2. 1988年経営トピックス-4;清水電算機センター
この年日本経済はまだまだ上昇中。情報技術もダウンサイジング(PC化)、ネットワーク(まだインターネットではないが)、リアルタイム化、日本語OA環境普及などで活況を呈していた。中でもソフト開発を中心とした情報サービス市場は事務系(会計・購買・営業・人事など)のアプリケーションの伸びが著しい。当社もより差別化の出来る技術系ビジネスよりはこちらの方に引き合いが強く、受注に困ることはなかった。ただ、事務系分野はどうしても規模がある程度大きくないと採算面で苦しく、この点が社員の少ない我が社の弱点になっていた。この解決は、東燃育ちのベテランSEとバランスをとりながら、新人、中途入社、派遣社員で対応することになる。ここで次の問題が出てくる。ソフト開発受注方式として一括受注を基本にしていたから、作業場所は自前で準備する必要があるのだが、既存オフィススペースに限界が出てきていたのである。
皇居に臨む一等地、パレスサイドビルに事務システム開発部門、電算機室、管理部門が居り、前年確保した品川オフィスに技術システム開発部門という布陣であったが、いずれもこの年の業務要員で満杯状態。1989年以降のために抜本的な手を打たなければならないのだ。加えて、1987年の創立記念日にNKH社長がメッセージを発したIR(Intelligent Refinery)構想が具体化すると現在のメインフレームに加えて、全社生産管理用の電算機システムを新たにもう1セット導入設置する必要がある。そんな余地は既存電算機室には全くない。人も機械も収まるところが無いのだ。
実はオフィススペースの問題は会社設立検討時から存在した。しかし、新規事業の先行きが見通せない段階で、具体的に将来構想を考えるよりは、「今のオフィスで出来るところまで行ってから」とスタートした経緯がある。ただ、その準備段階でチョッと話題になった場所として清水工場の活用があった。この工場は石油自由化・規制緩和で精製工場としての役割を終え、油槽所への切り替えが進んでおり、第一次石油危機以前、工場拡張に先立ち建設した本事務所はがら空きの状態になっていたからである。だが、これもいきなり営業活動(東京)とソフト開発やコンピュータ管理(清水)を分けることが得策とは誰も思わず、簡単に見送られたのだ。
それから3年状況は大きく変わってきていた。IRに加えて、最大のユーザーである経理部門に大変革が起こりつつあったのだ。1988年東燃グループでは役員の大幅な入れ替えが有ったことは既に述べた。それまでの経理・財務担当役員であったSMZさんは当社の社長になり、後任はそれまで経理部長であったFJMさんが担うことになったのだ。NKHさんが社長になると「本社各部もプロフィットセンターになれ!」と発破をかけていたが、FJMさんは部長時代からこれに対して、新経理システム(FAST;Financial Accounting System of Tonen;これは1986年着手)の開発、それに基づいて全社の経理機能を清水工場に集中化し大幅に省力化する案を数年前から検討しており、役員になるとそれを実行に移すことを決したのである。
彼は私やSPIN取締役のMYIさんと同期入社。「この際SPINの電算機センター機能を一緒に清水工場に移そう」と強力に働きかけてきた。こちらもスペース確保に苦慮していたときだったから“渡りに舟”だった。しかし、電算機移設で空いたスペースでしばらくしのげるのか(この程度では1年がいいところだろう)?どのような形(組織・機能)がいいのか?しばしばメディアに登場する東海地震対策は?全体の経済性は?などなど、解決しなければならない課題は残っていた。
彼は私やSPIN取締役のMYIさんと同期入社。「この際SPINの電算機センター機能を一緒に清水工場に移そう」と強力に働きかけてきた。こちらもスペース確保に苦慮していたときだったから“渡りに舟”だった。しかし、電算機移設で空いたスペースでしばらくしのげるのか(この程度では1年がいいところだろう)?どのような形(組織・機能)がいいのか?しばしばメディアに登場する東海地震対策は?全体の経済性は?などなど、解決しなければならない課題は残っていた。
(次回;1988年経営トピックス;清水電算機センター;つづく)
0 件のコメント:
コメントを投稿