2009年6月21日日曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(5)

5.マイカー入手作戦 あの夏休みの後は専ら卒論に明け暮れる毎日だった。その頃研究室に中古のライトバン(日産ジュニア)が導入された。助教授が知り合いの電器店から譲り受けた(もらった?)ものである。初めは色も褪せた三菱電機の広告と電器店の名前が入った塗装だったが、それをクリーム色に塗り直し、研究室名を黒で入れ、見違えるような車になった。助教授の自宅は小平、私は当時小金井に在った祖母の家に住んでいたので、運転手のような役割を担わされることになる。毎日の通学(助教授は通勤)ばかりでなく、共同研究を行っていた大船や日光の会社、それに実験装置製作を委託している町工場などへもよく出かけたものである。この車のおかげで運転技量が確実に向上していった。
 昭和37年(1962年)4月東燃に入社。約2ヶ月の和歌山工場での集合教育の後、和歌山工場への配属が決まる。“一人前のエンジニアになるんだ!”は建前である。密かな決意は“3年以内に自分の車を持つ!”ことだった。ガールフレンドが欲しい、早く結婚したいなどとは全く思わなかった。全ては車を持ってからのことであると。当時の車好きの若者には結構私に近い人間がいたように思う。それほど自動車は憧れの対象だった。
 しかし、決意をしたからといって、無一文でスタートする私にとって、簡単に実現できることではない。初任給は2万円、ボーナスもこれがベースだから知れている(初年度の冬のボーナスが5万円弱ではなかったろうか?)。ここから生活のための諸費用を払い、僅かだが仕送りもし、ほかにも欲しいものがあるので(ラジオや扇風機、スキー用具がそれらだった)、年間10万円貯めるのは決して容易なことではない(初年度は当然無理)。一番安い軽自動車でも新車は40万円位、まずまずの小型中古車が30万円台と言う相場なので3年は相当な努力を要する目標であった。
 幸運だったのは、翌38年の1月下旬から半年間、機械系の新入社員が川崎工場の増設プロジェクトに教育に出されたことである。これは籍を和歌山工場に置いての長期出張であったから、その出張手当が給料外の収入になった。都会には楽しいことが多い。学生時代の友人もいる。それを享受しようと思えば、僅かな手当てなど吹き飛んでしまう。しかし、私はその年の初夏実施される、国家計量士試験を受けるよう命じられていた。第一次の筆記試験は2日間にわたって行われ結構な難関である。ひたすら保土ヶ谷に在った寮と工場の間を往復する生活に徹した。この手当てで約10万円を得るとともに試験にも合格した。
 予定外の収入があったとはいえ、ゴールはまだ遥か先。当時は原付バイクブームの時期、寮の先輩たちも何人かホンダのスパーカブを持っていたし、本格的なオートバイを持っている人もいた。「ひとまずオートバイで我慢したら?これはこれで楽しいよ!」悪魔の囁きは抗し難かった。スズキの中古バイクを買ったのが38年の秋である。寮の仲間とツーリングに出かけたり、高性能のホンダCBを借りて遠出もした。どうしても四輪車に乗りたい時は、有田川河畔の自動車修理工場がやっていたレンタカー(ホンダS-600)サービスを利用して我慢するしかなかった。愛読していた月刊誌「Auto Sports」を眺めながら、夢を膨らませる2年が続く。 (写真はダブルクリックすると拡大できます
 昭和40年、目標の3年目、やっと資金の目処が立ち購入計画が具体化してくる。春から7月のボーナスも見込んで、中古車を見て廻る。今のようにディーラー毎の中古車販売システムなど出来ていなかったので、随分あちこちの中古車屋へ出かけたが、大都会と違いなかなか適当なものが見つからない。手が届きそうなところで一番欲しかったのは日産のブルーバード。次いでプリンスのスカイライン(今の日産GTRにつながるGT-Bが発売されていた;中古でもとても購入対象にはならなかった)だったが、これらは中古市場でも人気車種で価格が高い。トヨタは、S-2000というロングノーズ、ジャガーもどきのスポーツカーを出していたが、何故かこの頃から車好きには人気が無かった(今でもそうだが、よく売れる車作りは当時からダントツだったが)。むしろ新参のいすゞべレット(特に1600GT)の方が、格好の良さとレース活動への熱意で多くのファンを惹きつけていた。

 結局6月、比較的程度の良い日野コンテッサS(Contessa;伯爵夫人;昭和38年発売)の購入を決める。値段は40万円弱であった。

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