14.走馬灯の40年-3<SSS後の所有車-2> アコードは良い車だったが、これを所持している間に住まいを三浦半島の先、久里浜に移したこともあり、9年もすると錆が出てきたり、電気系統のトラブルなどが出てきだした。
次は何にするか?先ず、大きくなった子供たち3人を含め5人が不自由なく乗れるサイズ。車種として、アコードで知ったハッチバックの使い勝手の良さは必要条件(当時はミニバンやワゴン車は特殊なものしかなかった)。アコードで免許を取った家内やこれからその車で免許を取得する可能性のある子供三人に運転し易い車(オートマティック・トランスミッション、パワーステアリング)が条件で、私の“運転の楽しみ”は優先度を下げることにした。
当然気に入っていたアコードの次世代も有力候補の一つだったが、“エアロデッキ”と称する尾部を大胆に切り落としたスタイルにやや抵抗があった。ほかにトヨタ、三菱、スバルなどに候補があったが、それでも最初にホンダへ出かけた。しかし、この店の対応が最低だった。ライフから乗り継いで14年のホンダ・ファンの気持ちを全く理解していない。下取りのアコードをまるでポンコツ車呼ばわりする。85年、情報サービス子会社に移った身で痛感したことは、営業の難しさ・大切さだった。学生時代学自研の会社訪問でホンダの狭山工場を訪れ、作業服姿で現れた本田宗一郎の謦咳に触れ、それ以来持ち続けたホンダに対する熱いおもいをその時失った。
営業面で対照的だったのはトヨタである。それまで今ひとつトヨタの柔らかい足回りが好きになれず、購入意欲がわかなかった。しかし、久し振りに試したコロナ5ドアー車は、相変わらずフワフワするフィーリングだったものの、使い勝手や運転のし易さで優れていた。かてて加えて、営業の対応が見事だった。担当セールスマンは個人としてはさえなかったが、係長・課長がよくバックアップし、チームとして顧客の関心を高める努力をしていることが十分伝わった。トヨタの独走をここで始めて納得した。
予想通り、子供たち2人はこの車を保持している間に免許を取り、やがてこの車を自在に操るようになった。この時期、私は仕事中心の真っ只中にあったし、子供たちは同世代の友人たちとの付き合いが中心の生活に移っていった。もう家族でのグランドツーリングを楽しむことは無かった。“適当な時期に適当な車を持った”とは言えるが、“次は自分が楽しむ車を持ちたい”という思いを醸成した車とも言える。この車に結局1997年(10年)まで乗った。
運転免許を取って初めて運転した乗用車はMN(本シリーズその2“友の死”で紹介)の家のフォード(ドイツ)・タウヌスだ。卒業前の3月に乗ったのはヒルマン(英国)・ミンクス、和歌山時代帰省した正月、彼はプジョー(フランス)で私の実家にやってきて、一緒に筑波山へ出かけた。どの欧州車も大きさが国産車と変わらない。そして確実に内装は落ち着きがあった。いつの日か欧州車に乗りたいという気持ちはあったが、フランス車や英国車はビジネス面でも技術面でも昔日の勢いを失いつつあった。そしてドイツ車は高価だった。メルセデスはあまりにも成金趣味でいやだったので、コロナの5回目の車検を前に近くに在ったBMWの中古車センターに出かけてみると、国産車の新車程度の価格でかなり上質な中古車が各種揃っていた。BMWは戦前からメルセデスと覇を競い合った自動車メーカーだが、その特徴はエンジンにある。BMWは英語にすると、バイエル・モーター・ワークスの略である。ここでモーターはエンジンのこと。第二次世界大戦ではユンカースと共にジェットエンジンを実用に供している。そして当時も今もその直六(ストレート・シックス)エンジンはシルキー・エンジンと呼ばれ、世界最高の評価を得ている。ためらわず新車から車検を1年残した3シリーズ320(最近の320は4気筒だが購入したのは伝統の6気筒)を購入した。あらゆる点で“作りが確りしている”ことを感じさせる、この車にすっかり魅了された。唯一の不満は家族の要望が強く、オートマティック車であったことである。
この車で走り回るようになったとき、二人の子供は結婚し独立して行った。二人を式場に運んだのはこの車である。また、両親の死の知らせに駆けつけたのもこの車であった。子育てを終わりグランドツーリングも復活した。高齢の叔父を長野・岐阜の境にある昼神温泉へ連れ立って出かけたり、安曇野から白馬まで走ったりした。思い出深いシルバーメタリックのこの車にも2006年まで9年間乗った。
2009年8月8日土曜日
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