2014年9月30日火曜日

今月の本棚-73(2014年9月分)


<今月読んだ本>
1) 渋沢栄一の経営教室(香取俊介・田中渉);日本経済新聞出版社
2)書物の達人 丸谷才一(菅野昭正ほか)集英社(新書)
3)高橋是清(リチャード・J・スメサースト);東洋経済新報社
4) 東大卒プロゲーマー(ときど);PHP研究所(新書)
5) デーニッツと灰色狼(W・フランク);フジ出版社
6) 工学部ヒラノ教授の青春(今野浩);青土社

<愚評昧説>
1)渋沢栄一の経営教室
タイトルの通り主題は維新の経済人渋沢栄一である。しかし、ストーリーは超モダン、映画“バック・トゥー・ザ・フューチャ”調である。特別の事情が無ければ、先ず手にしない異作だが、その特殊事情があったので読むことになった。
1990年代初期、システムプラザの役員時代から参加している企業人向け勉強会がある。メンバーは必ずしもビジネス・パーソンばかりではなく(多数派ではあるが)、ジャーナリスト、芸術家、作家、法律家、自衛官など多士済々で、普段とは異なる世界を垣間見、刺激を受けることの多い場であった。ある時話題提供を求められ “ロシアにおける石油ビジネス”について話したことがある。その時に知り合ったのが本書の著者の一人、香取俊介氏である。氏は東京外語大ロシア語専攻、NHKに長く勤務、訪露経験もあり話が弾んだのは言うまでもない。
本年8月下旬立教大学で開催された勉強会で、著者が本書を素に渋沢栄一を論じたのである。名前だけは知っていたものの、知られざる渋沢像に教えられること多、特に「あの時代(幕末)士農工商すべての身分を体験した男」との話に「何故そんなことが可能なのか?」と本書を紐解くことになった。
渋沢栄一の家は埼玉の農家である(農)。しかし、農作ばかりではなく養蚕や染め物原料の藍玉を扱っておりその買い付けや加工、行商で確り実績を上げている(工商)。経済的に豊かなこともあり剣術を習い、武士の子弟と交わる機会も多く、やがて時代の流れの中で尊皇攘夷に組するが、説得され才能を買われて徳川慶喜の下役として取り立てられる(士)。さらに慶喜の弟昭武の付き人としてそのパリ留学に随行することになり、ここで銀行、証券、企業経営等を学ぶとともに、自ら債券売買を行い、利益を上げて主人の経済的窮状を救うと言う実務体験もする。この海外体験がやがて維新の後の我が国近代経済システム構築に生かされ、500を超す企業・団体(証券取引所、赤十字、みずほ銀行、東京電力、東京ガスなど)の設立・運営に中心的な役割を担うことになっていく。これが本書で知った渋沢の略歴である。
しかし本書は渋沢の伝記や評伝ではなく、幕末・現代・2050年と時代が交錯するユニークな小説である。主人公は父の事業の失敗と失踪で環境が激変、病身の母を気遣いながら働く夜間高校生である。父の残した“SShibusawaの意)クラス”と記されたノートから渋沢栄一の語録に触れ(各章の副題にその言葉が引用される;第1章“順境も逆境も自分で作り出したものである”~第9章“他人を利して、自分も利益を得る”)、それを糧に幾多の苦難を乗り越え、やがて渋沢同様多くの企業を起業し60歳で引退するまでの話である。それではただの立身出世成功譚かと言えば、そうではない。かなりひねった作りなのだ。
主人公はある時突然八咫烏(やたがらす;サッカー日本代表のマーク)に変じ、舞台も幕末に変わって渋沢の周辺に出没する。この八咫烏が主人公であるとともに語り手・舞台回しの役割を演じるのだ。なぜこんな奇抜な仕組みの小説にしたか?ここは読者として考えどころである。一つは共著者の田中渉氏の存在である。この人のことを私はまったく知らないが「天国の本屋」と言うミリオンセラーの著者で、ファンタジーとリアルをつなぎ合わせた斬新な作風を特徴とする作家のようである。もう一つは最近ドラッカーあたりまで漫画化され、それがベストセラーになる時代である。硬い内容のものを若い人に手に取ってもらい、読んでもらうためには、こういう工夫も必要なのかもしれない。さらに、タイトルには“経営教室”とあるが、むしろ渋沢の言葉を援用した“人生教室”と言える内容である。辛気臭いご託宣を親しみやすく表現するための手段として、このような形を採ったのではなかろうか。この仕掛けは好みの分かれるところであろう。
幕末・維新の時代、登場人物は専ら武士・政治家・軍人。しかし、革命も新政府運営もカネが無ければ何もできない。その割にこの時代の経済人の活動がクローズアップされる機会は少ないし、あっても主役の添え物のように一瞬現れるだけである(例えば、坂本龍馬における岩崎弥太郎)。渋沢栄一もその限られた一人ではあり、私の記憶では、日本史で習った“国立第一銀行(後の第一銀行、現みずほ銀行)の創設者”を出るものではなかった。多くの人も同じではなかろうか?本書で渋沢が“歴史に残る偉人”であること、あの時代の経済システム変容がいかなるものであったかを、気楽に理解できた点を評価する(深谷、飛鳥山の記念館を訪れてみたいと言う気分になっている)。

蛇足;香取氏はNHK報道局(主に東欧圏対象)から番組制作局に転じ、大河ドラマ“山河燃ゆ”(1984年;原作山崎豊子;二つの祖国)の脚本を担当した。

2)書物の達人 丸谷才一
我が国の書評はこの人が確立したと言われている。それ以前は「感想文に過ぎなかった」との評価である。昔週刊朝日を購読していたので、「週刊図書室」には必ず目を通し、図書選定に随分丸谷の影響を受けてきた。その一つに長く使ってきている「岩波新英和辞典」がある。こんなものまで取り上げていたのだ。芥川賞(年の残り)、谷崎潤一郎賞(たった一人の反乱)、大仏次郎賞(新々百人一首)など格式の高い文学賞を総なめ。2011年には文化勲章も受賞している。取り組んだジャンルは小説、翻訳、エッセイ、詩歌、文芸評論そして書評、文学に関わる全分野と言っていい。当に書物の達人である。
本書は20136月~7月にかけて世田谷文学館で行われた連続講演「書物の達人 丸谷才一」を館長と講師5名が書籍化するにあたり加筆修正してまとめたものである。いずれも生前丸谷と昵懇だった各界の第一人者、エピソードを交えながら丸谷の多才な活動を披瀝し“達人”ぶりを紙上再現してくれる。
菅野昭正(館長、東大名誉教授、仏文学者);丸谷の八面六臂の活躍を概説し、その小説を素描する。作品における終戦直前の短い軍隊生活の影響を掘り下げている。
川本三郎(評論家;文学・映画);文学賞選考委員同僚としての丸谷、小説と戦争との関わりを昭和史の視点から考察。やはり半年の軍隊経験に言及。
湯川豊(文芸評論家、文藝春秋社編集者);編集者から見た丸谷、書評家としての丸谷を紹介。毎日新聞の「今週の本棚」を開始するにあたって書評委員に提示された「書き方についての要望」が面白い。「話を常に具体的にして、挿話、逸話を紹介したり、時には文章を引用したりしながら書いてください」「受け売りのできる書評を書いてください。略」「最初の三行で読む気にさせる書評をお書きください。現在までの大新聞の書評は一般に、最初の三行でいやになります」
「今月の本棚」決して書評と思って書いているのではなく、“その本と私の関わり+読後感”であるが、この要望は肝に銘じておきたい。
岡野弘彦(歌人、宮内庁御用掛、國學院大學名誉教授、丸谷の依頼で生前墓碑を書く);丸谷は一時期國學院大學で英語を教えていたのでその同僚としての想い出。日本文学の根幹である和歌に関する造詣の深さを、大岡信・岡野・丸谷の連句作品で紹介する。
鹿島茂(フランス文学者、エッセイスト、明治大学教授);丸谷作品の奥に在るアンソロジー(時代を超えた共通性)を具体的な事例を示しながら解説していく(例えば忠臣蔵に古代御霊信仰が反映されている)。また私小説を嫌った背景などにも言及する。
関容子(エッセイスト、特に歌舞伎エッセイを得意とする);丸谷作品「忠臣蔵とは何か」を起点に丸谷が如何に日本の古典に精通し、それに基づいて歌舞伎の世界に独自の考察を加えていったか、それを歌舞伎俳優たちはどのように受け止めたかが役者とのインタビューをもとに語られる。
本書を読んで即対談集「思考のレッスン」(対談者湯川)を発注した。まだまだ何冊か注文することになるだろう。

3)高橋是清
読了直後の読後感は「外国人にここまで書かれてしまって、日本の研究者は何をしているんだ!?」である。次いで「我が国政治・財政を取り巻く環境は一世紀を経て何も変わっていないのではないか(予算分捕り合戦と政治課題;軍事が社会保障に変わってはいるが、地方振興など今に続く)?」との疑念が生じ、「せめて高橋が今居てくれたら」との思いに至る。最後は「内容が濃く、今月の本棚をどうまとめようか?」と悩むことになった。
本書は高橋の誕生から死に至る伝記の形式をとっているが、高橋を優れた経済思想家として検証する、経済学の研究報告書の性格が強いものである(中心命題は“経済・財政に関する考え方”、章末に出典注(各1頁超)、訳注・引用文献30頁、索引付)。しかし読み物としての完成度も高く、節目となる出来事(日露戦争時の外債発行や昭和陸軍との予算折衝など)が臨場感を持って伝わってくる。訳も質が高い。
著者は進駐軍の兵士として占領期の日本に駐留し、日本に魅せられ、帰国後大学で歴史学を学び、日本近代経済史を専攻、現在はピッツバーグ大学教授である。本書執筆に至る研究過程で、「戦前日本の軍国主義の社会的基盤-陸軍と地域共同体-」「農業発展と小作争議」を著わしたのち、大恐慌が日本に与えた影響を調べていくうちに高橋是清に取り憑かれ、本書に取り組むことになったと日本語序文にある。読むことになった動機は、日経の論説委員・編集委員を務め、千葉商科大学の副学長にもなった20数年来の友人が「面白いから是非」と薦めてくれたことによる。さすが専門家、彼の評価に間違いはなかった。
高橋是清と聞けば直ちに226事件が連想される。本書を話題にした時大方の人の反応はこの一点だった。少し広がっても「少年時代アメリカで奴隷になってしまったらしいね」くらいである。総理大臣、日銀総裁、農商務大臣各1回、大蔵大臣7回!正規の教育を受けたことのない非嫡子で足軽の息子がこれだけの大任を長期にわたって務めるには人に数倍する苦労・努力それに運と資質があったことを大方の人は知らないのである。無論私もこの大方の一人であった。

著者が高橋の生涯を解明するために取り上げる第1の領域はその教育である。
是清は将軍家お抱えの絵師であった父が女中に生ませた私生児である。誕生後まもなく仙台藩江戸常住の足軽の家に養子に出される。
読み書きの基礎教育をどこで受けたかは定かでないが仙台藩江戸菩提寺に出入りしており、そこに寺子屋はなかったものの、何がしかの知識習得の機会があったのではないか、また養祖母が読み書き出来る人だったので、この人から教えられた可能性もあると著者は推察している。
その後の運命を決定づけるのは是清10歳の時藩から横浜外人居留地に英語習得のために送られたことである。日本人街に住んで毎日居留地に通い、ローマ字で有名はヘボン夫妻の指導などを受けている。1年半後さらに英人宅に住み込みそれに磨きをかける。当時外国語に通じている人たちが読み書きを中心にした修得であったのに対し、ここで生の英会話を体得したことが、のちに政府に重用された他との大きな差別因子と著者はみている。12歳になると藩の意向で米国へ派遣されるが、ここで生じたのがよく知られる“奴隷事件”である。これは派遣元・受け入れ先の誤解(身分の低い是清には奨学金は支給されず、現地で働いて賄う)と年長の引率者の語学力不足などが絡んで長期労務提供契約書にサインしたことから起こったことである。滞米1年半幕府は崩壊、契約トラブルを何とか解決し帰国する。是清14歳。10歳から14歳まで毎日英語で会話をしていたことになる。こんな日本人は当時ほとんどいなかった。新政府が外国知識習得のため設立した大学南校(のちの東大)の英語教師(小教授)に14歳で任ぜられる。こののち一時大学南校に学生として入学するが直ぐに退学している。当時の標準からしても学歴は皆無に等しい。こんな人が、重要な官職を歴任し、特許、財政・金融、地方行政などで画期的な業績を挙げ得た背景を探っていく。
2の領域はその官職についてである。英語教師のあと農商務省に職を見つけ最初に手掛けるのが商標特許法の制定である。欧米の先進技術を導入するために不可欠な法律である。特許局局長(33歳)としてこの時“奴隷”以来2度目のアメリカ訪問、初めての欧州視察を行い、各国の特許事情を学んで条例案をまとめる。この際外国特許を認めるタイミングを不平等条約の改正にもつなげていくべきと主張する。このしたたかな考え方に非凡な才能を認めたのが、明治の元勲のひとり、時の農商務大臣井上薫である。
次いで産業政策に関わり、山縣有朋に代表される“富国強兵”を急ぐ重工業優先派に対して、上司でフランス留学経験のある前田正名の唱える伝統産業・地場産業を重視する考え方(富国裕民が先、強兵は後)に同調し、反主流の論陣を張る。この論争は産業政策に留まらず、金融、教育問題にまで及び、中央集権か地方分権かと言う国家統治の根源まで広がっていく。結果は前田一派の敗北。ここら辺りの政争は現代のTPP交渉を巡る意見のぶつかり合いや地方創生と共通するものがある。
かろうじて高橋は省の組織、東京農林学校(のちの東大農学部の)校長として残るものの、不本意な(とは言っても職務には熱心に取り組む)ポスト、タイミングよく持ちかけられたペルーの銀山開発に参加し、現地まで出かけるが山師にひっかけられ見事失敗。それでも挫けないのは“奴隷事件”でも見せたようなタフで楽観的な性格である。自宅まで処分して後始末する。やっと見つかったのは発足間もない日本銀行の臨時雇い。本店新築の現場監督である(英語に関係ない唯一の仕事)。上司は建築家の辰野金吾(現存の日銀本店、東京駅などの設計者;英語教師時代の教え子でもある)、のちに名を成す人だが、工期や予算管理はまるでダメ、高橋の努力と機智で何とかリカバリーする(総石積みに見えるが上階は表面だけ張った物)。この功を認められ正規社員に取り立てられたところから、金融家高橋是清がスタートする。
日清戦争時は下関に新設された西部支店長(39歳)、ここは九州・中国地方を統括する支店で、中央から離れていることが利して、高橋は自分の考え方を試し生かす機会が多かった。当時の日本経済の問題点の一つに全国一律の金利を適用できなかったことがある。高橋は戦争経済で活発化する地方経済のために、大阪と比べ高かったこの地の金利を東京・大阪並に下げる努力をしている。このような発想は外国の新聞や銀行法令の自習から生み出されたようである。
次のポストは当時日銀の子会社であった横浜正金銀行(戦後東京銀行、現三菱東京UFJ銀行)の横浜本店支配人(41歳)、この時は金本位制移行が行われこれで海外資金を導入することが可能になるが、その調査のために英国を中心に海外に出かけ、多くの金融人と知己になっている(横浜居留地でボーイを務めた、英銀の若い支店長代理が本国で出世、再会。彼の存在が大きい)。この時の人脈作りが日露戦争における戦争債発行に大いに寄与することになる。帰国するとその後日銀に戻り10余年副総裁を務める。
1904210日ロシアに宣戦布告。この時大蔵省財務官であった高橋は戦費調達外債発行のためロンドンに派遣される(駐箚大使資格;49歳)。開戦時のロシア国家予算は日本の10倍、外国貿易は3倍、外貨準備は8倍の規模である。アジアの小国の外債を数次にわたって売り込む苦労に2章(全14章)が割かれるほどだ。植民地的発行条件を 巧みな英会話力、多彩な人脈、タフでしたたかな交渉力で適正な基準に下げ、全債券を4年にわたってさばく(この発行条件の銀行団との交渉過程は具体的な数字を列挙して、それが如何に過酷なものであり、高橋がその緩和(金利・手数料引き下げ)にいかに努力したかが詳細にわかる)。最大の協力者はユダヤ系アメリカ人のジェーコブ・シフ、「反ユダヤ主義的なロシア王朝を打ち倒すために自分の財産を投げ出してもいい」と言う人物である(この人物は日本人の書く日露戦争ものにしばしば登場するが、本書は実に微に入り細を穿つ)。彼の協力はやがて欧州のロスチャルド家にも好影響をおよぼし、戦後の償還債券の処理につながっていく。ほとんど4年間にわたる欧米滞在での国家奉仕は広く内外に知れ渡り、一気に政界の頂点に近づくことになる。
著者が焦点を当てる第3の領域は、世界大恐慌時における高橋による財政施策である。本書の英文タイトルは“TAKAHASHI KOREKIYOJAPAN’s KEYNES”とあるように、ケインズの論文が世に出る前に、不況時の政府による財政出動を行った高橋の先見性を解説する。言わば本書の肝に当たる部分である(この部分は「『日本のケインズ』-日本と世界恐慌」として一章が当てられている)。この政策によって日本はいち早く不況から脱するのだが、一部の研究者からは放漫財政と批判されたことを紹介するとともに、締めるべきは締めろと鉄道国有化に反対し、(軍事費のかかる)軍の中国進出を批判する。さらには海軍軍縮に賛成し、軍部の反感を買うようになっていく(1922年ワシントン海軍軍縮会議;総理兼大蔵大臣;67歳)。
この国家財政に関する高橋の見解(恨みを買ってでも、締めるべきは締める)は、破たん寸前の現下の財政と政治の在り方にもっと研究されてしかるべきで点ではなかろうか?
4のテーマは高橋を死に導くことになる、財政と軍国主義台頭の領域である。
19319月満州事変勃発、12月高橋は犬養内閣で5度目の大蔵大臣を務めている(77歳)。この年の軍事費は国家予算の27%、それが1936年(226事件の年;岡田内閣蔵相)には46%に膨張している。この間高橋は満州への投資を制限することを提言し、併せて軍事費急増に歯止めをかけるべく陸海軍大臣とその部下たちと戦い続ける(荒木陸軍大臣(226事件で若手将校に担がれる)に対して「陸軍の中に本当にアメリカに勝てると思っている大バカ者がいるのか」と問う)。軍部と高橋の対立が急速に高まるのは1935年度予算編成。拡大基調にあった経済をもとに国債発行を減じたことが要求予算を達成できない軍部の怒りを買い、右翼、新官僚(上からの統制経済の実現を目論む)もこれに加わる。それでも何とかこの年の予算は収まる(国債残高が100億円を超えたことで野党民政党の批判はあったが;高橋財政放漫説はここにもある)が、この対立は1936年度予算編成で頂点に達する。本書では「(当時の新聞記事から)高橋がほとんど自殺的と思える決意をもって軍事支出を統制しようとしていたこと、軍部がこれに激しく抵抗していたこと、そして岡田首相があいまいな態度をとっていたことが伝わってくる」と書き記している。本来政府と直接関係ない参謀総長が首相に直談判したり(あくまでも予算編成は陸軍省;陸軍大臣の主管)、双方が新聞紙上に見解を流したり、混乱を極めることになる。結末は民生部門が軍部に予算の一部を譲り、高橋は国債発行を減じることで取り敢えずの目的は叶えられるのだが、陸軍の恨みは軍人官僚以外の者の骨髄にも残ることになる。226事件はこうしてひき起こされたのであった(81歳)。

1000兆円に達する国債発行残高、現下の法律の下では自動的に膨れ上がる社会保障費。これに正面から立ち向かう、知恵と信念と勇気のある政治家が見当たらない。しかし、高橋是清を知って、こんな日本人が居たのなら、いつかは第2の是清が現れるのではないか、こんな期待を微かにもって本書を読み終えた。政治家(志望)必読!
冒頭「外国人にここまで書かれてしまって、日本の研究者は何をしているんだ!?」と書いた。本書の学術的な評価は下せないが、高橋是清の経済人・財政家そして市井人としての力量と人柄、それと時代との関わりがよく理解できた(特に国政と財政に対する考え方)。ストーリーの構成・展開がよく400頁近いボリュームも苦にならなかった。現代人が読む価値が充分あると確信した。消費税を加算すると5400円も高いと思わなかった。これらは全て著者が高橋を尊敬し敬愛している(惚れている)からもたらされたものだと思う(それゆえのバイアスがあることも考えられるが・・・)。より身近な日本人に書いてもらいたかったゆえんである。
一方外国人(米国人)ゆえの分析の面白さもある。一つは海外(主に米英)にある未公開資料(海外銀行のアーカイブに残され資料(特に戦争債発行条件交渉)や、高橋と外国人の間で交わされた私信など)の発掘。これらの文書を含め高橋の交渉力と英語力の関係を深く掘り下げていること(著者はこの力を極めて重要視している)。さらに日露戦争の勝因に対する覚めた分析がある。「日本海海戦に参加した戦艦・巡洋艦17隻の内14隻は英国製であった。陸軍の小火器の多くは、アメリカの技術を用いたものだった」また「燃料調達・補給にシェル石油が果たした役割が大きかった」と述べ、英米との関係に目を向けさせる。さらに日本人が軍事的勝利にばかりに目が行き、東郷元帥・乃木大将を“神格化”し、高橋の努力を過小評価していることを批判している。
なお、本書は二人(故人)の日本人研究協力者(安場保吉;大阪大学経済学部、玉置紀夫;慶應義塾大学商学部)に捧げられている。

4)東大卒プロゲーマー
1998年私が社長を務めていた東燃システムプラザは親会社の大株主の意向で横河電機に売却され、オフィスを恵比寿の目黒川沿いに新設されたビルに移した。そのビルの上階にデジキューブと言う会社が入り、カジュアルな服装の若者たちとよくエレヴェータで一緒した。ある時OR学会の役員の一人である旧知の大学教授にお会いしたので問うたところ、この会社の顧問をやっているとの返事。ゲームソフトの会社で、プログラミングテクニックだけでなく数理の知識が必要とのこと。数理の意外な使われ方と学生のような従業員のミスマッチングに驚いたものである。この会社はやがて株式を公開、駐車場からポルシェが出入りするようになった。その後間もなく業容拡大でビルを出ていったが、丁度社長を退任した2003年その会社が自己破産したことを知った。業界の消長の激しさを目の当たりにして、少しこの世界に関心を持つようになった。
この本のタイトルを見たとき、まず先の教授の話が思い起こされ、てっきりゲームソフトで一獲千金を得た東大生の話と思った。奥付の著者経歴には工学部卒とある。どんな数理が使われているのだろう?どんな会社なのだろう?これが購入の動機である。“ゲーマー”に注視すべきであった。完全な早とちり、これはゲーム作りの本ではなく、ゲームをしてお金を稼ぐ人の世界を描いたものだった。何のゲームをするのか?コンピュータ上で戦う格闘ゲーム(格ゲー)である。例えば“ストリートファイター”のような。そんな“遊び”で食べていけるのか?何故東大出が?何百回となく発せられた問いに応えるために書かれたのが本書である。
格闘ゲームとはいかなるものか?決して操作技術(重要なファクターだが)だけで勝てるものではない。個人戦・団体戦、種々のタイプのゲームがある。そこにはキャラクターと呼ばれる格闘家が何人か居り、格闘家の技も幾種類もある。さらにそれらを動かす人間がいる。すべての格闘ゲーム、すべての格闘家、すべての技に精通することは不可能だ。従って、自分の得意なゲーム、好みの格闘家、選ばれた得意技を持つこと、それを研ぎ澄ますことで特定ゲームの高位プレーヤーになる。しかし、同じゲームでも対する相手が変わり、キャラクターが変われば、同じ手では勝てない。一本勝負は少ないので、対決相手の特徴を読んで次の戦法を考える。
また、人気ゲーマーはただ勝てばいいわけではない。意表を突く新たな手、読みの深い観客(世界大会はラスベガスなどで大勢の観客を集めて行われる;動画配信の視聴者は10万人を超す)がわくわくするような手を打てて初め一流のゲーマーと認められる。その点著者はとにかく勝てばいいと言う考えでやってきたことを反省し、戦い方を変えることに挑戦し始めているようだ。くだらない遊びと思っていたが、囲碁・将棋同様奥の深いゲームなのである。
現在世界でプロは3040人。ゲームソフト会社の契約社員として製品開発に加わったり他社製品の評価をしたり、その他のスポンサーの製品販売活動に協力すること(例えばスポンサー名が入ったTシャツを着て大会に出る)で固定収入を得るとともに、各種大会(日本だけでなく世界各所で開催)に出て賞金を稼ぐ。本書の中で「桁は違うがプロゴルファーと同じシステム」と述べ、「目指すは格ゲー界のタイガー・ウッズ」と宣言している。
動機は小学1年生の時初めて遊んだストリートファイター2。親は「成績が良ければゲーム機やソフトを買ってあげる」という育て方。相乗効果?で、ゲームセンター通いをしながら麻布学園(中・高)へと順調に進む。無論大会にも出てトップクラスのゲーマーとして名を知られていく(高校2年で初の世界タイトル獲得)。3年生になり受験モードに切り替えたとたんに体調は不調、情緒も不安定になり結局受験に失敗、ゲームモードにもどし一浪して合格。世界選手権で好成績を連発しながら工学部に進み、最終年やっとゲーム以外に打ち込める世界、バイオマテリアルに関する研究に取り組むことになる。その成果は国際学会で賞をもらうほど高い評価を受けるのだが、大学院進学コースは他校からの志願者を含めて試験の成績によって仕切り直しになる。大学院進級には問題ない成績ながら、バイオマテリアルは人気コース、他校からの学生に弾かれてしまう。それまでの人生最大の挫折。こうしてゲーム一本で生きていくことを決意する。結果は現在優勝回数世界一(だからと言って日本最強のプレーヤーではない)。
新製品が次々と現れ、その都度やり方が変わるのはゴルフ(コースは変わるが)、囲碁・将棋とは違うところ。いつまで続けられるのか?そんな疑問が残った。
軽い内容だが、知られざる世界を垣間見る面白さに満ちた一冊であった。ただコンピュータゲームに関心の無い人にとっては、“若者の半生記”が役に立つとは思えない。
因みに“ときど”はリングネーム。有名キャラクターが叫ぶ「んで、ックして、うしたぁ!」に由来。TOKIDOの方が知名度が高いようだ。

5)デーニッツと灰色狼
2次世界大戦における英独間の最も有名な戦いは“バトル・オブ・ブリテン”、欧州大陸を席巻したドイツが英国を屈服させるために仕掛けた航空侵攻作戦である。トラファルガー海戦に匹敵する救国の戦いとして、それに勝利した当時の英空軍指導者の名前がウェストミンスター寺院内一角の空軍チャペルに刻まれている。しかし、もう一つの戦い“バトル・オブ・アトランティック”こそ英国の存亡を賭けた、壮絶な戦いであったことは前者ほど広く知られていない。開戦から終戦まで続いた、英国シーレーンを巡るUボート艦隊対連合国対潜部隊の戦いである。本書はこれをドイツ側から克明に描いたものである。
欧米では新兵器が戦略兵器に育つプロセスに強烈なカリスマが存在する。英空軍を世界初の独立軍種にしたトレンチャード、それに薫陶を受け、米空軍独立を目論み軍籍剥奪されたミッチェル(のち名誉回復)、「空を飛ぶ物はすべてオレのもの」と豪語したナチス空軍相ゲーリング、ドイツ装甲軍生みの親グーデリアン、それに本書の主人公、開戦時のUボート艦隊司令長官デーニッツらだ。
デーニッツは第一次世界大戦時からのUボート乗り、艦長(中尉)として地中海で作戦中操艦不能となり艦を自沈させ英軍の捕虜となる。終戦後帰国、ヴェルサイユ条約で許された小海軍(Uボートは不可)の士官として水上艦の艦長(中佐)を務める。ナチス政権成立後1935年英独海軍条約で本格的海軍再興が許されるとUボート艦隊創設の指揮を任される。
第一次大戦開戦前ドイツ帝国海軍の戦力は七つの海に広がる英国海軍の60%まで高まっていたが、大陸軍国はこれを有効に活用出来ず、戦略力となったのはこの時もUボートだけだった。にも拘らず第3帝国海軍再興に当たり海軍上層部は依然大艦巨砲主義が横溢、デーニッツの潜水艦建造計画(最低300隻)は、何度建白書を提出しても全く軌道に乗らない。開戦時デーニッツ(代将)の手に在ったUボートは約60隻、大西洋で戦えるのはわずか15隻に過ぎない(残りは沿海用小型)。それでも運用の妙、勇敢・有能な艦長・乗組員によって、初戦で英海軍基地に在った戦艦ロイヤル・オークや空母カレジアスのような軍艦を撃沈、シーレーンを行き来する商船を次々に沈め、英国への生活・戦争物資供給を締め上げていく。
本書はその作戦活動域のすべて、大西洋のみならず地中海、北米大陸沿岸、カリブ海、北極海、インド洋(ここではマレー半島のペナンに在った日本潜水艦隊基地を共用)はては黒海まで、を網羅してUボートの戦闘と司令部の動きを活写する。
私が本書で知りたいと思ったことは、ドイツ側がどれほど連合国(主として英国)の対潜能力と執念を理解し、それに対抗したかにあった。OR(オペレーションズ・リサーチ;戦争における数理利用)の歴史研究で英国に居たとき指導教授が提供してくれた資料の大半が、対潜作戦への適用とその効果に関するものだったからである。Uボートの転機は1943年前半から始まる。商船の撃沈率は低下し、逆にUボートの損失が急増する。この時期潜水艦隊の中央部はこれをどう捉えていたか?
何故護送船団は待ち構える狼たち(Uボート)をかわすようになったのか?何故潜水艦発見が早くなったのか?何故撃沈率が高まったのか?充電のため夜間水上航行中突然対潜哨戒機が現れ強力なサーチライトで照射されるのは何故か?スパイが居るのか?暗号が解読されているのではないか?(エニグマ解読は戦後もしばらく極秘だったから、本書の書かれた時点;1953年でも明らかにされていなかった)、特殊な潜水艦探知兵器や攻撃兵器が開発されたのか?どうやら電波兵器(レーダー)にその因があることがわかり逆探知装置を装備するが、そこから漏れる微弱電波が次の問題を発することはしばらく気が付かない。また航空機搭載可能なセンチ波レーダーの開発は長く不可能と考えられていたことなどが確かに書かれていた。
それでは情報・数理はどうだろう。英海軍はORを使って、護送船団の組み方、哨戒パトロールのルート・時間・高度の設定、対潜爆雷の深度設定や散布方法、哨戒機整備時間の短縮(実質的に稼働率向上)などを実現し大きな効果があったと評価しているが、そのような面からの疑念解明努力は本書からは全くうかがえない。対するドイツ軍側の数理利用はどこまで行われていたか?確かに戦果・損害の統計分析は行われているが、これを作戦に直接役立てる発想はなく、ORと言うレヴェルではないことがわかった。B部隊と称する情報専任部隊がしばしば登場するが、無線傍受・解析が主務でこれはどこの海軍も行っていたことだ。
デーニッツは常に艦隊強化を海軍総司令官レーダー提督やヒトラーに訴えるが、なかなかはかばかしく進まない。隘路はレーダーの存在である。彼は砲術出身の大艦巨砲主義者。デーニッツ軍団と言われ、独立軍種に近い性格を持ち出した潜水艦部隊の増強に嫌悪感さえ漂わし、潜水艦隊を二分することまで命令する。このような対立関係が解消するのは、ビスマルク、テルピッツ2隻の戦艦を沈められ、ヒトラーの怒りを買ってレーダーが辞任し、デーニッツが後任の総司令官(元帥)になる1943年以降である。ヒトラーお気に入りの軍需大臣シュペアーの協力を得て新型Uボート生産に拍車がかかるが時すでに遅し、就役する頃にはフランスにあった基地は次々と失われ、潜水艦戦争は実質作戦不可能になる。
ヒトラーがドイツ敗北を予想し、自分の死後の後継者としてデーニッツを指名する。長くNo.2だったゲーリング、親衛隊のリーダー・ヒムラー、官房長官のボルマン、より知名度のあった陸空の将星を差し置いて彼が選ばれたのは、政治的野心が全くなく、職務に忠実でかつ実績を上げていたことから来ているのだろう。ヒトラーは最後にドイツにとって最適の人材登用を行った。連合国間で意見の食い違う終戦処理を見事に果たして獄につながれる。ニュルンベルク軍事裁判では検察側が絞首刑を求刑したのに対し判決は懲役10年、これで済んだのは、騎士道精神に則った戦い(中立国、非武装の船に対しては交戦法に従い、停船命令、臨検、乗組員退船確認ののち沈めるケースが多々あった)であったとの弁護側の主張が認められたことによる。判決を下した後裁判長(英国人)は次のように付言する「この刑は海軍作戦指導とUボート戦の違法性とは関係なく定められたものである」と。Uボート部隊の名誉が守られたことを喜んで役に服し、釈放後本書出版に際し「二度の大戦のUボート戦士たちの思い出に」との一文を寄せている(ドイツでのオリジナル出版は1953年、この寄稿文の日付は1957年(釈放は1955年以降のはずである;西ドイツ主権回復)。この矛盾は多分日本語訳の原本がそれ以降の版で、あとから付け加えられたものであろう)。
生みの親が認める真のUボート全史、“戦略軍事システムから学ぶ経営とIT”に欠かせぬ資料である。
著者は17歳(1926年)で海軍に入隊するが、目の病で一旦除隊、法律を学びジャーナリストとなる。新海軍発足後現役復帰、デーニッツの下で潜水艦隊報道官を務めている。戦時の内部情報に詳しいのはここからきているのだろう。“身内”というバイアスを差引いて余りあるものがある。例えば叙勲の話が頻繁に現れ、その理由がかなり詳しく説明される。撃沈した艦種・船種、トン数、隻数、場所などによって授与される勲章が違い、その基準がよく理解できて面白い。

注;本書を入手したのは昨年11月、神田神保町の古書店である。日本語訳出版は1975年、出版社は現存していないことを付記しておく。

7)工学部ヒラノ教授の青春
本欄お馴染み“工学部ヒラノ教授”シリーズ第8弾。OR学者の余技から本格的エンジニア作家に転じて、著作活動ますます盛んと言ったところである。本シリーズ以外も含めると既に20冊近くの作品が手許にある。本職の作家が執筆対象を一作ごとに変えるのと違い、この著者の場合自らの体験が専らの材料である。同じ食材を使いながら次々と異なる種類の創作料理を作り出すクリエイティブなシェフと言ったところであろうか。今回の料理は“彼岸の父へ”と名付けたい。
本書は2部構成になっており、第1部-カリフォルニア・サンシャイン-は博士号を取得するまで学んだスタンフォード大学での日々、第2部-凍えるウィスコンシン-は本格的研究者の出発点となるウィスコンシン大学数理研究センターでの出来事から成る。しかし、エピローグこそ本書の肝で、短いがここを第3部としたいくらいである。二つの地でのストーリーに流れる通奏低音が、2部の終章近くから主題に転じ、エピローグで独奏に急転する。共通する旋律は“父”である。
学者になりたかった。しかし博士課程には進めず不本意な民間研究所の研究員でいるところに舞い込んだ幸運、スタンフォード大学博士課程への留学。派遣元の研究所は博士号取得を条件としてはいないが、何としても取得したい。地方大学の数学教官を務める父はこれが無いために教授昇格が叶わなかったからだ。取得にかける釈迦力の努力。見事パスするが、論文には数学的に欠陥があった。
健在だった父も研究所も喜んで迎えてくれるが、学者への道が見えたわけではない。そこへ数理研究ではトップクラスのウィスコンシン大学数理研究センターへ客員研究員で迎える話が来る。二つ返事で出かけてみると、受け入れ側の最大関心事はあの欠陥論文、それまでにそこに気付いていた研究者はいるのだが、ここでは知られていなかった。手の平を返かえしたような扱い(講演を行った米国の地方大学から教官とし招聘されるが所長が推薦拒否)の中で、父の病状悪化が伝えられる。投薬ミスが原因と思われるアルツハイマー病状態になってしまっているのだ。
帰国後運良く新設の筑波大学助教授のポストを得るが、学内抗争などで研究者としての活動は全くできないし、予想しない人事などで博士号は持つものの教授昇格は50歳代になる可能性が高い。万年助教授だった父の二の舞か?そんな不安に苛まれる日々を送る中で父は逝く。幸いその後東工大一般教養教授から専門課程の教授に変わり、我が国金融工学の先がけとして研究実績を上げ、停年退官後は中央大学教授と、“万年助教授”のトラウマからは解放される。そしてOR学会会長に指名され、歴代会長の中に父の大学時代の同級生がいることを知る。しかも父が在職中その地方大学の学長を務めていたのだ。教授昇格を抑え込んだのは彼か?
これ以降はミステリーの結末と同じになるので省略するが、父の博士号取得未達の秘話が明らかにされる。
読了後久し振りに目頭が熱くなった。余技ではなく真の小説家を名乗れる感動の作品である。

以上
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