2. 1988年経営トピックス-3;韓国油公-3
油公本社訪問の後は同社唯一の生産拠点である蔚山(ウルサン)コンプレックスへ移動した。同行してくれたのはJHと本社情報システム部長の崔(チョイ)さんである。
蔚山は半島の東側古都慶州の少し南に在る。通常ソウルからの交通は空路が早いが、蔚山空港は滑走路が一本の地方空港、この一帯は季節によって霧が発生しやすく、航法設備が十分整っていないこともありよく欠航する。その後しばしば釜山に飛んであとはタクシーと言う目にもあっている。しかし、初回のその時は問題の無いフライトだった。空港にはJHの部下がクルマで迎えに来てくれており、工場へ直行した。記憶に残るのは工場周辺の悪路である。工業地帯開発のスピードにインフラ整備が間に合わないのだ。
蔚山は仁川周辺、浦項などと並ぶ韓国の重工業地帯として開発が進んでおり、最も代表的な企業は現代グループ、造船のほか自動車もここを拠点としていた。次いで大きいのが油公。いずれも旧市街からは遠く離れ海岸に立地していた。市街とこれらの工場を結ぶ道路は工場団地や新市街開発と併せてそれなりに計画的に進めていたのであろうが、初めて訪問する者には大混乱に見えた。
それでも一旦工場に入れは、事務所も緑地帯もきれいに整えられ、我が国の新鋭工場と遜色なかった。大きな違いは、プラントが埋立地のような平坦地ではなく、高低差のある丘陵地帯に建設されており見慣れない景観を呈したことである。私が案内されたのは本事務所。先ず旧知でコンプレックスのNo.2 、技術部門のNo.1 である崔(チェ)理事を表敬。次いで電算課長であるJHのスタッフやコンピューター・ユーザー部門の制御技術者たちと会う。一部のメンバーは研修で当社にも出かけてきていたから初訪問・初対面の堅苦しさは無かった。ここでもソウルの本社同様、いくつかのプレゼンテーションを足かけ2日間行い、コンピュータ関連以外の管理職やエンジニアとも交流できた。この間日本人として一度も不愉快な思いをさせられたことはなかった。と言うよりむしろ大変丁重にかつ親しく扱ってもらったと言っていいだろう。
そんな雰囲気であったから、コンピュータ関係のスタッフが集まった座談の席で、今回のプロジェクトにおける当社のサービスについて率直な感想を聞かせてもらった。気がかりだったのは長期出張していたキーパーソンのHSYさんが韓国語は言うに及ばず英語も会話力が決して高くなかったからである。しかし、それは全く杞憂であった。若いスタッフは口をそろえてHSYさんを称賛し、彼を師と仰いでいることを語ってくれたのである。「コンピュータ言語さえ分かればなんとかなるさ」は当にその通りであったのである。
このプロジェクトの成功は、両社の信頼関係を高め、SPINのみならず東燃グループの他の外販ビジネスに関心が向いてくるのである。
コンプレックスの歴史は大韓石油公社時代、1960年代初期の蔚山製油所建設に遡る。その後外資時代(Gulf Oil)、SK資本と経営資本が変わる中で拡張が続き、その時々で必要なプラントを建設してきているのだが、プロセス・ライセンサー、機器納入者、建設業者はプロジェクトごとに変わるので、工場全体として統一された技術基準が無く、竹に木を継いだような状態で、運転管理やプラント保全に支障が出てき始めてきていた。この訪問でそれらに関してのビジネスの可能性が出てきたのである。これについては別途紹介する機会を設けるつもりだが、とにかく自力で進めた海外ビジネスを成功させたことは、誕生3年目の弱小企業に大いなる自信を与えてくれたのは確かである。
その後1997年まで毎年1~2回同社を訪れることになるが、この間蔚山コンプレックスの石油精製能力は100万バレル/日(現在は84万バレル)を超えるところまで達し、一時期は世界最大の能力を有するまでになった(現在はインドの製油所が世界一。因みに日本最大は日石根岸の27万バレル/日である)。
(次回;1988年経営トピックス;清水計算機センター)
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