストの想い出話や世相などから始まり(例えば横尾の場合、この曲が流行っていたころ(1960年代半ば)ニューヨーク近代美術館で個展を開催)、次いで二人の翻訳比較に入っていく。

全体としては“文意”中心の議論だが詩歌では文形も問題にする。文意の解釈も奥が深い。作者の意図(時代背景などを含む)を訳者なりにくみ取りそれをベースに翻訳するのだ。時には語句の裏に隠された隠喩まで勘繰ってみることもある。ここで両者の違いが出てくる。また文意重視とは言っても“単語”を決して軽視しない。「風と共に去りぬ」では「スカーレットの性格からXXXと言う単語を選択した」と言うように。同様に文法も重視、特に完了形の訳に注意していることが対話からうかがえる。ハングル文からの翻訳では英語から直接訳す場合とハングル経由で訳す場合の用語選択の違いを語り、ドイツ語による「奥の細道」では“静かさや岩にしみいる蝉の声”が課題となるが、ドイツに蝉はおらずそこで使われている独語はカマキリなどの意もある昆虫用語が当てられている、など言語文化や環境の違いと翻訳に関する会話も楽しめる。横尾、ユカイは翻訳の専門家ではないが、全員別宮言うところの「異なる文化風土のなかに息づかせることが大切」の領域まで訳し込んでいる。少々物足りなかったのはホスト、ゲストともに相手に合わせる姿勢が強く“対決”場面が皆無だったことである。

対談とは別に、台湾のベストセラー作家、日本に幼時から居住する台湾人作家、台湾文学翻訳家、著者4人による、ベストセラー作家の作品を題材にした北京語・台湾語・日本語翻訳に関する座談が付加されている。ここでは漢字と言う共通因子がありながら、思わぬ解釈の違いに驚かされる。

著者は1963年生れ。大学卒業後著名な翻訳家に師事するとともにお茶の水女子大学大学院英文科で学び修士号を取得。新潮社、講談社、早川書房など一流出版社から多数の訳本を出している。ミステリーやサスペンスも多く、機会を見て読んでみたいと思っている。

 

5)夢見る帝国図書館

-直木賞作家が自身を主人公と重ねて語る帝国図書館をめぐるミステリアスな歴史探訪劇-

 


私が学んだ高校は都立上野高校。通学路は公園口から出て動物園方向に向かう。右手は現在国立西洋美術館、左手は東京文化会館だ。国立博物館前広場を横切り動物園と都美術館の間の道を抜け東京芸大を左右に分かつ道路を進む。道の右側は音楽学部、左側は美術学部、芸大が終わるところを左折したところに学校がある。左折せず十字路を直進すればやがて谷中の墓地に至る。駅を出た現在東京文化会館の在る所は当時高い金網フェンスに囲まれたグランド、西洋美術館所在地は“葵部落”と呼ばれるスラム街だった。地理案内したのは本書の舞台が葵部落から谷中に至る一画だからだ。タイトルにある帝国図書館(現在の国会図書館に相当)は国立博物館と音楽学校(現芸大音楽学部)の間に在り現在は国際子ども図書館(2000年開館)となっている。読む動機は図書館と土地勘のある上野の山にある。

主人公は著者自身と重なる30代半ばの“わたし”、脇役は“喜和子さん”と言う初老の女性、それに“帝国図書館”である。フリーランス雑誌記者であるわたしは取材のため子ども図書館を訪れる。取材がおわり広場を見渡すベンチで休んでいると喜和子さんが同じベンチに座る。白髪、頭陀袋(ずたぶくろ)のようなスカートを穿き上は端切れを接ぎたした(孔雀のような)ジャケットを纏っている。「あんた仕事はなに?」「小説を書いています」と二人の会話が始まる。子ども図書館への取材が何度か続きわたしと喜和子さんが会う機会が重なっていく。子ども図書館が元は帝国図書館だったこと、リニューアルされる前は喜和子さんもよく訪れていたことを語り、わたしに帝国図書館を舞台にした小説を書くよう勧める。親しさは増し、やがて谷中の路地奥にある喜和子さんの借家(狭い二階家、二階は芸大生に又貸している)を訪れるまでになる。依然正体の知れない喜和子さんだが上野の歴史と帝国図書館にはやけに詳しい。一体全体この人はどういう生まれ育ちなのだろう?これを探っていくのが物語の骨格なのだが、それに帝国図書館の歴史を重ねたところが私にとっては読みどころだった(歴史はおろか存在も知らなかった)。二人の会話が一段落するたびに場面が一転、図書館の歴史に変わる(この部分を“夢見る帝国図書館・X”と章を改めX25まで続く)。国家運営の大規模な図書館(ビブリオテーキー)の必要性を最初に説いたのは福沢諭吉、これを受けてその設立に奔走するのが文部官僚の永井久一郎(荷風の父)、博覧会優先でそれを抑え込む大久保利通。予算不足・場所不足はこの時から閉館まで続く。最初の図書館は湯島聖堂の一部を借りてスタート(明治5年;1872年;鉄道開業と同じ年)、この時代の利用者に夏目金之助(漱石)、幸田露伴等が居る。これが上野へ移るのは明治18年(1885年)、書庫不足と火災を恐れてのことである。上野に移ってからの有名人利用者は多々居り、明治・大正の文人で帝国図書館を訪れ無い者は無かったほど日本文学と深く関わる場所だったのだ。著者は女性、先ず注目するのが樋口一葉、何故か喜和子さんの侘び住まいに樋口一葉全集(これがのちに謎解きに使われる)が揃っており、二人で一葉の住居跡など訪れる。以降夢見る帝国図書館の章は昭和22年(1947年)閉館(国会図書館の設立)に至るまで、戦争(戦争で絞られる予算、書籍疎開)と利用著名人を中心に進んでいく。

喜和子さんは子供の頃“おにいさん”のリュックに入って図書館にたびたび来ていると言うが現実離れした話。複雑な生い立ちがポツリポツリと見えてくる過程で登場するのが“葵部落”、本人は一言も語らないが“おにいさん”とここで暮らしていた形跡がある。喜和子さんは介護施設で亡くなり、娘や孫娘の世代までミステリアスな解明劇が続く。最初に二人が会ってからすべてが片付くまで15年、この間わたしは文学賞を受賞、小説家として一本立ちする。

著者は1964年生れ。フリーライターを長く続け、2010年「小さいおうち」で直木賞を受賞。明らかに著者の実人生と重なる。本作品で第30回(2020年)紫式部文学賞受賞。

 

蛇足;葵部落は高校在学中整理が始まり(この話も文中に出てくる)、1959年(昭和34年)そこに国立西洋美術館が開館した。

 

6US Air Power around Japan

2010年以降我が国中心に活動する米航空戦力を、230葉を超える写真で解説する。多種多様な軍用機に“さすが米軍!”の感-

 


19519月サンフランシスコ平和条約調印。それまで禁じられていた航空関連の活動が日本人の手に戻り、航空機製造・運用は無論のこと航空関連書籍出版も自由になる。乗物マニアの中学生にとって画期だった。美しい写真の数々を目にし、それまでの鉄道技術者志望が航空技術者に転じる。手元にある航空雑誌の最も古いものは「航空情報(第4集)」(昭和271月刊)「世界の航空機(第3集)」(昭和269月刊)、また航空写真年鑑とも言える朝日新聞社刊「世界の翼」は、古書として入手した昭和17年版は例外として、昭和27年版(昭和2612月刊)が最も古い。ただ中学生にとって記事は難解、専ら写真を楽しむのが講読目的だった。大学時代は「航空情報」「航空ファン」を愛読、就職してから一時期雑誌購読は中止したものの、IT利用推進と航空発展史の相関に気づき1970年頃から「航空情報」誌購読を再開する。しかし、1974年半ば「航空ジャーナル(7月号)」が創刊されるとこちらへ乗り換えた。軍用機を中心に最新情報を航空関係者向けに絞り込んだ編集方針、記事に歯ごたえがあり、特に自前の写真が秀作ぞろいだったからだ。この時記憶に残ったのが本書制作統括・編集長で日本航空写真家協会会長の瀬尾央(ひろし)である。日本人の写真家が最新米軍用機に乗組んで撮影することなど想像も出来なかった時代、先ず「この人はどんな伝(つて)でこんな写真が撮れるのだろう」との疑問が起こった。次いで惹かれたのは、躍動感を残しながらカチッとした写真の出来栄えだった。爾来瀬尾ファンとなり現役時代の後輩を介してフェースブック(FB)友達に加えてもらい本書の出版を知った。

本書のタイトルは在日米軍ではなく“Air Power”、副題は-日本の空を飛んだ米軍航空機をめぐる“小史”-。いずれも意味があることが読んでみて分かった。在日米軍としなかったのは、中継飛来したり一時訓練運用されたりした機も含めているからだ。例えば、エアーショーのためにグアムからやってきたB-1爆撃機や大統領専用機エアーフォース・ワン(ジャンボ)などがその例だ。“小史”としているのは期間を2010年から2022年の間に限っていること、この間の撮影対象機の所属変更・活動経緯など時間的変遷(歴史)を解説に加えていることにある。つまり、撮影された機とその簡単説明で留まる写真集とは異なることを示している。そしてこの二点がマニアにとって大きな価値を持つのだ。“Air Power”とすることで常駐する機種を大幅に上回る対象を取り上げることができている。その数は大分類(例えば、艦載機の主力戦闘・攻撃機F/A18にはA,B,C,D,Eまであり、さらに電子戦機EA18があるが、これをひとまとめにして1機種とする)だけでも30を超える。部隊編成の変化や機種変更は日本を取り巻く東アジアの軍事情勢を反映し、それぞれの機体が果たす役割をうかがい知ることができる。私にとってこの解説が最も興味ある部分だった(例えば、北朝鮮情勢が緊迫すると特殊な電子偵察機が配される)。

構成は、ある程度時代順になっているものの厳密に並べられてはおらず機種毎でもなく、比較的自由な50を超える課題でまとめられている(例えば、「嘉手納の日常」、「東日本大震災直後の厚木」のように)。撮影者は12名、テーマごとの解説は基本的に撮影者によって記述されている。ある意味撮影者のその写真や機に対する思い入れ中心に書かれ、飛行機以上に撮影時の苦労話に重点を置く人もいる。

製本はA4の横開き、見開き1頁の写真が多いからこの形式が生きる。写真は230葉を超え、全画面の撮影環境(カメラ機種・レンズ・シャッタースピード・絞り・受像部感度(ISO)・撮影年月日・場所)が記載されている。これは写真を趣味とする(あるいは本業とする)人にとって貴重な情報だろう。写真と印刷の仕上がりは一級品。高速移動体にも拘らず細部(機体取扱いの注意書き)まで確りとらえ、急速旋回する戦闘機の躍動感、プロペラや回転翼の回転状態、自然光の生かし方や夜間撮影の妙、を堪能できる。また超レアーな機体(例えば、高高度偵察機U-2Sや輸出禁止・製造停止となったF-22Aなど)のスクープもあり、あらゆる角度から軍用機写真を楽しみ、かつ我が国をめぐる最新の米航空戦力を知ることができる。

唯一の問題は本書の入手方法。私は12月に開催された協会の写真展会場で求めることができたが、入手後Amazonで調べたところ見つけられなかった。発行元は日本航空写真家協会(検索で協会のHPにアクセス可)。

 

7)麦と兵隊・土と兵隊

-小林秀雄絶賛の超ベストセラー。検閲を潜り抜けた臨場感あふれる中国戦記-

 


軍事技術史の視点からすると中国戦線ほど興味の沸かない戦場は無い。日支両軍とも欧州戦線とは比較にならぬ単純・低性能な陸戦兵器で戦っているからだ。しかも、長期間膨大な資源(人とカネ)をつぎ込みながら、マレー半島上陸作戦やガダルカナル、インパールのような戦争の帰趨を決する大決戦も無い(と思っていた)。そんな私が中国戦線を扱った古い(昭和12年~13年(1937年~1938年))戦記を読んでみようと思った動機は、先に紹介した小林秀雄の「戦争について」にある。この中で小林は「麦と兵隊」を以下のように評している(昭和1384日東京朝日新聞)。「火野葦平の「麦と兵隊」を読み、感動を覚えた。人の肺腑を突くものがある」「(支那)事変以来、幾多の従軍記が現れたが、この従軍記が一つずば抜けていると僕には思われる」と。一級の文芸評論家が感動するほどの作品、「これは読んでおかなければ」となったわけである。

本書解説によればここに収められた「麦と兵隊・土と兵隊」(出版時は合本でない)の他に「花と兵隊」と併せて著者は「我が戦記三部作」と称していたようだ。その合計発行数は三百万部以上と推定されほどの超ベストセラーである。それぞれの副題は、“麦”が-徐州会戦従軍記-、“土”が-杭州湾敵前上陸記-、“花”が-杭州警備駐留記-、執筆・出版はこの順だが、戦いの時間経過は土→花→麦の順となる。この3部作で“花”は副題に“駐留記”とあるように戦闘シーンは無いようだ。“土”の舞台となる杭州湾上陸作戦は19378月から始まった第二次上海事変に際し、上海を南北から挟撃することを目的に、11月南部方面からの大規模な軍事行動である。これに対して“麦”の戦いは上海を抑えた後南京と天津を結ぶ要衝徐州を落とすため19384月から6月かけて行われた作戦で徐州会戦と名付けられている。

ではこれら作戦に至る火野の経歴はどんなものだろう。明治40年(1907年)福岡県若松市で誕生。父親の職業は主に石炭を扱う沖仲士の組頭(何度も映像化された「花と龍」モデル)。旧制小倉中学を経て早稲田大学文学部に学び卒業を前に昭和3年(1928年)21歳の時福岡歩兵連隊に幹部候補生として入隊、教育を受ける。この間レーニンの訳本を持っていたことが発覚、本来なら軍曹で除隊となるところを一階級下の伍長で終える。また、父から家業を継ぐよう乞われ大学を中退、組の経営に当たるとともに沖仲士労働組合書記長を務め、石炭積み込み機械化反対ストなどを指導、特高に逮捕されて転向する。昭和12年(1937年、30歳)既に妻子がありながら支那事変勃発で9月召集され、歩兵小隊の分隊長として116日敵前上陸となる。こののち昭和133月杭州滞在時「糞尿譚」で第6回芥川賞受賞が決まり小林秀雄が来訪、陣中授賞式が行われる。この受賞を機に中支派遣軍報道部勤務となり徐州会戦に従軍、「麦と兵隊」はこの時の体験をもとに書かれる。10月原隊復帰、その後広東作戦、汕頭(スワトウ)作戦、海南島作戦など転戦、昭和1411月現地除隊となる。歴戦の勇士が実戦体験をもとに書いたものだけに両作品とも臨場感抜群、歩兵を理解できたような気がしてきた。

「麦と兵隊」;この時は戦闘部隊の兵士ではなく報道部員として従軍記者たちの世話、占領地住民宣撫が主務。班長は中佐、直属上長も少佐、部員はほとんど将校。兵隊は徒歩行軍だが伝単(パンフレット)運びもあって時には自動車を利用している。ただ行動範囲は前線部隊近くにあるので頻繁に戦闘に遭遇。特に城塞都市孫圩(そんう)は日本軍も攻めあぐね、戦車で城門突破を試みるが軽戦車ゆえ体当たり攻撃しかできず、城塞からの銃砲撃に戦死者・負傷者続出、著者も九死に一生と言う場面もある。行軍路は未舗装道路、降ればぬかるみ照れば土埃、住民が逃げ去った村々、突然の狙撃、掘っ立て小屋の野戦病院、ゲリラの夜襲、南京虫・ノミの襲撃、悪質な水、細る補給、英雄は一人も居ない、そして大海原のようにどこまでも広がる麦畑。小難しい戦争観など皆無、淡々としかしリアルに描かれた日記形式の戦記は54日から始まり522日で終わる。小林が評したのは、この誇張の無い臨場感ある筆致だろう。

「土と兵隊」;「麦と兵隊」が日記形式であったのに対し、こちらは弟への手紙形式で記される。手紙の日付は昭和121020日から始まるが門司港を発ってかしばらく五島列島付近の泊地に留まり、杭州湾北紗上陸は116日払暁、霧の中の作戦。最終は15日目標とした嘉興攻略間近のところで終わる。“麦”とは異なりこの時は13名の部下を持つ第2分隊長として戦闘に次ぐ戦闘の第一線にある。舟艇を使っての上陸作戦は比較的被害は少なく分隊員は全員無傷で橋頭堡を確保するが、そこからの進軍は強固な敵トーチカとクリーク、泥濘に難渋をきわめる。泥飴をこね回したような道は水田を進む方が楽なくらい酷い。著者をして「行軍よりも戦闘の方がありがたい」と言わせるほどの酷道である。足は豆だらけ、その豆がつぶれ、靴下は底の部分がすり減り無くなってしまう、馬は倒れ、クルマは動けず、落伍者、戦死者、負傷者続出、厳しい進軍が続く。当に「土(どろ)と兵隊」だ。“麦”同様ジャーナリスティックな表現は無いが、読んでいてひと風呂浴びたくなるほど泥まみれ感を味あわされる。

気になったのは検閲である。この点に関し戦後(合本となった文庫本のために)記した“あとがき「麦と兵隊」「土と兵隊」を書いた頃”で触れ、以下のように述べている。「当時、ペンに加えられていた制限は大きなものであった。第一、日本軍が負けているところを書いてはならない。次に、戦争の暗い面を書いてはならない。第三に、戦っている敵は憎々しく書かねばならなかった。第四に、作戦の全貌を書くことは許されない。第五に、部隊の編成と部隊名を書かせない。第六に、軍人の人間としての表現を許さない。第七に、女のことは書かせない」「それでもギリギリ書いてみたかったことが本書になったが、本来の原稿通りでない部分がある(無断削除)」と。ここから推察すると、著者が書きたかったことと、出版されたものには差異があることとなるが、本意は表現できたと判じていいのではなかろうか。

 

蛇足;上陸作戦で兵士の履いていたのは軍靴でなく地下足袋!著者は昭和35年(1960年)1月睡眠薬自殺。

 

○本年総括

・冊数と種類;ノンフィクション58(英1、フィクション16、計74

・今年の三冊;①天路の旅人(沢木耕太郎、11月、NF)、②神田神保町書肆街考(鹿島茂、11月、NF)、③屈辱の数学史(マット・パーカー、7月、NF

 

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2022年11月30日水曜日

今月の本棚-172(2022年11月)

 

<今月読んだ本>

1)アクティヴ・メジャーズ-情報戦争の百年史-(トマス・リッド);作品社

2)天路の旅人(沢木耕太郎); 新潮社

3)あの本は読まれているか(ラーラ・プレスコット);東京創元社(文庫)

4)鉄道ビジネスから世界を読む(小林邦宏);集英社(新書)

5)英語教育論争史(江利川春雄);講談社(選書)

6)神田神保町書肆街考(鹿島茂);筑摩書房(文庫)

 

<愚評昧説>

1)アクティヴ・メジャーズ-情報戦争の百年史-

SNS話題の脱真実時代、偽情報に依る世論操作は100年前からから始まっていた-

 


国の安全保障や国策を有利に進めるための組織としてCIA(米)、KGB(カー・ゲー・ベー、ソ連崩壊後はFSB)、MI-6(英)などの諜報機関がある。その活動は国内治安維持や軍事・外交情報の収集・分析からクーデター計画の推進、軍事作戦支援、要人暗殺のような謀略まで広範なものだ。そんな活動の中で、地味ではあるが連綿と続けられているものに世論操作(偽情報に依る偽計;これを本書ではアクティヴ・メジャー(積極工作)と称している)がある。第二次世界大戦前ナチスドイツが軍事力(特に空軍力)を実力以上に見せることにで、初期の領土拡大に貢献したことはよく知られるところだ。そしてSNSSocial Network Service;ツイッター、フェースブックなど)を道具とするポストトゥルース(脱真実;客観的な事実報道より情感に訴える情報が信じられやすい)の時代、ブレグジット(英のEU脱退;これは外国からの謀略ではないが)、トランプ対ヒラリー大統領選挙では、巧妙な世論操作が結果を左右したと言われている。本書は1921年から2017年までのおおよそ100年にわたる世論操作を31の実例・テーマで詳しく紹介するものだ。

2003年から2005年にかけて頻繁にロシアに出張した。既にソ連崩壊から10年以上経ていたにもかかわらず中央集権体制は依然徹底しており、何処へ行くにもモスクワを拠点にせざるを得ないようになっていた。モスクワ第一の観光名所は赤の広場とクレムリン、休日にはよくその辺りへ出かけたものだ。定宿ホテル近くのプロスペクト・ミーラ駅から地下鉄で45駅目のルビャンカ駅が乗り換えなしの最寄り駅。深い地下鉄のホームから何度かエスカレータを乗り継いで地上に出ると、そこはソ連崩壊前“ジェルジンスキー広場(中央にジェルジンスキーの銅像が在ったが撤去、広場の名称もルビャンカに変更)”と称するロータリー広場になっており、その向こうに薄茶色の大きなビルが見える。KGBの本部ビルだ。スパイ小説ではルビャンカと言えばKGBの換語となるほど関係深い。

ジェルジンスキーは1920年代の秘密警察(чk;チェーカ)創設者、その後のソ連諜報組織に絶大な影響力をおよぼした人物。第1話はこのジェルジンスキーが主導した“トレスト(合同)作戦”から始まる。国内に反革命疑似組織を作り、偽情報で国外にいる反革命支援者を操り、反革命分子の大量逮捕・処刑と組織壊滅を目的とした6年にわたる偽計作戦である。本書に取り上げられる事件の8割方はロシア・ソ連の諜報組織、чkKGBGRU(ゲー・ぺー・ウー;参謀本部情報部)が絡むものだけに、相応しい書き出しである。

唯一日本が登場するのは“田中上奏文”事件。1927年から1929年まで首相を務めた田中義一が昭和天皇に極秘で上奏したと言われる世界制覇構想(満蒙→中国→米国→世界)。偽物であることは間違いなかったが、NYタイムズにも取り上げられ中国さらには米国の反日プロパガンダとして利用され、外交政策に大きく影響していく。著者はここにもトロツキーやGRUが絡んでいる可能性をうかがわせる。

米国国内の反共対策、ナチスドイツの国威発揚、白人優性主義・人種差別批判(米国;KKKの活動、豪州;白豪主義、西欧の対ユダヤ人観)など、外交・軍事に直接関わらない事例も多々あるが、何と言っても数が多いのは冷戦下におけるソ連による諜報・宣伝戦、巧妙な仕掛けで平和運動や反政府活動を誘導している姿だ。直接表面には出ず、対象国の組織やメディアあるいは識者が意識することなくソ連の意思を代行するように仕向けていく(例えば、エイズ発症米国謀略説の流布)。

インターネットの到来は積極工作に新たな手段をもたらす。ウクライナを含む旧ソ連圏への工作(特に独立派に対する)、他国の選挙や政策策定への干渉、同盟国の分断(例えばメルケル独首相携帯電話盗聴事件)、西側反体制派の利用(例えば、スノーデン事件)。匿名性が保たれ、中間メディア媒体を必要としないだけに“仕掛ける側”に有利な環境だ(出所不明、反論困難)。当にポストトゥルース(脱真実)が日常化している。それにしてもロシア人のこの分野での力は突出している。何がそうさせるのか?これから何が起こるのか?本書に触発される疑念と不安は多い。

著者は1975年西独生まれ、ベルリンフンボルト大学(東独時代)、ロンドンスクールオフエコノミックスで学んだ後フランスのシンクタンク、米RAND研究所などに勤務、現在ジョン・ホプキンス大学政治学教授。

本書の最大の難点は翻訳。誤訳はなさそうだが、直訳調で日本文としての完成度が低く、これが終始気になって内容に集中できない。それ故、百年と言う長期間の情報工作をテーマにする情報量豊富(引用文献リストだけで55頁)な研究成果だが、他人に薦めることははばかられる。

 

2)天路の旅人

-終戦を挟む8年間、チベット・中国西域を探った凄腕日本人スパイの軌跡を、凄腕ノンフィクション作家がたどる-

 


満洲物を読んでいてフッと妄想が浮かぶ。もし、泥沼化した支那事変(日中戦争)を、中国本土撤兵と国民党の対共産党戦を日本が支援することで休戦・和平に持ち込み、代わりに満洲の利権(満洲国承認の是否は置いて)が維持出来たら私の運命はどうなっていただろうか、と。特に、小学校以降の教育(旧制)は如何様だったろう。先ず中学校は新京中学校か奉天中学校へ進み、その後内地の旧制高校か専門学校さらに大学進学もあったかもしれぬが、現地に建国大学(新京、文系官吏養成)、満洲医大(奉天、設立時は満鉄付属)、旅順工大(旅順、技術者養成)、ハルピン学院(ハルピン;現在の呼称はハルビン、設立時は外務省直轄、ロシア専門家養成、杉原千畝は卒業生)などの高等教育機関(いずれも最終的に国立。大学は皆予科を持つ)が創設されていたから、そのいずれかに進んでいた可能性も考えられる。

満洲の他にも、明治維新以降中国本土や植民地(台湾、朝鮮)にユニークな日系高等教育機関(例えば、上海の東亜同文書院)がいくつも設立され、人材を輩出してきたが、本書を読んで内蒙古にもその種の学校が在ったことを初めて知った。張家口を拠点とした蒙古善隣協会が1939年に創立した興亜義塾(専門学校相当、学校所在地フフホト)がそれである。内蒙古からさらに中国奥地の新疆省、青海省、チベット方面への影響力拡大をうかがう国策推進の先兵養成が建学の趣旨。同期生は20数名、専修コースは蒙古斑と回教班の二つから成り、蒙古語・中国語・ロシア語、蒙古事情・回教事情、政治・経済、地理・歴史、畜産さらに乗馬や武術を1年半塾で学びその後1年余を蒙古人の廟(ラマ教寺院)や包(パオ;遊牧民のテント住居)で過ごし3年で卒業となる。1941年に第1期生を送り出し、本書の主人公西川一三(かずみ)は3期生として1943年に蒙古斑を卒業する。この人の8年(1950年帰国)に及ぶ秘境隠密行を、若き日バックパッカーとして香港からロンドンに至る長期バス旅行を完遂、それをまとめた「深夜特急」でノンフィクション作家としての地位を確かなものとした著者が、本人や家族への聴き取り、西川自著「秘境西域八年の潜行」の検証(原稿を含む)、関連文献調査、時に「深夜特急」の体験を交え再現して見せるのが本書の要旨である。

西川一三は1918年生れ、山口県地福の農家出身。長兄は大学進学が叶ったが次男の彼は中等教育で終わらざるを得なかった。しかし、福岡の名門修猷館中学校で学び、1936年満鉄入社、中学・就職で難関を突破したことに優れた資質の証左だろう。軍の進出で満鉄経営は華北におよび天津・北京・包頭(ぱおとう、内蒙古)に勤務、この最後の勤務地で興亜義塾を知り5年務めた満鉄を退社、入塾する。国のために挺身したい、これが動機だ。卒業生の進路は現地進出の民間企業や新聞社、畜産などだが、彼は外務省の出先(張家口大使館)に売込み、中国西北部を探る仕事(一種のスパイ;第3蒋ルート実態調査;ムルマンスクからロシア中央部、カザフスタンを経てウルムチ(新疆省)に至る)を手に入れる。自身も西域に関心が高かったからだ。内蒙古の南西部から先は完全な中国支配地域、ラマ僧に化け、時には駝夫(ラクダ引き)に身をやつし、蒙古人やチベット人の隊商、遊牧民、巡礼者と行動を共にしながらやがてラサに至る(過去の到達日本人は7名、その内5名はインド経由)。砂漠(砂嵐)、高山(吹雪)、無人地帯、飢え・渇き、燃料難、激流、野盗、さまざまな障害を何とかしのぎ、ほとんど徒歩(ラクダやヤクは荷物運搬用)でここまで2年余、終戦情報が耳に入るが実態は不明。しかし、ラサにも中国の影響がおよんできており長期逗留は危険だ。軍資金(銀貨)はとうに尽き、托鉢僧(ほとんど物乞い)になって蔵印公路をヒマラヤ越えでインドへ向かう。インド国境の街で先行していた塾の一期生に巡り合い、彼から敗戦を告げられる。しかし、二人とも日本人であることを隠すため会話は専ら蒙古語、インド人は蒙古人と思っている。それに目を付けたのが英印軍、チベット・中国奥地の最新情報収集を依頼され、密貿易業者に化けて再びチベット侵入。これは一回だけだったが、西川は次の行動(個人的な関心からインド、アフガニスタン方面探査を目論む)のため何度もヒマラヤ越えの密貿易に従事、資金が溜まると再びラマ僧になってインド、ネパールの仏跡を巡る(托鉢、野宿、無賃乗車)。アッサムに鉄道工夫として滞在中インド警察に捕らえられ、19505月帰国。このチベット・西域知見を重視したのが占領軍(米軍)、帰国後1年間GHQでその情報整理に当たる。静岡の女性と結婚、一女をもうけ盛岡で理髪・美容業界向け化粧品卸売業を営み、2008年没。

沢木が西川を知るのは30年ほど前、TBSの「新世界紀行」(4回)で彼の旅が放映されたとき。2度にわたって刊行された「秘境西域八年の潜行」にも目を通し、今から四半世紀前会ってみたくなる。旅そのものよりその後の人生を含めて人物に興味を持ってのことである。従って、会う目的は取材ではなく人となりを知るという点にあった。1年にわたり、月一回盛岡に出かけ土日二晩5時頃から9時頃まで酒を飲みながら主に沢木が問いかける形で旅を振り返る。元旦以外は仕事を休まない西川なので平日が埋まっている沢木と話し合える時間はこの時しかないのだ。しかし、あれだけの難行苦行をしたのに西川から積極的に話題や質問が発せられることはない。これが変わってくるのは沢木が「深夜特急」で体験したインドからパキスタンを経てアフガニスタンに達したことを話した時、この時二人の間に在った薄膜が消えた感がしたと言う。西川もこの道を辿りたかったからだ。やっと心が触れあったところで、この話をどう処理すべきか判じられず(既に立派な自著があるのに何を書けるか?)、沢木は対談の中止を申し出る。それから約20年後西川の訃報を知り、遺族との交流をきっかけに西川一三像を求める活動が再開、7年前から本書の執筆にかかる。所要期間と労力は「深夜特急」をはるかに上回り、内容にそれだけの重みを感じられる出来栄えだ。常に自然体、志は高いが無欲、誰にも目線を合わせて生きる、地味だが好奇心に満ちた西川の人柄が全編に満ちている。帯によれば「著者史上最長の新しい旅文学」。凄い人物、見事なノンフィクション、読んでよかった!「さすが沢木!」これが読後感である。

 

3)あの本は読まれているか

-ノーベル文学賞受賞を阻まれた名著「ドクトル・ジバゴ」を使ったソ連崩壊作戦。どこまでが真実か?-

 


書架を見ればその人が分かる、とよく言われる。納得する一方で「まずいな~」とつぶやきたくなる。私の蔵書に古典・名著は皆無だからだ。 “少年少女世界名作全集”の類は読んでいるが、これは原作とは比べようもないダイジェスト版。そして、中心になる作品は、シェークスピア、ディケンス、デュマなど西欧のものが大部分、トルストイ、ツルゲーネフ、チェーホフ、ゴーゴリ―など古典文学で重要な位置を占めるロシア作家の代表作がこの種の全集に組み込まれていた記憶は無い。後年我が国著名人の読書録などを読んでいるとドストエフスキーに影響を受けたと書かれたりしていて、教養不足を質されているような感さえもつ。それでもロシア文学の一端に全く触れていないわけではない。それは映画で補われているのだ。「戦争と平和」「罪と罰」「アンナ・カレーニナ」などがそれらだ。そして、これは古典ではないがノーベル文学賞作家ボリス・パステルナークの「ドクトル・ジバゴ」も、名匠デヴィット・リーン演出3時間を超える大作で、内容のみならずノーベル賞受賞辞退に追い込まれた理由まで知ることができた。

私の書架にあふれるのはスパイ小説や軍事サスペンス物ばかり。本書もその種のものだが、表題にある“あの本”は「ドクトル・ジバゴ」、高尚な作品が通俗小説の材料になる稀有な構成・ストーリーは、既刊のスパイサスペンス物とは一味も二味も違った作品に仕上がっており、思わぬ読後感を味わうことになった。

著者は1981年生まれの米人女性作家。本書は事実上の処女作だが、出版権オークションで2百万ドルの値が付き、NYタイムズの書評にも取り上げられた話題作。ラーラ(Lara)はペンネームであるが、ジバゴの愛人の名でもあり、著者の「ドクトル・ジバゴ」への思い入れがうかがえる。

時代は1950年から60年の10年間。東西冷戦の真っただ中。主人公は米国とソ連に住む二人の女性。一人はロシア系米国人、米国生まれで母と二人暮らしのCIAタイピストであるイリーナ、ソ連側はパステルナークの愛人オリガ、彼の子を宿したこともある。そしてボリス・パステルナークはこの間1958年ノーベル賞を受賞している(ただし辞退することになるが)。28章にわたる構成は東・西を交互に繰り返し、二人の主人公は互いにその存在すら知らない。唯一の接点は小説「ドクトル・ジバゴ」、ロシア語版がソ連国内で配布されるまでの過程で二人を交錯させるだけだ。イリーナはロシア語能力を認められタイピストとして採用されるが、やがて諜報員に転じる。オリガは前夫との間に二人の子を設けているが、この段階では既にボリスが最も頼りにするパートナーになっており、小説の構想段階からその内容を知る者としてKGBにマークされている。実はボリスも反体制作家として治安当局に早くから目を付けられていたが、スターリンが彼の詩を好んだため、見逃されていたものの、その死後(1953年)監視は厳しさを増し、オリガの強制収容所送りにつながっていく。ボリスの嘆願でオリガは数年後保釈されるものの、二人の自由度は日々狭まっていく。それに比べるとイリーナの日常は平穏で、段階を踏みながらスパイとしての能力と地位を高めていく。最大のヤマ場は「ドクトル・ジバゴ」原稿の海外持ち出し。1957年密かにイタリアに渡ったものが翻訳出版され、以後英語版を始め各国訳が続々と出版される。最後はロシア語版を如何にロシア人の手に渡し、それをソ連国内で流通させ、反体制の世論を喚起するかだ。この場面で主役はオリガからイリーナに変わる。

事実関係を確認しておこう。パステルナークに愛人がいたこと、イタリア人の手で初めて世に出たこと、CIAに「ドクトル・ジバゴ作戦」なるものが存在したこと、ソ連が国家として「ドクトル・ジバゴ」の流通・講読を必死に抑えようとしたこと、は事実である。謝辞を読むと、この事実確認に相当の労力をつぎ込んでいることが分かり、著者の本作品に対する熱意がひとかたならぬものであったことが推察できる。

難点は二つ。本書は単なるサスペンス小説に留まらず、歴史小説であり、政治小説であり、恋愛小説であり、社会小説(特に米国における高等教育を受けた女性の職業)であるため、サスペンス部分が希薄になってしまっている点、ファッションや化粧、料理の描写場面が必要以上にくどい点である。

 

4)鉄道ビジネスから世界を読む

-一帯一路の布石は1950年代から始まっていた。中国の狡猾な世界戦略への対応策を探る-

 


1996年ゴールデンウィークの時期、ギリシャ・ロードス島で開催された国際学会で発表の機会があった。日本は連休だったから渡航予定を早め、数日アテネ観光に費やした。二日目現地の市内バスツアーに参加したところ、日本人家族一組と同道親しく話をするようになった。聞けば東大医学部教授と夫人・教授の母3人で学会参加を兼ね欧州旅行をしているとのことであった。その夜の食事に誘われOKすると、教授のお薦めでアテネ外港のピレウスに出かけことになり、そこでギリシャ風シーフードを堪能した。当時ピレウスのことは何も知らなかったが、古代ギリシャのアテネ海軍基地からスタート、現代ではエーゲ海観光の拠点として、欧州旅客船港として有数の港湾都市であることを教えられた。長いこと忘れていたその都市名を聞いたのは2016年、その港の管理運営権(開発権を含む)が中国の手に渡ったと報じられた時である。IMF債務を返済できず一帯一路政策の拠点として取り込まれてしまったのだ。本書の中で著者は「将来香港割譲と同じように歴史の教科書で扱われる重大事」と不吉な予言をしている。タイトルは“鉄道ビジネス”となっているものの、本書の内容はアフリカを中心に“中国ビジネスの今”を現場から伝えるものである。

著者は1978年生れ、東大卒後住友商事入社5年で独立、花や水産物を扱う商社を起業。ケニアやアゼルバイジャンのバラ、ブルガリアのアカニシガイ(巻貝の一種)、チリのウニなどの輸出入などを取り扱っている、ヴェンチャービジネス精神に富んだ人物。

鉄道に関しては、トレヴィシックとスティーヴンスンの世界初の蒸気機関車から、軌道ゲージ戦争、米大陸横断鉄道敷設と中国人苦力、インドネシア新幹線導入に際しての日中の争いまで雑多な話が満載だが、重点的に取り上げられているのはアフリカにおける中国の鉄道ビジネス。驚くべきことに、1950年代から中国がそれに関与していたことである。貧しい中国が貧しいアフリカを支援する「南南協力」がそのきっかけ、今や中国による鉄道建設は35カ国に及んでいるのだ。鉄道の他高速道路、港湾整備、それに多数のスタジアム建設、ビッグプロジェクトが中国援助の下で進められてきている。当初は、宗主国に見捨てられた植民地救済とその見返りによる孤立していた共産国家支援体制づくりを目的に、安い自国労働者投入で細々と行われていたが、旧植民地が自立し強権統治国家に変じてくると、その国家運営と中国の経済進出戦略が同調し始める。世界銀行、IMFその他先進国の援助はカネの流れの透明性や投資効果を厳しく求めるのに対して、中国のそれは極めて緩い。為政者にとっては公私ともに都合の良いパートナーなのだ。あとから生ずる種々の問題;債務の罠と担保処置、雇用問題(おいしい仕事は中国人に取られてしまう)、中国人コミュニティの発生と地場経済支配、投資最終目的未達(利用度、経済効果)、稼働後の杜撰な保守、などについて国の統治者は何も考えていない。アフリカに限らず発展途上国鉄道建設プロジェクトに関しては日本のみならず欧州ももはや勝ちみがないのが実情なのだ。著者はここで経済援助に対する“先進国スタンダード”と“中国スタンダード”を対比させ、ことの良し悪し・採否は一先ず置き、「マルチスタンダード」の存在を冷静に自覚すべし、と説く。

一方で、先進国(特に日本)海外ビジネスの問題点を指摘する。高価格維持を目的とした多機能化、汎用化や高性能化が現地のニーズにマッチしないことだ。鉄道にとって安全性維持は必要条件であるが、速度を落とせば安全性が確保できるときに過度な安全対策でコストアップになっている点、他の交通機関(クルマ、飛行機)との調和を配慮していない点(これは政治レベルで時に話題になる米国での新幹線プロジェクト。現地の人は全く必要性を感じていない)、などが質される。商品開発の段階から現地事情に適合した(あるいはたまたま合致)例もある。ウォッシュレットは中国のみならず東南アジアにも急速に普及している。用便後素手で始末し、柄杓で汲んだ水で手洗いしていた人々に、これほど衛生環境を変えてくれる道具は無いからだ。ドイツ製品の評価が高い印刷機械ビジネスでは、小森印刷がアジア人の体力に合わせた小型機をヒットさせている。「汎用性を追わず、目的を絞った製品で勝負を!」が著者のアドヴァイスである。

新書160頁に中国関連を中心に海外ビジネスがてんこ盛り、いささか焦点がぼけるが、現場で奮闘している人の生の声「現実を直視せよ!」は伝わってくる。

 

5)英語教育論争史

-明治維新来問われる役に立たない英語教育100年。繰り返す論争に終わりはあるのか?-

 

 


戦後の新しい学制がスタートしたのは昭和22年(1947年)4月、小学校はそのまま6年制(プラス高等科2年があったが中学受験は初等科6年で可、高等科は規模小)、5年制の旧制中学は3年制の新制高校に変じ、大学は3年が4年に延長され、旧制高校は大学の教養課程(前期2年)に組み込まれた。全く新しいのは新制中学校のみである。校舎も無く教員も存在していなかった。教室は小学校を午前・午後の2部授業にし、一部の教室を新制中学のために割いていた。先生の前身は種々雑多、復員兵、失業者、社会人兼夜学生。どんな資格要件だったか知るすべもなかったが、私の入学した昭和26年(1951年)、英語以外は一応専門の担任教師が揃っていた。ただ、戦時中の英語教育制限・中止の影響もあり、きちんと学んだ英語教育専門家が払底、わが校の場合1年生2学期まで体操の先生が時間を減じて代行しているようなありさまだった。従って、英語教育のバラつきが激しく、都立高校入試(私の場合、昭和29年度)に英語の試験が無かった。本書を読み、この状態は明治初期外国語教育を開始した時と酷似していることを知った。否!専門教員不足以外にも、当時からあった英語教育問題が連綿として現在まで続き、甲論乙駁を繰り返しているのだ。根幹にある問題意識は「労力と時間をかけた割には、使いものにならない」こと。本書では1880年代から1980年代までのおよそ100年間の英語教育で起こった争点それぞれに1章を割き、争いが起こった時代順に進めていく。

各論点は以下の通り;①何歳から始めるべきか?(小学校教育論争;明治期)②訳読か?会話か?(学習法論争;明治-大正期)③教養か?実用か?(中学校教育論争;大正-昭和戦前期)④全員に必要か?(義務教育要否論争;昭和戦後初期)⑤国際化に必要な英語とは?(平泉澄(国際化人材選択コース)vs渡部昇一(広く浅く)論争;昭和後期)⑥英語だけでよいのか?(英語帝国主義論争;平成期)⑦なぜ英語を学ぶのか?(英語教育論争総括)。いずれも身近に感じてきた話題ばかりである。

それぞれの章の進め方は、以下の順序で展開される。論争発生の時代背景(例えば、①何歳から?;不平等条約解消を目指し、治外法権居住地の外国人に全国自由に居住を許す「内地雑居」策)→異なる意見とその発信者・支援者(反対論;小学生は自国語教科を学ぶだけでも精一杯、専門教育を受けていない小学校教師に指導は不可;当時の小学校は尋常小学校4年(義務教育はここまで)、高等小学校4年から成り、高等科2年終了で中学受験可)→論争の結末(不平等条約改定はならず論争はおさまる)→著者のまとめ(1885年の段階でこの論争が起こっていたことに驚くとともに、端緒の内に問題が顕在化したことは貴重と評価)。いずれの段階でも出典を明らかにし、綿密な分析が行われる。

終章が“なぜ英語を学ぶのか?”になっているように、英語を学ぶ必要性・動機が最も重要な論点と考える。ここで問題となるのが実態として“受験”が大きなウェートを占めていることである。私自身、父が東京外語(仏語)出身と言うこともあり、子供の頃から外国・外国語に憧れたが、そこへ出かけるのは夢のまた夢だった時代、最大の動機は高校受験には不要でも大学受験必須にあった。教養・実用以上に受験に必要な英語、この学習環境が英語教育に繰り返し論争を起こす因となっていることを本書でも直接・間接に問題視している。だからと言って大学入試から英語を外すことは難しい(論争史の中でたびたび「選択教科にすべし」の意見が現れるが、受験必須で排される)。焦点を絞り込めない学習目的、すべての論争は議論を尽くさぬまま終焉し、再びゾンビのように吹き返すのが英語教育論争史なのである。

英語に関する著書は比較的本欄で取り上げており、一部は英語教育史的かつ論争を含む内容のものもあったが(例えば、鳥飼玖美子著「通訳者たちの見た戦後史」本欄20217月)、本書ほど広範で長期間わたるものを目にしたことはない。英語教育問題を総覧する視点で極めて価値ある一冊と言える。

著者は1956年生れ。大阪市立大学(学士)、神戸大学(修士)、広島大学(博士)で学び和歌山大学名誉教授(英語教育学、英語教育史専攻)。高専から一般大学に転じたユニークな経歴を持つ。

 

6)神田神保町書肆街考

-世界文化遺産になってもおかしくない古書店街の歴史を多角的に追う、愛書家必読の大著-

 


“神田の本屋街”を知ったのは、小学校6年生になり上野広小路近くの黒門小学校に転校した時(1950年)。乗り物好きの私にとって万世橋の交通博物館は都電で直行できた最初の冒険地だ。次はその先の須田町に在った有名な鉄道模型店まで足を延ばした。須田町は靖国通りと中央通りの交差点、冒険活動は北に向かい、淡路町・小川町を経て駿河台下に至る。こうして神保町界隈の書店街を見つけた次第だ。中学・高校時代は専ら受験参考書を求めて訪れたが、古書店には用は無く当時としては大型書店だった三省堂か東京堂を利用していた。また大学時代は学校周辺にいくらでも書店があったからそこで事足りていた。この街が再び身近になるのは1966年それまで大手町に在った本社が新設のパレスサイドビル(最寄駅竹橋)に移って以降、神保町は指呼の間、昼食とその後の休憩時間をしばしここで過ごし、それで知った二つの店をよく利用するようになった。一つはすずらん通りの画材店文房(ぶんぽう)堂(明治20年文房具店として開業)、版画材や道具が揃っていることではおそらく日本一だろう。もう一店は神保町交差点を靖国神社方面(北)に向かい岩波ブックセンター(廃業、岩波書店の経営ではない)の先の路地を西に入った所に在る軍事古書専門店文華堂である。この書店街には本を求めること以外にも価値があった。それは本社を訪れた外国人の観光散策である。パリやロンドンにも書店街はあるが、これだけの規模はないようで、ハイな気分になって浮世絵版画や日本美術の本を衝動買いすることもあった。本書の単行本発刊は2017年、当時から知っていたのだが、五千円近い値段に躊躇していたところやっと文庫本(それでも800頁、2200円)が出てきたので早速読むことにした。因みに、書肆(しょし)は書店の意だが、“肆”には“いとぐち”の意味もある。

とにかくすごい本だ!通り一遍の商店街史ではない。地史、文学史、大学史、語学教育史(前項で紹介の「英語教育論争史」と内容が重なり相互理解が進んだ)、洋学史、政治行政史、出版史(流通、印刷を含む)、さらに風俗史でもある。

江戸時代を代表する学問所は昌平黌と蕃所調所、前者は国学、後者が洋学を旨とした。前者の所在地は湯島に在ったが、後者は九段下→小川町→一橋門外(現在の学士会館の近く)へと変遷する。当時この周辺は旗本・御家人屋敷の街であったが維新後彼らは徳川家に従い駿府に去ったため、広大な武家屋敷のあちこちが空き家になり蕃書調所は洋書調所と改めて居をその一画に構えることになる。これが東京大学の前身。そこへ入学するための予備門(のちの旧制第一高等学校)や外国語学校(現東京外国語大学)、さらには私立として設立された商法講習所も国立の東京商業学校(現一橋大学)となり、この地に続々と設立される。加えて、近代国家への第一歩は法体系の整備、政府は英・米・独・仏に手本を求め、これと併せて長く存在した代言人を弁護士制度に改める。ここに私立の法律専門学校、現在の明治大学(仏)、中央大学(英)、法政大学(和仏)、専修大学(米)、日本大学(和)の前身が様々な背景(学閥、政治、留学など)を持って誕生する。これらの専門学校が集中した理由は、講師陣の多くが東大法学部教授や司法省の役人の兼務であったからだ。やがて東大と一高は本郷へ、外語大・一橋大もそれぞれ別の場所に移るものの、これだけ学校があれば大量の書籍需給が生ずる。特に教科書(主として洋書)は修業後不要になるから売り手買い手に困らない。明治10年代の書店配置図を見ると、古書店ではないが、既に冨山房、三省堂、有斐閣など現存する書店名が記されている。

近代化の過程で様々な法律が制定され、この商売にも影響を与えていく。“古物取締条例”はそれまで新刊書・古書の別なく取り扱えたものを峻別することになる。古書売買には古物商としての届出・認可が必要となり、専門店が生まれる。これに“出版条例”や江戸時代の書籍流通ギルド“書林組合”のしきたりも影響、神保町に古書店が集中するようになっていくのだ。書籍は重く流通は限られた域内で行われていたが、近代化による鉄道・郵便・ジャナーリズム(特に広告宣伝)の普及で全国規模の古書流通が可能になる。洋書の教科書売買から始まった古書ビジネスは、洋装版和書、和装書へと広がり、高価な稀覯本・美術書(この種の取引の難しさ、特に値付けなども紹介され、興味深い)もここを中心に取引が行われるようになっていく。

初期の店主はリストラされた武士が多かったこと、戦後多く存在した映画館の想い出、時代の変遷でスキー用品店が軒を連ねた様子、中華街としての神保町、ときに書籍以外にも転じる話題で「知の血流で心臓の役割を持つ街」の歴史を学んだ。

著者は1949年生れ、東大仏文科出身の仏文学者。共立女子大学(1978年から30年)および明治大学元教授、共立時代は神保町に仮住まいし、その後も事務所を持つほどこの地に詳しく愛着を持っている人物。本書は筑摩書房の広報誌「ちくま」に6年連載されたものをまとめたもので、索引が人名・組織名(学校名、店名など)と出版物名に分けられ充実、史料的価値が高い。


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