2. 1988年経営トピックス-3;韓国油公-2
当時の油公本社はソウルのマンハッタン島と呼ばれた、漢江(ハンガン)の中洲、汝矣島(ヨイド)に在った。ソウル中心部から見るとかなり南西部になる。宿泊先は韓国モービル石油の副社長をしていた大学時代の友人が用意してくれた旧市街南の小高い山、南山にあるハイアットだった。この辺り一帯は外人居住区となっており、友人もその種のアパートに住んでいて、ホテルに付帯するジムのメンバーだったからである。今回の仕事は月曜から木曜日まで、初めての訪韓と言うこともあり、土日の週末はこの友人にソウル案内をしてもらうことにもなっていた。
金浦空港からはオリンピック用に準備された外国人向けタクシー(必要最小限の英会話ができ、メーター制、車両もきれい)に乗りホテルに向かう。漢江南岸の自動車専用路道路は高架型の首都高などと比べるとカーブや高低が緩やかで快適に飛ばせる。しかし、市中の運転マナーは酷く、東京オリンピック当時の神風タクシーを連想させた。クルマから見た街中の第一印象は「こんなに日本と同じような外国があるのだ!」ということである。
その夜友人と夕食を済ませ部屋で休んでいると、電話がかかってきた。今回のエスコート役、蔚山コンプレックス電算課長の李俊熙(通称JHまたはJohney)さんからである。無事着いたことの確認と月曜日の朝ホテルに迎えに行くとの連絡。しかし、夕食時友人が社用車を準備してくれたことを伝え配慮を謝した。この人は今回のACS導入プロジェクトの最初からSPINとの連絡調整役を担ってきており、下肢が不自由であるにも関わらず、その明るく真摯な性格、献身的なサービス精神とエネルギッシュな行動力には魅せられてしまう(本欄<遠い国・近い人>で紹介。交友は今に続き今年もメールで新年の挨拶と近況報告を交わした)。
汝矣島の本社は一棟全体を油公が占める。役員フロアーに近い上階ワンフロアーが電算部の職場で東北の角に安泰亨担当理事の部屋がある。JHに先ず連れていかれたのが、朝日の差し込む明るいその部屋。安さんはACS採用に先立ち和歌山工場を訪れているが、その時はお互い顔を合わす機会が無かったのでこれが初対面になる。小さな目でチョッと膨れっ面、第一印象は気難しそうな感じであったが二人だけで話す(英語)うちに気分がほぐれ、「これはなかなかの人物だ」と変わっていった。よく勉強しており、鋭いのである。特にIT利用の経営面からの視点にそれを痛感させられた。自己紹介に依れば大学では化学を専攻、兵役を済ませた後1968年に油公に入社、専ら工場で試験室関係の仕事に従事していたが、ある時からOR(主に統計)に関わるようになりITの世界に入ったとのこと。英語が達者なことに賞賛の意を表すると「大学入試の参考書は日本語のものを使ったよ」との返事、日本語も読むことは出来るらしい(因みに後で知ったのだが、出身校はこの国の最高学府ソウル大学である)。この人ともそれ以来長い付き合いをすることになり、常務理事、子会社のYCC(Yukong Computer & Communications)専務、さらにSKグループの二本柱のもう一つSKテレコム専務研究所長時代(’90年代後半)まで続くことになる(その後韓国通貨危機の際SKグループを去り、JHによれば「あまりハッピーではない」とのこと。残念である)。
その日の昼食も夕食も安さんとJHを含む彼のスタッフと一緒だったが、部下たちの敬意と信頼が伝わる気持ちのいいものだった。
本社では東燃のTCSプロジェクトや日本の石油精製・石油化学におけるIT利用の現状など、あらかじめ先方から求められていたプレゼンテーションをいくつかこなし、1日半のソウル滞在を終えた。辞去する際安さんに言われたことは「長い付き合いをしよう」と「JHはハンディキャップにも拘わらず、頑張り屋で極めて優秀なスタッフだ。大いに彼を盛り立ててやってほしい」と言うことであった。
最初に知り合った韓国人が油公の人々であったことが、私の韓国観を作り上げていく。
(次回;1988年経営トピックス;“韓国油公”つづく)
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