酒田は古くから栄えた、日本海の港湾・商業都市、また米どころとして知られている。藩主の居城は隣の鶴岡だが、「本間様にはおよびもせぬが、せめてなりたやお殿様」と詠われた、本間家の在所である。海運、金融と事業を広げ、それを元手に灌漑や砂防林で水田を拡大、庄内藩や米沢藩のような近隣の藩のみならず、仙台の伊達藩まで支援するほどの財力を持ち、戦後の農地改革まで日本一の大地主であった。 従って酒田の見所は、この本間家の残したものに尽きる。それは、本間旧本邸、別邸(美術館を併設)と山居倉庫の三ヶ所である。
小降りではあるが雨はまだ続いている。フロントで聞くと「何処にも無料駐車場があります」 と言うことなので、クルマで出かけることにする。町に入ったときから気になっていたのは、歴史のある町にしては、町並みも家々も、何か薄っぺらい感じがする。しかし、町の中心部に位置する、旧本邸だけはさすがに風格がある。33.6m(幅)×16.5m(奥行き)の壮大な木造平屋は、これだけ大きいと当時の照明技術では、外縁の部屋を除けば明かりが入らない。「こんな所で生活するのは、いかに立派でもチョッとなー」と感じさせる。それもそのはず、ここは自宅ではなく、1768年幕府の巡検使宿泊用につくられ、藩主酒田家に献上されたものであるとのこと。普段の生活の場ではないのだ。
周囲の家々との違いは、大きさも然ることながら、昭和51年10月の大火の際にも倉や土塀、庭の樹木に守られて、ここだけ焼け残ったことが、それを際立たせているのだ(周辺の家はその後作られたので、全くバランスがとれていない。“薄っぺらさ”はそこからきている)。戦時中は軍の司令部、戦後は市の公民館として使われていたこともあるようだが、現在は復元され元の姿に戻っている。道路を隔てた向かい側に「お店」と称する建物があり、ここが商社のオフィスだったわけだが、どうやら大火で焼かれた後新築したようだ。当時の風景画を見るとこの「お店」に隣接して、家族や使用人の居住区が在ったやに推察される。
次に訪れたのは酒田駅近くの別邸である。ここには美術館が併設され、本間家が藩主たちから拝領した美術品などが展示されている。ガイドブックには無休とあったが、展示物の入れ替えが行われており、残念ながら公開されていなかった。しかし、庭園(鶴舞園)で有名な別館そのものは見学できた。江戸末期(1813年築)この辺は町外れ、晴れた日には鳥海山が庭園の遥か先に遠望でき、見事な借景を形作ったと言う。大正以降は“酒田の迎賓館”となり、昭和天皇も皇太子時代お泊まりになっている。庭に面した部分はガラス障子で構成され、座敷からの、回遊式庭園の眺めはが素晴らしい。このガラスは明治期に入れられたもので、手漉きのため表面に微妙な凹凸があるのも、時代を感じさせる。
最後の観光スポットは、山居倉庫である。これは商港として栄えた、酒田のいにしえを今に残す建物である。倉庫の形状は山型の建て屋をいくつも連ねて一棟とするもので、現存するのは最上川河口、酒田港の一角に在る一群だけだが、往時は港湾地区の至る所にあったらしい。いまでも現役の農業用倉庫として使われており、そこに観光施設が併設されている。最上川に通ずる新井田川に面して、掘割が切られている所なども残っており、水運輸送の歴史を偲ぶことの出来る、貴重な文化遺産といえる。
この日の夕食は、日本海の魚を味わいたかったので、インターネットで調べ、ホテルから歩いていける「こい勢」と言う寿司屋にした。駅から比較的近いこともあり、地元のサラリーマンと思しき客が数人入っていた。席は全てカウンター、板さんと歓談しながら、地酒の「初孫」で、“おまかせにぎり”を堪能した。ネタはほとんど地元産、いか、ノド黒、カワハギ、太刀魚、ズワイガニ、マグロ(和歌山)とウニ(北海道)だけが他所のものだった。
雨の帰路、まだ8時だと言うのに、駅へ通ずる通りに人影はなかった。
(写真はダブルクリックすると拡大します)
2010年6月30日水曜日
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