2011年4月23日土曜日

決断科学ノート-71(大転換プロジェクトTCS-8;Exxonコンピュータ技術会議-2;Foxboro訪問)

 TCCミーティング参加海外出張は本社情報システム室と調整し、TCC(NY)の他にERE・ECCS(NJ)、Esso Eastern本社(ヒューストン)、Foxboro社(ボストン)それにヒューレットパッカード社(シリコーン・バレー)を廻ることになった。旅程はボストン→NY→NJ→ヒューストン→シリコーン・バレーの順である。
 間もなく開港一周年を迎える成田空港を出発したのは1979年5月3日、9年前の羽田からの旅立ちと違い、見送るのは家族だけだった。搭乗機はJALのDC-10、NYまで無着陸は無理で、アンカレッジに立ち寄り給油する。機外へ出るとき法被を纏ったファーストクラスの外人乗客の中に日本公演を終えたペリー・コモ(人気ポピュラー歌手)を見つけたので、持っていた次女(生後10ヶ月)の写真にサインを依頼したところ快く応じてくれた。
 ケネディ空港に同日昼到着、一旦マンハッタンの東燃NY事務所に寄り、夕方ニューアークからボストンに飛んで、市街とフォックスボロー(地名でもある)の中間点にある、モーテル風のシェラトン・タラにチェックインした。長い一日だった。
 翌朝Foxboro(F社)の営業マンの迎えの車でF社の本社工場を訪問した。既に横河との提携は解消されており東燃との関係も薄まっていたが、依然としてアナログシステムでは関係会社も含めて国内では大手ユーザーだったし、Exxonグループではハネウェル(H社)とここが主制御システム供給者であるため、Exxon担当の営業責任者や技術者(後に情報・制御システムの調査会社、ARCの共同経営者になるDick Hillもこの中にいた)を揃えて丁重に対応してくれた(この訪問アレンジはF社の東京事務所長、横河OBのNKMさんにやっていただいた)。F社の狙いは、やっとH社のTDC-2000に対抗すべく商品化にこぎつけたSpectrumと言う分散型ディジタル・コントロールシステム(DCS)である。この時点ではExxonグループで本格導入した工場は無かった。「何とかExxonグループに実績をつくりたい」そんな熱意が強く感じられる応対だった。
 実のところ本社も含めてこちらにはその気はほとんど無かった。東燃グループでのF社とその製品に対する評価はアナログ時代には極めて高いものだったが、中途半端なSpec-200と言うシステム(アナログだがコンピュータとの接続をしやすい構成;本ノート-61参照)に人と金を使い、ディジタル化に対する遅れは決定的になっていた。かてて加えて横河への信頼がその評価をさらに裏打ちしていたのが失われた今、到底次期システムの有力候補にはなりえなかったのだ。率直に言ってEREとのディスカッションのために、F社の現状を一応見ておこうと言うのが訪問目的だった。
 Spectrumは後発なだけにTDC-2000に比べると優れた点もいくつかあった(筐体の小型化、運転操作卓機能など)。しかし、H社は既にその後継機、TDC-3000を開発中で、EREはその評価のためにフェニックスの工場に担当者を常駐させていた。また、横河も初のDCS(32制御点を1システムで処理)、CENTUMの次期システム(更に制御点を減らして分散度を上げる)が具体化していた。国内にサービス網が無くなったF社の製品を敢えて候補に取り上げる材料を見つけるのは難しい。
 このときの見立ては間違っていなかった。SpectrumはF社初のDCSとしてそこそこ市場で評価され、既存のF社ユーザーを中心に導入されていったが、アナログ時代世界のマーケットをH社と二分した勢いは失われ、やがてエマーソン、ABB、横河などにシェアーを奪われ、最終的に英国のInvensysに身売りすることになってしまう。
 ニューイングランド地方を訪ねたのはこのときが始めて。新緑が美しかった。夕食の接待はボストン・コモン(広場)に面した「Half Shell」と言うシーフードレスランだった。ここではシュリンプカクテル、ロブスターを堪能した。後年(1990年代)MITやDECなどボストン所在の大学や企業を訪れる機会が何度かあった。あの味が忘れられず店を探し求めたが見つけられなかった。電話帳にも無く、ホテルのコンシュルジュもその名を知らなかった。フォックスボローと言う会社名は消え、事業内容もソフトサービスに変じつつある。その転換点があの時期であったように思っている。
(次回;TCCにおける制御システムの話題)

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