1.新会社創設(13)
情報サービス新会社設立に関する詳細な経営会議資料が日経朝刊にすっぱ抜かれた朝、当然だが「これはえらいことになった」と思った。自宅で日経を取っていたから、出社してからのことをあれこれ通勤途上考えた。犯人探しが当然行われるだろうが、出てしまったものは元へは戻らない。とは言え何故こんなことが起こったのかは、今後の対応策を考慮するときに重要な課題だ。問題の整理は「この記事は、グループ社内では既に広く知られていたものの、新会社誕生に良い話ではない」と言うところから始まる。
石油業の将来性に限界を感じ、次世代の新規事業に強い思い入れを示し、“強守(本業)と模索(新規事業)”をスローガンにそれを推進してきていたNKH副社長の経営のやり方には内外から批判があった。内部からのものは、戦後経済復興の中で東燃を優良会社に育ててきた先輩たちからのものであり、社外からの牽制は主に大株主であるExxon/Mobil(E/M)からのものである。
E/Mの考え方は極めて分かり易い。1960年代から石油危機まで彼等も一時期新規事業に傾注し、それに失敗し本業回帰した自らの苦い体験に基づくもので、利益は石油関連への投資以外は株主に還元すべきとの考えだ。それゆえ“模索”が基礎研究に留まる範囲ではしぶしぶ認めていたが、投資や人が増えることには厳しく目を光らせていた。
しかし、内部の抵抗は個人的な処遇不満を含む複雑なものである。その一つに世代的な問題がある。NKHさんは米国留学もあり入社は遅いが、確か昭和33年大卒が同期のはずである。子会社を含めほとんどの役員・部長はそれより先輩、社長は戦前の人である。それら先輩(社長を除く)は新規事業に関してはネガティヴだったり面従腹背の言動をしがちだった。一方、NKHさんも守旧派の彼らを批判する言葉をしばしば口にしていた。実際、新会社企画を進めている時、これらの先輩から「MTYチャン(社長)の考え方は違うぞ」とか「今の東燃は正気の経営ではない」などと、暗に「新会社設立などやめておけ!」の意を込めた強烈な意見をされたこともある。
記事が出たのはNKHさんが副社長になった翌年。前年の株主総会で長く社長と二人三脚でやってきた戦前派の副社長が退任、何人かの取締役も若返っていたが、経営陣にまだ社長や前副社長につながる古い人も残る微妙な時期であった。「NKHさんが社長になったら自分の次は無い」こう考える役員がいてもおかしくない。
「このすっぱ抜きは新会社設立を材料に、新しい東燃の経営を批判するために使われたのではないか?」これが会社へ着く前に得た結論である。
私の出勤時間は工場勤務が長かったこともありかなり早い。無論社長や副社長などまだ出社していない。しかし、予想通り社長室からお呼びがかかっていた。面談したのは若手課長のYMOさん。高校時代に滞米経験がありNY事務所長を務めたことのある彼は、今や自他ともに認めるNKHさんの右腕。経営会議の実質的な事務局長でもある。新聞記事を示しながら「何か心当たりはありますか?」と問いかけてきた。経営会議で使った資料はナンバーをつけ役員以外からは会議終了後回収していること、作成に当たったZ計画のメンバーは持っているが、検討プロセスを通じて機密保持に腐心してきた者がこれを漏らすことは先ず考えられないことなどを説明し、暗に「役員以外考えられない」との意を伝えた。これに対しYMOさんも何となく納得した風であった。この事件はしばらくの間本社内では話題になっていたものの、大きな問題になることもなく事態は落ち着いていき、E/Mが半数の議決権を持つ取締役会も、条件(グループ向けサービス内容の現状維持、市場競争力の実現)は付いたものの無事通すことが出来た。おそらく社長室を中心にした説得工作がこの間行われていたのではなかろうか(本業でE/Mと日常的に深いつながりがあるのは製造部門と経理部門だが、新規事業や取締役会は社長室が中心になっていた)。
新会社がスタートしてしばらく経ったある時、「あのリークはどうやら某役員だ」と言う噂が一部の人間の間に流れた。翌年NKHさんが社長に昇格するとその役員は退任した。
(次回;“新会社創設”つづく)
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