情報サービスを目的とする新会社設立検討が本格的に始まるのは1983年からである。何故その時だったか?そのきかっけは何だったのか?何を期待したのか?どんなプロセスを経たか?障害はなかったか?先ずその時代と会社を取り巻く経営状況から話を起こすことにする。
我が国石油会社の経営環境は二度の石油危機(第1回1973年、第2回1979年)で大きく変貌した。他の製造業や金融業、流通業などのサービス業は依然成長(あるいは構造改革)過程にあったものの、石油エネルギー利用は既に成熟段階が到来していたのだ。経済成長の発展を見越して造成した土地や採用してきた人員は明らかに負担増になってしまう。
一方で高騰した原油価格とコンピュータ技術の進歩がソフト面での経営改善に貢献する度合いが高まってくる。土地は備蓄タンク用地に活用、プロセスエンジニア(化学工学を専門にするエンジニア;石油関連企業の主流かつ多数派)やプラント運転員のSEへの転用が図られる。本ノート事例で紹介してきた“迷走する工場管理システム”あるいは“大転換TCS(Tonen Control System;プラント運転制御システム)プロジェクト”など大掛かりなコンピュータ利用による経営効率改善には、この転換人材がおおいに役立ってくれた。一つは膨大なプログラムを書くプログラマー、もう一つは省エネルギーや収率・歩留り改善策を考案・設計・開発するプロセス・システムズ・エンジニア(PSE)がそれらである。販売部門を持たない東燃にとって経営効率の改善とは、プラント運転・工場管理の最適化推進に他ならない。設備本体を改造するに比して即応性のあるコンピュータ利用への期待は日々高まっていった。計測・制御・情報と言う、長く裏方に留まっていた職種に陽が当たりはじめたのがあの2度の石油危機だったのである。我々システム技術関係者は密かに「石油危機は(コンピュータ利用促進の)神風だ」と囁き合ったものである。
しかし経営を一段高いところから見ると、既存の設備・工場における効率改善はコスト削減による利益向上で、売上が伸びる成長路線ではない。(たっぷりある)内部留保を活用して新規事業分野に成長の芽を見つけたい。将来のトップを担う有力候補と見られていた最年少役員のNKHさんには特にこの思いが強く、既に70年代末期から独自の活動が始まっており(1978年新事業開発室発足)、80年代に入るころにはその対象を1)新機能材料、2)新エネルギー、3)ライフサイエンス(バイオ)、4)情報技術の4分野に絞り込んでいた。ただ比較的本業に近いところにあった新機能材料(炭素繊維)と新エネルギー(太陽電池、超音波噴射弁)研究はかなり具体的な段階まで進んでいたが、バイオは人材を外から採用することが始まったばかりだったし、情報技術に至ってはテーマとして掲げられたに過ぎなかった。
石油関連事業の先行きに限界が見えていたこの時期、先端技術分野以外にも新規事業として取り組む課題が無かったわけではない。否むしろ既存の社内業務知見を外部に向けて事業化しようという考えは既に芽生えており、情報システム部がExxon技術を販売する東燃テクノロジー(TTEC)の庇を借り、TCS<IBM・ACS(汎用機の上で動くプラント運転制御システム)+横河電機・CENTUM(マイクロコンピュータベースのディジタル制御システム)で構成されるプラント運転制御システム>販売をIBMと協力して進めることがスタートしていた。このビジネスは石油一筋でやってきた古参役員・部長層から一定の評価を得て、1984年TTECシステム部設立につながっていく。そしてNKHさんもこの動きに関心を持ち始めていた。
(次回;“新会社創設”つづく)
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