<今月読んだ本>
1)ファイナル・ターゲット(上、下)(トム・ウッド);早川書房(文庫)
2)MI6秘録(上、下)(キース・ジェフリー);筑摩書房
3)住んでみたドイツ 8勝2敗で日本の勝ち(美恵・マーン・川口);講談社(α新書)
4)世界の技術を支配するベル研究所の興亡(ジョン・がートナー);文芸春秋社
5)衆愚の病理(里見清一); 新潮社(新書)
<愚評昧説>
1)ファイナル・ターゲット
本欄-59(7月分)で紹介した「パーフェクト・ハンター」の作者による第2作目である。主人公が同じことから今後シリーズ化されるのであろう。今回もリアルで最後まで緊張感の途切れない、サスペンス物の秀作である。
前作同様、先ず導入部が上手い!ルーマニアの首都ブカレストでロシア・マフィアの大物を狙うスナイパー。しかしこれは主人公ではなく、アペリティフ(食前酒)に過ぎない。
前回のテーマは、演習中に事故で沈没したソ連(時代の)海軍の駆逐艦に搭載された高性能艦対艦ミサイルをめぐるCIA対SVR(KGBの後身)の戦いだった。しかし冷戦後の世界だけに、国家対国家の対立構造よりは、特定の個人やグループの野心や陰謀を絡ませ、かなり複雑なストーリー構成になっていた。主人公ヴィクターへの殺しの依頼者がCIAだったにも拘わらず、彼を狙う一匹狼の殺し屋は、英国秘密諜報組織SISの隊員で、CIAの高位者に雇われて個人的な蓄財を目的に動く男だった。つまりCIAの二つのライン、SVR、SISの殺し屋それに主人公、と言うプロットである。今回もこのような組織・ライン構成の仕組みは踏襲されている。
テーマは武器商人の縄張り争い。一つのグループはロシア・マフィア、もう一つはエジプト、シリアに拠点を持つアラブ兵器ディーラーである。CIAはこの両者を対立させ、双方を戦わせて消耗させようとする。そのためにヴィクターを雇い、そのシナリオを動かしていく。一件単純に見えた滑り出しが、入り組んでくるのは、中東の争いは究極的にイスラエルに向かうと見ているモサド(イスラエル諜報機関)がこれに絡んでくるところにある。ヴィクターはモサドとは関係なかった。モサドもヴィクターを知らなかった。しかし、ある事件がきっかけでヴィクターはモサドの工作部隊ギドラに追われることになる。ルーマニア、ロシア、ベラルーシ、ハンガリー、オーストリア、エジプト、シリア、アフガニスタンそしてアメリカと舞台は転々とする。
これを読んでいて30年位前にペーパーバックのノンフィクションで知った有名な中東の武器商人(サウジアラビア人)、カショギのことが思い起こされた。巨万の財を成した実在の人物で多分まだ生きているであろう。その本が出た後、事件の直後知ったことだが、ダイアナ妃と一緒にパリで事故死した男はカショギの甥である(今回のフランス旅行のパリ滞在中何度かそのトンネルを通過したが、とても運転ミスだけで二人も死亡する事故が起こる場所とは思えなかった)。高齢により一線のビジネスを出来なくなることを見越し、この甥を後継者に育てている途上であった。「あれは謀殺だ」との説が絶えないのも、裏ビジネスとの関わりがあったからと言うのである。とにかく各国王室・政財界に多様な人脈を持ち(のちにイスラエル首相となるシャロンとワイナリーを共有していた!)、平気でライバルと手を握り、対立する双方の国家に巧みに武器を売り付ける才覚と魑魅魍魎の世界に引き込まれた。これもその本の出版後に噂されたことだが、イランコントラ事件に関わり、湾岸・イラク戦争ではブッシュ親子と深い関係にある兵器商社の代理人を務めていると報じられたこともある。それだけに自身の機密保持・身辺警護は厳重でなかなか外部からその姿を伺うことは難しいようである。
本書でも両者が一度は手を握る交渉を始めるのだが、CIAの工作(子供のいないロシア・マフィアの親分は甥を後継者に育てていくが、取引現場で爆殺される。これをあたかもアラブ商人が行ったように見せかける)で対立に転じるところや、厳重にセキュリティ対策をとられた住居説明シーンを読むにつけ、ネタはあの本にあったのではないかとさえ思えるほどだ。
英国では第3作が既に発刊されている。日本語訳の出版が待たれる。
2)MI6秘録
この本をどう評価するか少し悩んだ。上下2巻で各巻3200円、計6400円もした。「本の価値は値段ではない」とは言っても、これはかなりの額である。購入の意図は当然、歴史を作ったスパイ・諜報工作の裏話が満載と期待してのことである。帯にも“「007」の真相がついに!”とある。“CIA秘録”や“モサド・ファイル”にはその種の面白さがあった。これらの諜報機関の範となった“MI-6(Military Intelligence 第6局)”ならばそれ以上の知られざる世界を垣間見ることが出来るに違いない。しかし、この期待は見事に裏切られた。そのことを著者は書き出しでことわっている。「諜報機関は工作の裏方。材料(情報)集めが仕事で、これを用いて料理(謀略などの工作)をするのは他の政府機関;軍や外務省である」と。
MI-6の存在は既に公知になっており、007を始め多くのスパイ・軍事サスペンスにも登場する。しかし英国政府が“公式に(法律上)”これを認めたのは何と1994年のことである。まして公文書の一部が公開されることなど一度も無かった。漏れ出てくるのは007の作者、イアン・フレミングのようにこの内部で働いていた者が語る、フィクションやノンフィクションを通じてに過ぎない。それが一転して設立から40年間(1909年~1949年)に限って情報公開に踏み切るのは、2009年がSIS(MI-6の現在の通称;Secret
Intelligence Service)創設100周年に当たること、この40年が英国と世界にとってインテリジェンス活動の分岐点であること(つまり冷戦下における活動はそれまでとは異なる)、そしてそれ(1950年)以降については、「まだ公開するには危険すぎる」と、SISが考えているからである。
SISはこの情報公開を一人の歴史学者、本書の著者、キース・ジェフリー(クイーンズ大学ベルファスト校英国史教授)に委ねる。
本文に入る前に長い前書きがあり、その中で「SIS公文書館に残されていた資料は、情報そのものよりも、情報を得る過程や処理についての方が多かった」「日常的な情報は(残さず)処分するのが習慣だったようだ」「通信情報は、かなりの量の生の情報が残存していた」などとあり、残された情報からドラマが生ずるような下地が無いことをあらかじめことわっている。また、執筆上の心構えとして「第一の目的は、残っている当時の資料的記録にできるだけ忠実に物語ることだ。もしこの方法によって躍動感を損なう危険があったとしたら、それは歴史的正確さのためにあえてそうしている」とジャーナリステック手法を使わないことを念押ししている。つまり、興味本位に読む本でないことを宣言しているのである。国際謀略の裏やスパイたちの荒唐無稽な活躍を書く考えは始めから無いのだ。
内容の過半を占めるのは、政府の諜報活動関心事、3人の長官の組織運営方針、何度も問われる組織の存在意義、外交・軍事諜報部門との縄張り争い、予算獲得の苦労(秘密機関ゆえに)、情報伝達手段、それに人事である。最後の人事は、この組織の上部管理者(長官を含む)に関することと世界各地に散らばる現地管理者やエージェント(諜報員;現地人を含む)の採用・訓練などで、ここで初めてスパイの世界に踏み込んでいく。
例えば、“情報ニーズ”;設立当初(第一次世界大戦前)は“M”が示すように専ら軍事(Military)情報だった。相手国(特にドイツ)は対英仏戦に踏み切る可能性はあるのか?攻めるとしたらどこから? 戦いが始まれば、砲兵陣地はどこに?艦隊はどこに?部隊編成・戦闘序列はどのようか?戦争末期になると(ドイツとその同盟国に)休戦の意思はあるのか?誰がイニシアティヴをとっているのか?顧客(軍・外務省)の求める情報は、軍事・外交戦術・戦略に重点が置かれる。しかし、ロシア革命が起こると、大英帝国の根本である王政転覆への危機感が高まり、ロシア国内政治情勢や国内のこれに同調する動きに関心が移っていく(国内インテリジェンス活動を主管する、MI-5との棲み分け問題も生ずる)。これだけの幅と奥行きのある情報収集・分析活動を行うには人、物、金にあまりに制約が多く、顧客の期待に応えられない局面がしばしば生じ、少人数組織ゆえ、長官の手腕が問われることになる。それ故に、本書では各長官の日記や関係者の回顧録などを参照しながら“長官の人となり”を語ることにかなりの紙面が割かれている。
007では奇抜な道具がしばしばここぞというところでジェームス・ボンドの危機を救う。道具作りについてもその実態が紹介される。特に重要だったのは無線機と暗号解読である。無線機では、携行し易く、電波探知にかかり難い、信頼性の高いものを開発することの困難とその効果について、また暗号解読ではその方法論や解読器(ある種のコンピュータ)開発、さらにはこれに当る人材発掘などの苦労話が語られる。
サマーセット・モーム、グレアム・グリーン、イアン・フレミング、作家として成功した嘗ての機関員についても本書に取り上げられるが、淡々とした筆致で描かれ、彼らの作品と関連付けられるのは、MI-6存在に関する機密漏洩嫌疑くらいである(モーム『アシェンデン-英国秘密諜報員の手記』1928年刊;ロシア革命が題材)。(この他にジョン・ル・カレもこの組織に所属していたが本書では一顧だにされていない)
ここまで内容紹介してきたように、本書は著者の「第一の目的は、残っている当時の資料的記録にできるだけ忠実に物語ることだ。もしこの方法によって躍動感を損なう危険があったとしたら、それは歴史的正確さのためにあえてそうしている」通りである。
盛り上がりを欠く上・下2巻一千ページを超す大作。それでは価値は無いのか?と問われれば、答は“否!”である。小説・映画になったスパイ組織こそ在り得ないもので、本来はその情報の収集・分析者と使い手は異なる方が、ニュートラルな情報提供が出来る。そしてそれが最古の諜報組織を現代まで存続させたプロセス(組織管理の在り方)であることを本書は教えてくれた。情報システム部門に長く籍を置いた者として、これはきわめて重要なメッセージである。ITそのものの進歩と普及をまるで我がことのようにとらえ、企業経営の戦略部門と錯誤したIT組織が何と多かったことか。これからもIT部門は、刻々変わる技術・社会環境変化に対応できる地味な仕事をキチンとこなせる組織を目指すべきなのだ。
3)住んでみたドイツ 8勝2敗で日本の勝ち
訪れたことも無いし、全く知人の居ないドイツに対する個人的な関心は、専ら第2次世界大戦までの軍事(兵器)技術と自動車・鉄道を主とする交通技術である。工業技術に関しては高い評価をしているが(所有するクルマはドイツ車)、国家・民族としてはあまり好きな国ではない。勤勉で規律正しいことは確かだが、独善的で人を見下す姿勢が強く(これが黄禍論やユダヤ人迫害につながる;日本の工業技術を腹の底では軽蔑している)、何か重く暗く息苦しい感じがする。独断と偏見で欧州主要国を格付けすると、伊;大好き、英;好き、仏;普通、独;嫌い、となる。
とは言え世界におけるドイツの存在感は高いし、気になる国であることは確かである。いつかはこの国を鉄道で旅し、人々に触れ、偏見を糺したいと思っている。そこで手にしたのが本書である。あの堅苦しい感じの国を、こんな軽薄なタイトルで表現しているところに惹かれた。
著者は音楽を学ぶためドイツに留学、そこでドイツ人と結婚した日本人女性である。生活の拠点はドイツにあるようだが、娘二人(と言っても成人女性)ともども滞日の機会も多いようだ。冒頭のシーンは「尖閣諸島で魚を釣ろう!」と言う催しに小さな漁船に乗って参加し、ここから領土問題・歴史問題を語る。ドイツ版ウィキペディアは1373年、明王朝時代に中国領となっているそうだ。これを放置しておいていいのか!なかなかの気骨のある人である。
アルザス・ロレーヌ地方の主権は仏・独に何度も変わっている。主権国家はその歴史教育をどのように行ってきたかを、日本の教科書に一時期(1920年代のようだ)載っていた「最後の授業」(普仏戦争に敗れこの地がドイツ領となり、フランス語による最後の授業が行われる)を例に紹介する。実は、この地方では当時フランス語は使われておらずアルザス語が日常的に使われていた。当然学校の授業もアルザス語で行われていたのだ。この話はフランスによる、かなり政治的な意味の込められた作品であったにもかかわらず、極東の地、日本の教科書にまで取り上げられ、そこが歴史的にフランス領であったかのように印象付けられたことをから、領土問題と歴史問題に関する日独の違いに言及していく。戦後のドイツはブラント首相の時代(1970年代)までポーランドとの国境を認めず、新旧国境間地帯を「ポーランド治下にあるドイツ領」と地図(学校教育用を含む)などに記していた。しかし、実効支配された土地にいつまでも拘っていては、東方との和解が進まないとの政治判断で、現状を認めることになったのだという。
この例で著者が言いたいことは「日本人の広報活動の稚拙さ」である。「日本をアピールするための短期作戦もなければ、どこに種を蒔けば、それがどのように実を付けて、いつごろ日本の役に立ってくれるかというような長期作戦もない」と批判する。しかし、一方で「世界の多くの国が、イメージのほうが実態より良いなかで、日本は、実態のほうがイメージよりも良い唯一の国といえる。ドイツにいたときは日本に批判的だったドイツ人が、日本に住むと皆、日本ファンになる」と、以下8勝2敗の各論で、この日本の良さ(ドイツの問題点)を語っていく。
最初に出るのは“フクシマと脱原発”。菅元首相もホイホイ乗ったこの主張は、ドイツ緑の党の要求を連立政権が受け入れられたことに発する。しかし、実際には問題だらけで、実現の見通しは全く見えていない。
次いで、休暇がかえってストレスを生む有給休暇制度、小学校5年で将来が決まってしまう学校教育制度、“サービス”の価値を認めない社会、EUにおけるドイツの負担増・移民問題(TPPは熟慮せよ!)などを身近な体験(ここが特に説得力がある)で紹介していく。
この本を読んで最も堪えたのは、“サービス”欠如から来るドイツ鉄道運行の杜撰さである。これは先月初め(あるいは8月下旬)日経新聞夕刊にも記事になっていた。ドイツへ出かける最大の関心事がこの体たらくでは、この国を理解する機会が失われてしまったことになる。
全体としては軽い本だが、鋭い分析・指摘もあり、ドイツの最新事情を知るための良書と言える。
4)世界の技術を支配するベル研究所の興亡
ニューヨークタイムズに定期的(5~7日毎)に書評を書いているカクタニ・ミチコ(角谷美智子)と言う人がいる。初めてこの名前を見たとき「もしや?」と思い、グーグル検索してみた。「やはり思った通り」だった。数学者角谷静夫の娘である。本欄-59(2013年7月分)で取り上げた“チューリングの大聖堂”(フォン・ノイマンとプリンストン大学高等研究所がテーマ)の中で所長のオッペンハイマーが国家機密漏洩疑惑でその地位を追われるとき、後任として推薦した一人が、不動点定理(応用数学、経済学への展開)で有名な角谷静夫である。
カクタニ・ミチコは彼の地で生まれ育っているので日系米国人、その書評は辛らつで時に物議を醸すこともあるが評価は高く、評論部門でピューリッツァ賞を受賞したこともある。その一流批評家が好意的な紹介をしたのが本書である。
電話の発明者ベルが創業したベル電話会社は創生期の小規模な電信・電話会社を吸収して、事実上の通信独占企業、AT&T(American
Telephone and Telegram)社へと発展、通信システム・機器の製造会社はウエスタン・エレクトリック社(WE)、研究・開発部門はベル研究所を設立して、それぞれの役割を担うことになる。製品開発に近いところはWEにも研究開発部門があるので、ベル研は基礎研究や新技術の探査的な商品開発に特化する。
通信事業は、システムや製品規格の標準化がカギとなる。また国家安全保障とも深く関わることから、どこの国でも国営会社(日本では電電公社;今のNTT)が経営を行ってきた。州の独立性を尊び、企業の独占を嫌う米国でもこの分野だけはATTの独占が広い範囲で認められていた。ここから得られる収益は政府の厳しい監視下にあるものの、ベル研の潤沢な財源となり、最高の人材を多数集め、長期的な研究開発投資を可能にして、世界に比肩するものの無い産業技術研究所になっていく。
トランジスターの発明者でノーベル物理学賞受賞者のショックレー(3人同時受賞で全てベル研究所員だが、彼がまとめ役だったので知名度が突出)、現在のIT利用の基礎理論、情報理論の確立者シャノンなど錚々たるメンバーを擁し、優れた先端技術・理論を輩出してきた。しかし、この研究所が高い評価を受け、赫々たる実績を挙げ得たのは、研究マネージメントの質の高さにある。つまり所長や研究部門長(ディレクター)の力量である。優秀な人材の発掘、彼らの仕事のさせ方、(数十年先を見通す)研究テーマの取捨選択、ATTや政府・議会との折衝、これらこそ“世界の技術を支配する”カギであったのだ。
従って、本書ではこのマネージメント陣(歴代所長・副所長・代行者、ディレクター)の一人ひとりにかなり紙面を割いて、その生い立ち、教育過程、人柄、管理手法、経営理念を、エピソードを交えながら紹介していく。基本的には皆、技術者ではなく科学者であり天才研究者ほどではないものの、若い一時期それなりの研究実績を上げている人達である(管理だけのマネージャーではない)。それでなければ、一匹狼や侍だらけのこの組織をまとめていけない。
とは言えこの一匹狼や侍の話もなかなか興味深い。中でもショックレーのトランジスター発明者としての名声が、部下の研究成果の盗用にあることをうかがわせるくだりなど「ショックレー おまえもか!」との思いにかられる。この人は皆が認める天才なのだが、どうも心根がどこかで曲がってしまったようだ。ベル研の処遇に不満を持ち、自らの会社(半導体)を起こすものの、優れたメンバー(その中には後年インテルを起こしたゴードン・ムーアも含まれる)に次々去られ、晩年は優生学(劣性学;人類の長期的な繁栄は、最下層に属する人々の生殖活動によって脅かされる)を声高に唱え、誰からも相手にされず寂しく死んでいく。これに比べシャノンは人生をマイペースで楽しく過ごしたようだ。MITの教授に転じ、そこで情報理論を講じながら、大学のジャグリング(お手玉)クラブに属し、お手玉の数を増やすことによる手や眼の動きを解析(ジャグリングの物理学)したりしている。結果は5個のお手玉を扱えるかどうかが凡人と天才の境界だそうである。
1984年ATTの分割が始まると、ベル研でも大規模はリストラがつづき、経営は財務的な制約から近視眼的になっていく。貧すれば鈍す。WEはルーセント・テクノロジーズ社に買収され、ベル研もその下に入る。そのルーセントも事業縮小を余儀なくされ、フランスの通信会社アルカティアに株式の一部を売却、アルカティア・ルーセントとなり、嘗てのベル研はその一部となってしまう。ここには科学や学術的研究主体の往時のベル研の影も無い。英国科学誌「ネイチャー」は基礎物理研究者が4人になったことを知って『落ちるところまで落ちたベル研究所』と題した記事を掲載する。
それではマイクロソフトやグーグルがこれに代わることは出来るのだろうか?著者の見方は悲観的である。
著者はベル研の在ったニュージャージー州マレーヒル近郊(エクソンのエンジニアリング・センターも近くにあったので、クルマで前を通ったことが何回かある)で育ったジャーナリスト、ニューヨークタイムズ・マガジン誌の記者として、科学技術、ビジネス、経済などを担当、この作品を書き上げるのに10年を要している。ハードカバーで500ページ近い大冊だが、理系でなくても先端技術研究開発の難しさ・面白さを充分堪能できる本である。
5)衆愚の病理
臨床医(内科;肺癌にくわしい)による医療を主題にした社会時評。新潮45(月刊誌)に連載されたものの一部(東日本大震災以降)。前作は「偽善の医療」 今回伝えたいメッセージは、「(今の日本が陥っている)プロフェッショナリズムを軽視する社会(つまり衆愚)は、碌なものではない」ということ。大いに共感。
大震災を第3の敗戦(堺屋太一)ととらえ「これからは復興だ!」との声が高い。しかし、著者は「チョッと待ってくれ!復興の前に“敗戦処理(例えば福島原発の後始末)”があるだろう」と待ったをかける。それを承けてロッテから大リーグに転じ、再びロッテに戻って敗戦処理専門投手になった小宮山悟選手が契約更改に際して「敗戦処理投手の評価が低いのはおかしい」と発言した話を紹介し「失礼な言い方になるが、野球選手の中では桁違いの知性の持ち主とお見受けする」と結ぶ。
この話は、次いで福島原発事故におよび、懸命に“敗戦処理”に当っている東電社員(吉田所長(この時点では生存)を始めとするプロ)を十羽一からげで批判する世論を、「それで状況が良くなるわけではない!」さらに進んで「批判する資格はあるのか?」と返す。
主題は、不治と診断され余命幾ばくも無い患者を、医師として、病院として、どう扱うかである。誰も(死に至る)敗戦処理をやりたがらず、悪くすると患者はたらい回しにされて最後を迎えることになる。医学的には回復はありえなくてもそれなりのケアーは確実にあるし、それを行う医師や看護師の努力が認められるべきだ。それに依って敗戦処理に長けた人材と環境が醸成されていく。しかし、医療・病院さらには社会システムがそのようにはなっていない。
著者は東大医学部を卒業後癌研に内科医として長く勤務している。そこでは外科がエース。エースに敗戦処理はない。外科病棟から内科病棟に回されると治癒不能と断じられたのと同じことになる。担当の内科医さえ回診を避け、研修医に押し付けたりするらしい。
手段が尽きた患者に対する治験薬適用、セカンドオピニオン、皆敗戦処理を逃げる手段になっている。
これが第一章;「敗戦処理」はエースの仕事である、の要旨である。
この他、情報開示(過度の情報開示の害)、最新医療(次々と最新医療を施すよりも従来のやり方(惰性)が良いときもある)、偏倚(へんい)と疾患(明確は病気;疾患とそれ以前の状態;偏倚;この境界が際限なく不明確になると、罪を犯しても“遺伝子の問題”におよんで無罪となる可能性も出てくる)などを例に、医療の世界を紹介しつつ、それを社会問題に敷衍して、持論を強烈に主張する特異な社会時評を供している。
医療・医学に関心の薄い私にとってその面で大変勉強になるとともに、著者の論に共感するところが多かった。ただ“諸悪の根源、民主主義”
(私も基本的にこれは理解できるが、チャーチルが言ったように「民主主義は最悪の政治システムである。今までの政治システムを除けばね;つまり民主主義しかないだろう」の見解である)で天皇親政(これを自衛隊が支える)を提言しているのは本心なのか冗談なのか、あまりに突飛な話で唖然とした。
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