2. 1988年経営トピックス-5;飯田橋オフィス
清水電算機センター構想を検討している時期、併せて大きな課題となっていたものは、経営計画で当面のゴールとなる社員数(2000年に300名)とそれを収容できるオフィス・スペースであった。清水工場に2台の大型コンピュータとその運営管理要員(経理センター支援要員を含む)を移し、その空きスペースをしばらく利用できても、到底300名は吸収しきれない。それにソフト開発サービス会社の収益構造から考えても、コスト+αが許される親会社関連業務が、外部業務増加により相対的に減じると、利益率は低下していく。都心の一等地でそれが持続出来るような環境ではないのは明らかだ。
清水のオフィスはまだ余力はあるが、日常のビジネスは東京を中心に動いたから、ソフト開発要員をそこへ集中することは得策ではない。現在東燃本社に同居するSPIN本体、品川オフィスに分遣している技術システム部門を統合し、さらに将来構想を見据えた新オフィスを持つべきだ。こんな声が社内外から高くなってきた。
竹橋に居を構える東燃本体にも、本社機能の強化(工場のスリム化、関係会社を含む効率化)と“模索から展開”に移ろうとする新規事業を中心に、手狭になってきていたオフィスのやり繰りに苦慮していたことから、このオフィス問題は本社、子会社の東燃不動産と一体となって進めることになっていく。
浮かび上がってきた候補の一つが、8月末に完成予定の秀和飯田橋ビルディングである。地下1階(駐車場)地上8階、延べ床面積約5千㎡。とてもSPIN一社で借りきれるような物件ではなかったが、ここへ東燃不動産、東燃テクノロジーも一緒に移り、応接スペースや講堂(人員増に従っていずれオフィスに転用)などを共同利用することにして、一棟借りすることでまとまった。
場所は飯田橋駅(JR、地下鉄東西線、やがて南北線も開通)の北東約5分、新宿区と文京区の区堺(地番は文京区後楽)、近くには神楽坂や大曲など古くからの繁華街や住宅地も混在する、至極便利で面白い所であった。東燃本社とは東西線で二駅しか離れていないのでその点でも良い位置にある。また、ビジネスで関係の深い富士通、IBM、横河電機との往き来や、東海道・山陽新幹線沿いに多いプラント関連顧客と清水へのアクセスにも竹橋と変わらぬ利便性を確保できる。
この新オフィスへの引越しで評価できるのは、会社としての独立性の高まり、従業員の全体的な士気向上である。古くからの東燃従業員(出向者)の一部には東燃離れを苦痛と感じる者がいないわけではなかったが、将来の中核を期待されるプロパー社員(新人、中途入社)からは圧倒的に支持された。子会社意識、業務環境・労働条件の違いからくる見えない重石が取り除かれ(出向者との微妙な壁は残るものの)、独立した会社らしくなってきたのだ。
竹橋に居たときこんなことがあった。当社は初めて大学卒女性社員をSE候補として採用した(必ずしも情報技術の専攻者ではない)。彼女等の採用条件に男女の差はなかった。これが業界標準である。東燃の一般事務職には大勢大学卒の女子社員が居たが(大体縁故採用の“良家の子女”)、これらの人は男子大学卒とは確実に扱いが違っていた(ごく少数の総合職採用女子社員は男女差なし)。この扱いの差が気に入らない(おそらく年収ベースでは東燃一般職女子社員の方が高かったと思うが、“会社の格が違う”と言う意識が勝るのだろう)。つまらぬ(例えば「トイレでタバコを吸っていた」)SPIN社員批判を上司や人事にご注進する。
こんな“いじめ”も含め、親会社優越感・子会社劣等感は新オフィス移転で一気に薄まり、会社発展に大きく寄与してくるのである。新オフィスのオープンは年の瀬も迫る12月5日だった。
(次回;1988年経営トピックス;社名と資本金)
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