2014年8月31日日曜日

今月の本棚-72(2014年8月分)


<今月読んだ本>
1) 絶望の裁判所(瀬木比呂志);講談社(現代新書)
2) 韓国人による恥韓論(シンシアリー);扶桑社(新書)
3) マッカーサー大戦回顧録(ダグラス・マッカーサー);中央公論新社(文庫)
4) 日本海軍400時間の証言(NHKスペシャル取材班);新潮社(文庫)
5) 編集者の仕事(柴田光滋);新潮社(新書)
6) 世界の鉄道紀行(小牟田哲彦);講談社(現代新書)

<愚評昧説>
1)絶望の裁判所
個人的に裁判所と関わったことは、認知症の母の後見人になった時だった。横浜家庭裁判所へ出かけたが、単なる法的手続のためであり、“裁判”の片鱗もなかった。友人・知人の法律家は全て弁護士。裁判官、検察官は皆無である。最近裁判員制度が発足したが、もう該当年齢を超えているから間違ってもそんな役割が巡ってくることもない。従って裁判官・裁判所の世界は映画やTVで垣間見たくらい、特に興味もないので、生涯知ることも関わることもなく終わると思っていた(クルマの運転で何か起こるかな?)。しかし本書を書店で見たとき“絶望”にひきつけられ、フッと手にしてパラパラっと目を通した。著者は立派な経歴を持つ裁判官だった(現在は法科大学院教授)。こんな人が何故“絶望”し内部告発書を書くに至ったのだろう。これが購読の動機である。
内容はほとんど本人の体験に基づく、現在の我が国司法制度・行政、特に裁判所・裁判官の在り方に関する批判であるが、あとがきに「司法と言う狭い世界を超えた日本社会全体の問題の批判的分析をも意図した」とあるように、私が関心を持つ“日本組織における意思決定(判決は決断そのものである)”と深く関わるところが多々あり、(数理は全く出てこないが)得るところ大であった。
著者は東大法学部4年生の時司法試験に合格する。同窓同期は10数人、研修を経て裁判官になったのはその内45人。出だしから帯にもあるように“エリート”をうかがわせる。そのエリートを確実にするのは、地方裁判所(著者は東京)での実務研修後の配属先である。米国留学を終えた後の職場は最高裁判所事務総局、軍隊でいえば参謀本部と言った所のようだ。この“総局”勤務(著者は民事局)こそが裁判官のその後のキャリアに大きく影響するのだ。最高裁判事は、裁判官、弁護士、検察官、学識経験者、行政官から選ばれるが、裁判官の場合ほとんどがここを通過している。そして、ここでの体験が“絶望”の発症地となる。
裁判官は本来独立して事に当たれる。これが魅力で裁判官の道を選んだ著者は、ガチガチの官僚機構の中で次第に違和感をもっていく。例えば、時の政府が決めた政策に行政訴訟が起こる。これを違法とする裁判官とその同調者が密かにリストアップされていたり(当然その後の人事に反映される)、判決結果が重要人物(例えば外国の大使)に事前リークされたりする事例を見聞する。独立・公正・清廉とはまるでかけ離れた世界がそこにあったのだ。
一旦地裁・高裁に出た後、再び最高裁勤務に戻り今度は調査官(これもエリートコース)。最高裁判事が取り扱う事件審議のための資料作り(判決案の大要を書く)が仕事で、ヒエラルキーが厳然とある中での歯車の役割(創意工夫は許されない)に悶々とし、ついに体調を崩してしまう。この辺りで著者も自分の将来を真剣に見つめ直し、研究者への転身を考え始める。一方役所もエリート扱いから彼を外していったようだ。
ここまで書くと、ひ弱で世渡りの下手なエリートの挫折と泣き言と捉えかねないが、このような最高裁判所による裁判行政が下級審にどのような影響を及ぼしてきているかを具体的に知らされると「確かに問題だなー」の感を深くする。
例えば、民事訴訟において和解に持ち込むことが急増していること。これは裁判官が自らの考えで独自の断を下すことを避けるようになってきているからで、専ら処理件数に着目する評価体系と独自思考・判断を良しとしない“空気”がそれをもたらしている(事件“処理”役人)。また、判決を下す場合も上級審の判断結果におもねる傾向が強まってきていると言う(刑事事件の場合は検察フォロー)。その結果、かつては独立自由な雰囲気に憧れ、優秀な希望者が多かった裁判官志願者が減る方向にあるらしい。忌々しきことである。
縦割りの司法界(検察官・弁護士・裁判官)、裁判官によるある種のブラックメールや談合、刑事系と民事系の勢力争い(裁判員制度は刑事系の巻き返し)、刑事系判事と検察の癒着、人事(退職を含む)による苛めなど本来公明正大、清廉潔白の世界が一般の社会(企業・行政)組織以上にドロドロしている様子を固有名詞入りでバンバン書き連ねていくことに驚かされる。
著者は、青法協のような思想的信条があるわけではなく、純粋に司法の在り方を考えており、改革の可能性をいくつか提案している。“総局”解体、法曹一元制度(縦割りを無くす。多様なキャリアパス)、憲法裁判所の別置(憲法裁判は特殊。憲法裁判が少なすぎる)などがそれらだが、孤軍奮闘、前途遼遠の感は否めない。ボブ・デュラン(このような人物を持ち出すところに組織人としてはみ出していった背景が見え隠れする)の「もし、自分が存在している意味があるとすれば、みんなに不可能が可能になるって教えてやることだ」をあとがきに援用し、自分と読者を鼓舞している。しかし、具体的に何をすれば良いのかは掴めなかった(最高裁判事の信任投票など無意味)。この点で、一国民としては、問題点は分かったが“絶望”を確認しただけである。

蛇足;著者が大改革に向けて何をしているか。本書の執筆や法科大学院での活動がその一部であることは確かだ。他にないか?こんな視点からこの人を調べていったところ、ユーチューブに、外国特派員協会における1時間(質疑を含め2回に分けて収録)にわたる講演の動画があった。基本的にはこの本を資料として使っており(本書を読む;逐次通訳)、本書の内容をほぼ正確に知ることが出来る。

2)韓国人による恥韓論
数年前から悪韓論、嫌韓論、反韓論などのタイトルを付けた本が数多く発売されているし、よく売れているようだ。確かに近年の韓国の反日姿勢は異常だし、ガツンと一言言ってやりたい気持ちは多くの日本人と変わらない。一方で、米国に次いで訪問回数の多い外国であり、20年を超す友人もいる。彼らを思い浮かべれば、そこには政治家の発言やメディア報道とは異なる韓国がある。それもあり、この種の本を読むことは避けてきた。これで事態が変わるものでもなく、内容に共感し溜飲を下げるのは、何か自慰行為のように思えるからだ。従って、本書も自ら購入したものではなく、水泳仲間の一人が求め、回覧していたものが最後に私に廻ってきたことによる。最初はそれも固辞したのだが、「捨ててくれてもいい」と言われ引き取った。手許にあればつい読んでしまう。活字中毒者の性である。
手に取って先ず気になったのが表紙の著者名である。シンシアリーの下に小さくSincereLeeとある。Sincerelyをもじったような名前を見て、「仮名だな。もしかすると日本人が書いたものではないか?」との疑念がわいた。「それなら読まずに捨てよう」そんな了見を見透かしたように、自己紹介から話が始まる。名前は仮名であること(犯人探しが行われているらしい)、日本統治下で小学生だった母親に幼児の時から日本語の手ほどきを受けてきたこと、1970年代生れであること、ソウルで歯科医をしていること、現在の韓国における“反日教”は決して自国にとって良いことではないと確信していること、そして日本語で「シンシアリーのブログ」を書いて自分の考えを発信していること(これに対する日本からの反応があり、それによって“反日教”の呪縛からやがて解かれることを期待)、本書出版はそれに気付いた出版社に持ちかけられたことが記されていた。そこで本文を読む前にそのブログをチェックしてみた結果、「これは日本人ではない」との確証を得た。日本語表現に微妙におかしなところがあるのだ。この微妙な誤用を生粋の日本人が作り出すのはむしろ難しい。これが著者を韓国人と認める理由である。
内容は、基本的には韓国社会が抱える今日的問題、特に反日に関するものが中心だが、ブログ記事と言う性格から、現代の政治・経済・社会、宗教(儒教、カソリック、プロテスタントそれぞれの反日)、教育、韓国史、中国との関係、併合時代の日韓関係、安全保障などから従軍慰安婦問題では朝鮮戦争時代の米軍慰安婦や自国内の売春などにもおよび、テーマが多様でやや全体的なまとまりを欠く。しかし、さすがに韓国人の書いたもの、「そうだったのか!」「本当か?」と思わず発するような事柄が随所に現れ、大変勉強になった。
例えば、“万歳(マンセー)”と言う言葉である。元々は歴代中華王朝の永続を願う言葉であるので、朝貢国にはそれは許されず、“千歳(チョンセー)”としか叫べなかったのだが、日清戦争で日本が勝利した後大韓帝国が清の束縛を脱して使えるようになったとのこと。面白い話であると同時に、長きにわたった従属国家の悲哀を感じさせ、序列を極端に尊び、天皇を認めず“日王”と表現する今の韓国の深層心理を知った。
私がこの本で最も括目されたのは、独立後の政権が主張し続けている(学校で教えられている)近現代韓国史である。これに拠れば、大韓帝国→臨時政府→大韓民国で、日韓併合時日本の為政下にはなっていないことになっている。国外に臨時政府(李承晩等が上海で設立したが国際的に承認されていない)が存在し、日本はその土地を占領していたに過ぎないとしているのだ。これは満州に対する中国(中華民国、中華人民共和国)の考え方と軌を一にするものであるが、どう考えても無理があり、こんな主張はむしろ韓国にとってもマイナス、世界の笑いものになるのではなかろうか(事実この延長線で朝鮮5千年説を打ち出し、中国のブログなどで叩かれている)。しかしこの認知に向けて彼らは内外に向け、本気で啓蒙・宣伝に努めているのだ。
著者がこのような事例を列挙し自国の恥部をさらすのは、考え方の“バランス”を取るためだと言う。そのバランスはどこに基準を設けるかによって変わってくるのだが、日本人の考え方の基準点(世論が集約される点)が見えにくい(その中には自虐史観が含まれる)。だからここで開陳する持論を参考にして、韓国観の基準点を絞り込んでほしい、それを外に向けて分からせてほしい、それによって韓国人がバランス感覚を取り戻すことができるのではないかと期待するからであると結ぶ(最終章の“韓国人である私が知ってほしいこと”はやや難解な論理展開・記述だが、私の理解はこのようであった)。そこには、タイトルからイメージされる、一方的な反韓論・嫌韓論とは異なる志の高さがある。

3)マッカーサー大戦回顧録
マッカーサーに関する本は随分読んできた。何と言っても占領下の日本統治に関わるものが多いが、それ以外にも太平洋戦域での米軍統帥部(大統領を含む)における主導権争い、朝鮮戦争における大統領との対立などわりと幅広く、書物を通してこの人物を知る機会があった。そこから得たイメージは、心の内を見せないクールな性格・立ち振る舞い、優れた軍人(軍学校における抜群の成績、早い昇進、作戦立案やリーダーシップに優れるが勇将・猛将と言うタイプではない)、強い名誉欲・自己顕示欲・権力欲、巧みな自己演出、一方で金銭欲は淡白で政治への深入りを潔よしとしない敬虔なキリスト教徒、こんなところである。将官だった夫のさらに先をと考える母によって育てられたこともあり、当に軍人になるために生まれ育てられた人物。米陸軍参謀総長と言うトップまで上り詰めたから、母子の願いも達成されたわけだが、本書はその後から始まる。
原書は1964年に出版され、直後に「マッカーサー回想録」として邦訳上下2巻が出ている。ここには生い立ちから書かれているようだが、本書は2003年文庫版を出版する際、それを基に大幅に編集し直され、太平洋戦争と日本統治の部分を抽出してまとめた日本向け限定版である。つまり1941年フィリッピンに駐在する米極東陸軍司令官として開戦を迎え、そこからの脱出、西南太平洋戦域での巻き返し、フィリッピンへの帰還、日本の降伏と連合軍最高司令官としての統治(1951年)までを綴ったものである。大別すると戦中(作戦)と戦後(占領政策)に分けられる。
取り上げられた出来事は、いずれも内外の歴史家・戦史家・軍人・政治家・作家などによっても書かれているが、何と言っても渦中に在って最高位の意思決定を行った当事者が自ら書き下ろしたものだけに生々しさは他を圧する。特に日本人にとって占領政策の部分は、内容の正否・諾否はともかく、興味深い話題が多々ある。例えば、天皇制、憲法、戦争犯罪、これらに関する連合軍内の意見の違い(天皇責任説を主張し、懲罰的占領政策を強く望んでいたのは英・露;対日理事会(米・英・ソ・中・オランダ・豪・ニュージーランド・印で構成)を形骸化し最高司令官として米国および本人の信条を優先)などがそれらである。
軍事作戦面での話もよく知られたことが多いが、当初は“陸軍”司令官に過ぎず、海軍力を自由に駆使できなかったことへの不満(バターン、コレヒドールへの補給や撤退)、また戦域司令官(西南太平洋)となり海軍力が配下に入っても作戦初期には十分な戦力でなかったこと、米国指導部(大統領を含む;ルーズヴェルトは海軍次官を務めている)が“真珠湾は海軍がやられた。かたき討ちも海軍で”との考えが強かったことなど全般に海軍に対する苛立ちが随所に見られ、日本だけでなく、どこの国も陸海軍の関係が難しかったことが窺える。
ニューギニア戦線から始まる、飛び石作戦の成功に関しては、日本軍兵士の戦闘力を高く評価する反面指揮・参謀部の能力を酷評し、ワシントンへ「日本軍の兵士の資質は依然として最高水準である。しかし、日本軍の将校は上級ほど素質が落ちる」と報告している。
また大戦略に関しては、開戦初期には、既に独ソ戦が始まっていたこともあり、ソ連の参戦を切望するが、太平洋戦線で反攻に転じるとそれに大反対する。ポツダム会談に先立ちヒアリングに来た連絡将官からヤルタ会談の内容が知らされ、あまりのソ連への譲歩に驚き“参戦不要”の意を伝えている。
強い自己顕示欲、巧みな自己演出で知られた人物だけに、ある種の先入観を持ってこの本を読んだ。しかし、思ったほど文面からそれらは感じられなかった。ただ、他の政治家や軍人の回想録・伝記と比べ際立つ特色がある。それは、感状・報告書・手紙・電報・新聞記事などの引用が極めて多いことである。これらを通じ、他人(大統領、首相(英・豪)、長官(陸軍・海軍)、参謀総長(米・英)など)に語らせることによって、自己の業績が如何に高い評価を受けたかを読む者に知らしめようという仕組みなのだ。その意味で、見事な演出と言える。だからと言って歴史的な意義を欠くものではなく、今日につながる国内問題や国際関係を考える上で参考にすべき見方・考え方が提示されており、巻末の解説(内容検証が記述されている。例えば、“バターン死の行進”の責任を取らされた本間中将刑死の件、これにはマッカーサーは現地での調査に基づく判決としているが、自分だけ逃げたと言う汚名払拭も含めて本人の“報復”の意図が反映されたのではないかとの疑問が呈されている)を含めて、この月(8月)読むのに相応しい一冊であった。

4)日本海軍400時間の証言
200983回にわたりNHKスペッシャルで放映された、非公開前提に語られた“海軍反省会”のテープを素とした、同名番組の概要と取材・編集記録である。この番組の予告は観ていたが、 “開戦”、“特攻”、“戦犯”を各1時間程度の映像番組にまとめるとかなり製作者の意図に引きずられる感じがして、敢えて観なかった。予告では“(これを素に)現代日本社会の閉塞感を探る”と言うような主旨を強調していたが、ステレオタイプの“反戦”が“秘録発見”と伴に強調されているように受けとれたからだ。
そうは言ってもこのテ-プは気になっていた。語られている話題はどんなことか?誰がどんな発言をしているのか?“反省”とは?生の声が多く活字化されていることを期待して本書を手にした。「反省会内容は自分で総括すればよい」と。しかし、読み進むと中身は発言要約ではなく、むしろ取材・編集記録(と言うより苦労話)主体であることが分かってきた。そしてそれは予期した内容とは異なるものの、満足すべき読後感を与えてくれた(若干意図するものを感じるものの「ここまで丁寧に(執念深く)裏を取って、番組を作るのか!」と感心させられた)。(愚かで杜撰な)朝日新聞の“従軍慰安婦”記事とは月とスッポンの差だ!
書き手は番組取材班員;プロデューサー、ディレクター、キャスター、記者(3名)、が分担している。いずれも1960年以降に生まれた人達で、皆いわばスクラッチ(あの戦争に無関係な経歴)でこの番組制作に当たっている。取材先は90歳代の当時の現役も居るわけで、その世代ギャップは大きいが、アプローチに周到な準備をしているので、相手も概ね好意的に接している(必ずしも本音をさらけ出すわけではないが)。遺族や同僚(部下)への取材や遺品(主に手紙)による検証。現地調査(海外を含む)。歴史家・戦史家からのコメント。3時間番組の素は400時間のテープ、その舞台裏の取材は数千時間。(資金と人に潤沢な)NHKでなければ出来なかった作品であることが本書でよくわかった。
三つのテーマの放映内容を、本書を基にごく手短にまとめれば;
「開戦」;海軍に積極的な賛成者は一人もいなかった。ただ仮想敵米海軍を想定して予算獲得し、装備充実を図り、作戦・訓練計画を練ってきたので、ことにおよんで「米国と戦えない」とは言えなかった(そう言えば予算は陸軍にまわってしまう)。当に帯にある「海軍あって国家なし」である。今の役所に共通するのではないか?
「特攻」;「海軍軍令部が命令したものではない。現地部隊が自主的に行ったものである」これが当時も、戦後も公式見解(大西中将発案説)である。「そんなはずはない!」反省会では現地参謀だった中佐が激しく元軍令部員に迫るが、部員は答えをはぐらかす。「知らなかった、現場がやった」はよく聞く言い訳。上層部の責任逃れ、下僚への押しつけ体質は今の日本社会に依然残っているのではないか?
「戦犯」;海軍のA級戦犯は永野修身元軍令部総長ただ一人。彼も裁判中に病死し、死刑判決を受けた者はゼロ。文官の広田弘毅さえ処刑されているのに何故海軍は?BC級(現地部隊による戦場での犯罪行為)死刑判決は海軍も多く、明らかな濡れ衣もある。何故こういう結果になったか?早くから組織上層部に罪が及ばぬよう第二復員省(旧海軍省)が口裏合わせに奔走した。組織防衛第一は現代の我が国組織(企業、行政)も同じではないか?
?マークを付けたが、組織で働いたことのある人間ならば皆同感であろう。しかし、これは日本だけの特質なのだろうか?これも“戦争に学び、それを今に生かす”のありふれたパターンに過ぎないのではないか?これが放映内容記述に関する読後感である。
むしろ評価するのは番組制作に関する部分である。取材の手間ひまばかりではなく、その姿勢を時に問い直すところがあり、「なるほど、報道ジャーナリズムにもこんな面があるのか!」と即時的一過性針小棒大ニュース溢れる現状との違いを痛感した。一例は「特攻」に関するところで、このテーマは被害者(特攻隊員やその家族)の立場で描けば一般受けすること間違いなしなのだが、敢えて“加害者(命令者)”の立場にたってみようとするところである。こうすることによって怜悧な目で問題を見つめ、その本質により近づけると言う考え方である。良質なジャーナリズムとはこのようなものであるべきである。
なお、取材スタッフのこのテープに対する印象は、“海軍は結局(組織としては)反省していない(やむを得ない。あの時の空気はそうだった)”である。

5)編集者の仕事
決して多読家・精読家とは思っていないが、日常的にいろいろな本に接していると、時々「一体全体この本の内容を誰かチェックしたのか」と思うような場面に行き当たり、読書意欲が急に萎えてしまうことがある。誤字脱字(最近はワープロの変換ミスなどが多いが)はともかく、用語が不適切だったり、同じ言葉が頻繁に繰り返されたり、事象が時間的におかしかったり、見出しと内容に違和感があったり、日本語としての表現力に不自然さを感じたりする(特に翻訳ものに多い)。こういう不満を出版に詳しい人にこぼしたところ、「それは編集者の問題で、最近その力量が落ちてきている。かつては大作家の作品も編集者如何で名作にも駄作にもなったが、それも今は昔」と聞かされた。では編集者とはいかなる者か、それを知るために本書を取り寄せた。
“見返し(表紙を開いた面の左側ページ;この本の場合、ここにタイトル・著者名などが書かれている)”をめくると、通常白紙部分の右ページにいきなり書籍の各部を説明する図が現れる。次いで左側のページからまえがきがはじまる。ページ番号は左下に“3”(これを“ノンブル”と言う)、本文の左上に横書きで小さく“まえがき”とあり(これを“柱”と言う)、6ページまで続く。目次はまえがきの終わった後、右ページから始まり5ページ分ある。本文は15ページ目から書かれ、確り“15”と打たれている。しかし途中目次部や章題のページに番号(ノンブル)が打たれていない。奥付(タイトル、著者名、発行元などが記載された最後のページ)は必ず左にくる。何故か?
本書はこのように、一見読み手にとってどうでもいいような、製本・印刷の基礎の基礎から説き起こし、判型、字の大きさ、書体(フォント)、字・行間隔、上下左右の余白、紙の種類や色調、目次・章立て・見出しのつけ方、装幀、索引や注の扱いなど細部を一つ一つ解説し、実はこれらが内容と深く関わって決められることを、自ら編集した各種出版物を例に採って説明していく。
私が編集欠陥と教えられたことは、厳密には “校正”と分類される部門で扱われ(小さな出版社や内容によっては編集部門が兼務することもある)、編集とは独立した仕事であることも“校正、畏るべし”と題する項で敬意をもって紹介される(例えば、「(優れた)校正者が疑問を出す場合、典拠となる資料のコピーが何種類も添付されることがある。ネットで済ませるようでは素人ないしは怠惰な校正者」と決めつける)。
著者は大学卒業後新潮社に入社、編集一筋で40余年勤務、この間吉田健一、丸谷才一、安部公房、辻邦生など一流作家を担当したベテラン編集者。本書は大学講義用テキストがベースになっているので、出版界の裏話のような内容は一切ない比較的固いものだが、副題の“本の魂は細部に宿る”を学ぶとともに、父親が印刷職人であったこともあり、あとがきに「父への恩返しの一冊として書いた」とあるように、職人的な仕事への敬意と愛情が随所に感じられ、肩の力が抜けた読み物として楽しんだ。

6)世界の鉄道紀行
聞いたことのない著者名だったが、久し振りに平積みになった鉄道紀行の本を見て迷わず買った。帯(表紙に見える)の奇妙な乗り物の写真に惹かれたからである。レールバスの歴史は古いが、この写真はどう見てもボンネットバスそのもの、それが線路の上に乗っているのだ。
写真は当に本書の内容を表すに適切なものだった。それに比べ題名は何と陳腐なものだろう。帯にある“驚きの鉄道旅行”が相応しい。
取り上げられるのは日本ではほとんど知られていない路線や列車に関する著者の乗車体験記20話。多少知られているのはペルーの世界遺産“マチュピチュ”への登山列車と“戦場にかける橋”の舞台となった泰緬鉄道くらい、有名な“オリエント急行”も超豪華列車とは別物だ。これらある程度知名度のある鉄道でも旅の仕方は出たとこ勝負。現地情報は得にくいし、運航状況など現地に行き、その日でないと分からないものが多いからだ。
登場する国は、ボリビア、ペルー、メキシコ、キルギス、シリア、ネパール、カメルーン、ザンビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ポーランド、ハンガリー、カンボジャ、ヴェトナム、フィリピン、タイ、台湾、中国、オーストラリア、ハワイ(米国)。過半は一人で出かけるだけでも大変な国・地域が多い。まして斜陽の鉄道、残存する場所はクルマでは行けない辺鄙な所ばかりである。
とにかく珍しい鉄道のオンパレード。ここが本書の最大の売りであると言える。何故そんなところへ?と問うのは野暮であろう。返ってくる言葉は「そこに知られざる鉄道があるからだ」と。 マニアとはそんなものであり、少なくとも乗り物好きの私には理解できる。これからでも乗ってみたい列車はあるし(台湾の戦前の昭和時代が残るローカル線、ザンビアの豪華ディナー列車、ヴェトナムのリゾートホテル送迎専用列車など)、もう少し若ければと思う路線(ローカル列車化したブタペストからウィーンを経由してパリに至るオリエント“急行”)もあるのだ。
駅舎、車両、乗客・乗務員、沿線の風景、宿泊や食事、費用などが、運行時刻表や地図と併せてバランスよく語られ、鉄道ばかりでなく“紀行”として楽しむことが出来る。不満なのは写真が本文には全くなく、帯にごく限られたものが載っているに過ぎないことである(表紙をいれて5葉)。窺い知る機会が少ない所だけに是非もっと写真が欲しかった。

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2014年8月28日木曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第Ⅰ部)-16


1.新会社創設(16
新会社設立にはもろもろの検討・準備事項がある。既に長い時間をかけて、目的・役割、商品・サービス、経営計画、組織・人事、社名決定などを説明してきた。ここでは残る話題、資本金、オフィス、社章それに設立日について触れておこう。
情報システム室(部)は汎用機導入以来、計算機利用料金の付け替え制度をグループ全体に適用してきた。また東燃テクノロジー(TTEC)を通じたTCS外販ではシステム部門としての収支をはじいてきていた。従って大まかな収支見通しは掴んでいたが、実際に資金管理を独自に行ってきたわけではないので、独立会社として手元資金がどのくらいいるのか、Z計画メンバーにはとんと見当がつかない。TTECのビジネスは手形支払いも多く、月次収支はしばしば“勘定足ってゼニ足らず”の状態に陥ったりしていたが、全体としては財務状態にゆとりがあったので、お金のことを真剣に考えたこともなかった。エンジニア集団の悲しさ、資本金をいくらにしたらいいか分からない。経理部に相談したところ、税制上5千万円にひとつの区切りがあるとの助言を受け、それでスタートすることにした。
スタート人員数は現在の情報システム部配員+役員・事務部門である。既存の現業部門は現在の配置場所をそのまま利用することにし、役員・事務部門のスペースだけは何とか確保しなければならないが既存フロアーに余力はない。新規事業用に拡張された研究所(埼玉)への移動や製油所としての機能を閉鎖していた清水工場本事務所活用案など出たが、増員は10名足らずなのでパレスサイドビル内で空き室を探したところ、1階の商店街に一コマ確保できることが分かり、落ち着かない場所ではあったが、それを借り上げて使うことに決まる。
社章は外部の専門家に頼むことにした。80年代に入るとどこの会社も社名中心の硬い感じの社章を、モダンアートをベースにした軽い印象を与える形状と色を使うものに切り替えることが流行だしていた。三井・三菱・住友グループの中にもよく知られた伝統のマークを捨てて、敢えて斬新なもので企業イメージの刷新を図ろうとする時代がやってきた。提案を受けた案は三つ、従業員の意見を集約したところ、描くのが難しく「エッ」と思うようなものに人気が集まった。提案者にどういうところに会社との関わりがあるのか問うたところ、欧州の街の石畳の広場(プラザ)を模したものだとの返答。なるほどと納得し、採用した。このマークは今でも素晴らしいものだと思っている(添付図参照)。
最終的に会社設立が親会社取締役会の承認を受けたのは19856月、75日は東燃の創立記念日。同じ日は適当でないものの、この日の近くを設立日にしたい旨社長室に決定を委ねた。しばらくして役員が副社長に呼ばれ、710日にするよう指示され、併せて変な線や点が複雑に交差する小さな額を持って戻ってきた。曰く「著名な占星術師に検討を依頼したところ、この日が良いとご託宣が出た」とのこと。額に描かれている図?はその決定プロセスらしいがが、詳しい説明はその後も全くなかった。どうやら副社長は重要事項決定に際して“占星術”に頼っていたことがあったらしい。学生時代宇宙物理を目指したこともある人がこういうことに傾倒しているとはにわかに信じ難かった。ただその後の会社経営が総じて順調だったことを考えれば、あながち非科学的とさげすむことではないのかもしれない。これで思い出すはかのヒトラーが占星術に凝っていたことである。



(次回;“新会社創設パーティ”)

2014年8月23日土曜日

みちのく山岳ドライブ-17 -八幡平・十和田・奥入瀬・八甲田・白神山地・鳥海を駆け抜ける-


10.鳥海へ-2
白神ラインが日本海に突き当たる岩崎を過ぎても海岸沿いの単調な道は変わらない。交通量は少なく周辺にときどき小集落が現れるものの人影は疎らだ。左側は山地、右側は海。田圃は全くなく、小規模な畑地が散在するような景観が続く。地方をドライブしている時いつも沸いてくる疑問がここでも出てくる。「一体どのように生計を成り立たせているのだろう?」「沿岸漁業で獲れた海産物や野菜などを近くの都市(弘前、能代など)へ供給するだけでやっていけるのだろうか?」「それとも“日本キャニオン”などと言う看板があるので、白神と併せて観光で食べているのだろうか?」 こんなことを考えているうちに街道名にもなっている大間越(おおまごし)の町を抜け、しばらく走ると秋田県に入って、県境に在る道の駅「八森」で小休止する。どうやらハタハタが名物のようだ。
八森で休憩の後10分くらい南下するとやっと平地が開けてくる。能代平野に入ったのだ。能代と聞いてすぐに思い浮かべるのは“大火”である。ここは1949年(昭和24年)と1956年(昭和31年)、2度も大火災で市街地がなめつくされている。後者は高校生であったからよく記憶に残っている。それもあるのか、道路は広く、よく整備されているが、町の風情は何か軽薄な感じだ。もっともこの風景は最近の地方中小都市共通で、街中を通る旧道とは別にバイパスが設けられ、そこに商業施設が並ぶ、クルマ社会への転換を象徴する典型的なパターンともいえる。
町の特色をつかめぬまま道は秋田道の北の始点、能代南ICにつながっていく。この道はやがて東北道に至り首都高まで達するのだが、うれしいことにかなりの部分が一般国道扱いで無料になっている。今回有料だったのは琴丘森岳ICから日本海東北道の秋田空港ICまでの間だけだった。無料区間は基本的に片側1車線だが交通量は極めて少なないので追い越しの必要はほとんどなく、先を急ぐのに差しさわりは無い。さすがに米どころ、左右に見事な水田が広がり、右側の遥か先には八郎潟干拓で出来た大潟村を遠望できる。秋田南ICで今度は日本海東北道に乗り換え、さらに交通量の少ないこの道を南下する。先ほどまでの平地が山がちになり、切通しやトンネルの多い、変わり映えのしない地方自動車道をしばらくひた走り、由利本荘ICで自動車道を下りる。
ここからは国道108号線(矢島街道)を南東に向かう。この道は真室川を経て山形へ通じる道だ。5時前、買い物にでも出かけるのだろうか、女性ドライバーの軽自動車が結構多い。やがて由利高原鉄道の矢島駅を中心に開ける矢島の町に入る。ここからの道取りには注意が必要だ。ナビには今夜の宿泊先フォレスタ鳥海をセットしてあるものの、出発前に入手した情報では、鳥海山の麓の道路は年初の大雪で、各所で通行止めになっている。ナビに現在の道路状況がどこまで反映されるのか分からないので、道路標識や看板で確認することが不可欠だ。幸い5月下旬の空はまだ明るい。先ず矢島の町から直ぐに山に分け入る道をナビは採らず、さらに直進してから山に向かうルートを指示してくる。随分遠回りのようだが、それに従うとあとは人家もまばらな山道を何度も変えながら上っていく。夕日をバックにした鳥海山が見えてはいるが、ホテルの案内表示を見つけることが出来ない。「大丈夫か?」と思っていたところ、やっと広い道に出て、その先にホテルへの道標があらわれた。ホテル到着は5時半、チェックイン予定時刻ピッタリであった。本日の走行距離;334km。白神を除けば走りの一日だった。

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(次回;フォレスタ鳥海)

2014年8月21日木曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第Ⅰ部)-15


1.新会社創設(15
新会社の組織・人事については情報システム部に任された。また紆余曲折はあったが本体にシステム計画部を残すことも認められた。ただ新会社の役員人事だけは我々の関与する余地はなかった。
新会社の組織は、ビジネスシステム部、技術システム部、営業部の3部構成。前2部がシステム開発部門で、名前の通りそれぞれ事務系と技術系のアプリケーション開発を担当する。営業部は営業課の他、経理・人事・総務を担当する事務課、既存の汎用機オペレーションを担当するシステムサービス課の3課から成る。ビジネスシステム部の部長はもともと機械計算課(主に事務系アプリケーション開発)に所属し、その後監査部が設立された際監査課長に転出していたYNGMさんが戻ってきて努めることになった。また技術システム部長はTCS(東燃コントロールシステム;プロセス制御システム)の開発に当たり、その外部販売を私と一緒にやっていたTKWさんに決まる。営業部長は当面経営企画的な役割もあることから私に役割が廻ってきた。TTECシステム部でも主に営業を私が、技術をTKWさんが担当していたから、全体としても順当な布陣と言える。
人事に関する難しい問題は、新会社よりグループ全体の情報システムマネージメントの要となるシステム計画部である。ここは不要論も出た(すべて新会社でやればよいとの意見)ものを何とか“参謀本部”として高度専門職の少数精鋭で残すことになったが、部長に適任者がいない。仕方なく私が兼務する案がほぼ決まりかけていた。しかし、新会社の役員人事が決まった後、突然社長室から私は新会社に専念させ、別の人物を持ってくると告げられる。新部長になったのは2年先輩のTKGさん。一時数理システム課に籍を置いたことはあるものの、本来製造畑の人である。誰にも意外な人事だったし本人も驚いたようである。ただ川崎工場時代TKGさんは製油管理課長(工場運営の管制塔)、私はシステム技術課長として付き合いがあったから、情報システムについての考え方(私とはかなり異なるのだが)は分かっていたので、どう対応すべきかに不安は無かった。
さて、役員人事である。新会社検討段階からZ計画メンバーや情報システム部員が想定していた社長候補は部長のMTKさんである。現職の役員を含め彼以上にこの分野に精通している人はいないし、役員資格の理事である。しかし、事情を知る先輩の中には「発足時の社長は本社の役員が慣例」という人もいた。ふたを開けてみれば当にその通り。社長は技術・購買・情報システム管掌のMKN常務。MTKさんと東燃石油化学(TSK)の経理部長KKTさんが取締役に任命された。
MKNさんは私が新入社員で和歌山工場配属になったときの技術部製油技術課長、このポストの時代数理技術習得のために米国研修に出かけているが、その後川崎工場の製油部長や和歌山工場長を歴任し、技術系と言うよりは製造系、システム部門の経験は全くない。KKTさんは専ら経理の人。情報システムの経験は皆無。この人がここに登用されたのは副社長NKHさんの経理人脈からであろう。つまり実質はMTKさんが経営全体を取り仕切るのだが、平取締役。何か釈然としない人事であった。当時の気分は「この会社もつまるところ“受け皿会社”なのか?」であり、「これから!」の意気込みを著しく削がれたことは確かである。
ただ救いは、MTKさんが一切不平不満を口にしなかったこと(私はそれを口にし、KKTさんの役員任命反対をしゃべっていたことが本人に伝わっていた)、MKNさんもKKTさんもこの会社を動かせるのはMTKさんであることをよく承知して、そのような動きをしてくれたことである。


(次回;“新会社創設”つづく)

2014年8月20日水曜日

みちのく山岳ドライブ-16 -八幡平・十和田・奥入瀬・八甲田・白神山地・鳥海を駆け抜ける-


10.鳥海へ
出来れば暗門橋から西に向け日本海まで白神ラインを抜けたかった。道もここから本格的な山岳道路になるし、時間的にもかなりショートカットになる。その分男鹿半島を廻る可能性も生まれるからだ。しかし暗門橋の先は確り通行止めのバリケードが掲げられていた。
予定していた残りの選択肢は二つ。一つは東北道の大鰐弘前ICまで戻り、南へ向けて鹿角八幡平まで走り、一般道に下りて田沢湖、大曲を経て秋田道の大内JCT、由利本荘ICに出るコース。もう一つは岩木山の西ふところを北上し鯵ヶ沢で日本海に出て海沿いの国道101号線を南下するルートである。第一案は時間的にはゆとりがあるものの2010年の“奥の細道ドライブ紀行”とダブルところが多いので、厳しいスケジュールが予想されるが、未知の土地を少しでも味わっておきたいので、第2案を採用することにした。もしチェックインタイムに大幅に遅れる恐れがある場合は秋田道を途中から利用すればいい。
白神のアクアグリーンヴィレッジ暗門を出発したのは11時過ぎ。先ず西目屋村役場まで来た道を戻り、そこから県道204号線を岩木山に向かう。弘前に直結する県道28号線に比べ道幅は狭く荒れているが、ほとんど走るクルマがいないので短い距離だが存分に山岳ドライブを楽しめる。やがてT字で突き当たると眼前には岩木山。ここから岩木山環状線の県道3号線(百沢海道)を北上する。ここも交通量は少なくのどかな景色の中を快適な運転が続く。鯵ヶ沢市街の少し手前で大間越街道の鯵ヶ沢BPに入り西に向かってしばらく進むと右側に日本海が開けてくる。昼食予定地千畳敷到着は12時半。2件ある食堂の一軒に入る。トラック運転手や作業服を着た人などが多いから、必ずしも観光食堂ではないようだがメニューにある定食は結構いい値段だ。一番安い焼き魚定食を注文したが1400円もした。
千畳敷出発は13時半。今夜の宿のチェックインは一応5時半、ここからの距離はまだ240km位あるのでナビ設定に自動車道利用を指定したところ、能代南ICで秋田道に入る案が出てきたのでこれで行くことにする。しかしそこまでまだ一般道を90km近く走らなければならない。チョッとホテル到着時間が気になってくる。と言うのは直前に得た道路情報に、その辺りも今年の大雪の影響で未だ不通個所が何カ所かあることが報じられていたからである。暗くならなければいいが・・・。
この地方を走る五能線は“波被り線”として有名だが大間越街道はそれと並行する。取り敢えず黄金崎と言う温泉のある岬を目指して走る。道の右側はいつも海、初夏の日差しは強く、キラキラ輝く海面を眺めながらの運転は快適ではあるが、今まで走ってきた山道に比べれば些か単調。しばらくするとナビは国道を離れ岬の温泉に向かう道を採るよう指示してくる。案内に従って辿り着いたところは、予想していたような岬の先端ではなく、広い駐車場を備えた、不老不死を謳い文句にした、巨大な入浴・宿泊施設であった。先を急ぐわが身には関係なし。あとでそれを話した人に「あそこまで行って温泉につからなかったのですか!?」と言われたから、それなりの名所だったのだろう。再び街道に戻って少し行くと、白神ラインと出会う岩崎を通過した。通行可能であればおそらく1時間くらい短縮できたのではなかろうか。通ってきた道の景観や道路状況を振り返り、通行止めが残念でならない。
(写真はクリックすると拡大します


(次回;鳥海へ;つづく)

2014年8月18日月曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第Ⅰ部)-14


1.新会社創設(14
日経トップ記事すっぱ抜きも杞憂に終わり、新会社スタートも最終段階に至る。資本金、組織と人事(本体に残る組織を含む)、オフィス増設、移転資産などなど設立準備は続く。その中で今回は社名について書いてみたい。
検討段階で「社名はグループ全社員から公募し、新会社転籍・出向メンバーの投票で数社に絞り、順位を明らかにして経営会議で決定する」ことになっていた。そこで19855月の連休後に締切日を設定し、公募を行った。正確な数は記憶にないが数百件にのぼる多数の応募があった。多かった用語は当然だが、情報システム、システム開発、システム・センター、インフォメーション・テクノロジーなど、それに東燃を付けるかどうか。またそれらの英語名を略字にしたものなども随分あった。ただ“ユニークさ”と言う点でそれほど面白いものは無かった。
情報システムサービス分社化の動きは数年前から始まっており、それらの社名も大方は親会社のイメージに直結するものが多く、そんなところが無難だとの意見がある一方、いずれは株式公開を目指すのだから、独立自主の意気を感じさせる名前にしたいと言う声も強かった。
こんな議論の中で最終的に決まる“システムプラザ”はOTB前情報システム室長(この時は既に定年退職し嘱託になっていた)の一言に発する。まだ公募が正式に行われる前、OTBさんと私を含む数人の室員が雑談している時「最近若い人に好かれる場所を表す言葉に“プラザ”があるんだよ」との発言があった。それが“広場”を意味するスペイン語であることは知っていたので、この案を採用すると“システム広場”と言うことになり、目指す企業体(プロセス製造業を対象とする情報システム構築者)のイメージとはかけ離れた第一印象を与えるような気がした。しかし他のメンバー(皆私より若い)は極めてポジティヴな反応を示したのである。公募の段階でOTBさんは辞退したものの、事務局を預かる者としてこの名前をリストに加えたところ、何とトップ当選してしまったのである。
“東燃”を付けるかどうかも大きな問題だった。既存の100%子会社は総て付いているので、順当なら東燃システムプラザとなるところである。東燃自身決して知名度の高い会社ではないが、知る人ぞ知る優良会社、大方のメンバーにはそれに未練がある。中には「娘の嫁入りに欠かせない!」などと拘る人もいる。一方エンジニアリング会社の東燃テクノロジー(TTEC)のシステム部として商売をしていると、石油精製や石油化学企業ではそれだけで敬遠されてしまうケースもあった。従ってここで仕事をしてきたメンバーは全員“東燃外し”を主張した。結局「経営会議で問題提起しよう」で臨んだところすんなり“無し”で通ってしまった。
正式名称は“システムプラザ株式会社”、英語名は“System Plaza, Inc.”、通称SPIN(スピン)。ここには軌道から飛び出すSpin outの意が込められている。
この社名は3年後東燃を付けて東燃システムプラザとなるがこの経緯はいずれ時期が来たら書くことにする。


(次回;“新会社創設”つづく)