ダウンサイジング、ネットワーキング、オープン・アーキテクチャー、情報技術が大変革する時代は直ぐ近くまで来ていたが、1970年代後半、IBMを始めとするメインフレーマー達は、まだそれへの対応を見せてはいない。IBMはS/360アーキテクチャーの最新機(S/370の後継機)であるS/3031を1978年に発表、メインフレームの世界で更に独走態勢を固めているように見えた。ハード・ソフト分離販売命令は、アムダールやナショナル・セミコンダクタ(NS)のようなIBM互換機メーカーを出現させたが、わが国でも日立と富士通がこの路線を採用することになる。
両社のメインフレームへの進出は1960年代から始まっているが当初は機能・性能ではIBMを追いかけていたものの、“互換機”ではなかった。日立は国鉄(当時)の座席予約システムや東大の計算センターに納入実績をつくり、富士通はFACOM-230シリーズが国内ユーザーに多数納められようになってきていた。
互換機路線へ踏み出すのは、通産省(当時)の指導で日立・富士通グループとしてまとめられてからである。この時日立はRCA(後にはNS)と提携、富士通はアムダールに資本参加して互換機技術の導入を図っている。両社ともMシリーズといわれるものがそれで、富士通の場合1974年に発売されたM-190が最初の互換機、日立では1976年M-180が出荷されている。このMシリーズは通産省の思惑通り成功、1979年それまで市場の過半を占めていたIBMを抜いて、富士通のMがトップに立つことになる。
市場にPC(当時はマイクロ・コンピュータ;マイコンといわれていた)が出てくるのは、米国では1977~8年頃で、タンディ、コモドールそれにアップルなどの名が記憶に残る。国産ではNECの8000シリーズが1979年に発売され、従来コンピュータの導入されていないところや個人へ利用範囲が広がり始めていた。また、ソードやエプソンなどがこの分野へ進出の動きを見せていた。しかし、主力メインフレーマーの参入は、話題先行でなかなか姿を見せなかった。
工場で計測・制御・情報に関する技術を取り扱う私の部門(技術部システム技術課)では当然これを使ってみたいという声が出ていた。金額が工場内で決済できる程度のものであったから、事が大きくならぬよう、コンピュータと言う言葉は使わず、マイコン組み立てキットを、“計測データ分析機器”として導入した。最初に開発したアプリケーションは目的通り計測データ収集・分析であったが、プログラミング次第でいろいろな分野に適用でき、当に“コンピュータ”であった。しかし、プログラミング作業が必要なことは大型機と同じで、ユーザーが気軽にその効力を発揮できるものでないことも明らかになった。今のPCなら購入した時に組み込まれているアプリケーション・ソフト(ワープロや表計算機能)が何も付いていないのだ。まして、少々数をそろえたからと言って、メインフレームに代われるようなものでは全く無かった。
そんなある時(1981年春)本社情報システム室次長のMTKさんが工場にやってきた。何の打ち合わせだったかは記憶に無いのだが、この時期私の秋の本社異動がほぼ固まった時で、本社組織内活動の一部が話題になった。「まだ本格的に取り上げられている段階ではないのだが・・・」とことわった上で、次期メインフレームについて検討が始まっていることを明らかにした。それを聞いたとき、てっきり既存のIBM3031の能力アップの話しだと思ったが、「一応この際国産機も候補に入れて調べようという空気なんだ」との言葉が続き、びっくりさせられた。即座に応えたのは「国産機を入れても値段がやや安くなる程度で、IBMを凌駕できることなど考えられないのに、敢えて危険を冒すことはないでしょう。IBMのままでいいじゃないですか」と言うことだった。その場の話はこれで終わったのだが、この一言が、あとでいろいろなところで、自分でも思っていない出来事につながっていった。
(次回;本社勤務へ)
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