2011年3月22日火曜日

決断科学ノート-66(東北・関東大震災-5)

 この度の震災を“国難”と捉えるリーダーは多い。その自然災害の規模の大きさだけでなく、国の政治、財政・経済、社会(高齢少子化)環境や安全保障などが大きな転換点にあるときに起こったことが、その感を一層強めている。
 そこで菅首相が打ち出したのが“挙国一致内閣”提言である。しかし、自民党・公明党に歯牙にもかけられず、構想は挫折した。
 このノートの通奏低音ともいえる下地には、第二次世界大戦時の英国における、政治および軍事OR適用によるリーダー達の決断がある。そして当時のチャーチル政権は当に挙国一致内閣であった。また、これに先立ち1931年のラムゼイ・マクドナルド内閣も挙国一致内閣で世界経済恐慌に立ち向かっている。しかし、いずれの場合も決してすんなりそれが実現したわけではない。
 後者は英国初の労働党内閣が経済政策で閣内不一致となり、党首であるマクドナルドが離党して、保守党・自由党と作り上げたものである。前者はナチスドイツが西方戦線で電撃戦を展開する中、チェンバレン首相が労働党に挙国一致内閣を持ちかけたものの、拒否され下野、チャーチルによってそれを実現している。同じ保守党出身の首相ながら、チェンバレンが宥和政策をとっていたのに対し、チャーチルがそれに早くから反対だったことが労働党の協力を取り付ける鍵となったのである。
 一党独裁の国家(ソ連、ナチスドイツ、中国など)でもない限り、簡単には挙国一致内閣など成立しないのが歴史である。わが国における初の挙国一致内閣は斉藤実内閣(1932年)であるが、これは政党政治が政局に終始し国民から愛想をつかされ、陸軍が政党内閣を拒否して作った内閣である。今の民主党・自民党の姿と全く変わらない。このことを菅首相周辺は知っていたのであろうか?
 尖閣諸島問題で味噌をつけ(逃げ回った)、参議院選挙に破れ、完全に詰んだ状態で起こった“国難”。このドサクサを延命に使う好機と捉えて“挙国一致”などといっても、誰もついてこない。
 マクドナルド、チャーチルともに政治家としての実績が充分あり、反対党・政敵に一目置かれていた人物である。マクドナルドのように党を割ってでも自らを中心とする連合が可能かどうか試すか、チェンバレンのように潔く去るかしか“挙国一致”の選択肢は無い。彼にはそれだけの人望もないし度胸も無いだろうが。

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