70年代後半から、少しずつではあるが、メインフレーム(つまりIBM)中心のコンピュータ利用に変化の兆しが現れてきていた。具体的には、ミニコンピュータやオフィスコンピュータの普及、更にはパーソナルコンピュータ(PC)の出現がその代表例だ。それらの裏には、演算処理装置(CPU)や記憶装置(メモリー)のIC化、通信技術の多様化、小型機、特にPC専用のオペレーティングシステム(OS)やプログラム開発言語(BASIC)などの新規技術が存在し、コンピュータ(計算機)システムが計算機械から言語を含む情報処理機械に変ずる、夜明け前の蠢きが随所に見られたのである。
IBMの圧倒的強さは、技術的にも経営的にも自らを縛る結果をもたらしてきていたし、一人勝ちを許さない環境がそこここで散見されるようになってきていた。
前者の例では、ユーザーにとって最大の資産である、アプリケーションソフト(例えば、会計計算や技術計算)が、技術環境が変わっても動き続けてくれないと困るので、OSを始めとする基本ソフトは、古いものから最新のものまで、より幅広くカバーできることが求められる。必然的にOSは複雑化し、主記憶装置の容量を拡大して対処せざるを得なくなってくる。そのため最新技術の旨味を最大限に発揮できなくなることも出てくる。この複雑巨大化(従って、コストパフォーマンスは良くなっても、絶対価格は高い)するメインフレームのマンモス状態の隙を突いて進展してきたのがミニコンピュータである。東燃でも川崎工場管理システムにはヒューレット・パッカードのHP-3000を1978年に導入している(本ノート-27~40、事例、迷走する工場管理システム作り参照)。
後者の例では、1970年独禁法違反提訴を受けて導入された、ハード・ソフトの価格分離(アンバンドリング)政策がある。これによって、IBMは情報開示を一段と求められるようになり、IBMハード(主にS/360系)の上で動くアプリケーションソフトを開発・販売する専業メーカーが輩出するようになってくる。また、リバースエンジニアリング(分解・分析によって作動原理を解明する技術)を行い易い環境が生まれて、類似機さらには互換機開発の芽が出始めてくる。因みに、IBMメインフレーム(S/370)完全互換を売り物にしたアムダール(S/360の開発技術者だったが、1970年自分の会社を立ち上げる。1997年富士通の子会社となり社名は消える)470の発売は1975年である。
前者は小型化(ダウンサイジング)への流れ、後者はオープン化の黎明であり、これにインターネットを代表とする通信技術の大変革が合体して、新しいIT利用環境が生まれてくるのだが、それが実現するにはさらに20年近い時間が必要であった。
この頃(70年代末)今で言うIT関係の見本市(例えば、データショウ、ビジネスショウ)に出かけるとマイクロコンピュータを使った面白い商品を目にすることが多くなってきた。中でも多くの参加者の注目を浴びていたのが、初期(試作品)の日本語処理機械である。キーボードから平仮名やローマ字で入力すると、ディスプレーの上に漢字が表示される。8ビット構成のマイコンでは漢字を数字と対応させるコード化に制限があり、点で構成される文字も電光ニュースよりはややましな程度であったが、それまでコンピュータで扱える文字はアルファベットかカタカナしかなかったので、日本のユーザーに与えたインパクトは、他のコンピュータ技術とは比較にならぬほど大きなものだった。やがてこの技術は日本語ワープロ専用機として結実、1979年東芝のJW-10が発売される。値段は7百万円位した!
各種の最新技術がドッグイヤー(犬の寿命)と言う速さで出現・進歩するIT開発・利用環境の中で、この日本語処理機能ほど影響の大きなものは無い。メインフレーム評価の決定因子としてこの時代以降重要性を増してくる。
(次回;予兆;つづく)
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