<今月読んだ本>
1) ナチス戦争犯罪人を追え(ガイ・ウォルターズ);白水社
2) 半島の密使(上、下)(アダム・ジョンソン);新潮社(文庫)
3) そうだ、トマトを植えてみよう!(大塚洋一郎);ぎょうせい
4) シグナル&ノイズ(ネイト・シルバー);日経BP社
5) 警視庁科学捜査最前線(今井良);新潮社(新書)
6) “サンキュ~♡ハザード”は世界の愛言葉!?(ピーター・ライオン);(JAF出版)
<愚評昧説>
1)ナチス戦争犯罪人を追え
ナチスによるユダヤ人絶滅を主題とするフィクション、ノンフィクションは随分読んできたし、本欄でも何冊か紹介している。日独の戦争犯罪の根本的違いがここにあると思うからだ。本書の翻訳出版は2012年(購入も同年)、戦後70年近くも経て「いまさら」と思うのだが、「何か新しい発見があるのではないか?」とつい買ってしまう。登場する“狩られる人間”は、マルチン・ボルマン(官房長官)、アイヒマン(絶滅指揮官)、メンゲレ(生体解剖を行ったアウシュヴィッツ収容所の医師)、カルテンブルンナー(国家保安本部長官)など、毎度おなじみのメンバー十数人である。導入部で新たな発見は期待できない感じがしたが、高い本(3800円)でもあるので少し我慢して読み進んでいくうち「これは今までのモノとは違う!」と惹きこまれていった。何が違うか?
それは狩りの“プロセス検証”に力点を置いたところにある。一言でいえば「ドラマティックに書かれた既存の書物が、如何にいい加減なものであるか」を実証するものであり、何故そのような内容になったかを追及するところに本書の核があるのだ。そこにはカネや名誉をわがものとしたい私欲を、正義を求めて戦う騎士のように糊塗する卑しい心根が隠されているのだ。個々の犯罪者を章立てで追いながら、各章に通奏低音のように現れるジーモン・ヴィーゼンタール(解放ユダヤ人)はノーベル平和賞にも何度かノミネートされるほどの有名人だが、その種の代表的人物であったことを細部にわたって明らかにしている。
また、小説の場合事実と異なることに一見問題ないように思えるが、著者が得た材料を真実と思って書き進めれば思わぬところに影響が出てくる。フレデリック・フォ-サイスの「オデッサ・ファイル」がその例である。ナチス親衛隊の犯罪組織に属したメンバーの名簿“オデッサ・ファイル”を巡るサスペンスで、本書によるとヴィーゼンタールに取材した後これが書かれるのだが、フォーサイスはそのファイルが実在する(実際は存在しない)と信じて書き上げ、これがベストセラーとなったため、犯罪者追跡組織が振り回されてしまう。
このような個人的な動機に基づく杜撰な追跡実態とは別に、国家やそれに準ずる組織(連合軍、教会)による戦争犯罪人摘発あるいは逃亡支援にも実はかなり複雑な背景があることを、時代の流れを踏まえながら教えてくれる。例えば、終戦直後このような戦争犯罪人摘発をできる組織は軍しかなかったが、軍も軍人もそれを本来の仕事と捉えなかったこと、冷戦が進むとむしろ犯罪嫌疑者(東欧やロシアの事情に詳しい)を積極的に保護し、反共活動に利用しようとしたこと、西ドイツ政府もそれに同調したこと(積極的に犯罪者狩り出しを行わなかった)などが語られる。また、ナチスドイツが快進撃を続けた時代、好意的中立を採っていたスペインや南米諸国あるいはカソリック教会の一部が、後に陰に陽に犯罪者の逃亡を支援していたことなども、かなり具体的に(個人名やルートまで)調べ上げ、摘発が容易でなかったことを明らかにする。
欧州の近現代史には、このような多様な角度からの歴史検証が行われている。特に英国人が最も熱心なようだ(日本に紹介されるのが英語以外では難しい面もあるようだが)。“歴史認識”はこのような環境とプロセスによって納得できるものになっていくのだろう。著者も1971年生れの英国人。ロンドン大学で歴史を学んだ後他大学院に籍を置きながら作家としてドイツ(軍)をテーマにした作品を発表している。英国は一時期一国でナチスドイツと戦い、最後に勝利した国である。その歴史家が敵国の戦争犯罪を極めて中庸な視点で書いている(大量虐殺されたのが英国人ではなかったとはいえ)。日本の戦争犯罪をこのような目で客観的に描く、外国人研究者・作家が現れてほしいものである(日本人による研究を英語で発信することが先かもしれないが)。
この本の問題点は翻訳にある。一言でいうと「間違いは無いようだが、日本文として拙い!」
例;“それがバルビーの認めたであろうような行動だったのは疑いない。 ” 訳者のみならず編集者の力量を疑わざるを得ない。
このような訳が随所に見られる一方、訳者あとがきで“感動的でスリリングなノンフィクションである”などと結んでいる(翻訳後の文章を自分で読んでみたのだろうか?)。「ほざくな!」と思わず独り言を発した。
2)半島の密使
訳本の出版は昨年6月だから当時から気にはなっていた。しかし、欧米人が書くアジア物はエキゾチズムを強調する荒唐無稽なものが多いので(例えばジェームス・ボンド)避けていたのだが、フッと帯の“ピュリッツァー賞受賞作品(2013年度小説部門)”に目がいき買ってしまった。当然日本語タイトルから想像して、スパイ物と信じてである。
金王朝(主たる時代は金正日)がつづく北朝鮮の孤児院で育った少年(英文タイトル;The
Orphan Master's Son;孤児院長の息子)がトンネル兵士として訓練を受け、日本人拉致の実行者として実績を上げ、さらに無線傍受の専門家(高い英語能力が必要)となる辺りまでは、如何にも「彼の国の練達のスパイは、このようなキャリアパスを辿るのか」と思わせる展開で大いに先が楽しみになっていく。ところが全体の1/4位のところから、話は社会小説(北朝鮮と言う閉鎖された全体主義国家)、恋愛小説それもSFもどきのものに変じていく。突然時間と空間が飛んで、 “孤児院長の息子”が鉱山採掘の全権を握る権力者(カ将軍)になり変わり、金正日も一時惹かれたことのあるカの妻と一緒に暮らすことになっていく。この間北朝鮮の市民生活や階層社会の実態(らしきもの)をリアルに描きながら、飛んだ時空を埋める話が、現在と過去を交錯しながら進められていくのである。このプロセスでさらにストーリーを複雑にするのは、後半に入ると“私(尋問官)”が登場して、この時空補完の語り部のような役割を果たしていく。
仕事・職業の選択(指定、制約)、団地での日常生活、情報操作、闇市や食糧事情、家族を含む監視・密告システム、信賞必罰の処遇、鉱山労働収容所の環境、取り調べや拷問の方法、特権階級の暮らしぶり、移動の不自由、平壌と地方の違い、結婚事情、力道山がモデルと思われる挿話、それに拉致の対象と方法など異常な国家の細部をストーリーにふんだんに盛り込み、初めは他人行儀だったなり変わりカ将軍と妻(と子供たち)が愛ゆえに離別するところで物語は終わる。
どうやらピュリッツァー賞はこの特異な小説形式と北朝鮮という外国人に窺い知ることのできない謎の国家をある程度明らかにしたところに与えられたのではないかと推察する。
著者はスタンフォード大学英文学准教授、この作品のために朝鮮系(南北不明)研究者や脱北者の協力を得ている他、自ら北朝鮮を旅行した体験(2007年)も生かされているようだが、「北朝鮮の本当の闇はあまりに残酷すぎて、小説には取り入れなかった。本物の闇は、とても読めたようなものじゃない」と述べたと解説にある。私にとってこの本から得たものは前述の北朝鮮社会の細部情報で、それだけでも「まさか!」「酷いなー」との思いで読み進んだ。そこで「本物はとても読めたものじゃない」と言われると、「一体全体北朝鮮で生きていくと言うことは何なんだ?!」と考え込んでしまう。
監訳に蓮見薫とある。拉致被害者で帰国が叶った蓮見さんである。何と訳者とは高校以来の親友とのこと、監訳者の役割は無論北朝鮮事情である。解説には小説と事実の違いも(明らかなものは)明記されており、その点でも“北朝鮮を理解する書”として価値あるものである。しかし“スパイ物”の面白さは全くなかった。
3)そうだ、トマトを植えてみよう!
長距離ドライブで走り廻っていて地方活性化の必要性を痛感する。鉄道、道路、各種公共施設を作り、農業興産策や観光振興策を進めても若者は都会を目指し、今や過疎地は村落のみならず市でさえ消滅の危機にある。これを解消しよとするボランティア活動の事例は枚挙にいとまないが、寡聞にして長期的かつ広範にわたる成功例を目にしない。他方、短い期間暮らした英国の地方都市で、英国人が田舎で暮らす生活に憧れる姿を見聞し、学び生かせることがないものかと思案するものの「日本人の風土と精神構造(閉鎖的な村社会で生きてきた長い歴史と都会におけるそこからの開放感のギャップ)に問題があるのではないか」と諦めの境地にすらなる。そんな時友人から贈られたのが本書である。
著者は北海道大学で原子力工学を学んだキャリア官僚(技官)。科学技術庁(現文科省)に奉職し若いころは原子力行政に関わり、その後宇宙開発や海洋開発も担当、海外駐在も経験し、最終的には経済産業省大臣官房審議官(No.2 の省審議官ではなく、課長と局長の中間ポスト;地域経済担当)で停年を待たず、2009年に退官した人である。行政官としての最後の仕事は、農商工連携と六次産業(一次は生産、二次は加工、三次は流通・販売;1+2+3=6)化ファンドの法案作りと推進策の具体化であったことから、それを率先垂範すべくNPO(農商工連携サポートセンター)を立ち上げ、孤軍奮闘する姿を描いたのが本書の内容である。
通常法律を作ると、それを具体化推進する組織を、国家予算と業界負担金で外郭団体を設立し、そこに官僚を天下りさせるのが常套手段なのだが、時間を惜しみ(下種の勘繰りだが、あまり仲の良くない農林水産省と経済産業省の境界領域であることも影響しているかもしれない)退職金を投じて個人NPOを発足させてしまう。当初の仕事(収入源)は関連法の解説講演や著作、ファンド利用のコンサルタントなどだが、これだけではたかが知れている。やがてファンドを利用した個々のプロジェクトに深く関わっていく。タイトルの“トマト”はその成功例のひとつ。3・11大震災で塩害にあった農地にトマトを植え甘味の優れた製品を収穫する。小さな一つの成功が次につながり、イチゴ、キャベツ(茎まで美味しい)、白菜、コーヒー(沖縄)、タンカン(柑橘類、奄美大島)、牛乳、カツオ・マグロ加工などのプロジェクトが次々に立ち上がっていく。これらの生産だけなら農林水産省の管轄で閉じてしまいそうだが、それらの加工・流通、さらには都会の一流レストランや市場との提携など工・商との連携が結実していく。ここら辺りは“さすが(出来る)官僚出身者!”を強く印象付けられる。
今ではスタッフを抱えるほどの規模になっているようだが、オフィスは千代田区が零細ベンチャー企業に廉価で提供するスタート時の場所を継続利用して、千代田区と地方を結ぶパイプ役をも担い、地方・都会連携にも貢献している。
つまるところ、地方の活性化は持続する情熱と地道な努力の積み重ねが基本であり、メディアや政治家が好む、話題先行の打ち上げ花火であってはならないことを本書で教えられた。私家本に近いものだが、農業を核にした地方活性化に関心がある方にはお勧めである。
なお、私の友人もITコンサルタントとして同じ建物内にオフィスを構え、日ごろ著者と親しくしており、それで本書が私の手に渡ったことを付記しておく。
4)シグナル&ノイズ
ここのところ(と言ってももう10年近くになるが)“ビッグデータ”の話題が絶えない。数理がこんなに社会的に注目される時代は無かったから、目が離せない。本欄でも関係図書の紹介を続けてきている。先月は“マネーボール”、今月は本書である。汗牛充棟・玉石混交の中で、米国でもベストセラーになった注目すべき一冊であるばかりか、著者が開発した、野球選手評価システム“PECOTA”はマネーボールにも登場したので、今月本書を取り上げてみた。
シグナル(信号)とノイズ(雑音)は古くから通信工学で使われてきた用語である。TV画面のちらつきや影(ゴースト)、ラジオ・電話の雑音はアナログ時代には周辺に日常的に存在し、これを如何に除去するかは工学的に大きなテーマだった。ディジタル技術が通信や放送の基盤に変わってから耳や目に触れるノイズは著しく減じ、通常存在しないかのように見えるが、実は姿を変えているにすぎない。例えば、ウィルスやハッキング、なりすましなどの人為的なものや、測定器の計測誤差など、一見気づき難いノイズが満ち溢れているのだ。また、利用者が意図的あるいは無意識(例えば、メディアで話題になるとそれを反映して数字が変化する;ここで取り上げられているのは自閉症の発症数)にデータ収集・処理の際取り込んでしまう“バイアス(思い込み、偏見)”もノイズの一種と言える。
ビッグデータ利用の拡大につれ、それがモノの考え方や意思決定方法を根本的に変えるとの声が高まっている(ITジャーナリスト、ITサービス会社、ビッグデータ利用のコンサルタントなどに比較的多い)。その変革のポイントは;1)例外なく“すべて”のデータを扱う、2)量さえあれば精度は問題でない、3)因果関係でなく相関関係が重要になる、と要約される(本欄-62(2013年10月)“ビッグデータの正体”)。このようなビッグデータ利用に関する考え方は正しいのだろうか?本書はこんな風潮に対する、専門家(統計分析実務家)としての考察を、多くの具体例を挙げながら掘り下げ、安易なビッグデータ利用に警鐘を鳴らすものである。
事例は、金融商品の格付け、経済予測、選挙、スポーツ(野球、バスケット・ボール)、ゲーム・ギャンブル(チェス、ポーカー)、気象予測・天気予報、地震予知、伝染病、地球環境からテロにまで及ぶ広範なもので、そのメカニズム・理論、そこで使われるデータ・情報、予測を狂わせる因子(事前に予知できる関連情報を含む)、人間の行動・心理などの面から詳しく解説し、適用上の問題点(予測失敗)はどこにあったか、どこまでビッグデータの利用が可能か、その際どのような点に留意する必要があるかを分からせてくれる。
例えばサブプライム・ローン関連商品の格付けについては、データ以前に本来の商品価値を桁違いに上回るレバレッジの影響が完全に見落とされていた(これもある種のノイズ)こと、前例のない商品であったにも拘らず、(相関度の低い)既存金融商品の格付け手法を安易に流用したことなどを、未曾有の金融危機につながる要因としている。また、日本人に身近な話題として東日本大震災と福島原発事故を取り上げ、気象予測に対して地震予知理論の発展が遅々として進んでいないことを述べるとともに、それでも百年単位では想定外の震度が予測でき、原発建設に対してそれが配慮されなかった点を問題視する論調になっている。
これらの例に見るように、同次元のデータの中のノイズだけを問題にするのではなく、理論的な詰め、関連情報とのクロスチェック、データの精度や信頼性を含めたビッグデータ利用に注意を喚起し、一点予測ではなく確率(天気予報の降水確率のような)を考慮した予測値を使うよう提言している(このためポーカーを例にとった“ベイズ確率論(注)の説明にかなりの紙数が割かれる)。つまり、巷間言われているビッグデータ活用のポイント、1)~3)を正面から否定し、人間の知識・経験とIT利用のバランスを重視しているところに本書の特色があり、それが楽観的なビッグデータ活用ブームの中で、話題を呼んだのであろう。
著者を野球以上に有名にしたのが選挙の予想である、2008年大統領選挙では50州中49州で、2012年には全州で勝者を当てている。それもあり彼が主宰するブログ“Five Thirty
Eight(538;これは上院議員と下院議員の総数)”は大人気で、ニューヨークタイムズに利用権を貸与、最近はそれがスポーツ番組に強いESPNの手に渡っている。また、ネット上で戦うオンライン・ポーカーもプロ級で一時期そこを収入源にしていたこともあるようだ。シカゴ大学経済学部、ロンドン・スクール・オブ・エコノミックスで学びコンサルタント会社に入るが、仕事に馴染めず専ら趣味と実益の統計分析に時間を費やしてきた人生が色濃く内容に反映されているところも読みどころである。IT利用の最前線を知る(特に企業経営へのビッグデータ利用)ためには良書だが500頁を超す大冊ゆえ内容をきちんと理解し、最後まで読むにはそれなりの気構えが必要となる(ポーカーに例を採ったベイズ確率論解説の章は、ゲームや賭け事に全く関心のない私にとっては興味をそぎ、大事なところではあるが飛ばし読みした)。
(注)ベイズ確率論;純然たる数値処理だけでは扱えない不確実性のある事象に“主観を含めて”算出する確率。主観と言っても取扱者の独断的な意思ではなく、賭け金や株価のように、場の参加者の意思があるところでバランスする数値。一般に工学・医学・農学など自然科学系の統計処理は実験によるランダムサンプリングでノイズ除去できるが、社会科学系(経済予測や選挙予測など;当然企業経営の予測はこの範疇)や人文科学系(心理学など)では影響因子すべてを網羅できないので、このような手法が有効と言われている。
シルバーは確信犯的ベイズ確率論主義者(ベイジアン)であり、経済予測が当たらないことを取り上げ、いっそのこと全員の数値を平均化する(場の参加者のバランス点)方がましだと本書の中で述べている。
フィッシャーが確立した近代統計理論はランダム化を基本としており“頻度主義”と呼ばれ統計学の主流理論、これに批判的な本書は、それ故に話題性があるともいえる。
なお、フィッシャーもベイズも英国人。フィッシャーが遥かに後輩である。蛇足だが、コイントスによる表裏の確率は頻度主義もベイズ主義も同じである。
5)警視庁科学捜査最前線
3)“トマト”のところでも触れたように2007年半年ほど英国の小都市(ランカスター市)で暮らした。町の中心部に市場や商店街がありよく出かけたが、監視カメラが至るところにあるのに違和感を持った。まるでこの国の作家、ジョージ・オーウェルの小説“1984年”に登場する“ビッグブラザー”がそこに居るような気分を味わったものである。しかし、これが犯罪防止や捜査に寄与する割合は高いようで、英国で一層の普及が進んでいるのは無論、日本でも最近はあちこちで見かけるようになった。靴をすり減らして刑事が聞き込み調査をする捜査はいまだ健在だが、科学の力がそれを支援するケースが着実に伸びてきている。本書はその実態を広範に、分かり易く紹介する“警察科学入門”書である。
金融機関、駅、コンビニエンスストア、エレヴェータ内などに設けられた防犯カメラ、その画像解析技術、自動車のナンバーを記録するNシステム、最新指紋照合システム、DNA鑑定、PCウィルス追跡、電話逆探知、警官用特殊携帯電話、モンタージュ写真と似顔絵、微量残留物の化学分析、そしてビッグデータの利用など科学捜査の最新技術を分かり易く解説するとともに、それらが活躍した(あるいは失敗した)事件を具体的に追い、どんな組織・人がどのような技術・手法を使い、どのような形で犯人逮捕・犯罪解明に結びついていったかを、臨場感をもって伝えてくれる。そこには犯罪小説・サスペンス小説とつながる面白味さえ感じることが出来る。
本書に登場する組織は警視庁刑事部の“捜査支援分析センター”、科学捜査研究所、鑑識課、ハイテック犯罪対策総合センター、と警視庁管内が中心だが、全国レベルでも類似組織が適宜存在し、それらの間に連絡網が張られていて、迅速な捜査が可能になってきていることが窺え、国レベルの警察の科学力が想像以上に高いことを教えてくれる。反面、サイバー犯罪は技術進歩に併せて手口が高度化し捜査が難しくなって、これで万全と言うレベルにはないこと、またベテラン捜査員(職人)の大量退官の時期を迎え、科学と人の組み合わせに問題が生ずる恐れが出てきていることなどを述べ、更なる新技術・手法の出現と人材育成に期待をかける。
技術者の視点で読むと「ちょっと軽いな~」と感じるが、警察組織や階級、キャリアパス、職務権限を理解しながら、科学が如何に捜査に役立てられるかを総合的にとらえられる点は大いに評価できる。
著者はNHK記者を経て民放TV局に転じ、警視庁記者キャップも務めた、警察ジャーナリズムの専門家。
6)“サンキュ~♡ハザード”は世界の愛言葉!?
自動車文化比較に関する本である。タイトルは、我々が車線変更の際しばしば行う、譲ってくれた後続車に送る、ハザードランプの点滅挨拶のことである。実際私もやるし、これを送られると悪い気はしない。しかし、これは日本だけの特殊な使い方なのだ。最後の!?マークはそれを意味する。一体これは何の合図だ?どんな異常(ハザード)が起きているのか?そうか!“ありがとう”なんだ!!外国人が初めてあの合図を見たときの驚きである。
著者は53歳のオーストラリア人、大学時代日本語を専攻し交換留学生(慶大)から始まり通算滞日26年で日本語ペラペラのモータージャーナリスト。この分野で欧米(豪を含む)と日本をつなぐ存在として業界では有名な人物である。私も何度も自動車雑誌で名前や記事を目にしているが、その内容は専らクルマの技術評価に重点が置かれ、特に他のジャーナリストとの差異を感じていなかった(強いて言えば、比較的日本車に好意的な外国人との印象はあるが)。JAFの月間広報誌に本書が紹介されているのをみて「なんだこのタイトルは!?」と思い購入した。
内容は自動車に関するもろもろの日本・欧米比較である。“ハザードランプ”をもう少し続けてみよう。先ず欧米ではハザードランプは滅多に使わない(“犯罪”でも起こらない限り)。高速道路の路肩に止めるときでも、よくてウィンカーの点灯、何も合図を送らないことが多い。一方、欧米では車線変更の際、ウィンカーで意思表示すれば大体譲ってくれる。それよりも車間距離を日本に比べたっぷりとっているので変更しやすい。日本人の走り方は車間が狭く、まるで煽っているように思える。ウィンカーで意思表示してもなかなか空けてくれない。「なるほど」 サンキュ~♡ハザードはその内先端技術を使って(^◇^)マークに変わるのかな?
例えば、クルマのコマーシャル、日本のものはクルマに限らず子供や若者が大声で叫んでいるものが多い。クルマは大人が買い・乗るのだからもっと大人向けを意識するべきだ。トヨタ・ポルテのTVコマーシャルを見たスウェーデン人が「何故カモメ頭が飛んでいるのだ?」と著者に聞く。どうもハトらしいがそれにしても確かに意味不明である。それに比べマツダのコマーシャル“Be a Driver”は運転の楽しみがストレートに誰にも(外国人にも)伝わる。日本ではマイナーなマツダが欧州で存在感があるのは、この辺りのセンスの違いからきているような気がすると。「わかるわかる」 しかし欧米のコマーシャルには“大人”を意識するあまり、かなりきわどいものもあるようだ。
話が時々脱線するのも楽しい。日本車の英語名がどうもしっくりこない。一時著者が乗っていたダイハツ・ネイキッド;ダイハツは“簡素なクルマ”の意で命名したようだがネイティヴの人たちはNakedと聞くと先ず“裸”を連想する。「“裸”に乗っています」は恥ずかしくって言えないよね!からポカリスウェット(ポカリさんの汗)に飛んで「汗を飲むわけには行かないでしょう」となったり、タクシーの自動ドアーに驚いた話が、自動洗浄トイレ礼賛の話に転じていったりする。
この他にも、救急車の運転が慎重過ぎること(死んじゃうじゃないか!)、チャイルドシートの利用が甘いこと(子供を甘やかすな!)などなど、軽い話題のわりに納得感のある比較文化論を楽しんだ。
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