<今月読んだ本>
1) Spies in the Sky(Taylor Downing);Abacus
2) 日本軍と日本兵(一ノ瀬俊也);講談社(新書)
3) ヨーロッパ鉄道旅ってクセになる(吉田友和);幻冬舎(文庫)
4) ビューティフル・マインド(シルヴィア・ナサー);新潮社(文庫)
5) むしろ素人の方がよい(佐瀬昌盛);新潮社(選書)
6) ヒラノ教授の線形計画法物語(今野浩);岩波書店
7) あのころ、僕たちは日本の未来を真剣に考えていた(今野浩);青土社
<愚評昧説>
1)Spies in the Sky
ブログ連載の“フランス紀行”で紹介したパリ・シェークスピア&カンパニー書店で求めた本である。1階の戦史コーナーを眺めている時目に入り、「スパイ物か?」と思って中身を検めたところ、第2次世界大戦中の航空偵察ノンフィクションであることが分かり、大変珍しいジャンルの本なので購入した。我が国の戦記物の中にも偵察機搭乗員の書いたものや偵察機そのものを解説した本は出ているが、ソフト(特に、写真撮影・解析と戦略・戦術立案の関係、作戦評価およびこれらに関わる組織)面から書かれたものは目にしたことがない。裏表紙の推薦文に本欄でも取り上げた“In Command of History(チャーチル著の<第2次世界大戦回顧録>の内容を精査した歴史研究書)”の著者であるディヴィッド・レイノルズ ケンブリッジ大学教授が「第2次世界大戦に関する歴史研究に貴重な貢献」と寄せているくらい、稀有な題材である。
本書の著者は英国人ジャーナリスト(TVプロデューサー、作家)。従って取り上げられる航空偵察の世界は英空軍を中心に展開されるが、米軍の参戦でそれとの共同作戦における問題などに言及、さらには航空機とカメラでは高いレベルにありながら、それを生かしきれなかったドイツ軍の写真偵察の限界(戦術偵察に留まる)にも触れる。
戦闘における高所位置からの俯瞰がいかに重要だったか、日露戦争における陸戦の山場、旅順攻撃の203高地を巡る凄惨な戦いを例にとれば直ぐに理解できるだろう。否、陸戦に限らず海戦でも敵艦の発見や着弾観測のために“高み”の持つ価値は大きい。本書の導入はこんな高所偵察の意義から始まり、18世紀後半のフランスにおける熱気球利用による“高所”からの“空中偵察”に転じていく。第一次世界大戦は近代兵器(飛行機、潜水艦、戦車、無線、化学兵器など)の揺籃期、飛行機の最初の用途は偵察であり観測であった。戦闘機はこれを追い払うためにあとから考案されたものだし、爆撃機は、心理戦はともかく、実用性ではほとんど戦争の帰趨に寄与するものではなかった。航空写真偵察研究が始まるのは大戦勃発少し前、ファンボロー航空研究所に陸軍航空隊(まだ空軍にはなっていない)写真偵察学校が創設される。ここで教えられるのは、現像・焼付・引伸ばし、カメラの取り扱い・保守など写真技術の基本であるが、この他に撮影した写真の解析(例えば建造物の影を基にした高さの推算)がある。そして本書ではこの写真解析(Photo Interpretation;PI)が写真偵察(Photo Reconnaissance;PR)と並んで2本の柱を構成する。
航空偵察の有用性は戦中各方面に認識されたものの、戦後の縮軍政策の中で組織は消滅、専門家は地図作成ビジネスなどで糊口をしのいでいる。この地図作成業務用に立体写真撮影・解析システム(オーストリア製)を導入した民間企業がある。折から勃興してくるドイツ空軍、ナチスの宣伝上手もあってその脅威は実力以上に評価されているのだが、この会社が売り込みに訪れたドイツで空から密かに撮影した写真をこの立体写真視認システムで解析、正確な情報を航空省(空軍もその傘下)に提供する。面目を失う空軍、その民間企業は航空省に取り込まれ、ここが母体となってPI組織が誕生する。
戦争の進展に連れPR、PIは拡大を続け組織の改編が何度も行われる。一つのポイントは、陸軍も海軍も空軍も当初は独自の偵察部隊を持っていたものを、実戦の戦術行動のための部隊を除きそれを統合するところにある。特に写真解析技術は(暗号解読などと同様)高度の専門性(経験を含む)を要するため人材有効利用の観点から統合運営が望ましいが、各軍種・兵種にしてみれば自由度が損なわれることもあり(もっと酷いのは、戦果の評価を各組織に都合のいいように報告できないことを嫌って)何度か解体の危機にさらされる(特に米軍が加わってからは激しくなる)。もう一つは人材育成・確保そのものに関することである。健全・健康な若い男性は現役兵としてとられてしまう。残された供給源は女性と高齢者である。WAAF(Women’s
Auxiliary Air Force;空軍婦人補助部隊)からの登用、大学人(地理学は無論、考古学、経済学、生物学など)の活用が大規模に行われる。PIの仕事は単に撮影物の特定に留まらず、例えば工場などの場合は生産量やその製品の用途先への影響、破壊後の復旧時間予測なども含まれるので活躍場所は多々ある。女性分析者の中には試験段階のV-1ロケットを特定しのちに勲章を授けられる者も出てくる。
主要な戦場は;西方電撃戦、バトル・オブ・ブリテン、大西洋の戦い(対Uボート作戦)、北アフリカ戦線、ノルマンジー上陸作戦、ハンブルグ爆撃、ルール地方のダム破壊、電波戦など。それらにおけるPR・PIの役割やエピソードがふんだん取り上げられる。これらと並んでアウシュビッツ強制収容所の写真が撮られていたにも拘らず、解析が進まず早期解放の動きにつながらなかったことへの反省にかなりの紙面を割いている。
エピローグでは組織・人のその後も語られるが、戦後から今日に至る空中偵察に関わる話題が紹介され、衛星写真や無人偵察機がかつてのPR・PIに変わりつつある経緯を述べた後、「次はグーグルアース(どうもストリートヴューまで意識しているようだ)か?」と含みを残して終わる。
何分特殊な分野かつ英文、人に薦めるような本ではないが、長く計測・制御・情報の仕事に携わってきたものとしては随所に参考になる話に行き当たり「現役だったら」の思いにかられた。今流行のビッグデータの活用などにもヒントは多々得られるような気がする。
2)日本軍と日本兵
経営コンサルタントで軍事に詳しい友人のフェースブックに手短に紹介されていたので気になっていた。著者は私の息子と同年の歴史学者。軍事システム・戦史の本が溢れる我が家にも関わらず、息子は全くそれに興味を持たなかった。結果として太平洋戦争について親子で会話することもなかった。その息子の世代があの戦争をどうとらえ?どう評価するのか?これが書店で著者紹介を見たときの関心事であった。
“はじめに”を読んで「なるほど。こう言う資料に基づいて日本軍・日本兵をとらえるのか!」と興味津々、読み進むことになった。その資料とは米陸軍軍事情報部が1942年~46年にかけて兵士向け出していた“Intelligence Bulletin(情報公報;以下IBと略す)”と名付けられた戦訓(戦いから学ぶ)広報誌である。
1941年12月8日の真珠湾攻撃によって日米(英・蘭)が戦うことになる。マレー半島・シンガポール、フィリピン、ジャワ・スマトラ、南太平洋の島々への破竹の進撃は真珠湾とは別の衝撃を米軍(特に陸軍)に与える。それまで中国戦線で苦戦していた日本軍のイメージとは異なる、狂信的で神がかったスーパー兵士像が流布され、戦場へ赴く召集兵に恐怖の念を抱かせる。「日本兵も我々と同じ人間。何も恐れることはない!」これがIB発刊の趣旨である。従って初期のIBは先入観・既視感による滑稽な記事が多いのだが、実戦を戦い、捕虜を捕え(あるいは捕虜になった米兵が脱走して)日本軍の実像が少しずつ明らかになっていく。戦争も後半になると、我が国で一般的にとらえられており、私自身持っていた日本軍(主に陸軍;精神主義・単純な攻撃主義・玉砕戦法)とは異なる“日本軍と日本兵”が姿をあらわしてくる。
滑稽な例は、この戦いで中国が米国の同盟国になることによって生ずる“中国人と日本人の見分け方”に関する件である。体型・歯並び・話し方・歩き方など図まで用いて解説している(話し方ではRとLの発音など)。しかし、これはほとんど役に立たないことが分かり早々に識別法から除かれる。
実戦経験が積み重なると兵士や小部隊の戦闘能力・行動特性が取り上げられてくる。戦闘能力で頻繁に出てくるのは「射撃が下手」と言うことで、これは相当ひどかったようだ。それで思い出したのがどこかで同じことを司馬遼太郎が書いていたことである。司馬はこの“射撃下手”と合わせて砲兵の命中精度が優れたことと対比させ、個人技とチームワークの違いを民族性と結びつけていた(IBでは砲撃能力も低かったとしているが、司馬は命中度、IBは集中(蜜)度)。一方でジャングル戦では偽装(個人・陣地)が巧妙で要注意と警告している。
戦闘行動では日本軍得意の夜襲に触れている。初期には“音もなく忍び寄る魔物集団”のイメージだったが、実際は行軍中におしゃべりはするし、攻撃に際しては威嚇の大声を上げるので方向が把握しやすく、「こちらの機関銃手にとっては夢のような状況だった」と書かれている。また銃剣を使う接近戦(白兵戦)には総じて弱かったことも取り上げられ、専ら“突き”ばかりで銃床を使う戦い方(これで顔面を打つ)を知らないなど、兵士の戦闘ノウハウの細部に及んでくる。
組織に関する話題も種々取り上げられ、下級将校と下士官・兵は同じ食事をとり、酒盛りをして一体感を養っているが、捕虜の尋問から下士官・兵が決して将校に全幅の信頼を置いてはいないことを詳らかにして、自らの状況を慰めている(米軍ではこの間の関係は日本軍以上に壁があったようだ)。
この他IBの内容は、捕虜の扱い、兵器の評価、野戦医療体制、戦闘食の分析(自軍に利用できるか)など戦闘に直結した話題から兵士の精神構造、残された家族の生活(隣組・村で支える)、空襲のインパクトのような日本社会の戦時体制まで幅広く取り上げられている。
しかし、本書は単なるIBの解説書ではない。IBの内容は正しいか?何故このような受け取り方をされたか?を他の資料も合わせて検証・分析し、さらにIBの内容から日本軍も戦闘・戦術を変えていく姿を浮き彫りにして、日本人自らが作り上げたステレオタイプの日本軍・日本兵像(学ばざる軍隊)を見直すところに肝がある。沖縄戦や硫黄島の戦いは、多くの制約の下で“学んだ軍隊”の最後の踏ん張りであったと著者は結論づける(沖縄で民間人を巻き込んでしまったことは痛恨事だが、これは本書で取り上げている小部隊や兵士個人の問題ではない)。
本書は戦略や作戦に関するものではなく、最前線で戦った兵士と小部隊の行動から日本軍(陸軍)を分析したものである。とは言っても兵士が書いた体験記・回顧録でもない。そこにはある種の客観性があり、これからの軍事史研究の新しい視点を与えるものとして評価できる。戦史ファンとしては“負うた子に教えられ”と言ったところであろうか。
3)ヨーロッパ鉄道旅ってクセになる
このところなかなか旅に関する面白い本が現れない。特に乗り物に関してそれが顕著だ。そんな時Amazonから本書の知らせが届いた。聞いたことのない著者名だが若者に評価が高い幻冬舎の出版物であることと“ヨーロッパ鉄道旅”のタイトルに惹かれて購入した。
結論から言うと“羊頭狗肉”、悪いことにあとがきには「いわゆる鉄道マニア向けの内容ではない自覚はある」とことわりがある。マニア(鉄チャン)ではないが乗り物ファンとして「ならば紛らわしいタイトルにするな!」と言いた。加えてマニアで向けでない代わりに「鉄道には圧倒的に旅情がある」と、そこに重点があるようにまとめるが、同乗者と会話をするわけでもなし(英語以外はダメなようだ)、車窓を臨場感を持って描き出すわけでもなく(本人は書き込んでいるつもりかもしれぬが)、大部分の時間はiPodのイヤフォーンを耳に入れiPadと向き合って、次の訪問地を調べたり宿の手配をしたり、日本で進められている出版物の情報をやり取りしている(“移動時間は空き時間”の認識)。著者が評価する鉄道の良さは“時間と経済性(どちらも効率)”だけである。これではとても“旅情”を感じることはできない。「もし旅行作家として大成したいなら(脱サラ作家、本書が3冊目)宮脇俊三(鉄道;旅情)や下川祐治(乗り物全般;人・社会)に学べ」と叫びたくなる。
と厳しい評を書いたが。読んで全く無駄だったわけではない。一つは昨秋行い本ブログにも掲載しているフランス旅行のルート(パリ~マルセイユ間のTGVやコートダジュール沿線)が一部重なり、その時の体験との対比を楽しむことが出来たし、もう一つはユーレール・パスの特徴や使い方、トーマスクックの時刻表の見方など、これからヨーロッパ鉄道旅行にトライしたいと考えるわが身に役立つ情報もそれなりにあり、収穫もあったからである(もっともこの旅行計画が実現するかどうかは怪しいのだが)。また、若いバックパッカーには参考になりそうだ。
タイトルにある10ヵ国は;フランス、モナコ、イタリア、スイス、リヒテンシュタイン、ドイツ、オランダ、ベルギー、英国、アイルランド。これを日本出発から帰着を含め2週間で周る(鉄道一筆書きではなくバスやフェリーも利用)。
4)ビューティフル・マインド
人間の身体そして心の内に深く踏み込む読み物は最も私の読書、否興味から遠いところにある。芥川賞ですら最後に何を読んだか記憶がないし、医学も脳の構造に関するもの以外は蔵書にない。一方で科学・技術(生物学・医学を除く)のノンフィクション物は軍事に次いで多いし、最近は研究所や研究者に関するものを毎月本欄で紹介している。この滅多に読まない分野と好んで頻繁に読む分野が交差したのが本書である。無論きっかけは心理・精神面からではなく数学に惹かれたからである。
本書は、ジョン・フォーブス・ナッシュ・ジュニア、1928年生まれの米人数学者で1994年(66歳)のノーベル経済学賞受賞者、の伝記である。この本を題材にした同名の映画は2001年アカデミー作品賞・監督賞・助演女優賞・脚本賞を受賞している。実在の数学者を映画が取り上げたのにはそれなりの理由があるのだ。
たびたび書いていることだが、本ブログを立ち上げた動機は“組織における意思決定と数理”の関係を考える材料を書き残すことにある。その材料の一つにOR(Operations
Research;応用数学の一分野)がある。その中に統計・待ち行列・線形計画法などの数理手法と並んで、ゲーム理論と言うのがある。囲碁・将棋・チェス(これらは一種のウォーゲーム)あるいはブリッジ・ポーカー(一種のビジネスゲーム)などのゲームは数学者が好んで遊び、その必勝法研究もまた彼らが奥義を極めようとして叡智を傾けてきた歴史がある。ゲーム理論の嚆矢は1930年代フォン・ノイマンとモルゲンシュテルンによって発意・発表されるが、これはどちらかが一方的に勝つ“ゼロサム・ゲーム”であった。しかし、ビジネスや政策立案、国際関係(戦争を含む)は適当なところで両者が折り合う均衡点があるケースが多い。これを数理的に見つけるようにしたのが“ナッシュ均衡”である。ゲーム理論が広く実用化されるのはこのナッシュ均衡の概念が取り入れてからである。ナッシュがこの理論を発表したのは彼がプリンストン大学大学院博士課程に在り、数学者として頭角を現し始めた時である(21歳)。その時代の最新の業績に与えられるフィールズ賞(数学のノーベル賞;4年毎40歳以下)と違いノーベル賞は受賞までに業績が有用なものであると多くの人に認められること(引用数)が条件であり、時間のかかることが稀ではない。しかしナッシュの場合、その後に彼が辿ることになる数奇な運命を考えれば66歳の受賞は当に奇跡であった。本書の過半のページ(全体で約950頁)はこの“数奇な運命”の時代に当てられている。
30歳代初期、既にMIT教授としてテニュア(終身身分)の最終審査も終りあとは学長承認を残すだけでの時、突然顕在化する妄想型統合失調症(精神分裂症)。病気の進行に伴う奇行の数々、家族(母や妹、妻)や同僚たちの支援や離反、治療(彼の天才的な才能が失われぬよう細心の配慮が必要;電気ショック療法など厳禁)とその効果(やや回復しては再発する)、それらによる経済的困窮、加えて正常時からあった自分本位な言動に対する反作用も落ち目になるにしたがい激しくなる。ホームレス寸前・野垂れ死にしそうなところから、発病来30余年を経て奇跡的に回復する。
このプロセスを著者(ドイツ生まれのNYタイムズ経済記者、女性)が、家族(妹、妻(MIT物理学徒;エル・サルバドルの名家出身)、愛人(結婚前)、その愛人に生ませた息子など)、プリンストン大学、MIT、プリンストン高等研究所、ランド研究所などの同僚あるいは病院・療養施設の医師などに取材して、まとめたのが本書である。
因みに、この病になる前の彼の人生も順調なわけではない。完全なWASPでありながら経済的にゆとりのある家庭ではない(上級学校への進学には奨学金獲得が必須)。小学校時代のナッシュは担任教師から「数学には才が無い」と評価されている。教えた通り解かなかったことや答えが簡単にわかるような問題に無関心だったことに由来する(その後も解けない問題、異なった解き方に関心が向かう)。数学に本格的に興味を持つようになったのは13歳頃E.T.ベル著「数学をつくった人々」を読んでからで、これは数学そのものを解説した本ではなかったことに惹かれたらしい。大学・大学院とも全学費を奨学金で賄っているが、必ずしも希望通りのコースを歩めたわけではない。特に博士課程進学で重要な資格となる全米学生数学コンテストでは、これを重視するハーバードへ好条件で進めるほどの成績を収められず、プリンストンへ行くことになる。またその博士課程でも指導者との関係はぎくしゃくする。終生変わらない「人から学びすぎると創造性が失われる」との思いが強く、それに則る行動をとったからである。
本書はナッシュ本人とそれを取り巻く人間像それに病気が中核をなすが、数学界を巡る話にも興味深いことが多い。戦中戦後の米国数学界(純粋数学至上主義;ナッシュは本来純粋数学専門だが均衡論は応用数学)、理系大学の評価<ナッシュは、学部はカーネギー工科大学(現カーネギー・メロン大学)、博士課程はプリンストン、就職先はMIT、しかし当時工科大学はMITも含めて“技術学校”とみなされ数学部門の評価では一段低くみなされていたようだ。最高はハーバードだが保守的な性格が強く、プリンストンが高等研究所を充実させるにつれ地位が逆転していった>やノーベル経済学賞の裏話(経済学賞そのもの是非、数学は経済学なのか?)あるいは人種問題(優れた数学者にユダヤ人が多い)などがそれらである。
文庫版の最後に日本人の医学者による妄想型統合失調症についての解説がある。そこには、今なら当時なかった薬がその治療に役立ったのではないかとのコメント、発症原因に遺伝説が強いことをうかがわせる表現などがある(事実ジョン・フォーブスと妻との間に出来た一人息子、ジョン・チャールズも同じ病気に罹っている。仕事も同じ数学者)。
“ビューティフル・マインド”と言う題名は、ナッシュがノーベル賞を受賞した際、プリンストン、ランドで同僚だったロイド・シャプレー(応用数学者;2012年ノーベル経済学賞受賞者)がナッシュを評して述べた一言による。
ページの多さにも拘わらず有名数学者オンパレードの内容にすっかり取り込まれてしまった。それぞれの専門分野(数学、医療)の話題も読者に理解しやすいよう丁寧に解説していくので読み易いことも評価できる。
5)むしろ素人の方がいい
朝鮮戦争の勃発は1950年6月25日、小学校6年生の時だった。しばらくすると(夏休み中)マッカーサーの命令?で警察予備隊が発足した。敗戦の傷痕がいまだ残る社会の中で旧軍復活を懸念・非難する声が高いかった時代である。当時の父は米軍に基地や物資などを提供する調達庁(のちの防衛施設庁)に勤めており、この予備隊発足で米軍基地の予備隊への転換業務などに関係することになる。共産党や社会党が「税金泥棒」などと罵声を浴びせていた組織と父が関わっていることに何かうしろめたさ感じたこともある。
爾来60余年を経て内外でその活動が認知・評価されているにも拘らず、憲法上の制約から運営の難しい組織ゆえ、歴代長官・大臣の失言・失政も多く発生し、小野寺五典現大臣で80代目(複数回任用があるので人数は若干少ない)の多きを数える。国家存続のための根幹組織の長の平均在任期間が10か月に満たないのである!この80代の中で最長在任者(複数回在任者は除く)は1974年12月から1976年12月まで2年余日長官を務めた坂田道太である。本書はその坂田の防衛庁長官時代の評伝である。
坂田が自民党の古く(昭和21年戦後初の衆議院選挙で当選)からの党人派政治家であることは当時既によく知られていた。文教族の代表であり、1969年東大紛争時の文相として機動隊導入、入学試験中止などの決定に深くかかわり新聞・TVで目にする機会も多かった。党人派と言うと田中角栄、河野一郎、金丸信のように何か胡散臭さが付きまとうものだが、この人はそう言う雰囲気を全く感じさせない人だった。ロッキード事件で退任した田中の後を受けて登場した三木内閣で防衛庁長官として入閣した時も“意外”ととられはしたが、内閣全体に清潔感が求められた時期だけに納得できた。本書によればこの人事は三木の対世論作戦と派閥均衡(坂田は石井派)の結果とのこと、文部大臣は外部から永井道雄を登用、当初予定されていた法相には中曽根が強く推した稲葉修三が起用され、結果として坂田は防衛庁長官に回ることになった。総務会長だった灘尾弘吉が「文部大臣をやったのだから、自衛官の教育をやらせたらどうか」と提言したことが決め手になったらしい。著者なこの“教育者的”長官に焦点を当て、話を進めていく。単に自衛官だけでなく、まず素人である自己の教育、防衛庁の教育、社会・国民への啓蒙活動とその範囲は広い。
防衛行政に関して“素人”との発言をした大臣に野田内閣の一川保夫が居る。就任時「素人がやるのがシヴィリアン・コントロール」と語って冷笑を買った。坂田も当時を振り返り何度も「(それまで)なんも勉強しとらんだった」と語っているが、続けて「けれどもオレは勉強したんだ。だからオレは防衛政策に強くなったんだ」と自己研鑽による自信のほどを示すまでになる。
先ず勉強のために発足をさせたのが私的諮問機関の「防衛を考える会」。メンバーは11人、荒垣秀人(元朝日論説委員)、牛場信彦(前駐米大使)、高坂正堯(京大教授)、角田房子(作家)、平沢和重(NHK解説委員)などの論客が名をそろえている。月2回の会合には坂田も出席し、幅広い話題(例えば自衛隊員に対する差別問題から非武装中立や防衛費の指針;GNP1%まで;“以下”とは思っておらず“概ね”と考えた発言が後に大きな政治上の論点になる)を討議し、防衛政策・行政に取り組むべきテーマ・問題点を洗い出している。ここから坂田が特に問題視するのは、「1次防(3年計画)から4次防(5年計画)まで続けてきた(装備重視の)“所要防衛力”強化策をそのまま続けていいのか?」と言う点である。「5次防を従来通りの考え方で続けるわけにはいかない。それには新たな防衛哲学が必要だ」これが坂田の問題意識である。
その哲学を見えるようにしたのが、“基盤的防衛力構想;当時の坂田の言によれば「日米安保条約の間隙に乗じて、既成事実を作ってしまうという限定された侵攻、侵略という可能性を捨て去るわけにはいきません。奇襲的な直接侵略を我々は、否定し去るわけには行きません。その侵略は、限定された局地戦、小規模以下の侵略事態であって、それに対しては、わが自衛隊のみによって、対処する即応力を保有しなければならない。それが私の基盤的防衛力です」、である。分かりやすい防衛力整備指針であるが、経済成長下の装備増強に慣れてきた制服組はかなり反発したようである。
この考え方に基づいて取り組むのが“防衛計画の大綱”、つまり具体的な施策(量的計算、肉付け)である。さらにこれを国民に向け知らしめるのが“防衛白書”の定期刊行である。それまでにも中曽根長官時代に白書は発刊されているのだが、体裁を整え外部(英語版も発刊)に解りやすい形で定期的に発刊されるようになるのは坂田の時代からである。
坂田は、これらの活動を進めるに際して、計画実現のデュープロセス(踏むべき階梯)を重視し、首相と選ばれた閣僚が参加する「国防会議」「国防会議議員懇談会」を頻繁に開いている。その開催数は他の長官・大臣の追随を許さないほどである。
自ら学び、防衛庁・自衛官に考え方を納得させ、国民に防衛問題を理解させ、議員・閣僚にも同調者を作っていく。当に“教育者的長官”の面目躍如と言ったところである。その間に起こるロッキード事件、ミグ25亡命事件などの難事も長官として政治家として適切に処理し、防衛政策や国際関係に影響が出ぬよう収める。“素人”としてスタートした長官は新たな施策を数々残し、三木おろしの嵐の中で離任する。著者は、その職務に全力投球した一人の政治家の姿を私見・私情を交えながら篤く語っていく。
と言うのも著者は坂田在任時防衛大学教授(ドイツ外交、国際政治)、大学院終了後ドイツ留学をしており、ドイツ文学を専攻した坂田は同窓(東大)の好もあって、付属機関の一職員である著者をよく呼びつけてはドイツ事情など聴き出していたようである。その縁もあって防大退職後、坂田家で資料整理などに当たる機会を持ち、すっかり坂田に魅せられ、本書が書かれたという経緯がある。
崇拝者が書いた評伝となると、兎角甘くなりがちだが、それを考慮しても我が国安全保障に関する考え方や、政治家と国民・官僚との在り方など問われる時代、一読の価値ある書物であった。
6)ヒラノ教授の線形計画法物語
新潮社・青土社それに技術評論社から出ていた“ヒラノ教授”があの岩波書店から出版された!学者が最も高いステータスを与える出版社が本書を取り上げたのはそれなりの理由があるに違いない。それは一体何だろう?これが自に課した本書読書課題である。先ず表題を見て「オヤッ?」と思ったのは“物語”である。もし“ヒラノ教授の線形計画法”なら「いまさら何故線形計画法の解説書?新解法を発案したという話も聞かないし」となるだろう。“物語”となると線形計画法発達史”に近いものだろうか?そんな思いで読み始めた。
内容はほぼ予想通りであったが、全編を流れる通奏低音はジョージ・ダンツィック;線形計画(Linear Programming;以下LPと略す)の解法、単体法(シンプレックス法)の発明者、著者が学び博士号を取得したスタンフォード大学OR学科教授。時には主題としても奏でられる。つまり“線形計画法と私とジョージ”がどう関わってきたかを著者の数理工学専攻の動機から始まり今日のLP普及拡大までを、楽章ごとに取り上げる興味深い主題で辿る楽劇と言った趣である。
ノーベル経済学賞とも深くかかわってきたLPは、軍事作戦、政策決定、製造業、輸送業、通信業などで早くから利用され、ITの進歩と相まって近年は金融工学など経済学分野でも重要な役割を果たしているのだが、その割には今一つ認知度が低い。少しでも多くの人に関心を持ってもらい、さらなる進歩と普及に向けて努力が傾注されるような環境を醸成したい。それには各楽章にセミ・フィクション的な味付けを行うことが良いのではないか?これが著者の執筆動機・要領であるし、出版社も辛気臭い専門書とは別にこのような“やわらかな”科学読物の出版意義を感じたに違いない(少し前から新潮社、早川書房、草思社、文芸春秋社などもこの傾向が出てきている)。
“物語”としての山場は、前半では1975年のノーベル経済賞でクープスマン教授(イェール大)とカントロヴィッチ教授(ソ連科学アカデミー)がLP適用を対象に受賞するが、ダンツィック教授が外れたところである。「3人まで枠があるのに何故落とされたか?」愛弟子ヒラノ教授はその原因を推理する。後半では何と言っても単体法をはるかに凌ぐとNYタイムズの一面を飾る“カーマーカー法(内点法)”を巡る話題である。ベル研究所はこれを特許申請しそれが受理される。それまで数学の解法は特許の対象ではなかったにも拘らずである。この問題は我が国特許庁でも可否をめぐり論議を呼ぶ(我が国特許法では数学的解法は特許にならないと明記されているが、一方でソフトウェアの著作権として微妙な位置付けにあった)が、レーガン政権の知財政策の前に屈することになる。それに我慢ならないヒラノ教授は特許庁に異議申し立てを行う。しかしこれは国を挙げて攻勢を仕掛けてくる米国におもねる通産省(特許庁)によって却下されてしまう。それでもダンツイック教授の遺言(数学的解法は特許対象にあらず)に従うべく東京高裁に「無効審決取り消し訴訟」を起こして争いを継続する。担当裁判長は「連立一次方程式の解法など習った覚えはない」とうそぶくような人物。その下での裁判は原告が被告の手法も含めて裁判官を教育することまで行う信じ難いものになる。結局この訴えはベル研究所(その後ルーセント・テクノロジ社に売却される)が続々と現れた安価な類似ソフトに太刀打ちできなくなり、特許を放棄(特許料不払い)したため、ヒラノ教授の訴えは「訴えの利益は失われた」との理由で棄却され、裁判費用のツケがヒラノ教授に回ってくる!
数理の話ゆえ全く数式なしでは説明が難しい部分があるので、それを補う図式による解説がコラムとして適宜挿入されている。また数理・数式が理解出来なくても“物語”として面白く読むことは出来る。
生涯をかけて取り組んだ仕事を一冊の本にまとめる。私もこんな本が書けたら、と思っている。
注;線形計画法(LP);
資源(人やカネを含む)の配分、生産、輸送などビジネスや社会の活動には多元連立一次方程式でモデル化できる事象が数多ある。このモデルを、評価(例えは利益、コストなど)式を含めて解くことで最適な活動方針を得る数理手法。
単体法(シンプレックス法)、内点法はこの方程式を解く手法の一つ。
7)あのころ、僕たちは日本の未来を真剣に考えていた
前掲の「線形計画法物語」と同じ作者による著作である。本欄では分冊として出版されたものを除いて、同一著者の作品を同じ月に複数掲載したことはない。本書が出版社から届いたときも、「これは来月まわしにしよう」と思っていたが、プロローグを数行見ただけで、その考えはどこかへ吹っ飛んでしまった。書き出しで一気に読者を惹き込む、手練れの小説家に勝るとも劣らない手法である。しかし、惹き込まれたのは手法だけではない。いままで著者が手掛けてきた題材とは全く異なるものだったからだ。昭和30年代後半から平成初期に至る日本政治裏面史(無論若者たちが描く21世紀<今結果が出ている>も書かれているが)である!数理工学者がなぜ?!
野口悠紀雄、斎藤精一郎それに本書の著者今野浩、いずれも日比谷高校から東大に進学した同期生である。斎藤と今野は中学も一緒、野口と今野は、専攻コースは異なるものの工学部応用物理科で伴に学んでいる。今はそれぞれの分野で超一流の学者・エコノミスト・研究者である。
1966年晩夏野口から今野に電話がある。政府(佐藤内閣)が明治百年を記念して募集する「21世紀の日本」と言う論文に応募しようという誘いである。1等の賞金は百万円、今野の月給が3万円に達していない時代である。野口は当初今野と二人で書くつもりだったようだが、今野の「エンジニアと違う発想の人間を入れよう」との提案で経済学部出身の斎藤が加わることになる。当時野口は大蔵省(大学院1年目の時上級公務員試験の経済職!に2番の成績で合格)、斎藤は日銀、今野は学者への道が見えず電力中研で悶々としている。半年間土日を潰して書き上げた論文は見事1等を勝ちとる(因みに2等は通産官僚池口小太郎、のちの堺屋太一である)。この論文は東洋経済新報社から1968年2月に出版され、25000部のベストセラーとなり多くの人の目に触れることになる。また首相官邸から3人に呼び出しがかかり、この年行われる明治100年記念式典で佐藤首相が行うスピーチの草稿作りを依頼される。対応したのは首相秘書官(スピーチライター)楠田実であった。
1982年7月、東工大教授に転じていた今野に電話がある。相手は楠田、今は政治評論家として活躍する傍ら省庁の依頼で政策立案の資料作りなどをしている。今野への用件は、今後の通産行政に関わる「技術発展と文明」を議論する勉強会に出席し、年度末にまとめる報告書作りを手伝ってほしいというものであった。あの論文執筆者と理工学研究者であることが楠田の今野起用のように取れるし、今野も一般教育専任教授で比較的時間の余裕があったのでこれを受けることになる。
勉強会メンバーは、公文俊平、石井威望、山崎正和、合田周平、宮崎勇、吉田邦光など錚々たる論客が揃っている(のちには梅棹忠夫、高坂正堯なども加わる)。第1回の勉強会の後の雑談で楠田が「この勉強会の成果は、安倍大臣(この時は外務だがそれ以前は通産)の政策形成に役立てることだ」と今野に告げる。清話会の会長ポストを福田赳夫から譲り受けた安倍信太郎を総理大臣にするための頭脳集団、それがこの勉強会の正体だったのだ。
これから以降は本書を読んでいただきたいが、間近に政権交代が迫ると楠田は論文を書いた3人に政権構想作りを依頼し「安倍政権が誕生した暁には、首相特別補佐官制度を採用することを考えている。三人にはそれぞれ財務・都市問題(野口)、経済・社会(斎藤)、科学技術・産業政策(今野)担当を予定している」と腹案を打ち明ける。結局安倍は竹下に敗れこの案は実現しない。
1991年5月テネシー州ナッシュヴィルでOR学会研究会に参加していた今野に早朝電話がかかってくる。野口からの安倍死去を告げるものだった。プロローグはこの電話から始まる。
レフリー付論文(多くは英文)を150篇以上書き、数理工学者として国際A級である著者にこんな裏?があるとは全く知らなかった(懸賞論文と友人関係は他の著書で知っていたが)。“驚愕の一冊”これが読後感である。
政治裏面史は政治記者(ここに登場する楠田実も新聞記者出身)や議員秘書が書くものと相場が決まっているし、これらの人々と書くものには何か“立派なスーツを着ていてもズボンの裾がゾロ引いている”ような不潔感(胡散臭さ)を感じてしまい、敬遠してきた。従って、政治の仕組みは新聞などで伝えられる表面的な面しか見ていないことは自覚していた。しかし、信頼できる著者による作品のお蔭で、有力政治家やそれを取り巻く人間模様あるいは政策構想作りのプロセスを、裸眼で垣間見ることが出来たことは大いなる収穫であった。
著者の作品に共通するのが、実在人物のキャラクターをズバッと描くことである。その描写は「ここまで書いていいのか?!」と思うほどである。今までの作品は学界が舞台で一般の読者には今一つ知名度が低い人が多かったが、今回は政界なのでよく知る人物(特に政治家;父親の秘書だった安倍晋三も登場、あるいは取り巻きの学者)が多数登場する。その点でも従来の著書にない面白さがある。それと合わせて著者の政治に対する考え・姿勢・主張(それらに対する政治家や政策ブレーンあるいは官僚の反応)がはっきり出ているのも本書を読み応えのあるものにしている。本年度大宅壮一ノンフィクション賞(賞金百万円)か?
以上
(写真はクリックすると拡大します)
0 件のコメント:
コメントを投稿