2014年5月31日土曜日

今月の本棚-69(2014年4月分)


<今月読んだ本>
1) 旅はゲストルーム(Ⅰ、Ⅱ)(浦一也);集英社(知恵の森文庫)
2) 大戦略の哲人たち(石津朋之);日本経済新聞出版社
3) ポーカー・フェース(沢木耕太郎);新潮社(文庫)
4) 国際メディア情報戦((高木徹);講談社(現代新書)
5) 原発ホワイトアウト(若杉冽);講談社

<愚評昧説>
1)旅はゲストルーム(Ⅰ、Ⅱ)
ここのところ好きな読書ジャンルの一つ、旅(特に海外)や乗り物に関する面白い本になかなか行き当たらないことは何度か本欄でぼやいてきた。そんな時Amazonから本書の紹介メールが届いた。開いてみた商品紹介画面を見たとき「これはどこかで見たような表紙デザインだな」と感じた。泊まったホテルの部屋の見取り図(平面図)である。蔵書を探ってみると、それは作家妹尾河童の「河童が覗いたインド」であった。貧乏旅行で滞在したインドの宿泊部屋をいくつも描いて旅を語る興味深い内容に惹かれ、それが記憶に残っていたのだ。「あれと同じなら楽しく読めるに違いない!」と2巻同時に取り寄せた。
結論から言うと、一見同じような形式で書かれたものだが、内容は全く異なる“凄い本”であった。河童の本は中身で読ませる。本書は図面で読ませる。これが決定的な違いである。だからと言って本書が読み物として劣るわけではない。ホテルを取り巻く環境(ビジネス、景観)と歴史を交えながら、建築なかでもインテリアに徹底的に注視し、宿泊した部屋を細かいところまで観察し、平面図(水彩で色付け)を中心(一部スケッチもある)にそれを簡潔に解説したエッセイは、ただの旅行記とは全く異なるユニークなものだ。
取り上げられるは、ビバリーヒルズのセレブ御用達豪華ホテル、上海の超高層近代ホテル、ヨーロッパの格式高いクラシックホテルや修道院・古城改造ホテルからスペイン・バスク地方の雑貨屋二階の旅籠やブータンの簡素なホテルまで2巻で約120室。中には私が宿泊したり(グランドハイアット・ソウル、シャングリラ・シンガポール)食事を楽しんだ所(マークホプキンス・サンフランシスコ)もある。
何が“凄い”か?先ずチェックインすると部屋および家具備品まで徹底的に(平面だけでなく高さを含む)、古くは巻尺で最近は携帯レーザー測定器を使って採寸し、それを備え付けのレターペーパーに1/50の縮尺で記録し彩色する(1枚で描ききれない所が数例;リージェント・シュロスホテル・ベルリンなど)。家具備品や消耗品(ミニバーの中身や化粧品類など)は、デザイナー、メーカー、ブランドまで確認。設備機能(例えば浴槽の排水時間)まで測定する。所要時間は1時間半から2時間。副題の“測って描いたホテルの部屋たち”が内容を端的に表している。
いくら旅や建築が趣味でもここまで素人がやる訳はない。著者は東京芸大で修士までインテリアデザインを学び、我が国を代表する建築設計事務所日建設計に入社、現在はその子会社日建スペースデザイン社の代表取締役と母校の講師を務める人である。
このような習慣は入社時に先輩から教えられ、いまや仕事と趣味が渾然一体になっている。海外出張ばかりでなく夫人との家族旅行で訪れたときにもこう言う所作が許されるのは、夫婦同業であることによるが、時にはその同業者にも呆れられることがあるようだ。祖父は大きなホテルの支配人、油絵を7歳から習う生い立ちも併せてその“凄さ(神は細部に宿る)”が伝わってくる。景観や備品のスケッチも素晴らしく、早く知っていれば、版の大きい単行本を求めるべきだった(絶版)。
建築インテリアが中心とはいえ、料理や酒の話(かなりの酒好きと推察)、あるいはサービスの話題も豊富で海外旅行好きにお薦めの2巻である。唯一の難点は宿泊時期が明確でないものが多いことだ(図面に記入されているのが少ない。本文から類推できるものも限られる。名称・所属チェーンが変わっているものも少なくない)。

2)大戦略の哲人たち
“戦略”と言う言葉を知ったのはいつごろだろう?多分月遅れの航空雑誌を見るようになった頃だろう(中学末期~高校)。“戦略爆撃”や“戦略空軍”から“戦略”の意味を類推していたように思う。当時の理解は、まだその残滓が身近(小学校から高校まで台東区なので戦災体験者の学友が居た)に残る“大規模都市爆撃”と密接に関わる軍事用語としてである。戦略と言う言葉を話し、書くことを始めたのはいつ頃からだろう?40歳を過ぎ経営計画立案などに携わるようになってからの様な気がする。曰く「我が社の情報システム戦略は・・・」などと言うようにである。それに対して「それは戦略ではなく戦術あるいは計画ではないか?」などと先輩に揶揄され、この言葉を使うことに随分気を遣うようになった。書物などでも軍事用語としては比較的理解しやすいが、経営やスポーツに使われるとき依然として「著者は分かっているのだろうか?」と感じることが今でも絶えない。
本書の“はじめに”でも著者は「戦略とは極めて多義的で曖昧な概念である」と“戦略”の用語定義の難しさから説き起こしていく。そこでは敵の政治経済の心臓部を直撃する戦略爆撃や物資の供給路を海軍力で絶つ海上封鎖戦略などを純然たる(軍事)戦略と位置付け、その上に在る概念「国家目的遂行に際しての政策」を大戦略(グランド・ストラテジー)とする、英国の戦略思想家リデル・ハートの考え方(さらにそれに大きな影響を与えた19世紀プロシャの軍事思想家クラウゼヴィッツの戦争論)を援用して、本書で取り上げる戦略論の枠組み・骨格を定義する。つまりこの本の内容は狭義の軍事戦略(大規模作戦)を解説するのではなく、国家の在り方に深く関わる考え方とその提唱者たちを紹介するものである。
時あたかも集団的自衛権論議が喧しい今日この頃、安全保障と国際関係を根源的なところから学んでみよう、これが本書を手に取った動機である。
ここで取り上げられる戦略思想家は6人;
・ハルフォード・マッキンダー(英);地政学の祖;地理学を基盤にした、欧州中心の戦略論(大英帝国対ロシア、ドイツ)。1947年に死去したので“現代”とは言い難いが、“地政学”(彼自身は“学”と意識していない)に基づく国家戦略は現代でも盛んに論じられている。
・マイケル・ハワード(英);国際戦略研究所創設者、クラウゼヴィッツ研究家;戦争研究を一つの学問領域として確立した最も重要な学者。
・バーバード・ブロディ(米);ランド研究所研究員、原爆を“絶対兵器(単なる大きな兵器ではなく)”ととらえた核抑止力戦略の先駆者(核時代のクラウゼヴィッツ)、1978年死去。
・ヘンリー・キッシンジャー(米);制限戦争理論(通常兵器と核の段階的運用)とデタント、この分野で理論と実務(国家安全保障担当首席補佐官、国務長官)を担った唯一の人物。
・エドワード・ルトワック(米);戦略国際問題研究所研究員、イラク戦争に反対、著書「戦争論」は欧米大学学習者の現代戦争学・戦略学の基本文献;ポストヒロイックウォー(死傷者の無い戦争)・パラドキシカル・ロジック(平和のためには戦争を!)など挑発的な論理を展開。
・マーチン・ファン・クレフェルト(イスラエル);ヘブライ大学歴史学部教授、非三位(政治・軍事・国民)一体(あるいは非対称;テロ・ゲリラ、国の枠を超えた宗教戦争など)戦争論→クラウゼヴィッツ批判;戦争は“政治”といった狭義で合理的な枠組みでとらえるべきでなく、広義の“文化”という文脈の上でとらえることで初めて理解できると主張。
いずれも当該分野で国際情勢と技術の変化に対応した新たな国家戦略の在り方を提言してきた戦略思想家である。著者はこれにリデル・ハートを含めて7人を“哲人”としているが、リデル・ハートに関しては別に著わしているので本書から省いている。これらの人々がベスト6なのかどうか判断する力は私にはないが、選ばれたメンバーに軍人がいないこと、マッキンダーを除けばすべてユダヤ系であることが特に印象に残った。
本書の書き方は、先ずそれぞれの理論を著作(一部インタビューもある)に基づいて解説し、それらと先駆者(特にクラウゼヴィッツ、リデル・ハート)や影響者の論との比較を行い、時間的変遷を含めて考察し、現代への適応性を評価する形をとっている。記述方式を統一しているので、相互の違いが分かりやすく、安全保障政策、戦争・戦略理解の入門書的な読み方に適した書と言える。
著者は防衛省防衛研究所戦史研究センター国際紛争史研究室長。“大戦略”研究および適用が大国中心進められている内実を本書で示しつつ、我が国独自の大戦略の必要性と可能性を本書末尾で主張している。
本書を読んで、我が国の安全保障論議があまりにも表層的・場当たり的であると痛感させられた。大学の国際関係論の授業などで、堂々とこのようなことが教えられ、学会活動などが広く活発に行われることが、厚みのあり現実的な自国を取り巻く戦略論醸成に不可欠との感を深くした。

3)ポーカー・フェース
著者の名前は1970年代からノンフィクション・ライターとして知ってはいたが、当時著者が得意としていたスポーツ物に興味のない私にとって、読みたくなる本は無かった。作品に初めて触れたのは1986年に刊行された「深夜特急」(全3巻)である。これは香港からロンドンまで乗合バスを利用して旅する話しで、時代は1970年代前半著者が267歳の頃である。のちに若いバックパッカーのバイブルとなるほどこの分野の名作となる代表作だ。若い人の旅の姿や感性に溢れ内容は「もうこんな旅は出来ないなー」と感じつつ、次作の発刊が待ち遠しかった(特に第12巻と第3巻の間は6年空く)。この待ちの間に読んだのがエッセイ集「バーボン・ストリート」である。
旅に並んでエッセイも好きなジャンルの一つだ。短い文章の中に著者の思いを込めるために、ややもすると味が強くて読み手の嗜好に評価が分かれるが、そこがエッセイの面白いところでもある。それまで好んで読んできた作家(内田百閒、山口瞳など)・優れたエッセイスト(団伊玖磨)の作品には教訓を得たり、“寸鉄くぎを刺す”ピリッとした批判を含むものが多かったが(ある種の緊張感が漂う)、「バーボン・ストリート」はそれらとは一味違い、何か和らいだ雰囲気の中で“清々しい”気分を味わえるものだった。この頃には著者は既に40歳代半ばに差しかかっていたにも拘わらず、である。その作風に惹かれて「チェーン・スモーキング」「彼らの流儀」「シネマと書店とスタジアム」と読みつないで本書となったわけである。
酒場での有名作家(吉行淳之介)とのやりとり、“なりすまし”と言う言葉からの思わぬ連想、高峰秀子の思い出、バカラとばく必勝法、ブラディメリーのメリーはメアリーではないか?など今回も嫌みのない文章で面白い話題が13編。久しぶりに読んでみて(既刊のものも同じだったのかもしれないが)発見した魅力は、当然起承転結は踏んでいるものの、“転”が何度も現れることである。一例は、都心の公園で見た青大将が低所恐怖症(幼児から高層マンションに住んでいた人)になり高山病の話に転じて、さらにやくざの世界入り込む“恐怖の報酬”、読む前には同名のフランス映画でも取り上げるのかと予想していただけに、想定外の展開にすっかり惹き込まれてしまった。
エッセイとしては少し長い(月刊小説新潮に連載)ので夕食後アルコールでも嗜みながら、ゆったりした時間を過ごすのに好適の書である。

4)国際メディア情報戦
国家運営もここまで来たか!!第1章でいきなりこんな思いを抱かされる。話は1990年代のボスニア紛争である。ユーゴースラヴィア連邦が崩壊していく中で、セルビア人(主にキリスト教徒;少数派)とボスニア人(主にイスラム教徒;多数派)との主導権争いが分離独立宣言したボスニアヘルツェゴビナで始まる。政府主流は多数派のボスニア人だが、セルビアの支援を受けた少数派が武力で巻き返しを図る。「国際世論を味方につけるしか生き残り策はない」こう感じたボスニア政府は外相を米国に送りその支持を取り付けよとする。しかし米国務省の動きは鈍い。そこへ登場するのがルーダー・フィンと言うPR会社(ここでは広告代理店ではなく、“広告をカネで買う以外のこと”はなんでもやる会社;時間や紙面を買うのではなく、報道番組の中に顧客の意思を反映させる)のエキスパート、ジム・ハーフだ。記者会見の設定、話し方、用語(民族浄化をethnic cleansingと表現するがcleansing(洗浄)は英語国民に強烈な印象を与え、一語でボスニアで何が起きているか理解できる)、利用する写真や動画、総てを準備し外相に対メディア対策を指南する。結果世論はボスニア支持に傾き、それが議会を動かし、ついには大統領府もボスニア支持を打ち出して、セルビア首相ミロシェビッチを極悪非道の悪人にしてしまう。独裁国家では程度の差こそあれこのようなメディア・コンサルタントを利用しているとのこと。
著者はこれをNHKスペシャル「民族浄化~ユーゴ・情報戦の内幕~」としてまとめ上げたディレクターである。この他にも同じスペシャル番組「バーミヤン大仏はなぜ破壊されたのか」「情報聖戦~アルカイダ謎のメディア戦略~」なども担当、本書にもこれらに関する取材(当然ジム・ハーフへのインタヴューもある)結果がふんだんに利用されている。
戦場がTVで実況中継され、それによって国際世論が動く時代、自国・自分に有利な状況を、一見中立と見えるメディアを巧みに利用して作り上げていく。一方でメディアの側にも視聴者に受けるような画面や言葉を求める傾向が強まっていることに注視、その倫理価値観の在り方を問題視もしている(残酷映像合戦)。
本書では、ケースとしてアメリカ大統領選挙、ビン・ラディンとアルカイダ教育宣伝活動、米国の対テロ対策、2020年東京オリンピック誘致などを取り上げ、その具体的な手法(主としてTV)から結果まで、知られざる世界を見せてくれる。
読んでいて気になることがあった。それは、先の“倫理問題”にも関わることだが、このようなメディア利用が上手くいく前提には“開かれた社会”の存在が必須とし、インタビューなどで制約を設けるべきでないと主張していることである。特に、事前に質問に枠をはめるのはけしからんとしている(何でもあり。意表を突かれたときの変化こそカメラチャンス)。これを見て“メディアの驕り(独りよがり)”を感じないわけには行かない。視聴者は本当にそこまで求めているだろうか?(昼のワイドショーの視聴者が標準か?)
興味深い本ではあるが、衆愚化の著しい内外の政治環境を見るとき、決して後味の良い本ではなかった。

5)原発ホワイトアウト
本書は、原発再稼働に向けた政官財の動きをテーマにした官僚小説である。著者は覆面作家であるが、帯の紹介には東大法学部卒の現役キャリア官僚であると記されている。折しも読了直後に大飯原発再稼働を認めない判決が福井地裁で下された。
こういう本(国内政治の内幕もの)はまず自分では購入しないし興味もない。読むことになった経緯は、2ヶ月に一回開かれる東燃同期の飲み会で毎度原発が話題になることから、仲間の一人が読み終えた本を回覧するよう提供してくれたことによる。
読後感は、小説としての完成度は今一つだが、政・官・財(企業)・メディアの見えざる糸の絡みをリアルに描くところはさすがにキャリア官僚でなければ書けない!の内容である。覆面で書いたことも、その覆面を剥ぎとろうとする動きがあることも、四者の関係をここまで暴かれると困る組織や人が居ることの証左だろう。
登場人物は、経済産業政策を牛耳る保守政党の実力者、資源エネルギー庁次長、同期の原子力規制庁審議官(技官)、電力会社総務部長から業界団体に出向中の常務理事の4人が主役級。これに脇役としてTVアナウンサー・記者出身の魅力的な女性フリー・ジャーナリスト、彼女にハニートラップを仕掛けられ極秘情報を流す原子力規制庁の若手官僚、原発再稼働に慎重な県知事などが絡む。
大震災による原発事故を契機に高まる電力政策の大胆な見直しを形骸化し、早期原発再稼働を図ろうとする経産省トップ、容易に再稼働を容認しない地方自治体、電力業界から流れる巨額の政治資金、反対者を懐柔するための便宜供与あるいは潰すための国策捜査など、モデルとなる複数の有名事件を下敷きにしながら話を組み立てているが、直ぐにそのモデルが分かってしまい、現実の事件が一連のつながりを持つものでないだけに、如何にも作り話の印象がぬぐえない。むしろ読みどころは、官僚・政治家・産業人のやり取りの細部表現にある。例えば、どういう手順で新しい政策が起案され、その見かけと実効を如何に使い分けられるようにするか、そのために官僚はどんな政治家にどのようにアプローチするか、これは現実に難しい政策立案に携わった者でなければ書けないし、こういうところは極めて臨場感に富んでいる。
表題はいかにも反原発の本のようにみえるが、本来原発稼働問題は舞台回しの材料に過ぎない。従って真剣に原発問題を考えようとする人には期待外れになるだろう。
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2014年5月25日日曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第Ⅰ部)

1;新会社創設-7

“模索”の話をもう少し続けてみたい。と言っても東燃グループのそれではなく、当時の情報サービス産業を取り巻く環境である。“コンピュータ、ソフト無ければ、ただの箱”などとソフトウェアの重要性を訴える川柳が巷間語られるようになるのは1960年代後半だったように記憶する。いまやコンピュータ利用の核心を突く古典的名格言だ。こんな詩がうたわれたのは、実態はむしろその逆で、“ソフトはハードのおまけ”と言うような風潮とビジネス・モデルがあったからだ。
これが本格的に見直されるのは、IBMが独占禁止法に絡んで、1969年アンバンドリング(Unbundling;ハードウェアとソフトウェアの価格分離)策を打ち出してからである。それまでのIBMビジネスは、ハードウェアの他に自社製品の基幹ソフトウェア(O/S、プログラミング言語など)やそれらをユーザーが使いこなすための教育・保守を含む技術サービスなどを一括りにしたやりかたで、価格構成がはっきりしていなかった。また、個々のユーザーアプリケーション(例えば販売会計)ソフトはこれらIBM提供のサービスの下でユーザーの責任と費用で開発する形を採り、IBMがそこまで含めてターンキー(アプリケーションが設計通り動くことを保証する)受注することは通常なかった(国家プロジェクトの様なものを除いて;東京オリンピックやNHK番組編成など)。これはある意味IBMの弱点でもあり、国産各社はターンキー受注策でそれに対抗しある程度成功していたが、そこに“おまけ”的な施策・意識も醸成されていったのである。
このハード/ソフ分離策が行われてもIBMがシステム開発全体を請け負うことはなかったが、やっとアプリケーション・ソフト開発が独立したものとして認知されだしたことは、この業界の知名度と地位を高める上で大きな意味を持った。この流れに乗って、70年代後半に入ると、本業と職場環境の大きく異なる、金融業から情報システム部門の分社化が始まり、他社の仕事を手掛けるところも出てくるようになる。ただ、製造業では各種計算は本業そのものだったから自社内に抱えておくのが一般的だった。従って外販も行っていたとはいえ、1981年石川島播磨重工のSE80人が、コスモ・エイティとして独立した時には大きな話題を呼ぶほどだった。
しかしこの前後、製造業でも多くのグループ会社を抱える企業や膨大な小口金融を扱う業種では、主にグループ内情報サービス提供効率化を目的に一部分社化を進める動きが出てきていた。例えば、石油や化学関連では、前者に三菱化成(現三菱化学)グループへのITサービスを目的に設立された菱化システム、後者では旧日本鉱業が傘下のガソリンスタンド精算業務を請け負うセントラル・コンピュータ・システムを1970年にスタートさせ、1980年頃からグループ外ビジネスを積極的に展開し始めることになる。
こんな時期、まだ私が川崎工場在籍だった時(~1981)、一度情報システム室分社化の話を聞かされたことがある。この出所は新事業担当のNKHさんからではなく、情報システム室も主管であったTAI副社長からだった。どうも業界か財界の集まりで誰かから吹き込まれたようで、どこまで本気であったか不明だが、当時の情報システム室長にご下問があり、本社の管理職中心に検討が進められていた話が洩れてきたのだ。
東燃の情報サービス機能は大別すると4分野になる。一つは事務系全般を取り扱うもので、もともと経理部機械計算課として発足したもの。第2は、線形計画法を生産計画や設備計画に適用するところから発し製造部数理計画課としての歴史をもつもの。第3は各種技術計算、そして第4はプラント運転制御分野である。一体どこをどう分社化するのか?OTB室長は第2分野の出身者、SMZ次長は経理バックグラウンド、技術部制御システム課長兼務で室長付のMTKさんは計測制御が長い。室長の意向は当然数理技術を中心に考えていたが、結局話はまとまらぬうち熱も冷めていった。ここでの室長案、数理技術を差別化因子にする発想はこの業界の常識であった“量でこなす(薄利多売)”ビジネス・モデルとは一線を画すもので、のちの分社化検討にそれなりに影響力を与えることになる。


(次回;“新会社創設”つづく)

2014年5月19日月曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第Ⅰ部)

1;新会社創設-6

情報システム外販の芽となるTCS販売は、当初はTTEC技術部内に10年近く前に設けられ休眠状態にあったシステム技術課を舞台に進められたが、’841月にこれがシステム部に昇格して本格化する。またその少し前’839月には備蓄基地のメインテナンス業務を担当するTTECの子会社、東燃メインテナンスが設立されている。いずれの新組織も話題になってから誕生するまで時間が随分かかっていた。それは本体東燃の組織改編でも同じで、この件が取締役会決議事項であったところからきている。
日常の経営は常勤の東燃役員によって執行されているが、取締役会はそれぞれ25%の株式を保有するExxonE)とMobilM)が議決に加わる。出席者は各々1名だが票の重さは半数になるわけで、その同意が取り付けられなければ承認されない。本業(石油精製・石油化学)に直結した組織改編・新設であれば、それほど問題にならないようだったが、“模索(新規事業関連)”に関してE/Mはかなり神経質になっていた。本業以外への資産(カネ・人)投入を慮ってのことである。
E70年代かなり情報産業(電子タイプライター、半導体素子など)に投資をしてきていたが、結局モノにすることは出来なかったし、Mは製造業以外小売業(百貨店のモントゴメリーなど)の買収まで手を広げたが上手くいかなかった。結果80年代に入ると両社とも本業回帰を鮮明に打ち出す経営に切りかえ、事業のリストラクチャリングを大規模に行った経緯がある。従って東燃の“模索”の動きを慎重に吟味する姿勢を強めていたのである。
一方の東燃は、2回の石油危機を乗り越えた日本経済全体の勢いと経営体制の変換期にあり「これから新規事業への取り組みを本格化するのだ」との空気が漲り、中央研究所に隣接するダイセル化学の研究所を購入して80年にはこれを新規事業開発の拠点とし、大幅な組織改革や人員増強を目論んでいた。つまり当時の大株主とプロパー経営陣の間に新しい事業取組に関する考え方の違いがあり、柔軟な組織の改廃が出来ない背景があったのである。
TTECの中でTCSビジネスをスタートさせたとき、TTEC経営陣も我々担当者も本籍である情報システム室も分社化は全く考えていなかった。TCSの開発はExxonとの共同開発だったし、TTECはもともとExxonEREExxon Research & Engineering)技術を日本のユーザーに販売する会社だったので従来からのTTECの商売のやり方と齟齬をきたすこともなかった。
ただExxonと表裏一体とは言っても、TCSの潜在顧客は広義の装置産業(石油精製・石油化学のみならず、鉄鋼・非鉄金属・電力・ガス・化学・紙パルプ・ガラス・セメント・食品・薬品など)全体にわたるので、他の業種から引き合いがあった時(あるいは売り込みをかけるとき)一々Exxonの了解を取り付ける必要はないと考えていた。根幹をなすACSIBMに帰属するし、(石油関連)ユーザー知見は持ち出す必要はないからである。しかし王子製紙苫小牧工場向け売込み活動を進めている中で客先から“パルプ原液のブレンド最適化制御”の提供可否を問われたときに思いがけない回答が返ってきた。ERETTECの連絡担当者(米人)が来日した際、この件を問い質すと「業種が異なるから問題ないだろう」との返事を得たが、帰国してEREの主管部門と検討した結果「対象業種は違っても同じ制御手法を適用するので、他社への技術供与は一切まかりならない」との訂正回答。我々もまた上部組織との考え方の違いを思い知らされることになる。
東燃(TTECを含む)はExxonとの間でSRAStandard Research Agreement)と称する包括的技術提携契約を結んでいる。これはグループ会社間でEREの活動を支えその成果を共有することが目的でグループ外への販売を目的としていない。「外へ伸びるためにはSRAとの縁切りが必要か?」 こんなことを親しい同僚たちと話し始めることになる。


(次回;“新会社創設”つづく)

2014年5月13日火曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第Ⅰ部)

1;新会社創設-5

TTECTonen TEChnologyExxon石油プロセス技術の日本における販売会社)で始めたTCS(プラント運転制御システム)関連ビジネスは、当事者たちも新規事業の“模索”というよりは、従来の技術サービス販売業務の延長線と捉えており、ここから新会社を立ち上げようとの考えは当初無かった。むしろ追風がある時にどこまで外で戦えるのか試してみようと始めたものである。追風とは、きわめて挑戦的であったTCS開発とその実用化が1982年には和歌山工場で無事山を越え、その中核メンバー(56人)が当面浮いてきたことと日本IBMが強力にACSTCSの中核をなすプロセス制御用ソフトウェア)ビジネス展開を進めようとしていたことである。
最初にIBMから話があったビジネスは、住友化学千葉工場エチレンプラント向けACS売り込みである。IBMが売るのはACSとそれを動かすハ-ドウェア、IBM4300である。この4300IBMの旗艦ともいえる370アーキテクチャーを持つ中型機で、1970年代末に登場、370では大きすぎる適用分野に大いにうけてベストセラーとなったものである。Exxonでは早くからこの機種に注目しており、関係会社や工場用システムとしてこれを広く導入すべく、IBMとの間で世界規模の数量ディスカウント契約を結んでいた。東燃の最初のTCSも無論この恩恵を受け、通常価格より安く購入できている。IBMが目を付けたのはこれを東燃グループを通すことによって他社に適用できないかということである。Exxonの所轄部門に問い合わせると「契約数量がかなり高いところに設定されているので大いにやってくれ(目標に達しないとペナルティを払うことになるので)」との回答を得た。僅かな手数料であったが、ほとんど何もしないのに利益を上げることが出来た(しかも売上高は大きい)。「こんなところに商売のネタがあるのか!」
次いでIBMが持ってきたのは川崎製鉄(現JFE)千葉製鉄所の2基の高炉用プロセスコンピュータ更新プロジェクトである。ACSのことを海外の鉄鋼学界関係会議で知ったIWMさんと言う計測制御課長が関心を持ち、帰国してIBMに問い合わせてきたのが始まりだったように記憶する。IBMにも営業SEは居るが自社コンピュータの専門家、顧客のアプリケーションに踏み込むには限度がある。売り込みに際してIWM課長を始め川鉄関係者にACSの中身をきちんと説明するとともに、鉄鋼プロセスへの適否検討を細部にわたって求められ、さらに和歌山工場の見学もしたいとの要求。これらの活動が功を奏してASC採用が決まる。その報償対価として “アフィリエート・マーケティング”と名付けられた販売協力金を得ることができた。「営業技術的なビジネスも悪くないな~」
また、高炉操業データ処理の膨大なアプリケーション・プログラム開発の仕事もACSに精通したSEが東燃グループにしか存在しないことから、自ずとそのコアー部分を請け負うことになる。競争者のいないビジネスゆえ、人工単価(時間ベース)とはいえ通常のソフト開発と比べかなり恵まれた条件の下で受注できた。「この辺りの仕事を数量的に大きくするのがよさそうだ」
しかし、こちら(TTECのみならずIBMや顧客を含む)の目論見が思惑通りにいかないことも出てくる。それはプロセス制御技術の提供である。プラント運転制御用コンピュータ利用の最大の眼目はそれによって、省エネルギーや収率改善(このような経済性向上を“プロセス・クレジット”と言う)を図ることである。東燃におけるTCS導入の経済効果をある程度具体的に示しながら営業活動を進めていくと、次のステップとして「それではその技術も提供するのか?」と問われる。石油・石油化学の場合、これは完全にExxon(厳密にはエンジニアリングセンター;EREExxon Research & Engineering)の承認が必要になる。そしてその答えは「Exxonのプロセスライセンスを販売した時のみ、程度に応じて」と言うことになる。「程度に応じて」とはライセンスで開示し、公知になっている制御技術までと言うこと。他社のプロセスで作られたプラントへは事実上提供不可である。このプロセス制御開発サービスこそ、最大の差別化因子、高収益の基と考えていただけに悩ましい問題であった。「一番価値のあるユーザー知見をどこで生かすか」
このように1983年から84年にかけて、TCS技術サービスの実務を通じて少しずつこの業界と自分たちの力が見え始めてくる。

(次回;“新会社創設”つづく)


2014年5月10日土曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第Ⅰ部)

1;新会社創設-4SITさん追悼)

この話は会社創設の部のもう少し先に紹介するつもりだった。その主人公となるSITさんが57日急逝された。昨日開催された東燃本社OB会にも出席の返信があったほどだから誰にとっても突然の訃報だった。本日はその葬儀の日に当たる。そこで予定順序を変えて、今回はSITさん追悼編とする。
SITさんは昭和35年(1960年)の入社、私の2年先輩になる。事務系で企画畑が長かったから、入社以来工場勤務20年の私とは長いこと言葉すら交わす機会はなかった。加えてチョッと普通の社員とは違うスノビッシュ(高踏)な感じがして、先輩だとは知りつつ挨拶すらしなかった。その彼と一気に親しくなるのは1979年秋に行われた管理職研修(通称松平研修)で一緒のクラスになってからである。
この研修は中堅課長10人弱が、浜名湖の北、三ケ日に在った研修所に集められ1週間コース2回にわたって行われるもので、一回目と二回目の間隔は23か月ある(一回目の行動計画結果フォローアップのため)。研修の概要は個々人の管理職としての資質分析とそれに基づくその後の行動改善計画を具体化・検証するもので、特に心理面からの資質分析に特色がある。この指導に当たる松平先生は桑名藩主の末裔、東大で心理学を学んだあと、海軍で航空機搭乗員の選抜をその面から担当し、この経験を基に企業研修ビジネスを行っていた。分析の素データは部下・同僚・上司(それぞれ3人)と本人に事前に配られた多岐にわたる詳細なアンケート結果(これはしばらく先生の手の内)。テーマを与えられ作文を書いたり絵を描かされたりする。それを材料に社会人(管理者ばかりではなく家庭人としても)としての問題点を浮き上がらせていくのである。そこでは当然SITさんのスノブな雰囲気が問題にされ、それがどこからきているのか生い立ちまで明らかになっていく(因みに私の問題点;マイペースで我が儘;本人納得)。参加者全員が裸にされるので、その後には何か“戦友意識”の様なものが形成され、本音の話が一気にし易くなる。
さて、1984年後半から本格化し始めた新会社創設である。新会社構想検討の正式手続きは、設立計画案を主管部門(情報システム室)が作り、課長会(全員ではなく部を代表する課長で構成)→部長会→経営会議と上げていくのだが、経営会議の議題になるまでには途中で何度もダメがでる。1985年に入ってからのことであるが、論点の一つとして“情報サービス産業の将来性”に関することが問題になったことがある。ユーザーとして深い関係があるIBMや富士通から得た情報、通産省(現経産省)や郵政省(現総務省)の息がかかった団体がまとめた業界予測などを揃えて“情報化時代を迎えて、如何にSE不足が深刻になっていくか”を、課長会で説明したことがある。説明役は私、SITさんは企画部代表の課長だった。課長会は「そんなもんか」と言うことで無事済んだが、会が終わるとSITさんが寄ってきて「俺はあんな数字信じないぞ」と言う。実は当時の情報サービス産業の実態、特に売上高利益率やSEの対価から、この数字があまりにも楽観的であると薄々は感じていた。
企画部の仕事は海外・国内調査と対官庁折衝(特に通産省)、外の数字に強いし役所に人脈もある。「もしやその線から、公開されている情報とは異なる話でも聞いているのだろうか?」そんな気もあって「何を根拠に、あれだけ出所のはっきりしているデータを認めないんですか?」と反問した。
返ってきた答えは予想もしないことだった。「昔本か何かで読んだことがあるんだが、アメリカで電話が普及し始めたころ、『もし各家庭に電話機が入ったら、電話交換手の数がとても足りない』と思われていたが、実際は自動交換機がその問題を解決した、とあった。SEも同じじゃないか?」「ウーン(参った!)」 しかし、紳士である彼はこれを課長会で蒸し返すことは無かった。
その後のプログラム開発用簡易言語や業務用パッケージの出現・普及、さらにはここ数年急速に拡大しつつあるクラウド・コンピューティング(自社内にコンピュータや業務アプリケーションソフトを持たない)環境を見れば、SITさんの予言は(当時とは別種のSEを必要とするが)、ズバッと本質を突いたものであった。

追記-1;祖父の代から3代続く大企業のサラリーマン(役員)家庭、都心の山の手住宅地に居住。昨日の通夜の裏方は母校学習院大学馬術部(今上天皇陛下も在籍された)。真の育ちの良さを“スノブ”と感じたのはこちらの育ち方の問題であった。

追記-2SPIN設立後56年経ったころ、当時日本ユニカー(ユニオンカーバイドと東燃化学の合弁会社)役員を務めていたSAIさんの紹介でユニオンの米国本社情報システム部(ニュージャージー州)訪問の機会を作ってもらい、そこでテキサスにある工場を含めて電話会議をしたことも印象的な出来事だった(本社にはプラント制御システム担当部門がないため)。こういう話を日本の顧客に話すだけでも営業活動の一助になった。

SITさん、大変お世話になりました。ありがとうございました。どうか安らかにおやすみください”

(次回;“新会社創設”つづく)」