2. 1988年経営トピックス-1;経営方針
新経営陣として先ず手掛けたことは経営方針の確認である。社長のSMZさん、MYIさんはともに情報システム室での勤務経験は長かったが、SMZさんは東燃役員(1984年取締役)就任以前の経理部長時代から、MYIさんも1984年広報室が新設されその初代室長に任ぜられて以降情報システムとは関わりがなくなっている。つまりSPINの創立には経営会議や部長会の場で話を聞いてきたに過ぎないので、新会社の経営状況と変化の激しいIT技術・利用環境に関する認識が従業員とかなりギャップがあった。加えて創立50周年(1989年)を目指して全社の高度情報化を目指すインテリジェント・リファイナリー(IR)構想が立ち上がり、グループ外部への事業拡大と内部プロジェクトへの経営資源割り当てに難しい舵取りが予想される時期でもあった。設立から3年、やっと経営も軌道に乗り始めたところだから大きな経営方針の変更は必要ないと思ったが、経営の意思統一、従業員との一体感の醸成は大事なことである。
新経営陣で今までの経営を知るのは私だけ。その私も役員登用を告げられた時から、従業員時とは異なるこの会社に対する気持ちが芽生えてきていた。“新事業への夢”よりは“生き残り”への拘りである。表(従業員、株主)に向けては夢を語り、実際は必死で“生き残り”策を考える。そしてこの“生き残り”が2003年社長退任までの15年間の会社経営に関する私の根底理念だったと言ってもいいだろう。
ここに至った背景の一番大きなことは東燃の子会社役員登用システムにある。特別な例外を除けば、出向ではなく転出になる(後年他社ではプロパー社員を雇いながら社長まで出向者の子会社が多々あることを知って驚いた。これではまるで“会社ごっこ”である)。まだ49歳、上の子が17歳、2番目は15歳、一番下は10歳の時である。これで退職金を受け取り、就任に際してNKH社長からは「これからの君たちの評価は損益計算書次第」と告げられ、年俸(ボーナスなし)は親会社が決める。順調に経営すれば親会社役員に登用と言う事例もない。当に退路を断たれての経営参加である(分社化や新事業創出に関してここは議論のあるところだが、SPINの場合はこれで良かったと思っている)。
この時の“生き残り策(外向けには成長戦略)”は、結論から言えば創設時の経営戦略を踏襲するものだった。“(広義の)化学プロセス工業における、No1システムゼネラルコントラクター(今で言うシステムインテグレータ)を目指す”ことである。SMZさんもMYIさんも事務系(経理系)の人だが、プロセス工業への絞り込みに差別化因子があることは直ぐにわかってくれたし、プラント操業活動をお金に換える情報処理ではむしろ私よりは経験豊かだったから、市場規模の伸びが著しい事務関連(販売、経理、購買、人事など)システムでもその強みを発揮できる既存の経営戦略に全面的に賛成してくれた。
ただ方針が決まればあとは問題なしと言うわけにはいかない。成長するマーケットで生き残ると言うことは少なくともその成長に遅れをとらないこと、さらにはNo1を目指す具体策策定が必要である。火急の課題は、IRプロジェクト要員を含めた人員増強、増えた従業員の働く場所の確保、TCS(東燃コントロールシステム)に限られているプラント操業系サービスを他の業務(生産管理、プラント保守、品質管理など)エリアに拡大すること、それらすべての基盤となる市場開拓・営業力の一層の強化など経営課題は山積みしていた。人員増強や営業力強化は主にMYIさんが、プラント系ビジネスの展開には私が当たることで問題解決の道を探っていくことになる。
(次回;1988年経営トピックス;つづく)
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