2009年1月25日日曜日

篤きイタリア-5

6.地中海の帝都;ローマ
(写真はダブルクリックすると拡大します)
 フィレンツェにはまだまだ見たい所、訪れたい所が多々あった。一方で昨日の一日徒歩ツアーの疲労を考えれば、もう一日歩き回るのは辛い。一週間くらい滞在し、公共交通機関を使った半日観光、残りはカフェテラスや庭園でボンヤリ過ごす。夜は専門の(観光特化で無い)レストランやエンターテイメントを楽しむ。イタリア(多分他の欧州都市も同じ)ではこんな旅がしたい。特にここフィレンツェでは。しかし、現実は“多すぎる観光客”でこんなのんびりした旅は経済的にも空間的にも無理だろう。
 フィレンツェの出発時間はチョッと思案した。基本的には何処でも、宿泊地ホテルのチェックアウトタイムと次の訪問地のホテルのチェックインタイムに合わせて決めてきた。ここでもその基本は変わらないのだが、乗車時間は1時間半と短い上に、ローマの宿泊先はコロッセオの近くなので、到着日はその周辺の観光だけで済ませれば、フィレンツェ出発を遅らせても良い。見るところはいくらもある。こんな考えに至ったのは、前出の大学時代の友人Mが夫人や混声合唱団の仲間とたまたまこの時期イタリア観光中で、この日彼らは我々と逆にローマからフィレンツェへ移動することになっていたからである。海外で親しい友とひと時を過ごすのは格別の思い出になる。しかし、列車の時間やホテルと駅との往復、先方もチェックアウト・チェックインに合わせた移動計画。国内で計画を立てている段階でこれは無理、途中ですれ違いと分かった。
 結局フィレンツェの出発は10時52分、ローマ到着は12時半のユーロスターにした。今度は二人向かい合わせの席である。席は所々空いており、4人席の人は適当に移動している。今回は到着時間が昼食時ということもあり、車中食は用意しなかった。好天の車窓をボンヤリ眺めていると、並行する線がある。在来線と新幹線と言ったところであろうか?道中の景観は長閑さだけが心を休める程度の、変化の少ないものだった。イタリア最後の鉄道の旅はこうして終わった。
 正午過ぎのローマ駅(テルミニ)は明るく暖かい。暑いくらいだ。今回も荷物があるので駅からタクシーにした。宿泊先は、カポ・ドゥ・アフリカ(アフリカの首都)と言う名前のホテルで、コロッセオ(楕円形闘技場)の近くのアフリカ通りにあった。このアフリカ通り周辺は閑静な所で、ここの通りを真っ直ぐ西北に進むと5分くらいでコロッセオに達する。観光には絶好のポジションにある。最寄の地下鉄駅は“コロッセオ”、テルミニ駅まで二駅である。このホテルも個人旅行者向けで、外からは付近のアパート(どうやらそのいくつかは長期逗留者向けらしい)と見分けがつかない。クリーム色の壁にアーチ型の玄関が、いかにも“アフリカ的”な雰囲気を醸し出す。内部も黄色やクリーム色が基調で明るく落ち着いた上品な仕上げ、部屋の天井が高く広さも申し分無い。バスルームやTV・インターネット環境などの設備は最新式で、ヨーロッパとアメリカの良いところを組み合わせた、今回の旅でベストのホテルだった。

<溢れかえる観光客>
 今日は日曜日。言わば“ローマの休日”である。チェックイン後一休みして、フロントで地図をもらい、周辺観光の要領を教えてもらう。地下鉄やバスを使えば有名な観光スポットへは容易に行けそうだ。ただ念を押されたのは「スリには充分気をつけて!」である。特にヴァチカン行きのバスは危ないと言う。幸いこれは明日のツアーに組み込んであるのでこの日行く予定は無かった。
 地下鉄利用はミラノで体験済み。コロッセオを外側から見学しながら、地下鉄入口に向かいキオスクで乗車券を求める。最初の目的地はスペイン広場、駅名はそのものずばりのスパーニャ、コロッセオを通る線はB線、スパーニャ駅はA線上にあるのでテルミニ駅で乗り換えることになる。東京の地下鉄ほど路線の数が多くないので迷うことは無い。テルミニ駅から三つ目がスパーニャ、明るい所へ出るのに少し地下道を歩く。表へ出るとそこはスペイン広場、午後の強い日差しの下観光客が溢れかえっている。映画でもしばしば大事なシーンの舞台となるスペイン階段にも、大勢の人が座り込んでいる。白・黒・黄色。一人旅・二人連れ・グループ。老・若・男・女。飛び交う多様な言語。ここで連れを見失ったらとても見つかりそうにない。スタンダール、バルザック、ワグナー、リストが住み、バイロンの通ったカフェあり、ブランドショップが軒を連ねてはいるものの(これは人が集まるからこうなったわけで、これが人を惹きつけているわけではない)、特別な歴史的モニュメントがあるわけでもないここに、これほど大勢の観光客が集まるのは何故だろう?多分あの「ローマの休日」の影響なのではなかろうか?(我々も実はそうなのだが) イタリアを旅していて、映画のシーンが大きな観光資源になっているのはローマだけではない。ヴェネツィアがそうだったし、シチリアには「ゴッドファーザー」がある。映画のシーンに惹かれて溢れるほどの観光客が出かけてくる所は、この国にしかないのではないか(韓流ブームの一時期そんな所もあったようだが)?
 これだけ人が集まっていると広場も広場ではない。広場でない所の方がややスペースがある。南西の日差しの強い階段の方は、これを避けるのか日陰のないところは歩き易い。取り敢えず教会のある上まで昇ってみる。午後2時頃にホテルを出たため、この観光散策の後はこのままの装いで夕食をとる考えだったので、夕方の冷え込みも考慮して長袖シャツにセーターさえ羽織っていたが、半袖のポロシャツで充分な陽気。階段の途中でセーターを腰に巻きつけたものの、それくらいでは、この暑さはしのげない。教会まで辿り着いた時には汗びっしょり。それを待ち構えるように、インド系の清涼飲料やスナックを商う屋台が石畳の高台テラスに店を出している。スーパーで買えば1ユーロ以下のミネラルウォータが2ユーロもするが、この暑さと乾きに値段は二の次、冷えているかどうかだけが問題だ。それも彼はよく承知している。クーラーに入ったボトルを示して「値段は同じ!」とくる。眩しいテラスでぐい飲みした冷えた水は、今まで飲んだどんなビールにも勝る喉越しだった。
 “命の水”を飲んだ後は再度広場に降り、そこから南西に延びる、ブランドショップの並ぶコンドッティ通りを人混みにもまれながらオベリスクとヴィットリオ・エマニュエル2世記念堂を結ぶ、ローマの代表的な大通り、コルソ(競馬)通りに出て、この通りを記念堂方向(南東)に向かう。こんな大通りもやはり観光客で溢れている。記念堂のさらに南東は、古代ローマの政治中枢が在ったフォロ・ロマーノ、その少し東にコロッセオが在る。途中の名所を訪ねながら、徒歩でホテルまで帰るルートである。最初の見所は、肩越しコイン投げで有名な「トレヴィの泉」。三叉路を意味する“トレヴィ”だけに、大通りから入ってチョッと探すのに手間取ったが、観光客の流れでおおよその見当はつく。あの有名な噴水は宮殿前の小広場の大部分を占め、平らな所は噴水とその背後にある宮殿を装飾する大きな彫像群に見とれる人々の群れに埋め尽くされ、噴水の縁には沢山の人が隙間のなく座ってコインを投げたりしている。ここもただただ人、人、人であった。それだけにスリのメッカでもあるらしい。長居は無用である。
 コルソ通りの終点はヴェネツィア広場、ここはかなり広い広場で交通の要衝である。広場に面して聳えるのがヴィットリオ・エマニュエル2世記念堂である。正面が北西を向いているので、折からの強い西日で大理石造りの西面が輝いて見える。エマニュエル2世はイタリア統一の英雄だが、この記念堂は彼の功績を称えるものではなく、統一後の戦役で戦死した兵士を弔うものである。広場と遜色のない幅広の階段の頂部に半円形に並んだ円柱を持つ壮大な記念堂は、下から眺めるものを圧倒する。ここには無名戦士も葬られ、24時間衛兵が墓守をしている。クレムリン、アーリントンと同じである。長い道のりを歩いてきた者にとって、この広い階段は格好の休憩場所を提供してくれるように見えた。端の方で一休みと思い腰を下ろしたら、直ぐさま監視員がやって来て立つよう注意された。もっともなことで不徳を恥じた次第である。
 記念堂は小高い丘の上に築かれている。裏側もテラス状になっており、南東側に西日の中の古代ローマ遺跡が間近に見下ろせる。ここからローマの七つの丘の一つ、カピトリーノの丘は指呼の間、そこまで歩くと丘の端から夕陽を真横に受けるフォロ・ロマーノやセヴェルス帝の凱旋門(在位193~211年)が見下ろせる。遺跡巡りは明日午後のメインエヴェントだ。さらに15分ほど歩いてやっとコロッセオの周縁の緑地に辿り着き座り込んだ。3時間は歩いている。この間休んだのはトレヴィの泉と記念堂で少々だけ。飲食はスペイン階段上のあの冷たいミネラルウォータだけ(ボトルから時々補給したが)。5時を過ぎているが空腹よりも歩き疲れの回復が急務だ。幸いまだ明るく、大勢似たような観光客がそここで休んでいる。ホテルへ返って一休みという案もあるが、多分バタンキュウーでろくな夕食も食べないことになりかねない。ここはもう少し頑張ろう。この時期コロッセオ観光は6時半までなのでまだ行列が続いている。それに纏わり着くみやげ物売り、ボンヤリ辺りを眺めているだけでも結構退屈しない。やがてコロッセオの横にボンヤリした月が顔を出した頃、近くの観光客相手のレストランで夕食にした。この時間になると不思議なもので冷たいビールよりワインが欲しくなるものだ。やっとイタリアンスタイルが身についてきたのかもしれない。
 ライトアップされたコロッセオの横を抜けてホテルへ帰る時には、先ほどの月が高く明るく輝いていた。そしてこの月光のコロッセオの周りで、ウェディングドレスを着た女性が数人がはしゃいでいる!聞くと先ほど式を挙げたばかりの花嫁とのこと。月下氷人や月下美人は知っているが、月下花嫁は始めてである。このローマ史を象徴するコロッセオでこのように祝うことが出来ることを心から喜んでいる風だった。観光とは別のよきローマの慣わしを垣間見て、一日の疲れは吹き飛んだ。「お幸せに!」

<神の国;ヴァチカン> 高校2年生の時に世界史をとった。担当の先生は東洋史、西洋史別で二人。どちらも面白く、受験の世界を遥かに超えて勉強した。それでも中国については日本史や三国志などの延長線に多少の纏まった知識もあったが、西洋史関連は少年少女向けのシェークスピア程度しか無く、ギリシャ・ローマに発する西洋文明に興味津々の授業だった。そんな中でよく理解できなかったことの一つが、宗教と政治権力の関係である。カノッサの屈辱や英国国教会の成立は教皇と皇帝・王との権力争い(司教の叙任権)の結果だが、何故坊主ごときが皇帝や王を破門など出来るのか?破門など意に介さず自分の国を好きなように統治すればいいではないか(英国国教会はこうして生まれたが)!もし坊主がゴタゴタ言うのなら武力で押さえつければいい(共産国家はこうして宗教を排除したが)!と。
 これが体感できるようになったのは、共産主義国家における宗教問題が表面に出てきたごく最近のことである。過度にイデオロギーに依存した社会の為政者にとって、そのイデオロギーと異なる信念を植えつける宗教ほど恐ろしいものは無かろう。冷戦構造の崩壊は、経済システムの破綻にあることは間違いないが、その端緒がカソリック国ポーランドから発したことは宗教と国家権力を見つめる上で象徴的な出来事といえる。その二つの権力の妥協による産物(?)がヴァチカン市国である。
 ややこしい権力構造を巡る歴史は一先ず置き、れっきとした独立国(国連にも加盟しているし多くの国に大使館を持つ)ながら国籍保有者はたった800人強、しかしカソリック教徒10億人を従える奇妙奇天烈な国をこの目で見てみたい。国境はどうなっているんだろう?こんな気持ちでローマ観光の目玉としてツアーのメニューに加えた。ただしヴァチカン美術館は、それだけでさらに半日を要するのでパスすることにした。正直言ってルネサンス以前の宗教画は、文字の読めない人に対する布教を目的にするので、おどろおどろしく稚拙な感じがして好きでない。
 この日の市内ツアーは地下鉄テルミニ駅に近いホテル・レックスという所に8時半に集合することになっている。昨日の午後コロッセオ駅からテルミニ駅乗換えでスパーニャ駅まで行っているので地下鉄移動は問題なかった。しかし、テルミニ駅からの案内図はかなり簡略化されており、途中三度もその在り場所を確認する必要があった。中には英語を話せない人もいたが、手振り身振りで何とか集合場所に辿り着けた。そのホテルの地下の一部は日本人旅行者専用の受付・待合室になっており、如何に日本人観光者が多いかを窺がわせた。既にほとんどのツアー参加者が集まっており、しばらくするとこの日のガイド、日本語を話すイタリア人の小柄な中年女性、クラウディアさんと言う人が現れ、大型バスへと引率してくれる。参加者は日本人だけで12人だったと思う。いずれも二人一組、夫婦らしい組みが多いが、女性だけの組みもいる。
 最初の訪問先がヴァチカン。国境らしきものは何も無くチョッと残念。ガイドは大聖堂には入れないとのことで、サンピエトロ広場の前で全体説明と見学後の集合時間、集合場所の確認。見逃してはいけないミケランジェロの「ピエタ」像の在り場所確認などがある。時間が早いせいか入場の行列はさほどでもなく、直ぐに大聖堂に入れた。カソリック教徒にとっては聖地であり、特別な感動が沸くのかもしれないが、不信心な私にとっては建造物そのものと歴史的な興味しかない。ミラノやフィレンツェで見たドオーモに比べ遥かに規模が大きく、複雑な造りである。英国国教会の総本山、ウェストミンスター寺院と比べてもこちらの方が大きく丸屋根に“旧教”を感じた。しかし、1996年訪れた嘗ての東ローマ帝国の首都コンスタンチノープル(現イスタンブール)に在る、この大聖堂の言わばライバルであるアヤソフィヤは古さと大きさにおいてここを凌いでいるのではなかろうか?アヤソフィヤはオスマントルコによるビザンチン帝国征服後モスクに改装されたため、内部の装飾はイスラム風になり、外見もミナレット(尖塔)が付加されて単純な比較は出来ないが、往時の東の文化・経済の高さを推し量ることが出来る。
 このあと、スイス人の衛兵や教皇が広場の信徒に手を振るシーン有名な教皇庁の建物を外から眺めたりしてここの観光は終わった。残念ながら皇帝・王そして近代国家指導者(ムソリーニ、ヒトラー、スターリンそして毛沢東)と教皇の争いの跡を残すものに接することは出来なかった。
 ツアーの残りは、パラティーの丘(遠望)→コロッセオ(外部のみ)→トレヴィの泉(前日は噴水が噴き上げていたがこの日は工事中で水が涸れていた)→共和国広場(ここでバスを降りる)→三越(お土産;ここまで引っ張るのがガイドの役目、大部分の人はトイレ使用のみ)

<古代ローマ逍遥> ローマを目指す日本人観光客のかなりの人は、塩野七生の「ローマ人の物語」に魅せられ、ここを訪れることを思い立ったのではなかろうか?私もその一人である。もしあの長編を読んでいなければ、北イタリアとトスカーナ地方に時間を割いて、ローマは割愛していたかもしれない。あのシリーズがハードカバーでスタートした時には、後述するような理由で読まなかった。買ったのはただ一冊「すべての道はローマに通ずる」編である。これは技術史の視点で面白いと思ったからである。しかし、文庫本が出たとき、偶々貯め置きの本が無く買ったのが、このシリーズにのめり込む切掛けになった。
 1990年代後半、彼女の本が文庫本で出始めた頃何冊か読んだ。「イタリア遺文」「サイレント・マイノリティ」のようなエッセイ・評論は面白かった。しかし、小説3部作「レバントの海戦」「ロードス島攻防記」「コンスタンチノープル陥落」は、ノンフィクション部分は面白いのだが、小説としては盛り上がりを欠き、今ひとつ評価出来なかった。「ローマ人の物語」が出た時、出版社が長編小説的な宣伝をしていたので直ぐに飛びつくことは無かった。ただ「すべての道はローマに通ずる」編を技術史物として購入し読んだとき、これが小説ではなくノンフィクションに近いものであることを知った。しかも、筆者が哲学専攻と言うのに技術的な調査が良く行き届いているのに感心した。文庫本は何処へでも持ってゆける。最初の数巻がまとめて出たとき購入し、一気に古代ローマに引き込まれてしまった。それからは続編を待ちわびるようになった。現在34巻まで来たそれももう直終わる。そこに登場する地名、記念物、建物そして人物。それらを間近に見るチャンスが遂にやってきたのだ。
 ローマ誕生は、篭に入れられテヴェレ川に流され、雌狼に育てられたロムルスとレムスの双子兄弟に始まる。ローマの名はこのロムレスから来ていると言われる。ロムレスの勢力圏はパラティーノの丘、レムスのそれは谷を挟んで南西に在るアヴェンティーノの丘である。午後半日の時間ではとてもローマ史を辿ることは出来ない。ホテルに近く、見所が集中するパラティーノの丘から政治の中枢だったフォロ・ロマーノに至る一帯と、原型を留めるコロッセオを廻るのが精一杯だった。
 先ず初めに行ったのがパラティーノの丘、ここは皇帝たちの宮殿(ドムス)が在った所だ。南に傾斜する地形は明るく、古代でも一等地であったことが窺がえる。そこからは当時から今も流れが続くテヴェレ川が望める。そしてこの丘と川の間には平坦な長楕円形の大競技場(チルコ・マッシモ)の跡がはっきり見てとれる。あの「ベン・ハー」の戦車競技がここで行われたのだ!映画では壮大なスタジアムだが、今残るのはトラックだけである。
 丘の南端から北へ向かうと、ドムスや神殿、庭園の遺跡がいたる所にある。予め周到に道筋と時間を考えておかないと回り道になったり、見所を見落とすことになる。途中に適当な休憩所もない。個人観光はこの点で極めて効率が悪い。ヘトヘトになりながら次のポイント、フォロ・ロマーノに達する。
 フォロ(Foro)は英語のフォーラム(Forum;公開討議の場;公共広場)である。「ローマ人の物語」にも頻繁に登場する。元老院もここに在り、キケロやカエサルが議論を戦わし、「ブルータスお前もか?!」と言ってカエサルがこと切れた場所でもある。列柱の残るバジリカ(柱廊)様式の遺跡は神殿や取引所、裁判所などの跡のようだ。ここだけで凱旋門も二つある(この他にもう一つ、コロッセオの間にトライアヌスの凱旋門がある)。そして中央を貫く道は、戦利品と捕虜を連ねた凱旋行進が行われたところだ。クレオパトラもここを引き回されている。ガリアを、ゲルマンを、ペルシャを、エジプトを、そしてカルタゴを屈服させ強大な地中海帝国を構築した歴史を確かめにここまで来たと言ってもいい。しかし、「シーザーとクレオパトラ」のようなハリウッド映画で見る凱旋シーンの方が遥かにスケールが大きく感じる。誇張されたセットと瓦礫の山に近い現在の遺構の違いからくるものだろうが、それでも道路の幅や残る柱の高さなどを目の前にすると「この程度だったのか?!」とチョッと意外な感じがする。実物を見て映像のマジックを実感し、正しい姿に修正出来たことが果たしてハッピーだったのかどうか、些か複雑な思いである。
 遺跡めぐりの最後はコロッセオ。ホテルと地下鉄駅の間に在ることから、何度も外からは眺めているが内部に入るのは今回が初めてである。紀元80年に完成し、収容人員は5万、今に原型を留める楕円形の闘技場(劇場)である。他の建造物が凱旋門を除けば、基部や柱、階段などが部分的に残る遺構であるのに対して、ここは石積みの部分がほとんど残っており、2000年前の姿がそのまま見えるので強烈な存在感である。
 それまでの知識は、ここでもハリウッドである。カーク・ダグラス演じる、タスキ掛けのような鎧を纏う剣闘士スパルタカス。暴君ネロのキリスト教徒迫害をテーマにした数々の映画では、ここで教徒が猛獣に追い回されるシーンが見せ場になる。しかし、フォロ・ロマーノとは違い、ここでは映画のシーンよりも現実の方がもっと迫力があったのではないかと思わせる。それは、内部に入ることに依りその構造が委細に理解出来、当時の観客として、演じられた見世物を容易に想像出来るからである。否、私にとって現状の方が当時の観客以上に複雑な舞台仕掛けを見ることが出来るだけに面白かった。
 スタジアムの基本構造は現代の競技場と大きな変わりは無い。50メーターの高さから傾斜した観覧席が舞台に向かって設えてある。一般席・貴賓席が分けられたり、指定の席への入口・階段も分けられている。木製だった観覧席そのものは残っていないがこれらも現代のものと似たようなものであろう。大きな違いは闘技場の舞台とその下部構造である。舞台そのものが木製の板を敷き詰め、それに薄く土を撒き演じ物にふさわしい木々などもセットする。この上で剣闘士たちが人間同士あるいは猛獣たちと凄惨な戦いを行うことになる。この木製舞台の下は何層かの石造りで、複雑な迷路のような構造になっており、猛獣たちを入れておく小部屋や舞台へ追い立てる通路になっている。舞台への出口は一ヶ所ではなく、複数の出口から一斉に猛獣を放つことも可能である。木製舞台の朽ち果てた今、この複雑な下部構造が観光客の目の下に開けている。世界の富を集め、遊蕩惰眠と化したローマ市民の民心を買うためとは言え、良くここまでやったものだと感心するとともに、ポピュリズムに浸りきった、現代の為政者と大衆の今に変わらぬ関係に、2000年の空しい時間を痛感した。

 本編を持って“紀行”としての報告は終わりますが、次回この旅の総集編と垣間見たイタリア雑感をお届けします。

2009年1月16日金曜日

滞英記-15

Letter from Lancaster-15
2007年9月2日

 ついにレポートの発行月も9月になりました。結局短い夏も来ず晩春から、秋に入ってしまった感じです。異常な経験です。異常と言えば、今週一番の異常な出来ことは、29日(水)にイングランド・ウェールズの刑務官(Prisoner Officers Association;POA)が一日ストライキを打ったことです。全国ニュースばかりでなく、Northwest版には何と直ぐ近くにあるLancaster Farm(少年刑務所)までTVに登場です。争点は賃上げです。一番困ったのは中にいる囚人達だったようです。過去の労働党政権時代は労組に依存する傾向が強く、それによって経済ががたついてきた歴史もあるので、ブレアは支持基盤を組合依存から一般中産階級向けに切り替える戦略をとり、まずまずやってきましたが、好調な経済はインフレも伴い、現業公務員は厳しい生活環境にあるというのが、彼らの主張のようです。ブラウン首相も厳しい姿勢を示しています。それにしても刑務官が!と驚きました。
 今回はこの最新ニュースはひとまず置き、最近の世相について、あまり日本には伝わっていないと思われる幾つかの話題を集め、<世相点描>としてお送りします。

 研究の方は;
 Waddington「O.R. in World War 2 -Operational Research against the U-boat-」を調べ終わりました。
 この著書から得たものは;
1)OR活動の具体的な内容で、単に手法ばかりでなく適用推進の諸活動が、如何に科学者の評価を高め、次の展開に繋がるか。
2)組織の中で、専門家に如何に持てる力を存分に発揮させるか。と言うことを具体的に知ることが出来た点です。
 英軍においても、科学者と接触の少なかった軍人は、おおむね“be on Tap, but not be on Top(必要なところだけ上手く使い、決してとトップになどに登用してはいけない)”という姿勢が強かったようです。対Uボート作戦中核だった沿岸防衛軍団でも、軍団長・参謀長とその科学顧問の関係は、人によって微妙に違いっています。軍団が抱える個々の問題ばかりでなく、その背景や問題の深刻さを、率直に専門家に理解させたトップの場合の方が、いい結果が出ています。“専門家は必要な時だけ呼べ”では士気があがりません。供に考える場を与えることが大事です。ただ、専門家の方もそれなりの広い見識を持つことが参画の必要条件であることは言うまでもありません。職人、専門馬鹿ではその資格はありません。
 次のテーマに着手しました。カナダの歴史学者が著した「Britain’s SHIELD(英国の盾)」です。これはOR適用の嚆矢となった、“Battle of Britain(英国の戦い;英独航空戦)”における科学者の活動、特にレーダー開発、その防空システムとしての実現、そこでのORの役割、を技術的な見地ではなく、歴史、政治、国防政策、組織管理、人間関係などの面から論じたユニークな本です。まだ三分の一くらいしか読んでいませんが、いままで調べてきたものとは違う、新たな情報が多々得られています。例えば、“ORの父”と言われるブラケットが属していた、通称“ティザード委員会”を主宰していたティザード博士の姿が見えてきたことです。著者はこの人物を“二流の実験物理学者”と決め付ける一方で、「複雑化・細分化してきた科学を、上手く管理出来た、第二次世界大戦時最高の科学マネージャー、アドミニストレータ」と評価しています。OR普及の鍵はどうやらこの男にありそうです。
 さらに、新たな資料が提供されました。これはMauriceに対する私の質問に発するもので、今まで目を通してきた、著書・文献が主として科学者や政治家等に拠っているので、「軍人が書いたものが無いか?」と問うたことに対する回答です。英空軍の公刊史「The Origins and Development of Operational Research in Royal Air Force」で、彼が国防省でフォト・コピーしてきた貴重なものです。遥々出かけて来た甲斐がありました。残る最大の課題“英爆撃機軍団は、何故OR適用に消極的だったか?”もこれから探れそうです。これも楽しみです。

<世相点描>
1)少年犯罪 犯罪(特に殺人がらみ)は、どこの国でもニュースとして頻繁に取り上げられます。この国に来てTVニュースを観ていると、特に少年が関わる事件が極めて多いことに、気がつきました。英国得意の犯罪小説(本屋の“Crime(犯罪)”と言うコーナーのスペースは一番広く、次いで、歴史、伝記)の世界では大人が主役ですが、現状は少年なのです。これと関連して一月くらい前に、BBCが“少年の飲酒”問題を扱った番組を放映しました。それは日本でも観ることが出来たようで、これに関連したメールをいただきました。飲酒・ドラッグ・銃、少年が絡む犯罪の三大助演者です。ここでは最近起こった二つの事件(いずれもランカスターを含むNorth West地区)を、社会の反応を含めてご紹介し、私なりのコメントを加えてみます。
①11歳のフットボール少年射殺
 先週22日(水)夕方、リバプール郊外に住む11歳の少年が友達とフットボールの練習中何者かに射殺されました。目撃者情報では、犯人は13~15歳の少年と言われ、数日後15歳の被疑者が警察に拘束されましたが(2日現在では、他に4人が取調べをうけているようです)、詳しい情報が全く出てこないので、果たしてこれらの中に犯人がいるのかどうか分かりません。
 これに対する社会や警察の反応は、明らかに大人の殺人事件とは異なります。一週間は完全に全国ニュースのトップでしたし(North Westのローカールニュースでは、今でもトップ)、警察のトップがしばしば登場し、全力を尽くして犯人発見・逮捕に努力しているかを縷々説明すると伴に、情報提供を訴えています。一般市民は被害者宅に、お悔やみの言葉を書いたカード添えた花束を捧げに続々と訪れ、警官が整理に当るほどです。また、少年はプロフットボールチームの下部組織のメンバーだったこともあり、キャプテンがTVに出演し情報提供への協力を訴えました。さらに、週末のゲームには両親が招待されグランドに選手と伴に並び、オナーがこの試合を彼への追悼試合にすることを宣言するとともに、さらなる情報提供を呼びかけました。
 警察の捜査も細微を極め、練習していたフットボール場に、横一列に膝間づいて並んだ、作業服姿の警察官が、当に“芝の目を分けても”の姿勢で匍匐前進しています。近くの草むらでも別のグループが、池にはアクアラングを付けたフログマンが、物的証拠を発見すべくそれぞれの持ち場で頑張っています。これによって、直接犯罪とは関係なかったようですが、2丁の拳銃が発見されています。
 動機不明の、少年による銃器を使った年少者殺人。其処此処で起こる類似の事件の中でも、被害者の年齢、場所(他は、繁華街、逆に人通りの少ない場所、車中など)などからこの種の事件の中でも、何故彼が?健全なスポーツのグランドで?と、格別の社会問題として注目されています。
②中年パパの死
 これよりさらに一週間前になりますが、マンチェスター郊外住宅地で、中年の父親が、深夜自宅付近で騒いでいた少年たちを諌めたことから、事件が起こっています。やはり銃器による射殺です。優しそうなお父さんの写真が、毎日映し出され、犯行情報の提供を呼びかけています。監視カメラ社会の英国ですから、この種の行動は一部映像として捉えられているのですが、犯人特定に結びつくところまでは行っていません。少年たちが住宅に向かって物を投げつけ、窓などに当るシーンが映し出されています。自転車でやってきたり、車を近くに置いてこのような騒ぎを起すので、警察がやってきた時には既に何処かへ消えてしまっている。こんなことが全国で、頻々と起こっているのです。そしてこれには飲酒が深く関わっているのです。

 さて、以上はTVで報じられている事件の概要です。少年、飲酒、銃器、殺人。これらを結びつけて、飲酒が問題、銃器が問題と論じていますが、英国人もこれは表面に表れた結果であり、問題の本質はもっと深い所にあると思っているでしょう。統計によれば、11~15歳の飲酒癖は27%を超えています(別のデータで、Children;年齢帯不明の、一週間の飲酒量5パイント;大体大ジョッキで5杯と言うのもあります)。ドラッグも17%を超えています。何故こんなに荒んだ生活を少年達が送るようになったのでしょう?
 (Maurice)Kirby教授夫人、Barbaraは保護司をしています。最近は頻繁に警察からお呼びがかかるそうです。罪を犯した少年(少女)の親代わりをさせられることが多いそうです。「親はどうしているんだい?」「そこが問題なんだ!片親しかいない子が多くなってきているんだ。特に、シングル・マザーの子がね」「母親は働きに出ているため、警察に来られないんだ。それでBarbaraが代理をするんだよ」 英国経済史が専門のMauriceは、正確な年代を刻みながら、結婚年齢の変化(晩婚化)、正式婚姻関係でないカップルの割合(パートナーと称する)の増加、大学進学率の増加(彼の時代は同年齢層の6%、現在は40数%)、女性の自活割合、離婚率の飛びぬけた高さなど、これらと深く関係する家庭崩壊の歴史を語ってくれます。さらに、この背後にある、各政権の労働政策、教育政策、産業構造の変化に及んでいきます。「製造業の衰退は80年代に始まったというのが通説なんだが、実際は60年代から始まっていたんだ」「英国病イコール製造業の衰退なんだ」 彼の言わんとするところは、労働党と保守党のあまりにもかけ離れた産業政策に翻弄され、長期的視点を欠く企業経営・組合運営が個人の経済基盤を不安定なものにし、供稼ぎ・パートをせざるを得なくなり、家庭を確り維持できなくなって、子供たちが荒れてくる、と言う論理なのです。
 今度の刑務官ストについても、「現業公務員の生活は確実に厳しくなって来ている」「刑務官や警察官にはストは認められない代わり、経済情勢を勘案した一定の賃上げが約束されている。刑務官の場合、今年は2.5%なんだ。既に1.5%は引き上げられており、残り1%は10月に行われる」「しかし、最近の政府発表インフレ率は3.5%で、2.5%では実質賃下げなんだ。彼らはこれに抗議しているんだよ」「保守党時代を含めて、15年続く好況などといわれているが、実態は下にしわ寄せがきているんだ」「これに金利引き上げが加わり、彼らは家も持てなくなってきているんだ」(こんな親を見て育つ子供たち、特に片親の、がまともに育つには難しい時代なんだ!)彼に妙案があるわけではありませんが、ここまで掘り下げれば、飲酒や銃器取締りで事態が改善されるわけではないことが、少し具体的に分かってきました。

2)誤爆戦死者
 ブレアの引退、ブラウンの登場の背景には、イラク戦争およびアフガン紛争があります。経済政策は先ず先ずだし、社会改革(教育、医療など)もまだまだ途上です。しかし、確実に二つの戦争に対する厭戦気分が高まっています。特に、イラク戦争への参戦はブッシュ同様核兵器開発に関する誤情報を基にしており、訪英前から問題になっていました。その意味では、既に退陣のシナリオは出来上がっていたのです。
 イラク戦争について、アメリカは、英国の戦略が専ら守勢にあることに不満を表明していますし、英国は、アメリカの政策は破綻したとまで現役の司令官が英マスメディアに語るところまできています。しかし、日常の報道は、このような国家化戦略に絡むものより、派兵されている個々の兵士の動向、特に戦死者に焦点が当てられたものが圧倒的に多く、同情をもって丁寧に紹介されます。相手がゲリラでは、勇ましい決戦の勝利など全く無いわけですから、長く続けば“何のための戦争か?”と言うことになります。
 そんな中で、3週間前アフガニスタンで、アメリカ軍の攻撃ヘリコプターが英陣地をタリバンと間違え誤爆し、3人の若い英軍兵士が戦死しました。国防当局や軍事専門家は、アフガン戦場の難しさ(敵味方支配域のいりくみ、敵味方識別の難しさ)や攻撃ヘリの運用などの面から解説を試み、暗に“不可抗力”に近い状況であるかのような言い方をしていました。しかし、メディアや一般市民は当然それでは納得しません。連日戦場管理のトップの問題、アメリカとの共同作戦の是非、さらにはアフガン参戦への意義を問う方向に報道がエスカレートしていきました。そしてその先には、イラク戦争も含めた国際紛争に関する国策の見直しまで見えてきたのです。
 問題の重要性(深刻さ)を素早く察知したブラウンは、直ぐアフガニスタンに飛び、現地政府や派遣軍に、アフガン紛争解決の重要性とそれへの英軍の協力を表明、その行動が国内世論に微妙な変化を与え、感情論先行を抑える方向に向かってきています。
 ブラウンは就任後間もないので、性急な評価はできませんが、危機管理能力に優れ、姿を見せるべき時と場所を心得、課題対策について“自分の言葉で語っている(党内の意見集約や官僚に頼らず)”との印象を強くしています。

 参議院選挙での自民党敗北で、テロ対策特別法案の継続是非が大きな問題になっていることは、このレポートをお送りしている先輩から詳しく国内動向に関する情報をいただいています。ブレアからブラウンへの政権交代は、同じ労働党内の出来事ですから、政策は基本的に継続されることで、日本とは事情が異なることは承知しています。しかし、去っていったブレアに責任を全て負わせ、国内世論に迎合し、保守党の攻撃をかわすため別の選択肢を選ぶことも可能だったはずです。総選挙の洗礼を受けていない首相だけに、票を睨んだ言動があってもおかしくない状況下でのアフガン行きは、ブラウンが国際問題にきちんとした見識を持つ指導者と評価できる行動だったと思っています。
 テロ対策特別法案は、アフガン紛争対応で出来上がったものです。イラク戦争とは違い、ここではドイツ・フランスも共同戦線を張っています。“国連のお墨付き”だけを意思決定の判断基準にするような他力本願では、世界をリードする役割を担える国家として認めてもらえません。熾烈なグローバル・パワーゲームを、如何に勝ち抜くか?したたかな発想・行動が鍵です。国際問題を、国内の政争の具にするようなことのないよう願っています。

3)ダイアナ妃10周忌
 今年はダイアナ妃が亡くなって10年目になります。7月には彼女が支援していた、小児病に関する活動を記念するチャリティーショウが開かれ、大勢のエンターテイナーが参加していました。ダイアナ人気は今も衰えず、パリでの事故の日が近づいた昨今TVでも盛んに回顧場面が放映されています。住いの在ったケンジントンパレスや墓地は献花や写真などが溢れるほどです。そんな中で、公式の追悼式が8月31日(金)ロンドンのチャペルで、執り行われました。BBCはこれを11時から1時の2時間にわたって実況中継を行いました。そのあらまし、トピックスをお伝えしましょう。
 場所はロンドン市内の近代的なチャペル(小教会;名前は失念しました。後でわかったことですがこの教会は英陸軍のものだと言うことです)です。元々は歴史のあるもののようですが、第二次世界大戦時のロンドン空襲で爆撃に会い焼け落ち、戦後再興されましたが、昔の姿を留めるのは、正面奥祭壇・説教壇後部にある壁に削り込まれるように彫られた半円柱とドームの部分だけだそうです。全体に白の基調で、清楚で明るい感じが彼女を偲ぶ場所としてピッタリでした。チャペルですから収容人員も小規模で、200人程度が座れる大きさです。祭壇(と言っても別に写真などがあるわけではありません。通常の教会の祭壇です。周りには淡い色のばらが沢山飾られていました)の背後は前出の半円柱とそれに繋がる半球ドームで、その部分だけ金色の彩色が施されています。祭壇から出入り口に向かい、左右にベンチ上の椅子が2列に並んでいます。
 11時から始まった中継は45分頃まではチャペルの内部の紹介、付近の情景や、関係者の思い出話、室内楽団の演奏などに費やされましたが、45分頃にウィリアムズ王子、ヘンリー王子(通称;ハリー)が到着すると彼ら二人は入り口に立ち、到着する人々と挨拶をしたり、頬を寄せ合ったりしています。既にブラウン首相は先に到着しているところを見ると、二人より後から来る人達は、王室関係者、特に近親の人達でしょう。
 やがてチャールス皇太子(プリンスオブウェールズ)の到着です。彼は一人でやってきました。カミラ夫人は同行していません。BBCが行ったアンケート調査によれば、参加すべきでないが50%台、参加すべきは30%台でした(こんなに多いのに驚きましたが)。父子は入口で和やかに話し合っています。皇太子が、今日追悼のスピーチを行うハリーに何か言うと、ハリーはポケットのあちこちを探り、やがて何やら原稿らしきものを取り出し、三人で笑っています。
 55分頃いよいよ女王陛下のご到着です。沿道から拍手が沸きあがります。先ず、女官、ついでフィリップ殿下、最後に降り立ったエリザベス女王は明るい紫尽くめのいでたちです。何故かこの時“ロンドンデリー”の演奏が始まります。皇太子、二人の王子に迎えられ、やがて皇太子を真ん中に左右に二人の王子が先頭、二列目が女王陛下とフィリップ殿下、起立してお迎えする参加者の間を最前列まで進みます。席次は、祭壇から見て右側が女王家、左側はダイアナ妃の出身家、スペンサー伯爵一族です。二人の王子がそれぞれの通路側に着きます。ウィリアムが女王側、ハリーはスペンサー側です。ウィリアムズの隣は女王陛下、ついでフィリップ殿下、最後が皇太子です。
 左側は、ハリーの隣にダイアナ妃の姉、次いで兄が着きます。ブラウン首相は右側の3列目か4列目でした。
参加者の服装はまちまちで、男性はほとんど背広、必ずしも黒一色ではありません。ネクタイも黒タイは皆無です。シャツがカラーのひともいます。二人の王子も濃紺のダブル、ネクタイはエンジと黒のストライプのお揃いです。
女性は帽子が目立ちます。女王は服と同色のつばつき帽子です。若い女性の中にはベレーもいます。彩りは男性に比べはるかに華やかです。これが普通なのかどうかは分かりませんが、上品で華やかだったダイアナ妃に相応しい雰囲気が醸し出されています。
 牧師の開会宣言、合唱隊による賛美歌。声変わりする前の少年合唱隊の美しいボーイソプラノが際立ちます。
ウィリアム王子が演壇に立ち、一礼して聖書の一節を朗読します。再び賛美歌です。次に演壇に立ったのはダイアナ妃の姉です。やはり聖書の一節の朗読です(大変険しい表情でした)。終わると、また賛美歌です。
 ここで真打登場です。ハリーが演台に上がります。女王の方に一礼して、語り出します。母が如何に自分たち家族を愛していたか、人々から愛されたかを簡潔に、しかし心をこめて話していきます。ここで少し気になったのは、“父を愛し・・・”の表現に“Love”ではなく“Like”を使ったことです。離婚の原因が皇太子側にあることは衆知のことであるが故の言葉の選択かどうだったのか?特別な意味など無いことなのか?英語に堪能でもなく、この国の仕来たりも知らない私に真相は不明です。
 この後の僧正(ビショップ)の説教も彼女の徳を称えるものでしたが、極めて分かり易く、アメリカでの彼女の人気などを援用して、坊主の説教らしく無いのが印象的でした。
 皆で賛美歌を歌った後(沿道・公園に集まった人達も唱和)、彼女の好きだった歌(メロディーはよく知っているのですが、題目を知りません。SailingとCountryが入っているのですが)が演奏され、皆で唱和します。最後は国歌で終わりました。女王陛下のご退場です。丁度1時でした。

 ダイアナ妃の人気は、王室(除く女王陛下)の不人気と取れないこともありません。お歴々が到着する際の、群集の拍手がそれを確実に表しています。拍手があったのは、二人の王子と女王の到着時しか聞こえませんでした。愛されてはいるが尊敬はされていないのではないか?そんな疑問も浮かぶほどです。
 この国の王たちの歴史を辿ってみれば、女性関係のトラブルだらけです。英国国教会からして、カソリックの法王から再婚を認めらなかった(破門)ヘンリー8世が作り出したものなのです。近いところでは、離婚経験のあるアメリカ女性を妻にし、王位を放棄したウィンザー公の例もあります。人間的には正直な行動ですが、尊敬は無理ですね。
 もう一つ“王室の尊敬”に関わることで気になるのは、“今の王室はドイツ人だ”と言う見方があることです。ヴィクトリア女王の夫君、アルバート公はドイツ人でしたし、フリップ殿下はクーデターで倒れたギリシャ王室の出身ですが、ギリシャ王室そのものがギリシャ人ではなくドイツ系で出来ていたことです。この考え方は当地に来てから知ったことで(アルバート公がドイツ人であることは知っていいましたが)、充分消化できていないのですが、興味深い見方です。
 最後に、もともとこの国は4カ国なら成る連合王国です。本来別々の王家があったものを、現在の王家が代表することになったわけですから、気配りも4倍必要なわけです。自分の感情の趣くままに生きることが、許される環境ではないのです。

以上

2009年1月12日月曜日

篤きイタリア-4

5.ルネサンス発祥の地;フィレンツェ

(写真はダブルクリックすると拡大できます)

 ヴェネツィアのサンタルチア駅を発してフィレンツェに向かう列車は10時43分発のユーロスターにした。フィレンツェ、ローマを経てナポリまで行く、典型的な観光列車である。
 あの「旅情」では、確か電気機関車に引かれる列車からキャサリン・ヘップバーンが窓から身を乗り出しで、ロッサノ・ブラッツィに手を振るシーンがあった。ユーロスターでは窓は開かないし、別れを惜しむ人もいない。
 先にも書いたように、国内移動は全て鉄道としユーロスターかインターシティの一等を手配した。しかし、ヴィチェンツァからヴェネツィアでは、ホームの案内板に描かれた車番順序(最終車両が1号車)と完全に反対になった編成でやって来たため、1号車を待っていた我々の前に来たのは最終番号車(確か10号車)の普通車だった。幸いガラガラに空いていたのでそのままヴェネツィアまでこの車両で行った。
 そんな訳で、ここヴェネツィアから乗る列車がユーロスター初めての一等車である。ユーロスターの一等車は、コンパートメント形式ではなく、通路を挟んで片側が4人のボックスシート、反対側は二人向かいあわせシートになっている。率直に言って、シートやインテリアは新幹線のグリーン車の方が一等車らしい。我々の席は4人掛けボックスシートの通路側だった。
サンタルチア駅を発した時には、二人席は仲間らしい二人の中年男性観光客が占めたが、4人席の窓側は空席だった。やがて内陸側の最初の駅、メストレへ着くと我々と似たような年恰好の白人カップルがやってきた。どうやら夫婦らしい。口数は少なく、それも静かな語り口。今度の乗車時間は3時間弱ある。長時間の同席者として好ましい。
 メストレそしてミラノ方面への分岐点、パドヴァで比較的長い時間停まったので、パドヴァを出た時には既に11時をまわっていた。検札の車掌が行き過ぎると直ぐに、昼食の注文取りがやってきた。食堂車でのきちんとした昼食のようだ。二人組み男性客はそれを注文したが、相席のカップルは何やら話してやめにする。どうやら食事持参のようだ。我々もフィレンツェ到着が1時半なので、予めサンタルチア駅のビュッフェで、ホットサンドウィッチと飲みものを用意しておいたのでパスする。隣が食べ始めたらこちらも始めようと思っていたが、なかなか始まらない。到着時間が気になるので一言「食事をしてもいいですか?」とことわってお先に始める。
 ヴェネツィアからフィレンツェへの路線はイタリアの背骨、アペニン山脈を横切る。ここではさすがのユーロスターもスピードが落ちる。その分周りの景色を堪能できる時間が増えることになる。食事を始める時の挨拶でこちらが英語を話せると分かったこともあり、「紅葉がきれいね」と言うようなことから隣の夫婦と会話が始まった。聞けばアイルランドのダブリンから来た引退者とのこと。「アイルランドには行ったことはありませんが、昨年は半年英国に滞在し大学で勉強していました」 これで先方はもう一歩踏み込んできた。「どんなお仕事だったんですか」「石油会社のエンジニアでした」「あら、主人は鉄道関係のエンジニアだったのよ」「そうでしたか。子供の頃は鉄道技師が夢で大学では機械工学を専攻しました」「私の専攻は電気工学です」 しばし似た者同志の穏やかな会話が続く。
 分水嶺のトンネルを抜けると列車は一気にスピードを増し、トスカーナ平原をフィレンツェへと快走する。ローマ観光のあとフィレンツェに戻ると言う彼らを残しサンタ・マリア・ノヴェッラ駅で別れる。

<ルネサンス遺産> 到着時間は午後1時半。秋の陽光だが眩しいくらい明るい。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ、ボッティチェッリ、彼等を支えたメジチ家。闇を光に変えた200年(14世紀~16世紀)がここに詰まっている。
 ホテルはアルノ川に架かる有名なヴェッキオ橋の袂に在るエルミタージュホテル。手ぶらなら歩けるくらいの距離だが荷物があるのでタクシーにした。イタリアに来てはじめて乗るタクシーである。車は荷物の積みやすいフィアットのバンであった。少し回り道をしたようだが、これは旧い町の通りがほとんど一方通行であるため止むを得ない。車を橋の袂のカフェテラスの前で停め、運転手が荷物を降ろしながら「そこの角を曲がった所です。看板があります」とカタコト英語と手ぶりで教えてくれる。車が入れない通りなので、言われたとおりスーツケースを引きずってそれと思しき所まで行くが見つからない。直ぐ先にまた曲がり角があるのでそこまで行ってみるが、ホテルの入口などない。もう一度始めの曲がり角へ戻り建物の銘版をチェックする。直ぐ傍の入口が開いており階段が上に続いている。入口の年代物の灰色の石版の銘版をよく見ると“Hermitage”と読める。入口には何も無くただ階段だけ。重いスーツケースをもって階段を上がると、そこにエレベーター・ホールがあった。1台きりの呼び出しボタンを押すがエレベーターは来ない。押しボタンの横に何故かテン・キーのボタンがある。階段を上った踊り場に“フロント;5F”とあったので“5”を押してみる。何も変わらない。モタモタしていると、やがて上からエレベーターが下りてきてドアマンのような男が降りてきたので「これはホテルのフロントへ行くのか?」と聞くと「そうです。5階です」と言って階段を下りていった。5階にはガラス戸(このガラス戸は受付の居る時間だけ開けられている)で隔てた部屋があり、机に置かれた電話で話をしているおばさんが一人居るだけ。電話が終わるのを待って来意を告げると、部屋と階段下玄関(玄関は10時に閉まるので)のキーをくれ、その際エレベーターの暗証番号を教えてくれた。あのエレベーター・ホールにあったテン・キーは、宿泊客がエレベーターを呼び出すためのものだったのだ。部屋は旧いヨーロッパスタイルで天井が高く家具等も質素だが、明るく清潔で、アルノ川とヴェッキオ橋もチョッと見えるところが良い。
 その日の観光は2時半頃から始めることになった。翌日の半日観光で予定されていない、ホテルから近いウッフィツィ美術館を重点的に見ることにした。美術館の外回廊は長蛇の行列。待ち時間は“1時間”とある。別にやることも無いので行列に並んでいると30分位で入ることが出来た。時間が少し遅いのが幸いしたようだ。展示物については専門の案内書に譲るが、書籍の写真などで目にした作品が多々あり、それらを見ると感動よりもついホッとしてしまう。知識だけの教養(?)を脱しきれないわが身が情けない。それでもボッティチェッリの「春」や「ヴィーナス誕生」などはそれまでの宗教色の強い絵画に比べ明るく自然で、新しい時代の到来を感じさせてくれる。言葉でそして知識として知っていたルネサンスがここでは現実のものとして理解できる。
 さて美術鑑賞はこれで終わり、ウッフィツィ美術館そのものを少し紹介したい。この美術館の名前“ウッフィッツ”はラテン語のオフィスと言うことで、この建物は16世紀半ばに建てられた、当時の行政府用オフィスである。形は長いコの字型で3階建てだが天井の高さが極めて高い。絵画の展示は3階が主体である(2階にもあるがここは最近ギャラリーになった所)。当然エレベーターはないのでこの3階まで石の階段を上るのだが、これが何ともきつい。そのため現在外付けのエレベーターを取り付けるための大掛かりな工事が行われている。コの字型の外側が区切られた展示室(昔はオフィス)内側は広くて長い廊下である。この廊下はヴェッキオ宮(旧宮殿)とアルノ川を隔てたピッティ宮(新宮殿)に至る長い回廊の一部を成しており、ヴェッキオ橋上屋を経て新宮殿に至る。この回廊をあのヒトラーも歩いている。
 この日(10日)はこのあとウッフィッツ美術館やヴェッキオ宮のあるシニョリーア広場のカフェテラスで一休みして、さらにドオーモ、メジチ家が寄進した教会;サン・ロレンツォ教会の周辺を散策、さらにヴェッキオ橋を渡って川向こうへも出かけ、再びシニョリーア広場に戻って、オープンレストランで夕食とした。とにかく何処も大変な人数の内外観光客で、レストランには日本語のメニューがあった。

<老体鞭打つ徒歩ツアー> 翌11日の午前は市内の徒歩ツアーである。鉄道駅に隣接したバスセンターの待合室に集まった日本人は10人足らず、若いカップルがここでも多い。案内してくれるのはUさんという大柄な日本人女性ガイド。コースはメジチ家のライバル、ストロッツィ家の教会;サンタ・マリア・ノヴェッラ教会→ブランドショップが並ぶトルナプオーリ通り→共和国広場→シニョリーア広場に至りウッフィッツィ美術館、ここまでの建物は中に入らず外側から眺め、説明を聞くだけだ。この後嘗てフィレンツェ共和国の政庁であったヴェッキオ宮の中を見学する。市民会議が開かれた大広間にはミケランジェロの彫刻もある。ここは現在も市役所として使われている。13世紀の建物に国宝級の美術品が置かれているような場所が、現役として利用されるなどイタリアならではの感があった。ここを見た後はヴェッキオ橋を見学、そこから中心部に戻ってドオーモの内外を見学した。ドオーモはミラノでも内部を見学しているが、ミラノに比べるとここは装飾的でなく質素な感じがする。ドオーモの前にはフィレンツェ最古の聖堂建造物と言われる洗礼堂がある。
 ここでグループ徒歩ツアーは終わるのだが、ガイドのUさんは昼食の場所やボッタクリ注意のジェラード(アイスクリーム)屋など、それ以降の行動に役立つ情報を与えてくれた。私もお土産に関して有効な情報をもらうことが出来た(後述)。
 昼食までには少し時間があったので、ドオーモの中心クーポラ(ドーム部分)の外側にある回廊に上ることにした。なんせ15世紀の建物である。上るには階段しかない。それも500段近くある。北側の入口から長い行列が延々と続いている。行列に並ぶ時、前の黒人男性に英語で「これが行列の最後か?」と確認した。それがきっかけで彼と会話を始める。彼はカナダ人で、仕事でこの方面に来たついでに休みを利用してここに来たという。彼もイタリア語はダメらしい。そうこうしていると後ろの集まってきた若いアメリカ人と思しきグループの一人が「英語は話せますか?」「ええ少し」「ここは行列の最後ですか?どのくらいかかりますかね?」 あとはカナダ人が引き取ってくれた。やっと中に入ると今度は階段登りが堪える。途中で若い人に先を譲りたいが、なかなか十分なスペースのあるところへ出ない。難行苦行である。最後に表へ出るところは階段ではなくはしご。一方通行である。それでも苦労して上った甲斐はあった。好天の空の下、フィレンツェの町が360度見渡せる。オレンジ色一色の花畑である。
 昼食はUさんが別れ際にいくつか教えてくれた中の、ドオーモ近くのパスタ屋に出かけてみた。何と入口近くの席に、Uさん他何人かの日本人女性ガイドが食事中だった。ここで生活している人が利用する店に不味くて高い料理などあるはずが無い。ビールとピッツァで午後への鋭気を補給した。
 午後先ず出かけたのは、トスカーナに君臨し、法王まで出したメジチ家の礼拝堂とそれに接続するサン・ロレンツォ教会。色の違う各種の大理石で装飾された“君主の礼拝堂”。広々した空間に石造りの棺がいくつも置かれて、往時の権勢が偲ばれる。これに続く“新聖具室”と呼ばれる正方形の霊廟はミケランジェロの作で、部屋ばかりでなく墓碑の彫刻も彼の作品である。王家の廟所は英国のウェストミンスター寺院、クレムリンにあるロシア・ロマノフ家のものを見ているが、棺の大きさ・配置・空間のバランス・内部装飾どれをとってもここには敵わない。ルネサンス発祥の地と周辺国の文化度の違いなのであろうか?
 この後並ぶのを覚悟で、ミケランジェロのダビテ像で有名なアカデミア美術館へ出掛けたが、午後も遅かったせいか15分くらいの待ち時間で中へ入れた。見ものは唯一つ、ダビテ像である。他の見物客も概ね同じで、小さな美術館はここの周りだけ込み合っている。まるでギリシャ彫刻のようなあの若々しく清潔な力強さは、美術に特別な関心がない者にも、自然に「美しい」と感じさせるものがある。これは木彫や金属の彫像に比べ、大理石の明るさ・経年変化の少なさによるのかもしれないが、それ以上に作者の若さ(ミケランジェロ26歳の作品)がもたらしたものと見たい。伝説上のダビテは巨人ゴリアテを倒して王になるのだが、この像は当時共和制だったこの地方を王家の支配に置こうとする動き(メジチ家)に立ち向かう象徴として、共和制支持者だったミケランジェロが作りあげたものであるという。後年メジチ家の霊廟を作ることになったとき彼はどんな思いで仕事をしていたのであろうか?
 これで名所巡りはアルノ川対岸のピッティ宮を除いて終わった。まだまだ見所は多々あるのだが、お土産を求めたり残りのピッティ宮見学の時間を考えるとこれが精一杯だった。
 午前中のツアーの別れ際に、ガイドのUさんにお土産について質問をした。一つは孫のためにピノキオの操り人形を求めるのは何処がいいか?これは前日の夕方ピッティ宮広場まで行った帰りに、沢山ピノキオを揃えた店があったのだが、気に入った一品は糸が切れて結んであり、それ以外に手持ちがないと言うことであきらめた経緯があった。Uさんにそのことを話すと「ピノキオだったら私もあの店が一番と思っていましたが…」との答え。何処でも見かけるお土産なので「無ければローマでも」と思っていたところ、幸いダビテ像を見たあと、ドオーモを経てピッティ宮へ向かう途上、何の変哲も無い雑貨屋の店先に求めたいと思っていたピノキオがぶら下がっており、手に入れることが出来た。

 もう一つは自分のもので、ドライブ用の皮手袋である。イタリアへ来る前はファッションの都、ミラノで求める算段にしていたが、マネルビオ行きが入り買い物の時間が全く無かった。前日街を歩いていると、ある洋品店でそれらしきものを見かけたが、専門店があるのではないかと思い求めずにいた。Uさんに「皮手袋の専門店はないか?」と問うと、「それならいい店があります。ヴェッキオ橋を渡って少し行った左側に“マドバ”と言う製造会社の販売所があります。種類も豊富で、サイズなど丁寧にチェックしてピッタリのものを探しくれます」とのこと。早速出かけてみると、“MADOVA”と言う小さな店だが当に専門店、壁一面の棚はサイズやデザイン別に小分けされ、そこにビッシリ手袋が並べてある。カウンターの上には二本の棒が交差して角度が変えられる、何やら手のサイズを測る物差しのようなものがある。「ドライビング・グラブはありますか?」「ありますよ」指先まであるのが3種類、手先をカットしたものが2種類カウンターに並べられた。「ドライビング・グラブは大・中・小のサイズしかありません」 他のグラブはサイズがもっと小刻みになっているようだ。試着をしてみて、柔らかい子牛の皮で出来た、手の甲の側が明るい茶色・手のひら側がこげ茶の、指先をカットしたものを求めた。
 店にはもう一人英語を話すおばさんが買い物をしていた。私が試着しているのを見て「あの手袋は何なの?」「ドライブする時にはめる手袋です」と他の店員とやり取りしていた。私が自分用のものを決めて、支払いをしていると「あなたのおかげで息子に良いお土産を見つけられたわ」とお礼を言われた。
 このあと最後の観光スポット、ピッティ宮へ出かけた。もう時間は4時過ぎ。見学終了時間は5時までなので、切符売り場で「1時間しかないけれど、いいですか?」と念を押される。ヴェッキオ宮が建物だけで中庭以外庭園が無いのに対して、ここは庭園が売り物。とても全部は廻り切れないのは承知で入園する。入口のおじさんに「駆け足で廻っておいで」と送り出される。庭園の頂上部から西日に照らされた美しいオレンジ色のフィレンツェが一望できた。これだけで入園料を十分取り戻した。
 長い徒歩観光の一日はこうして終わった。老体にはキツイ一日だった。

<恨みのTボーンステーキ> 旅行の楽しみの重要な因子に食がある。決してグルメ志向ではないがその土地の名物を味わいたい。イタリアでは各種パスタは当然として、それ以外にミラノにはカツレツ、ヴェネツィアはシーフード、そしてフィレンツェには牛の胃袋の煮込みとフィレンツェ風ステーキ(Tボーンステーキ)があることを事前調査で知った。ミラノ風カツレツはミラノでゆっくりディナーを取るチャンスが無かったものの、マネルビオのディナーで味わうことが出来た。ヴェネツィアのシーフードは例の“めざし”でがっかりさせられた。
 フィレンツェには胃袋、ステーキ以外にも秋はジビエ(野鳥・野獣)料理も名物らしい。そこで離日前先ずジビエの可能性をMHI社に聞いてみたところ、確かに山が近いフィレンツェではジビエを食する所があるが、それは街中ではなく、行き帰り車をチャーターして郊外まで出かけねばならないと言う。これはチョッとそれまでの旅の様子が分からないので止めることにした。胃袋かステーキか?胃袋ではないが牛の煮込み料理はサンドリーゴの昼食で一度体験している。今夜はステーキにしよう。長い一日の市内徒歩観光のあと、一休みし夜の帳が降りる頃そう決めてホテルを出た。こんな時いつもならコンシュルジかフロントに適当な店を教えてもらうのだが、このホテルのフロントは宿泊階の上にあり、しかもガラス戸の向こうにおばちゃんが一人と言うような所なので、行き当たりばったりで探すことにした。昨晩もこの調子でまずまずの夕食を楽しめたから今夜も何とかなるだろう。これがケチの付はじめである。
 昨晩と同じシニョリーア広場は避け、今朝のツアーで出かけた共和国広場に何件か屋外にも席があるレストランが在ったので、そこへ出かけてみることにした。店の前に置かれたメニューや客の入り具合をチェックしながら適当な店を探し、ダークスーツを着たウェーターに案内を求め席に着いた。ここまでは特に問題は無かった。しかしなかなかメニューを持ってこない。案内役と注文取りは別の担当になることが多いのだが、案内してくれたウェーターが一人で動き回っている。こちらが待っているのを横目で見て「チョッと待ってください」と言うような動作をするのだがこちらの席まで来ない。それでも大分待ってやっと英語のニューを持ってきてくれる。メニューは入口で確認してはあるが、眺めるのも楽しみだ。前菜、パスタ、ステーキ、ハーフボトルの赤と決めてオーダー準備完了で待つのだが、一人増えたウェーターも席には来てくれない。客は次々入ってくるがこの対応も間に合わず、入口で帰ってしまう客もいる。
 最初に案内したウェーターはこちらがイライラしているのに気がついている。やがてさらに一人、赤い上着にエプロンをしたウェーターが加わり、彼が笑顔を浮かべながら注文をとりにやってきた。「これでやっとありつける!」 ワインは直ぐに供された。悪くない!しかし、前菜は現れない。どうもピッツァのような定番料理と飲み物は比較的早く持ってこられるが本格料理は遅いようだ。イライラしているのは我々だけではない。隣の席に着いた英語を話す中年女性の二人連れが「これ以上待てない」と言うように口をへの字に曲げて両手を広げて席を立つ。しかし、別の席に着いた、これも観光客らしい老夫婦のところへ例のステーキが運ばれてくるのを見ると如何にも美味しそうだ。「もう少し待てばあれにありつけるんだ!しばしの我慢だ!」 しかし期待は外れ相変わらず何も来ない。とっぷり日の暮れた中でイライラは我慢の限界を超す。赤い上着のウェーターは甲斐甲斐しく動き回っているが、何とか彼の目を捉えて席に呼び「ワインがきてから30分を越すのにあとは何も来ない!もう待てない!ワイン代だけ払うから精算してくれ!」「もう直来ます。待ってください」と言うような態度だが「とにかく伝票もってこい!」 渋々レジに行き伝票を持ってきたウェーターに勘定きっかりの金を渡し席を立った。恨み骨髄のフィレンツェ風ステーキ始末記である。
 この後別のレストランに入ったがここでは魚料理を薦められた。しかしヴェネツィアの魚料理に懲りて、ビールと前菜、パスタだけにした。隣席のご婦人の美味しそうな魚のムニエルを見てヴェネツィアの“めざし”の恨みが重なった。

2009年1月3日土曜日

滞英記-14


Letter from Lancaster-14
2007年8月26日

 今週(20日の週)の当地のトピックスは、大きなものはあありません。ただ、気になるのは、このところ少年犯罪(アルコール絡みの殺人;加害者・被害者)の報道が多いことです。景気は良いし、失業率もヨーロッパでは極めて低いところ(5%台)にあります。しかし、既得権の少ない若い人には住み難い社会なのかもしれません。学部卒だけでは中々希望の職業に就けないのが現実です。このような環境が更に下の年齢層に閉塞感を与えている可能性大です。経済効率優先で、ニート、パートタイマー、派遣社員が急増しているわが国も、他人事では無いと、この地に居て感じています。
 泣き言を連ねてきた天気は、ここのところ良くなって来ました。それでも気温は20度前後です。大学の帰り、自宅に辿りついたら、フラットの前で女性が側に犬を侍らせ、マットに仰向けに横たわり、日光浴をしていました。しかし、天気予報には“Shades of Autumn(秋の兆し)”などと言う表現も使われ出し、短い夏も終わりのようです。夕暮れが早くなったことにそれを強く感じます。7月下旬、「そちらでは蝉は鳴いていますか?」とのご質問がありました。全くいません。蝉だけでなく秋の虫の気配すら感じません。ロンドンで日本人ガイドが言っていた「有るか無きかの春と秋、短い夏、あとは暗い冬。これが英国の四季です」をぼつぼつ実感することになりそうです。
 今回のレポートは、皆さんの質問やアドバイスに沢山あった、英国の食に関することを、外食を中心にまとめた<英食つまみ食い>をお届けします。

 研究の方は、引き続きWaddingtonの沿岸防衛軍団における、対Uボート作戦におけるOR適用の本を深耕しています。前回はメインテナンスまででしたが、その後Navigation(航法、特に洋上)、Weather and Operations(天候と作戦の関係;Uボートの最大の敵は飛行機、しかし悪天候で飛べないと、ここをチャンスと船団を襲ってくる。切れ目なく哨戒するにはどうすればいいか?)、Radar(レーダー;初期のレーダーの信頼性向上など)、Visual Problem(Uボート発見のさまざまな効率改善策;双眼鏡の使い方まで!)、そしてAttack(攻撃方法;爆撃進路や高度のとり方、爆雷の種類、投下間隔や深度設定)まで来ました。残るは最終章の、総合的なAnti-U-boat Operationsだけです。とにかく極めて小さい・現場的な戦術・戦闘段階までOR適用が浸透していたことに感心すると伴に、その執念深さに“英国と戦争することの恐ろしさ”を知らされました(尤も、アメリカのお付き合いで始めた、アフガン、イラクの戦いにはこの英国魂は全く感じませんが)。
 8月22日(水)イングランドとドイツのフットボール試合がありました。こう言う国際試合だけはBBCで確り放映してくれます。ドイツのメルケル首相、英国のブラウン首相も観戦に来ました。ベッカムもロスから帰り参加しました。英国中が盛り上がりました。試合は2-1で残念ながら負けました。素人目に感じたことは“組織力”においてドイツが遥かに勝っていると言うことです。あの第二次世界大戦時(否、フォークランド戦争ですら)の執念と組織力はいずこに?!の感です。
 この試合をMauriceと話題にした時、直接試合とは関係ない場面で、「アメリカのスポーツは引き分けが無いんだ。彼らはどうしても勝負をつけたがる国民性なんだろうな。英国のスポーツは本来引き分けありなんだ。クリケットの試合など、5日間戦って引き分けなんて言うのもあった」と語っていました。“戦い”に関する、別の英国人気質を垣間見ました。
 ここへ来て既に3ヶ月を過ぎ、大分資料・著作にも目を通したので“研究成果のドラフト(何故英国で発したORが、各レベルの意思決定者に受け入れられ、実戦で効果を挙げたか)”をまとめ、Mauriceに説明しました。全体としてOKをくれた上で、一つ付け加えてくれたのは、「科学者が、“効果が実証出来るまで”実戦部隊と一緒になって任務をやり抜いたことに注視するように」と言うことでした。先端科学・技術の開拓者には移り気なところがあります(IT関連は、技術進歩が急でこうなり勝ち)。銘すべき助言です。
 次のリーディング・アサイメントは「Britain’s SHIELD(英国の盾)」;レーダー開発と防空システム構築・運用、その中でのORの貢献に関するものです。ハードカバーで200ページを超えるもので、結構タフでしょうが、拾い読みしたところ、戦闘機軍団長;ダウディングの新技術への関わりが詳しく書かれており、“意思決定者と新規技術適用”と言う研究テーマにピッタリの内容で楽しみです。

<英食つまみ食い>
 「食事はどうしているんですか?料理出来るんですか?」「野菜を沢山摂るよう心がけてください」「英国で一番美味しかったものはなんですか?」「生魚を食べる機会はありますか?」「フィッシュ・アンド・チップスはどんな食べ物なんですか?」「当然毎晩スコッチを楽しんでいるのでしょう?」などなど、海外滞在経験の長い方、単身赴任経験者、主婦、身近な友人・家族まで“食”に関するメールを沢山いただいています。“食”は衣・住に比べて、はるかに個々人レベルで身近に感ずる話題なんですね。
 これらのご質問の中で、“自炊”に関するものは、私の日常をよくご存知(推察を含め)の方から発せられるものです。専ら“私、食べる人”に徹してきたのでご心配はもっともです。そして答えは「何とかやっていいます」でご了解いただきたいと思います。と言うのも、レポートは“滞英記”として残そうとまとめているので、自炊の苦労・失敗話では“英国以前”があまりにも多く、日本でやっても同じことをお伝えする結果になるからです。そこで今回は“外での飲み食いとアルコール”に関する話題を中心に、ご質問に対する回答を含めご報告します。
 英国へ出かけると宣言してから、訪英経験のある先輩・友人諸氏から、「楽しい国だが食い物だけはダメだ!酷い!覚悟して行けよ」とコメントいただくことがしばしばありました。ちょっと英国人には酷な表現ですが、「英国人は一般に、味覚の鈍い国民として通っている。そうでないと言う人もいるだろうが、おおむね世界人類の共通認識だから、やむをえない」ということを書いてある本を目にしたことがあります。一方で、先のブリストル行きのレポートでご紹介したように「英国料理がまずいのは、ホテルや高級レストランのもので、家庭料理は決してそんなことはない!」という英国人の反論もあります。私はどちらかと言うと、短い滞在の中のつまみ食い体験にすぎませんが、後者の意見に近い評価をしています。実は田舎で家を借りて生活していると、ほとんど外食をしません。そんな訳で、今でも大体何をどこで食べたのか記憶しています。それでは朝から晩までの時間の流れに従って、味見をしてみましょう。

1)English Breakfast
 朝食を外で摂るのは、ホテルに泊まった時に限られます。英国では基本的にホテル料金はB&B(Bed & Breakfast;朝食混み)で標準的な朝食が供されます。いずれのホテルでも基本はビュッフェで、格別よその国と変わりありません。安いホテルはいわゆるコンチネンタルで温かい物(トーストとコーヒー、紅茶を除く)や肉類がありません。しかし、これはかなり例外的な気がします。経験したのはロンドンに泊まった時で、ここは昼・夜は食事を提供しないほど簡素化されていました。通常は、ベーコン、ソーセージ、たまご料理もビュッフェに用意されているので、非コンチネンタルと言えます。
 English Breakfastと言うのは、ビュッフェにはコンチネンタル(パン、シリアル、飲み物、乳製品、果物程度)しかありませんが、温かいたまごや肉類を別にオーダーをとって(料金は含まれている)好きなものが選択できる仕組みになっています。代表的なのは、ベーコン・たまご・ポテトでしょうか。英国人は(多分コンチネンタル;大陸と比べて)、朝食だけは豪華なものを食していると考えているようで、「朝食は食べたか?English Breakfastだったか?」と念を押したりします。ここで「いや、今朝はコンチネンタルにした」などと正直に答えると、「何故だ?(調子でも悪いのか?)」と聞き返してきたりします。
 朝食にはこの他に、チーズ、ソーセージ、ハム、ヨーグルト、ミルクなどもあり食肉加工品や乳製品は種類も多く、味も大変美味しく、彼らもここはかなり誇りを持っています。EUの統合が進むと、Maid in UKでなくEUになることに反対する人が「EU産のソーセージなんか信じられるか!」と言っていました。
 果物は、いちご、ブルーベリー、リンゴの一部は国産のようですが、大部分南欧、アフリカなどからの輸入品です。
 最後にパンですが、トーストは温かいのを一人4枚くらい焼いてきてくれます。ブラウンとホワイトを問われることがありますが、黙っていると2枚ずつ持ってきます。朝確り食べて、昼は比較的軽めが習慣なのかな?と思ったりしています。
 と言うようなわけで、朝食に関する限りなかなか質・量ともに高い水準にあると評価できます。ただ、メニューを見ていただいてわかるように、“英国”独特の味が出てはいないので、これだけで結論には至りません。

2)Lunch ここは多種多様です。また、確り摂るか摂らないかも思案どころです。さらに、何処で摂るかです。
 先ずサンドウィッチ伯爵が、トランプを中断したくないために発明したと言われる、サンドウィッチ。いろいろなものが挟まれますが、一番よく食べてきたのは、ランカスターハウスホテルのローストビーフとホースラディッシュです。これはゼミの際殆ど毎回食べてきましたが、何故か今週メニューから消えてしましました。仕方なくスモークサーモンにしました。多分来週からは毎回スモークサーモンになるでしょう。これにサラダと独特の、キャベツのみじん切りを少しドロドロした酸味の強いマヨネーズ状のもので和えたもの(何かきちんとした名前があります)、それにカリカリのポテトチップ。あとはビターのジョン・スミス。両者は良く合います。パンの種類、挟む具もいろいろです。チキン、ハム、チーズ、たまご、サーモンなどなど。
 Gregg’sと言う、全国チェーンのサンドイッチフランチャイズ店(ランカスターの中心にも2件ある)から、街の肉類総菜屋がその場で作ってくれるようなものまで(この方が断然美味しい)、どこでも手に入る気安さ、値段の手ごろさもあり、オフィスの自席や公園のベンチで、ビジネスマン・OLが頬張っています。定番ランチと言っていいでしょう。温かいのが食べたいなと言う時は、ホットサンドウィッチが良いでしょう。丸いパンに、チキンとブルーチーズを挟んだホットサンドウィッチにフライド・ポテト(この量が多い!)なども人気があります。
 次いでジャケット・ポテト。ベークド・ポテトです。違いは種々のトッピングがあることです。私の好みはチーズ・アンド・ビーンズ。他にベーコンやオニオンなどそれぞれの店で独特のトッピングを考案しています。バターだけのもの、素のものももちろんあります。これにサラダ、例のキャベツとポテトチップスが組み合わされます。ソーセージなどが添えてあるのもあります。
ジャガイモは当地では準主食、スーパーに行くと多種多様のジャガイモがあります。ジャケット用はその大きさが桁違い、あれを外から中まで均一に仕上げるにはそれなりのノウハウが要るんでしょうね?
 田舎道をドライブしていて、昼飯時なかなかサービスエリアが見つからないとき、小さなInnなどが見つかると飛び込みます。メニューにジャケット・ポテトが載っているとホッとします。本当はビターを一緒にやりたいところですが、我慢のスパークリングウォーターです。
 次は各種ミートパイ。形・大きさ、中身の肉、これも多種多様。寒い日が続いたのでどうしても温かい食べ物が欲しくなります。特にドライブと外歩きが組み合わされた時、ミートパイとスープの組み合わせは最高です。
 これはランチではありませんが、ロンドン観光中、ジャパンセンターで寿司を買い、これをホテルで食べることにしましたが、ビールの当てがないので帰路途上、ヴィクトリア駅でミートパイを買い増し、寿司とミートパイと言う日英同盟記念料理を摂ったこともあります。考えられない組み合わせですが、美味しくいただきました。珍体験ご紹介まで。
 スープだけと言うこともあります。最近娘とその友人が遥々ランカスターまで訪ねてくれました。翌日湖水地帯案内のドライブに出かけました。観光の中心地、例の国際免許が見つかった、ウィンダミアを案内し昼食時間になりました。さて、どこで昼にしようか?取り敢えず土産物屋や飲食店の集中する方へ向かいましたが、その途上湖水を一望する広々とした庭を持つホテルが見えてきました。湖水に並行する道路に沿ってそのホテルの石積みの塀が続いていいます。塀が一部切れてホテルへの入口になっています。そこに“Light Lunch”と書いた紙が張ってあります。観光客が入っていく気配がありませんでしたが意を決して、芝生の中の遊歩道をホテルへ向かい上っていくと、風格のあるホテルの全容が見えてきました。建物中央の前庭部分に丸テーブルが幾組みか置かれ、一組の家族が昼食を摂っているところでした。小さな入口から中に入ると、そこもカフェテラスのように設えてあります。バーのカウンターがありますが人は居ません。呼びかけると厨房の方から人が出てきて、対応してくれました。「Light Lunchとあるが、どんなものがありますか?」と問うとメニューを出して説明してくれました。そこに“スープ、ロールパンつき”と言うのがありました。彼女たちは“ブルーチーズのホットサンドウィッチ”を注文しましたが、私はこの“パン付きスープ”にしてみました。この後のアフタヌーンティーを考えればこれで充分と考えたからです。昼食時のパン付きスープはここだけでなく他でもありました。
 さて、お待ちかね、“フィッシュ・アンド・チップス”です。
 私がフィッシュ・アンド・チップスと言う食べ物を知ったのは、1982年シドニーで開催された、Esso Eastern(エクソンのアジア地区統括会社)のORワークショップに参加した時です。一日前にシドニー入りしたので、市内の渡し場、サーキュラー・キーから対岸に渡り、タロンガ動物園に出かけた時です。昼食時、園内の立ち食いスタンドで皆が求めているものを見ると、魚を揚げたものとポテトフライでした。何というものか聞くと、“フィッシュ・アンド・チップス”という答えが返ってきました。早速買い求め、食べてみると大変美味しいものでした。その後、これが英国生まれで代表的な軽食であることを知りました。そしてあれ以来四半世紀振りの“フィッシュ・アンド・チップス(F&C)”は、またまたORとセットでした。
 実は、こちらへ来てから2度しかF&Cを食べていません。最初はマンチェスターからランカスターへの移動中、高速道路のサービスエリアで摂った昼食です。二度目はカーライルへ観光に出かけ、そこのレストランで昼食を摂ったときです。他の昼食と比べ著しく少ないのは、それほどこれを提供する店に出会わないからです。来る前の印象では、街のそこここにF&Cの店があると思っていましたが、意外と少ないのです。パブのような所へ入ればあるのかも知れませんが、昼食を摂るためにパブに入ったことがありません。ランカスターにもパブは街中に沢山在りますが、どうも昼間から入る雰囲気ではないのです。
 さて、F&Cはどんなものか?基本的に魚は白身の魚;Cod(たら)、Haddock(少し小振りのたら)が大半と言っていいでしょう。他のものもあるのかも知れませんが、味わう機会がありません。これを衣に包んで揚げるわけですが、揚がった状態は春巻きの皮のような硬くカリカリしています。魚は薄く塩味がします。これにフライド・ポテトが付きますが、この量が相当あります。レストランで食べると、さらにサラダが加わります。これだけです。ビール、ビターとの組み合わせは最高ですが、一回目は運転の途上ですからコーラにしました。これはいまひとつピッタリ来ません。二回目はビターを飲みながら食べたので、当に英国の味を堪能しました。これだけで昼食としては十分です(いや、ポテトは全部食べ切れなかった)。問題は油の多さで、これを頻繁に食べることは、確実にメタボリック体型への道に繋がるでしょう。
 この国には、階級社会の歴史が未だに強く残っていると言われています。後でも触れますが、食物・食材にもその歴史が反映しています。F&Cは典型的な下層労働者階級の食べ物だったようです。古新聞に包んだF&Cを、港や工場が隣接する街頭で立ち食いしているシーンを想像すれば、その説に真実味が出てきます。食べる場所、食べ方を考える必要があるようです。もっとも、日本でもお公家さんや位の高い(町廻りでない)武士が、麺類を食べている場面は映画・TV・小説にはまず出てきません。意外と上流社会の方々も、こっそり庶民の味を楽しんでいるのかも知れませんね。
 以上の英国伝統昼食料理のほか、中華、イタリアン、インド(これは当地ではまだ食べていない)などの料理が気軽に摂れます。大体その国の出身者がやっているので、専門店(ホテルはダメ)で食べれば味は間違えありません。
 と言うようなわけで、昼食に関しては選択肢も多く、美味しい英国料理が手軽に楽しめます。決して“英国料理は酷い”ものではありません。

3)Afternoon Tea
 “アフタヌーンティー”、優雅でゆとりを感じさせる良い言葉ですね。“3時のおやつ”とほぼ同目的(やや広い)のものですが、日本語・英語の違いを除いても、浮かんでくる情景が違います。マナー(大邸宅)、シンガポール、香港などにピッタリの雰囲気です。
 この言葉を初に知ったのは、1975年のシンガポールです。このとき会社に入って二度目(最初は、1970年のアメリカ、フランス)の海外出張をしました。目的は、先に出てきたEsso Eastern主催の“Logistics Economic Course”と称する石油精製・販売に関するビジネス・ゲームに参加するためでした。当時私は川崎工場で生産管理情報システムの開発に従事していたので選ばれたのです。Eastern傘下の各国から参加者があり、チームを組んで石油会社を経営して競い合うのです。2週間、トレーニングセンターの在ったシャングリラ・ホテルに缶詰になってしごかれるのです。とは言っても息抜きの時間はあります。そんなある午後、ロビーの喫茶コーナーで何気なくメニューを見ていると“アフタヌーンティー”とあったのです。飲み物、ケーキ、サンドウィッチなどがセットになっています。それらしき午後を過ごしている人達が居ます。言葉や内容から、英国の植民地時代を窺がわせるものです。“なるほど ゆとりだなー” その時の第一印象です。
 まだ近代化途上だったシンガポールには古い植民市時代の雰囲気が残っていました。目をつぶりまぶたの裏に写るのは、強い日差し、気だるい午後、バルコニーのある白い建物、広い緑の芝生が広がる庭、白いテーブルと椅子、これも白服の紳士・淑女が集う、お茶を給仕する現地人。インドで、マレーで、シンガポールで、香港で、ヴィクトリア時代の大英帝国です。現代の英国人もこんなよき時代の情景を思い起こしながら、アフタヌーンティーの時間を過ごしているような気がします。
 アフタヌーンティーは、紅茶とお菓子;スコーンが代表的ですが、クッキーやケーキも好まれます。甘いものが欲しくない時には、小型サンドウィッチもあります。具はきゅうりやチーズ、ハムなどあまりかさ張らないものが用意されます。もうチョッと重い食事を、遅いランチにすることもあるようです。また、場所によっては果物を組み合わせることも可能です。紅茶はもちろんポットで用意されます。むろんコーヒーでもかまいません。
 当地で過ごしたアフタヌーンティーでは、ブリストル訪問でジェフの周到な準備で訪れた、ヴィクトリアン・タウンハウスに住む、ジーニーのバックヤード(主庭)で過ごした時間がいつまでも記憶に残りそうです。レモンケーキと紅茶、話題が何故か「長男と母親;甘えん坊」になりました。「私も母にとって初めての子供ですから、その話はよく理解できますよ」 話が弾んだのは言うまでもありません。
 先日娘がやってきたことをお話しました。帰国した彼女から、訪英印象のダイジェス・メールが来ました。一番印象に残ったのは、湖水地帯観光に組み込んだ、マナー(大邸宅)訪問だったと。このマナーは、フッカー・ホール(Holker Hall)といい、赤い石(砂岩)で出来たお城のような邸宅で、メアリー王妃やグレース・ケリー王妃も宿泊した、由緒あるマナーです。現在も利用されており、その一部が公開されているのです。門を入ってしばらくは建物が見えないほどの敷地の中にあり、素晴らしい庭も見ものです。観光客用に別棟のカフェもあります。ここでアフタヌーンティーを味わっていると、英国在住の人気小説家、カズオ・イシグロの「日の名残り」の背景がよく理解できた、と言うコメントが加えられていました。執事や女中頭が登場する、日本では想像できない世界です。案内した甲斐がありました。
 アフタヌーンティーは、英国の文化と歴史が詰まった特別な飲食習慣で、これだけは他と比べることはできません。英国訪問のチャンスには、是非この時間を楽しむことをお勧めします。

4)Dinner
 料理の美味い・不味いは詰まるところディナーに尽きます。最初の2週間のホテル暮らし、ロンドン、エジンバラ、ブリストル、ヨーク、ランカスター市内で外食ディナーを食べています。ホテルでのディナーによく、POSHと書かれた看板が出ています。   POSHは何かの略語(P.O.S.H.)らしいのですが、まだ調べていません。その下に2種類でいくら、3種類でいくらと書いてありますから、メニュー選択と値段のことであることは間違えありません。最初に夕食を摂ったランカスターハウスホテル(LHH)で、POSHとは書いていないもの、それと同じ説明を受けました。つまり、①前菜、②メインA、③メインB、デザートは別料金、と言う説明で、メインをA,B2種にするか、AかBかいずれかにすするか、という選択を先ずします。前菜を含む3種の中から2種を選べば値段は2種の値段、全部を取れば3種の値段になります。私は一度もメイン2種にしたことはありません。①~③の中身はさらに3~4種ありここからひとつを選びます。例えば、前菜:サラダ、スープ、スモークサーモン、シュリンプ、メニューA:ラム、ポーク、ビーフ、メニューB:鱒、サーモン、チキン、パスタのようになっています。もちろん“何とか風”と言うような料理用語や、和え物・ソースの名前などが加わり、メニューを眺めたり、一度聞いただけではどんなものが出てくるのか分からないのはどこのレストラン、ホテルとも同じです。早口の英語で説明されても、混乱は増すばかりです。結局、素材とせいぜい調理法(焼くのか、煮るのかなど)で選ぶことになります。
 LHHとそれに続いて宿泊したホリデーインはそれぞれ1週間泊まりましたが、世評通り酷い料理でした。いろいろ変えてみましたがどれもダメです。手は込んで、努力はしていることは認めますが、味付けに全くコクがありません。素材も、ビーフはパサパサして肉汁の美味しさが全く染みでて来ません。早々と外から買ってくるもので夕食を済ませるようになりました。
 田舎のランカスターだから仕方が無いのか?ロンドンに出かけた時友人夫妻が泊まる、四つ星ホテルを訪れました。ハイドパークの北東角、マーブルアーチに近い落ち着いた雰囲気の良いホテルです。ロビーに隣接するバーで軽く一杯やりました。「良いホテルだね!」と話し出すと、夫人が「でもね、レストランは全くダメ。食べる気がしないの。昨晩は外から買ってきたもので済ませたの」とおっしゃる。数え切れないくらい英国へ来ているという二人の評価です。その晩のディナーは、オックスフォー通りから少し入った、英国風中華レストランでご馳走になりました。「中華は間違いないからね」と言うのが友の総括でした。同感です。
 ヨークに出かけた時、ディナーをどうするか随分悩みました。カジュアルで来ているので、簡単なもので済ませようかとも思ったのですが、英国に来て一度もディナーとしてローストビーフを味わっていないことが気になっていました。一度きちんとした所でローストビーフを食べたい。これには昔食べた、極上のローストビーフへの思いが未だに強烈に残っているからなのです(サンドウィッチに挟むものとは全く別物)。
 1960年代の終わり頃、当時パレスホテルの地下にあった(現在は無い)「シンプソン」にお招きを受け、おそらく生まれて初めて、ローストビーフなるものをご馳走になりました。口の中でとろける様な柔らかさ、肉汁とソースが作る深みのある味わい。“シンプソンのローストビーフ”はそれ以来あこがれの味になっているのです。シンプソンは、ロンドンを本拠とする有名レストランですから、「英国の高級レストランの料理は高くて不味い」の評価は少なくともローストビーフに関してはないはずです。
 トップクラスが優れていれば平均値も高いだろう。こう考え、ヨークでのディナーにローストビーフの可能性を当りました。日本から持参のガイドブック、ホテルでもらった観光案内、これらを調べているとロースト料理の専門レストランが見つかりました。両者に載っている店です。売りものは、ローストラム、ロ-ストポーク、ローストチキンそしてローストビーフです。身なりが心配で、フロントに聞きに行きました。「カジュアルで全く問題ありません。予約しましょうか?何時にします?」こうして出かけたのが、ヨーク(観光)を代表するレストランです。店の外から、シェフがローストした肉を切り分けているのがガラス越しに見えるような店です。入って予約を告げると、直ぐ席に案内してくれました。ここで(失敗かな?)と思いました。お客が皆観光客のような感じの人ばかりなのです。しかも空席があります。席に着き赤のグラスワインを注文し、メニューを眺め、定番のローストミート(3枚好きなものを選べる。混合可)をメインに選び、前菜はシュリンプカクテルにしました。前菜はまずまずでした。いよいよメインです。ビュッフェスタイルの調理台に向かい皿を取ると、シェフが「何にしますか?」(一瞬、三種類一枚ずつにしようかな?と思いましたが)「ビーフ」と言ってしまいました。三枚のローストビーフが皿に盛られました。(ウーン?何かサンドウィッチのローストビーフと同じ感じだな;脂身がまるでない)ソースや和え物は自分で好きなものを選びます。席に戻り、一切れ口に入れると、ガツーン!“何だこれは!(肉はパサパサ、ソースは淡白でまるでコクがありません)。“英国料理は不味い”を確り確認しました。
 英国料理の名誉のために付け加えれば、家庭や地元の人が出かけるようなレストラン、田舎の旅籠では美味しいディナーをいただきました。どれも素材がビーフでなかったこと、ソースによく手が加えられていることが共通です。
 簡単な料理を自分で作る。来る前に想定したのはビフテキです。きっと肉は安くて美味いだろう。スーパーで買い求めたステーキ用牛肉でビフテキをやりました。ガツーン!でした。肉汁がまるで無いのです。健康のために脂身の全くない牛を作り出したのでしょうか?とにかくこの国の牛は全くダメです。和牛は別にして、アメリカやオーストラリアでこんな酷い牛肉に出会ったことはありません。牛は酪農用に飼い、御用済みになったら食肉にするんでしょうかね?シンプソンの肉は何処から来るんでしょう?おそらく帰国するまでビフテキを口にすることはないでしょう。
 ではポークはどうなんだ?結論から言えば、スーパーで買い求めるのは豚肉が一番多いのが実情です。先ずベーコン、スモークしたものを買います。そのまま焼くのも良し、刻んで他のものと混ぜるのも良し、美味しくて重宝な食材です。ポークソテー用の豚肉もなかなかいけます。塩・胡椒しただけで美味しいソテーが出来上がります。カレーライス、野菜スープにもこれを使っています。ビーフとは格段に差がある味です。
 ただ、短期滞在者の外国人である私にとっては関係のない話ですが、歴史的に見ると豚肉を食べることは、この国ではまともな人と思われない時代が長く続き、ベーコンなどは最下層民の食べ物であったようです。隣の国、アイルランドでは逆に、豚は一番身近な家畜として古くから愛されています。これは彼等がケルトで、ローマの血を引くからだと言われています。ローマ帝国では、豚は豊かさの象徴として崇められてきた歴史があります。英国・フランス・ドイツ、いずれもローマから見れば野蛮人の国(アングリア、ゲルマニア、ガリア)でした。いずれの国もローマ(そしてギリシャ)に如何に近いかを強調する傾向があります。とりわけ英国はローマ・イタリアコンプレックスの強い国です(貴族の子弟は、教養を深めるためこれらの国々を旅行することが流行った時代があるくらいです)。そんな歴史から見れば、豚肉蔑視は合点がいきません。アイランド蔑視の結果なのでしょうか?

5)Whiskey、Whisky、Scotch
 ビジネスを通じて親しくなった友人が、出発前に横浜上大岡駅に近いバーへ、壮行会を兼ねて誘ってくれました。知る人ぞ知るウィスキーに関する日本を代表するバーです。種類、仕入れ元との関係、マスターの知識(本を書いています)いずれをとっても超一流、“楽しむ”領域に達しています。「向こうへ行ったら大いにウィスキーを楽しんで来てください」マスターが送り出してくれました。
 しかし、Scotch(スコットランド)もWhiskey(アイルランド)もWhisky(イングランド)も残念ながら一度も飲む機会がありません。夜、誰かと飲む機会が無いのと、ビンを買ってきて一人で飲むのは生活のペースを守れなくなる恐れがあるからです。食事も済んで自室に篭もり、ウィスキーをチビリチビリやりながら、ミリタリーサスペンスを、CDでも聴きながら読む。これを、ビジネスを退いた後の夜のパターンにすることを、40代後半くらいから目論んでいました。しかし、数年前かかりつけの医師から深夜の飲酒を禁じられました。Mauriceの貸してくれる本は、サスペンスではないもの、私にとってはそれ以上に興味深いものです。禁断の園は直ぐそばにあるのです。
 こちらへきてすっかり習慣になってしまったのが、ビター(黒ビール)です。晩酌はジョン・スミス(JS)のエキストラスムーズ、500mlの缶です。最初のきっかけはMauriceとの昼食ゼミあります。「ギネスよりスムーズだよ」と言うアドバイスで始め、すっかり気に入っています。最初に缶を開けてビンに注ぐと、泡だけが入っているように見えますが、その中に液体分が確り含まれています。“クリーミー”と言う表現がピッタリの口当たりは、ラガービールにありません。味も癖が無く(これが短所であるかもしれませんが)大変飲みやすいビターです。外で食事をする際、先ずビターがあるかどうか?次いでJSがあるかどうか問い、あれば必ずJSです。帰国してから、これを味わえないのを今から心配しています。
 ワインもよく飲みます。殆ど安い欧州産、オーストラリア産、南アフリカ産の赤です。自宅ではスーパーで買ったもの、外では店のハウスワインをグラスに一杯。英国人もワインが好きなようでピンからキリまで、スーパーでもレストランでも揃っています。実は、日本の自宅では滅多にやらなかったランチワインをやるようになってしまい、トータルの飲酒量が増えているのではないかと、反省しつつ飲んでいます。

 飲酒は、今や英国社会を蝕む最大の社会問題になってきています。特に少年の飲酒が、さまざまな犯罪と直結しています。警察も必死ですが、対処療法だけでは治まらない、何かがあります。若者に夢を与え、それを実現する環境が著しく狭まってきているのではないかと、短い滞在期間ですが強く感じています。若者だけではありません。今や、6千万人の内5百50万人が海外に居住しているのです。Mauriceによれば生活費高騰に対する逃避だそうです。人気のある外国ベストスリーは;オーストラリア、スペイン、アメリカです。特に年金生活者には、フランス、スペインを始めとした近隣南欧諸国が多いようです。何と言っても、天気は良いし、美味しいものが食べられる国々ですからね。年金生活しながら英国へ来るなんて、余ほどで変人なんでしょうか?

                                                                       以上