2009年7月3日金曜日

今月の本棚-10(6月)

<今月読んだ本(6月)>
1)ナチが愛した二重スパイ(ベン・マッキンタイアー);白水社
2)数学者のアタマの中(D.ルエール);岩波書店
3)ワルキューレ(スティ・ダレヤー);原書房
4)エトロフ発緊急電(佐々木譲);新潮社
5)ストックホルムの密使(上、下)(佐々木譲);新潮社

<愚評昧説>
1)ナチが愛した二重スパイ  “事実は小説より奇なり”と言う言葉があるが、この本は当にその通りのストーリーが展開するノンフィクションである。筆者は(ロンドン)タイムズのベテラン記者(ワシントン支局長、パリ支局長などを経てノンフィクションライターへ)。最近公開された政府公文書などを基に書かれたものである。
 主人公、チャップマンは金庫破りなどを生業とする生来の犯罪者。ノルマンディー半島に近接する、英領チャネル諸島のジャージー島で追い詰められ、逮捕・収監される。やがてこの島がドイツのフランス侵攻でナチスの支配下に入り、チャップマンはスパイを志願することで、監獄から逃れることを策す。当初は相手にされない話が実現するのは、ドイツの諜報組織が英国にスパイ網を全く作り上げておらず、英軍事情報を渇望していたことによる。信じがたいことだが、英国側(MI-5)も同じでドイツの要部に迫る効果的な情報収集組織を持たぬまま大戦に入っている。
 ドイツ国防軍諜報部(カナリス機関;アプヴェーア)にリクルートされるまでの厳しい査問、スパイとしての訓練を通して、彼のケースオフィサー(管理者)、シュテファン・グラウフマン(グレーニング)との間に生ずる友情・信頼関係。1942年12月16日夜、密命を帯びたチャップマンは、偵察機から英国に落下傘降下する。彼の本意は二重スパイとなることを条件に犯罪者としての履歴を消してもらうことにある。降下後直ちに英諜報機関に連絡を要請するが、田舎の警察は「世迷言を言わず、早く家に帰れ」とまるで相手にしてくれない。それでも何とかMI-5への道がつながり、ここでも厳しい査問を受ける。
 子を成した女性との再会、飛行機工場の偽装爆破、ポルトガルを経てのフランス再潜入、ゲシュタポによる取調べ、ノールウェーでのグレーニングとの再会と新たな訓練、レジスタンスに繋がる新たな愛人、再度の英国潜入、と息をもつがせぬ展開は一流のスパイフィクション顔負けである(ジョン・ル・カレも賛辞を寄せている)。
 チャップマンが、この戦争で英国にもたらした情報は、かけがえの無いものが多い。戦後まで無事生き延びた彼は、この活動を基に得た金で一時は羽振りの良い暮らしをするが、養老院のようなところで最後を迎える。
 二重スパイなどと言う役割は、誰にでも演じられるようなものではない。貧しい労働者階級に生まれ、犯罪者になっていくが、ここでも仲間よりは一段優れ、巧みに逮捕・拘留を免れている。機転の利く頭の良さ、ある種の商才(スパイをビジネスとしてしまう)、人に愛される人柄(人に対する好き嫌いがはっきりしているが)、フランス語やドイツ語をものにできる語学の才能、女性をひきつける容姿などがこれを可能にしたと言える。
 OR歴史研究の視点から、当時のドイツがどのような英軍事情報を求めていたかを知ることが出来た点で貴重な資料である。

2)数学者のアタマの中
 私の卒論の指導教授は、機械工学の出身であったが工学博士ではなく理学博士(数学)であることが自慢であった。2年の時の担当必須科目、工業数学は最も難解な科目で、良い成績で単位を取得するなど論外、追試を受けるより可でも良いから一発で取れ!これが先輩からのアドヴァイスであった。純粋数学→応用数学→工学と言う流れからすれば、また彼の専攻が制御工学と言う進歩・変化の早い(機械式から電子式へ、アナログからデジタルへの転換期であった)分野であったこともあり、真っ当なことを必須科目として教えていたのであろうが、当時の学生の大半は何故こんな数学を!?の感が強かった。この本を読んで、彼が教えていたn次元に広がる集合論や写像の概念が、当時(そして今でも発展する)の現代純粋数学の先端にあったことを、今になって知った。
 星霜50年、数理を企業経営に適用する仕事に携わり、応用数学とは近いところで過ごしてきたが、現代純粋数学とは無縁だった。岩波が出すにしては些か面白い題名に引かれて購入した。
 この本を読むと最先端の純粋数学が、一方で細分化された微小部分に向かい、他方にその細分化を統合する体系作りに向かっていることや、それぞれの細部があるとき見方を変えると同じことになることなどがわかってくる。ばらばらのように見える世界が壮大な一つの宇宙を形作るには、それなりの発想と世界観(哲学)が必要だし、それを他者に分からせるには工夫がいる。また、それ故数学の理論に寿命がある。そんなことを筆者の身近なところ(例えば数理物理学の研究者など)や有名人の逸話(ニュートンやアインシュタインに自閉症の気味があったなど)から説いていく。
 最先端ゆえに、理解できる人も少なく、果たしてゴールにたどり着けるかどうか分からないこの学問に何故人は取り憑かれ、何を遣り甲斐として取り組むのか?それは問題が解けたときの解の形の美しさと、名誉にあると言う。だから筆者はコンピューターを使って力ずくで解く手法を評価しないが、それでも検証などへの利用価値はそれなりに認めている。
 歴史的に見れば、このような、当時は個人的な好奇心に動かされた純粋数学者の研究が、やがて応用科学に役立ってきた例は枚挙に暇が無い。恩師もそんな思いで、我々にあの難解な数学の講義をしていたのであろう。
 普段敬遠しがちな分野に、最後まで興味を持って読み続けることが出来、久々に新知識を得たと言う満足感に浸れた。

3)ワルキューレ -ヒトラー暗殺の二日間-  敗勢続く1944年7月19日から20日にわたって行われたヒトラー暗殺計画実施とその時の軍部・政府の混乱を描いた、事実を基にしたフィクションである。題名の“ワルキューレ”は暗殺完了後の行動計画の秘匿名。
 期間は二日間。主人公は二人、ヒトラーと暗殺計画の実行犯、クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐。舞台は東プロシャの市街地から隔絶した森林に在った総統大本営、ヴォルフスシャンツェ(狼の砦)とドイツ国防軍国内軍総司令部の在ったベルリン・ベンドラー街の二ヶ所。本書の構成は二部構成。小説と言うよりは演劇の脚本仕立てのようである。
 第一部は、ヒトラーの際立ったリーダーシップに惹かれていた国防軍の軍人たちが、戦いの進展とともにナチスとヒトラーに幻滅し、やがてクーデター計画のネットワークが出来上がっていく様子を、クラウスの心のうちを覗いながら描いていく。“何としても彼を暗殺しなければならない!それを実行するのは自分しかいない!と決意するプロセスである。対比する形で、幼い時代からヒトラーの歪んだ考え方が形成され過程を、ウィーン、第一次大戦の戦場、ミュンヘン、ベルクホーフ山荘での思い出を辿り、現在の苦境が国防軍の不甲斐なさにあると妄信し、難局を救えるのは自分しかいないが、どうこれを解決すべきなのか、出口の見えない問題に眠れぬ夜を送る孤独な独裁者の姿をあぶりだす。
 第二部は第一部に比べると極めて即物的である。暗殺計画実施の朝からのクラウスの行動、「爆殺成れり」というクラウスの一報と総統大本営からの「総統は無事」の報が錯綜するベルリンにおける、関係者の行動を描いている。態度を決めかねる者、次の段階に猛進する者、状況変化を見て寝返る者、リーダーたちの醜い保身争いが始まり、クーデター派は追い込まれていく。
 クラウスほか3人の首謀者は、当初同志のようなそぶりを見せた国内軍司令官によって銃殺され、ヒトラーはこの奇跡(軽傷であった)を敗勢挽回の好機と捉える。
 シュタウフェンベルク大佐によるヒトラー暗殺は史実で、今までに書籍や映画(目下上映中のではなく)でも知っていたが、ベルリンを中心に繰り広げられたワルキューレ行動計画がこれほど大規模で、一時首都を震撼させるような出来事であったことは、この本によって初めて知った。またフィクションではあるが、登場人物の人柄に今までと異なるイメージも多々あり、その点でも新鮮であった。
 些細なことではあるが、翻訳にやや不満が残る。原著はデンマーク語で書かれ、翻訳者もデンマーク語の専門家(4名、いずれも女性)が当たっているが、この時代の歴史や軍事にあまり精通していないようだ。例えばソ連・赤軍のトハチェフスキー元帥を“ツチャツェフスキー”、自走砲(戦車と似ているが、砲塔が回転しない)を自動推進式大砲と訳したり、また大砲を“門”でなく“発”と表現しているところなど興醒めである。この他にもヒトラーの言葉遣いが妙に丁寧だったりするのも読んでいて気にかかる。原書房は軍事関係の得意な出版社、その点では訳者よりも編集者がこれらの誤りに気付かなければいけない。出版社の質の問題ともいえる。

4)エトロフ発緊急電
5)ストックホルムの密使(上、下)

 同一筆者によるシリーズ物で、第一作「ベルリン飛行指令」と併せて三部作になる。作者の佐々木譲は目下「警官」物で売れっ子だが、この三部作がそれまでの代表作といえる。第一作の「ベルリン飛行指令」を読んだとき、第二次世界大戦を、日本人をテーマに描いた軍事冒険小説でこれだけ面白い小説を書ける人はいないと思った。期待通り、二作目の「エトロフ発緊急電」では山本周五郎賞を受賞している。
 「ベルリン飛行指令」は日本が参戦前、英独航空戦で航続距離の短い独戦闘機の欠陥を改善する手本として、ドイツがゼロ戦の派遣を依頼してくる。長躯日本からドイツまで、英国の支配地を避けて、2機のゼロ戦を輸送する話。
 そして第二作「エトロフ発緊急電」は脛に傷持つ日系米人が米国諜報機関にリクルートされ、真珠湾攻撃準備中の海軍情報を基にその集結予定地、エトロフ島単冠(ヒトカップ)湾に潜入し、「機動部隊抜錨」を無電連絡する。このエトロフ行きを追う憲兵との追跡劇が推理小説仕掛けで面白い。
 第三作「ストックホルムの密使」は、中立国スウェーデン駐在海軍武官とパリ在住の不良日本人が主役となる終戦工作秘話で、ヤルタ会談やポツダム会談の中味をいち早くつかんだ武官が暗号電を送るのだが、官僚機構の中で握りつぶされる気配を感じ、この在外不良日本人に飛脚を依頼し、ロシア・満州を経て東京まで帰り着く冒険談である。
 いずれの作品も時代考証や軍事技術に精通した筆者ならではの作品であった。最近は警官物のヒットで、第二次世界大戦から離れてしまったのが残念である。

0 件のコメント: