14. アヴィニョンの法王庁
3時半頃ゾルグを発ったバスは、好天の中を西に進む。青い空、白い雲、緑の田園、ワインディング・ロードの左右にはブドウ畑、ときどき糸杉の並木が現れる。翌日も続くプロヴァンス日和を堪能する。やがてバスはローヌ川沿いの道に入り、はるか先に高い城壁や塔が見えてくる。小型の車は城内を走れるようだが、大型バスは城門を入った駐車場でストップ。スーツケースがバンで運んでくれるが、あとは手荷物を持ってホテルまで歩きである。
土産物屋が並ぶやや上り勾配の入り組んだ石畳の道を登っていくと、法王庁西側の広場に出る。ホテルはその法王庁のすぐ南隣りと言っていい位置。メルキュール・シテ・デ・パップ(ホテル法王庁)。チェックインは4時過ぎ、すぐに荷物だけ部屋に上げてもらい、手洗いを使ってロビーに降りる。そこで中年の日本人ガイド(女性)が紹介され、今日最後の観光、法王庁案内を担当してくれる。薄暮が迫りつつあるが閉館まで2時間程度あるようだ。
世界史を学んだのは高校の2年、西洋史と東洋史は先生が別だった。中世の西洋史でよくわからなかったのが、法王と国王や皇帝との力関係である。ハインリッヒ4世の“カノッサの屈辱”事件など釈然としないまま(「たかが坊主に何故王様が?!」という感覚)、とにかく試験に出そうなこと(年号など)だけ覚えておくことで済ませてきた。それもあってアヴィニョンに法王庁が在ったなど全く記憶にない。このツアーに参加が決まり、事前ににわか勉強して凡そのことが分かった。フランス王国フリップ4世の治世(14世紀初頭)勢力伸長を目論む国王とローマ法王が激しく対立、国王はリヨン大司教(フランス人)を法王に据え、このアヴィニョンに法王庁を移させ(1309年)それが1377まで続いたのである。その後ローマに戻ったものの、再び両方に法王が並び立つ分裂時代があり、結局15世紀初めまでここにも法王庁が存在していた。つまり約1世紀にわたりキリスト教世界の中心だったわけである。
その後も建物・領地や所有物はローマ法王庁の所有になっていたが、フランスの諸王朝が権力を強化するにつれ、何度も簒奪され、フランス革命時徹底的な略奪が行われ、廃墟に近い状態に置かれたようだ(牢獄や兵営として使われる程度)。従って文化遺産のようなものは何も残っていない(法王の居室や大広間などはそれなりに整備されてはいるが)。
この法王庁は大きく分けて二つの宮殿から成る。旧宮殿は北側、新宮殿は南側にあり東西側面も部屋や回廊があるので、ヴァチカンと比べると、まるで要塞のような造りである。二つの宮殿で構成されることになったのは、法王(7代続きすべてフランス人)の中で力のあった二人の生き方・趣味の違いからきている。旧宮殿を作った法王は修道士の出身、質素を旨とし地味なものを求めた。対して新宮殿の造成者は貴族出身で派手好みの性格であったようだ。しかし、ほとんどがらんどうの部屋しか残らない内部を見てそれを見分けることは難しい。1時間少しの観光では「大きくてがっしりした建物だなー」しか印象に残らなかった。
ただアヴィニョンと言う町全体にとっては当然他のフランスの都市とは異なる生い立ちを持つわけで、今回廻った名所では、最も中世のヨーロッパを感じさせるところであった。
(写真はクリックすると拡大します)
(次回;アヴィニョンの街)
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