2015年10月31日土曜日

今月の本棚-86(2015年10月分)


<今月読んだ本>
1) 満州国演義(123)(船戸与一):新潮社(文庫)
2) 伊四〇〇型潜水艦最後の航跡(上、下)(ジョン・J・ゲヘーガン):草思社
3) 百歳までの読書術(津野海太郎):本の雑誌社
4) ニュルンベルク裁判(アンネッテ・ヴァインケ):中央公論新社(新書)
5) 鉄道デザインの心(水戸岡鋭治):日経BP
6) フランス産エリートはなぜ凄いのか(橘木俊詔):中央公論新社(新書ラクレ)

<愚評昧説>
1)満州国演義(123
在満体験は、誕生から7歳までの短い期間(1939年~46年)ながら、私の人生総ての枠組みを形作った基盤と言っていい(根底にあるのは“如何に生き残るか”)。あの戦争に対する歴史認識、我が国を巡る国際関係の見方(卑近なところでは難民問題)、政治信条と選択、進路と職業・就職、友人・知人との付き合い方(特に外国人)、金銭・資産に対する考え方、子供の教育、そしてビジネスマン終盤の会社経営にまで大きく影響している。だから満州物には関心が高いし、本欄でも10冊以上取り上げてきている。ただ、今まで読んだフィクションは唯一山崎豊子の「大地の子」一冊だけで(10代の終わり五味川純平「人間の条件」を読んでいるが)、本書が第2冊目となる。これは特別な理由があったわけではなく、日本人の書いた小説をほとんど読まないこと、そこを舞台にした作品が少ないことからきている。
著者船戸与一の名前くらいは記憶にあったものの、作品を読んだことはないし、どんな分野を得意とする作家かも知らなかった。少し関心を持ったのは、年初に亡くなった時メディアでわりと大きく取り上げられたことくらいだった。それから半年近く経って本書の広告が新聞に出た。“満州国”にも惹かれたが、“演義”にそれ以上の興味を覚えた。“三国志演義”が思い浮かび「面白い題だな」と、中学生時代夢中になって読んだ吉川英治の「三国志」が連想された(演義;本来の意味は「物事を分かり易く説明する」だが、小説の場合は口語体で書かれたものを言う)。広告には来年までにわたり全9巻が出ると予告されている。吉川三国志同様超長編だ。「小説だが何か新しい知識が得られるかもしれない」こんな理由で手に取ることになった。
9巻は1928年(昭和3年)から始まり1945年(昭和20年)で終わるようである。満州事変の勃発は19319月、満州国建国は19323月だから、その前史から物語は始まるわけで、今回読んだ3巻は、事変前(風の払暁)、事変勃発前後(事変の夜)、そして建国とそれに続く支那事変への拡大(群狼の舞)までを時代背景とする。作風は歴史小説と言うよりは冒険小説の趣が強く、実在の人物が石原莞爾を始め大勢登場するが、作者は特別これら有名人に思い入れはなく、史実に基づいて淡々と描かれる。主人公は敷島四兄弟(太郎・次郎・三郎・四郎)と舞台廻し役の関東軍特務機関員間垣徳蔵(佐官級と推察される)という男、いずれも作者が作った架空の人物である。太郎は奉天総領事館参事官、次郎は満州馬賊の頭目、三郎は陸軍士官(関東軍とは別組織の満鉄守備隊から憲兵隊に出向)。四郎は左翼演劇に入れ込んでいる大学生だが、やがて徳蔵の計略で上海の東亜同文書院に移され中国語(北京語・上海語)のスペシャリストに仕立てられていく。激変する満州を取り巻く国内外情勢とこの5人の絡みが本書の骨格を形成してストーリーは進んで行く。
先に「歴史小説よりは冒険小説」と書いた。確かに司馬遼太郎や塩野七生を読んでいてその内容を史実だと誤解してしまうような筆致ではないのだが、それでもノンフィクションとは異なる角度から歴史を学ぶ点は多々ある。よく知られた政治や軍事上の出来事とは別のところ、特に現地における一般庶民(日本人ばかりでなく、満人、華人、鮮人を含む)の日常レベルの話に「そうだったのか!」と覚醒させられる場面に頻繁に出くわすのである。馬賊(緑林ともいわれる)にいろいろな種類があったこと、日本に併合され建前上は“日本人”であった朝鮮民族に対する日満華人との関係、現地農民(開拓団入植前)の土地所有や貸借の実態、農耕方法の民族間の違い、アヘン栽培・取引形態と地方軍閥の関わりなどから、彼の地の統治が通史で語られるものと比べ、如何に複雑で難しかったかが理解できる。また“蛇足”に記すように、私個人として記憶に残る満人高官の実態がかなり詳しくわかったことも、他のノンフィクションでは得られなかった情報であった。
5人の主人公の内最も魅力的なのは馬賊の頭目次郎である。インテリ家庭(父は建築家)に育ち他の兄弟は皆高等教育を受けているのに彼だけは10代末期家を出て渡満、この小説の冒頭シーンに登場する時は28歳になっており、青龍と称する15名ばかりの馬賊の頭目(攬把;らんぱ)になっている。部下は総て満人、言葉も含め完全に現地に同化している。仕事は基本的に請負、傭兵・用心棒・仕置人(殺人)・金品強奪などだが、相手は極悪人や強欲な権力者なので、言わば義賊のようにかっこいい。歳はかなり違うが「七人の侍」で志村喬が演じたリーダーを髣髴させ、より大規模な馬賊の策略に嵌まり部下を失い一匹狼になったところではゴルゴ13に変じる(狙撃は行わないが)。満州に関する新知識はほとんど彼の言動から得られた。
日本人作家の小説はほとんど読まないと言っても、海外を舞台にする冒険小説はそれなりに読んできた。帚木蓬生、佐々木譲の初期の作品は好みに合っていたのだが帚木は医療分野へ佐々木は警察小説に転じ興味の対象でなくなってしまった。今年はスペイン旅行が契機で逢坂剛のイベリアシリーズを読み始めているが、スペイン事情の描写はともかく、人物が軽薄に見えストーリーの緊迫感も今一つだ。それに比べるとこの満州国演義は、人物・ストーリー展開・外国事情・歴史考証すべてに工夫と深みを感じさせ、一級のサスペンス小説に仕上がっている。この3巻から作者が満州とあの時代の日本・日本人をどう評価していいたのかは読み取れないが(関東軍の専横、それを支持する国内世論はしばしば取り上げられるが)、今のところ違和感を覚えることはなかった。次の3巻は来年1月から、自分の生きた時代に近づいてくるので既読3巻を上回る親近感を楽しめるのではなかろうか、こんな期待で出版を待つ日々である。

蛇足1;本書を読み始めて、あまりの上手さに著者経歴を調べてみて驚いた。あの「ゴルゴ13」のストーリー30話を外浦吾郎名で書いているのだ。ただの“劇画”と蔑んではいけない!あれは細部の調査が確りした最高級の国際謀略サスペンスなのだ。これを知って船戸への関心が一気に高まったが、“満州国演義”が遺作になったことは残念至極である。

蛇足2;満州事変で関東軍は主要都市部を抑えた。最大の軍閥東北辺防軍(張学良軍)は無抵抗であったが、ソ連国境に近い北西満州(興安)の地を支配していた馬占山軍は屈しない。この馬占山を懐柔してみせると関東軍特務機関に接近し、一時的にではあるが、これを成功させた韓雲階と言う男が第2巻に登場する。この韓雲階は建国後政府高官(後年父からは財務大臣と聞かされた)となるのだが、その広大な屋敷(通り1区画分を占める)は我が家(社宅アパート2階、中庭を囲んで4棟ありすべて2階建て;全棟で1区画)の東側に在り、テニスコートを含む庭園を2階の窓越しに見下ろすことが出来た(周囲は高いコンクリート壁で囲われその上に通電された有刺鉄線が張り巡らされていた)。本書によれば、名古屋高等工業専門学校出身で夫人は日本人、仲介工作当時は製粉会社を経営とある。数多く読んできたノンフィクションでは全く見かけなかっただけに、本書でその名が出てきたときには、満州の幼き日々が突然鮮明に甦ってきた。

2伊四〇〇型潜水艦最後の航跡
旧日本海軍艦艇とその運用方法を他国と比べた場合、潜水艦だけが際立って違いが目立つ。先ず多種のわりに絶対数が少なく、大型艦(水上排水量2000t以上)の比率が高い。また運用は主力艦隊の哨戒・偵察および敵大型水上戦闘艦奇襲が主務で、通商破壊を目的とする戦略がとられていない。さらに、他国には特殊作戦にしか例のない、制空・制海権を失った戦域への物資輸送作戦に多用されている。同じ戦域(太平洋)で戦った米海軍は1500t前後に集中、主力のガトー級は200隻以上量産されている。任務は通商破壊を専らとし、最終的には内航船すら安全航行できぬほどシーレーンを締め上げた。潜水艦戦争のスター、ドイツのUボートは800t未満のⅦ-C600隻以上進水、発展型を含め主力となっている。これらを小グループにまとめ、潜水艦隊司令部が集中管理し作戦(群狼作戦)に当たらせてきた。事実上水上艦艇とは独立した第2海軍とも言える存在で通商破壊に専念、一時英国を存亡の瀬戸際まで追い詰めている。
我が国潜水艦の特色をもう少し考察すると、他国には全く類を見ない、超大型で航続距離がけた外れに長い艦の存在である。それらは特殊潜航艇や航空機(偵察機のみならず攻撃機を複数)が搭載でき、単独で長躯敵基地や敵国を攻撃する能力を有するものが作られ、作戦していたのである。実はこの発想は現代の弾道・巡航ミサイル潜水艦につながっていくのだ。本書はその様な流れに期せずして関わることになり、1959年進水の原子力潜水艦トライトン(水上5800t/水中7900t;航空機もミサイルも搭載しない通常の攻撃型)出現以前では世界最大の潜水艦伊-400型(水上3530t/水中6560t)の誕生から終焉までをたどる物語である。
山本五十六大将は日米戦の見通しを近衛文麿首相に問われたとき「是非と言われれば、半年や1年は、ずいぶんと暴れてごらんにいれます。しかし2年、3年となっては、全く確信が持てません」と答えたという。彼の頭にあったのは、米国主力艦隊に致命的な一撃を与えた後は、早期に有利な条件で休戦・講和に持ち込むことへの期待だったのであろう。その“一撃”のもう一つのアイディア、米国政経都市(ニューヨーク、ワシントンを想定)をアフリカ南端から大西洋に出て急襲(作戦名;嵐、本書の原題はOperation Storm)、米国民にショックを与え厭戦気分が広がることを狙って生み出されたのが、潜水空母とも言える伊-400型潜水なのである。
その計画要目(実現したものとやや違いもあるが)は、先に記した排水トン数の他、次のような概要である。全長;122m、全幅;12m、速力(水上23.6ノット/水中8ノット)、航続距離;4万浬(7万4千km14ノット)、攻撃機2機(実際は3機;海軍が保有する最大の航空爆弾あるいは魚雷を搭載し1100kmの航続距離を持つ)、航空機射出用カタパルトと回収用クレーン、乗員;157名。これを18隻つくり36機で攻撃する。
無論開戦時には1隻も存在していない。それどころか設計概要が決まったのは19425月だが就役は19451月までかかっている。この間ミッドウェイ海戦敗北、(発案者である)山本の戦死、ガダルカナル喪失、サイパン島玉砕と戦局は厳しさを増し、当初の計画(政経都市急襲)は実現不可能となって、次の目標はパナマ運河への特攻と変わる。就役はしたのもの瀬戸内海での訓練さえ頻繁な空爆・機雷投下で行えず、5月訓練地を能登七尾湾に移して実施するが、硫黄島失陥、沖縄戦の敗北と事態はさらに悪化、運河特攻作戦も中止となる。最後の作戦は米海軍前進基地、ウルシー泊地(カロリン群島)攻撃である。7月訓練を終えた伊-400401は陸奥湾の大湊に移動、232艦は大湊を出港、812日ポナペ島周辺での会合を目指し、それぞれは単独航海を続けていく。日本周辺は既に連合国艦艇で溢れ、ほとんど水上航行は出来ない状態だ。南に向かうにつれ会敵の機会はますます増え、目的地への時間は潜航(23ノット)によって予想外にかかり僚艦と会えぬまま815日を迎える。日本近海での自沈(これは戦闘行為となる)を考える司令(先行している伊-13、-14を含め4艦から成る潜水戦隊の長)、軍令部の命令(降伏)に従い横須賀への帰港を主張する艦長、そこに現れる米潜水艦セグンド。伊-401に最後の戦いが迫る。
戦略上どんな意味があったかを問えばネガティブな評価もあろうが、これだけのものを作れた当時の造艦や航空技術には敬服する。
著者は米国のサイエンスライター。本作品は、日米双方の戦略と戦術・技術と生産・組織と人をその背景や生い立ちまで詳細に調査し、それに基づいて時空を含めて立体的に仕上げた、優れたノンフィクションである。開戦直後の伊-25搭載機(偵察機)による米本土空爆(オレゴン州の森林やロス近郊の石油貯蔵所)、パナマ運河の構造と攻撃方法、潜水艦内部の詳細仕様、搭載航空機(晴嵐)開発の苦難(コストはゼロ戦の50倍!)、海軍内の賛否各論、401接収に当たる米潜水艦と艦長の戦歴、特に人物描写では米人のみならず日本人についてもよく考察・検証されており(401南部艦長を始め何人かの生存者に聞き取り調査をおこなっているし、日本語資料調査に多くの日本人が関わっている)、客観性を持たせるために努力している形跡が随所に見られる。また日時、地名、個人の発言内容、戦果など複数の資料間に違いのある時は、それぞれの引用元を明記した注が付され、著者採用理由が記されている。この点からも良心的な執筆態度がうかがわれる。
戦後米軍に接収された伊-400、-401はハワイに回航され、そこで綿密な調査が行われた後、伊-40119465月、伊-4006月真珠湾沖合で米潜水艦の2本の魚雷で沈められる。執拗に引き渡しを要求していたソ連の手に渡ることを阻む狙いもあったようだ。
それ以来幾星霜、杳として行方が知れなかった4012005年、そして20138月には400がハワイ海底調査研究所の深海探査艇によって発見され12月に公表される。NHKはこれに関心を抱き、201410月から取材撮影を始め、20155月「歴史秘話ヒストリアン」で放映された。コンピュータグラフィックスを駆使した作品は大変見応えのあるものに仕上がっており、私も楽しんだ。本書の米国での発刊はそれに先立つ半年前20132月、NHKが取り上げたのは本書の影響もあったのではなかろうか?

3)百歳までの読書術
来し方の読書歴を振り返ってみると、子供の時は日本全体が貧しく楽しみが少ない時代、本が限られた娯楽(?)の一つであり、未知の世界に容易に触れる機会でもあったから、学校の図書室を利用して子供向けの世界名作全集などをむさぼるように読んだ。基本的には現在の読書にも“好奇心を満たす”要素は引き継がれてきている。ただ高校時代の読書は受験勉強からの逃避と言う面があり、試験前にやたらと勉学とは関係のない本が読みたくて仕方なかったという記憶がある。大学時代の読書は、専門分野への入門書として科学・技術分野の新書を中心に、これと重なるところも多い、趣味の乗り物に関する書物をよく読んだ。一方でこの時期小説はほとんど読んでいない。社会人になっても科学技術と乗り物への関心は変わらなかったが、戦史と企業経営の関係に興味を持ち始め、この類のジャンルが多くなってくる。これと関連して、軍人や経営者の伝記、兵器・技術開発物語、フィクションでは軍事サスペンス(スパイ物を含む)などにも対象域が広がっていく。さらに年を経ると企業経営およびIT関連の書籍、中でも米国で話題になっているもの翻訳物をよく読むようになる。
“老後”について考え始めたのはいつ頃だっただろうか?一番下の子(次女)が生まれたのは丁度40歳の時。少なくともこの頃「65歳位まで働かなくては」との思いはあったが“老後”と言う感じはなかった。しかし仕事を離れたあとの人生について夢が全く無かったわけではない。読書三昧の日々である。ただここには高校時代同様現実逃避(厳しい経営管理からの)願望が潜在していたような気もする。
68歳でビジネスの世界を去った。夢だった“読書三昧の日々”は実現した。現役時代に比べ時間はたっぷりあるのだが、増えた量は年間10冊程度である(60冊→70冊;この程度ではとても多読家とは言えない)。一番大きな理由は本欄執筆にある。これに5日程度かかるので、年間では60日ほど減ずることになる。多く読めば書く時間はもっと取られ、読書以外のことに費やす時間が無くなってしまう。一方で書いて残すという作業で、読み方や読後の印象さらには活用の仕方が変わってきた。また読書対象に変化が起きている。新書や文庫に比べハードカバーや大型本が増えている。内容も経営書が一気に減り、従来から好きだった数理科学、乗り物や旅に関するもの、それに新分野として社会批評や読書論など広義の人文科学系が増えている。ただ濫読であることは全く変わっていない。このままで良いのか?
そこで本書である。もう世のため人のために貢献するチャンスの少なくなった人間として読書をどう捉え(単なる死までの時間潰しではなく)、どう取り組むかのヒントを得られるのではないかと思ったからである。
著者(昭和13年遅生まれ)と私(昭和14年早生まれ)は同学年、都立の進学校から大学へ進む過程も同じだ。しかし、読書に関しては決定的な違いがある。子供の時から20代前半までの蔵書が4千冊、現役時代は年間2百冊くらい読破している(そのために“歩き読み”が習慣化、本をばらして持ち歩く)。実はプロの編集者兼文筆家(後年は大学教授兼図書館長でもある)なのである。こういう人が50代・60代の頃「70代に入ったらのんびり、好きな本だけ読もう」と考えていたその70代がやってきたとき、「こんなはずではなかった!」現実を74歳から76歳までの3年間、「本の雑誌」に連載した同じタイトルの読書エッセイを再構成したのが本書である。
根気・集中力の衰えを、つながりの悪い長い文章、論理展開が複雑で読み下すのに時間がかかと文体を例にあげて示す。少しでも楽な読書をするための道具として拡大鏡や電子辞書の効用を語り、さらにOSR(オン・ザ・ストリート・リーディング)からDTR(デスク・トップ・リーディング)への移行とこれに伴う読書専用机の効果など、身近な高齢者読書環境を紹介する。
取り上げられるのは自身の体験ばかりではない。老いても好奇心の旺盛だった大岡正平(79歳)や原典(フランス語や英語)にじっくり取り組んだ正宗白鳥(83歳)の晩年の読書状況を日記などから分析してみせる。大岡はマンガから最新の哲学書や数学本まで興味は多彩だし、白鳥も「ギリシャ悲劇全集」などを取り寄せるほど古典に傾注するものの、体力低下や病には勝てず、いずれも「最後まで読書欲旺盛とはいかなかった」とその最期を類推してみせる。
職業柄もあるが子供の時から読むのは早いらしい(速読)。しかし米国人の学者などに比べるととてもかなわない。研究推進の手段として如何に多くの関係書籍・文献に目を通しているかが勝負だからである。逆に日本ではじっくり読む方を推奨する傾向がある(遅読)。最近では“スローリーディング”なる言葉も、スローライフやロハスとともに普及、速読批判が強まっている。著者は明らかに昔に比べ速度は落ちたが、遅読を良しとする風潮には同意しない。(衰えたとはいえ)生来のリズムを維持することこそ知的生産につながると考えてのことだ。
「本は買って読むもの」現役時代はあまり図書館を利用していない。だからと言って年間200冊のペースでは保管場所に困ってくる。多読家共通の悩みはその処分。20代前半に一度劇団運営に関わった際4千冊を一気に売却、生活費に充てている。爾来適度な頻度で古本屋に引き取ってもらうのだが、それでも本が少しずつ溜まっていく。いつ来るか分からぬXディに備えて家族に最後の始末を指示するとともに、購入するものを最小限に抑える。このために最近は図書館を利用するのだ。借りることだけが目的ではない。読んで「これは!」と思った本はそれから買うのである。無論経済的な理由もあるが、私と同じように本に書きこみや線を引かないと済まないタイプだからなのだ。
“本を読みながら死ぬ”これが理想なのも私と一緒。急性胆嚢炎で大病院に緊急入院。そこには入院患者が残した本が保管され貸し出されるシステムがある。また売店にも流行の本が置かれている。これに自宅から持ってきてもらう本で2週間の入院中14冊の本を読む。「よし、これならなんとか本を読みながら死ねそうだ」と心底ホッとする。
一冊の本として論旨が一貫性を持って展開するわけではないし、まとまった結論があるわけでもないが、著者の“70代からの”読書観・読書術の数々を一編一編楽しむことが出来た。高齢者の愛読家にはお薦めの一冊である。

4)ニュルンベルク裁判
「戦後レジームからの脱却」2007年第一次安倍内閣の所信表明演説で明言された言葉である。この時には東京裁判を全面的に否定するトーンは感じられなかった。むしろ社会党・共産党・左翼知識人・それと一体となった戦後メディアが作り上げた自虐史観を糺したいとの思いと捉え「全く同感!」の意であった。しかし、基盤がより強固になった第二次安倍内閣発足以来の言動を見ていると、もしかするとあれは「東京裁判をも受け入れない」との主張も含んでいたのではないかと疑うような場面を散見する。あの裁判が今までの歴史にない報復裁判であることは確かなのだが、それではサンフランシスコ講和条約を否定することになり、戦勝国でもない中国共産党政権や韓国につけ込まれる機会を自ら作ってしまう。こんな気がかりから、戦後70年日独で行われた裁判を少し勉強してみようか、と言うのが本書を読むことになった動機である。東京裁判については他の資料で断片的に知識があること、特別弁護人であった清瀬一郎の“秘録”を読んでいることでひとまず置ことにし、偶々本書がタイムリーに発刊されたことで、ドイツのケースを先行させることにした。
著者はドイツ近現代史の研究者。本書は博士論文として書かれたものを下地にした読み物である。従って面白味は欠くものの、彼の地ではニュルンベルク裁判の一般向けの入門書とし高い評価を得ていると訳者解説にあるように、全容を包括的に理解し、この裁判に対するその後の東西ドイツ国内の反応を知るうえで参考になるものだった。
ここで解説されるニュルンベルク裁判はゲーリングを筆頭に24人の戦争犯罪人を裁く国際軍事法廷だけでなく、連合国より国際裁判を委任された米国が行う諸軍事裁判(継続裁判)を含んでいる。ここでは対象者はナチスのエリート;医師・法律家・親衛隊員・警察官・軍人・企業家・閣僚・政府高官など185名が12の裁判で裁かれる。
近代の戦争で勝者が敗者を裁くことはこの裁判まで無かった。当然ながら、連合国内、ドイツでもその当否が議論になる。本書の導入部は連合国各国(米英ソ)における戦争犯罪人に対する対処案が概説される。「アウトロー」と決めつけ、裁判不要・断罪を唱えるチャーチル、これを他の連合国に認めさせるためあらゆる手を尽くす。194310月モスクワで行われた外相会議でもこの方針は合意される。しかし、この案に賛成していたスターリンは国内向けに“戦犯裁判劇”が有効と考え翻意する。ルーズベルトは戦争犯罪人というテーマに関心が無かったが(ナチスエリートに対して冷淡で、スターリンのドイツ参謀本部員全員抹殺説に一度は賛同)、腹心の財務長官のヘンリー・モーゲンソー(ユダヤ系)は「最高級の犯罪者」リストを作成し裁判抜きでの銃殺刑を提言する(これと完全な脱工業化・脱軍事化を合せてモーゲンソー・プランと言う)。しかし、これがリークされ大統領選に不利と見たルーズベルトはモーゲンソーと距離を置くようになり、大勢が国際軍事法廷創設に傾いていく。
罪状・処断も各国事情は異なり、侵略戦争に対する共同謀議に対する弾劾、その罰則規範が固まるまでには紆余曲折がある。また証拠の発見、保全も冷戦開始で自国に都合の悪いものは隠蔽され、押収したものが他に開示されないこともしばしば生じる。そんな工作は証拠資料ばかりでなく検察団の人数にもおよび米国が圧倒、裁判全体が米国ペースで進んで行く。
起訴手続きも米国主導で進められ、被告たちには開廷まで判事や弁護人との面談が一切許されない。弁護士費用(これは当面米軍予算の中から工面)も余裕が無く、まともな弁護が行える状態ではない。この様な弁護苦難な環境下、当然弁護人は裁判そのものの正当性に疑問を呈し、被告らは無罪を主張する。
ナチスと一般ドイツ人の関係も各国事情で微妙に変わる。米国は両者を峻別、専らナチスを悪役に仕立てていくのに対して、フランスはそれに異を唱え共犯性を強調する。この米仏対立はホローコーストの取り扱にもおよぶ。国内事情からユダヤ人虐殺を重視する米国、非ユダヤ系フランス民間人(レジスタンスを含む)に対する犯罪行為を軽視できないフランス、一方でナチスのユダヤ人摘発に協力者の多かったフランスは被害解明に非協力になっていく。
本裁判の判決では24人の内12名が死刑を宣告される(ゲーリングは自死し、官房長官ボルマン行方不明で欠席裁判)。
著者はこの国際軍事法廷の最大の欠陥として「創造された規範が、自らの普遍的な主張にもかかわらず、その後も拘束力を持たなかったことであった。とくに国際刑事法を自国の人権侵害に対して適用することを拒否し続ける大国の態度は、ニュルンベルク判決がさらなる犯罪を抑制せず、大国は事実上ある程度保護されているという結果を導いた」と現代の大国の行動を批判する。
以上は本(A級)裁判に関する要点だが、これに続いて12件の継続裁判が個別に説明される。生体解剖や絶滅収容所における医師の果たした役割、人種法における司法関係者の関与、戦時生産のための強制労働、反ナチ活動捜査における残虐行為、征服地におけるドイツ化(抑留・奴隷化・殺害)などが取り上げられる。軍人でも戦争全体に対するものではなく、前記への個人的な責任を問うところがA級との違いである。これらの裁判は組織の代表者選別から個々の検察や裁判官の判断基準まで問題含みのものが多かったことを浮き彫りにする。
これに続く2章では、戦後ドイツにおける一連の裁判の影響がいくつかの視点から述べられる。例えばA級裁判結審直後のアンケートでは判決を「フェア」としたものが78%、「アンフェア」が46%だったものが4年後の1950年には「フェア」が38%だったのに対し「アンフェア」が30%にも達していることを取り上げ、その原因を探っていく。著者が種々の調査から類推するのは、直後は「党・国家・軍の少数のトップに対する司法的な取り扱い」を是としたことを意味するのに対して、4年後のネガティヴな評価は「連合軍の制裁全体」に対する疑義を呈した結果としている。つまり、戦争に関わる諸問題を何もかも一緒くたにした「勝者の裁き」への批判である。
この他にも、経済復興や冷戦進展に伴う、国内のみならず最もナチス犯罪に厳しかった米国まで含めた恩赦熱の高まりなどもよく掘り下げられており、時代とともに変化していくニュルンベルク裁判観の全体概要がつかめ、「戦後レジームからの脱却」における東京裁判に対する見方を、個人的に整理する糸口を種々見つけることが出来た。

5)鉄道デザインの心
小学生の頃の夢は鉄道技師になることだった。これが航空(中学・高校)、自動車(大学入学時)と転じ、さらに乗り物とは関係ない制御工学(ゼミ・卒論)に変わっても、三つ子の魂百まで、今でも鉄道に対する興味は尽きない。本欄でも新幹線開発に技師長としてかかわった島秀雄の伝記を始め数々の鉄道本を紹介してきた。しかし、本書は極めてユニークな内容で、鉄道車両開発の知見を一新させられた。
“デザイン”とカタカナで書けば“設計”でないことは想像していたが、この“デザイン”が“プロデュース(“製造”ではなく映画やTVで使われる“製作”の意)”であることを教えられたわけである。著者に言わせれば「エンジニアは下(車台)を作り、デザイナーは上(車体)を作る」と言うことになる。確かに電車形式の車両では技術的な主要機器は床下にあり、外装・内装はデザイナーの仕事である。これを知っていれば鉄道技師になりたいと思っただろうか?
国鉄民営化分割後三島JR(北海道、四国、九州)は他の旅客3社(東日本、東海、西日本)と比べ経営規模も地域の経済規模も小さく苦戦している。こんな中でJR九州が株式上場を目指すことになる(2016年度目標)。売上・利益を伸ばすため観光地に恵まれた域内に外部から旅行者を惹きつける眼玉商品が欲しい。こうして誕生したのが豪華列車“ななつ星”である(定員30名)。料金は34日コース二人一室利用で58万円/人~80万円/人と高額にもかかわらず、現時点で予約が受け付けられるのは来年の4月~9月分、それも11月末で締め切られるほどの大人気である。著者はこの豪華列車の構想段階から関わり細部のデザインまでも担当するデザイナー兼プロデューサーの役割を果たした人である。鉄道車両会社に勤務しているわけではなく、建築・鉄道車両・船舶・グラフィックス・各種製品のデザインを行う事務所を経営している。
本書の内容は8割方この列車開発プロジェクトに関する話、経営トップを説得、そのバックアップを受けて一編成30億円の我が国では前代未聞の豪華列車を作り出す。コンセプトの原点は古き良き時代のオリエント急行。旧国鉄のお役所文化が残る会社で“前代未聞”を認めさせるまでの苦労から(経済性と品格をバランスさせる)資材選択と調達、列車専用の特別製作の種々の小物(例えばドアノブやベッドサイドランプ)、人間国宝クラスの工芸職人との付き合い、工法・手法の説明までななつ星がえり抜きの特別仕様列車に仕上がっていくプロセスを、親しみやすい語り口(まるで口述筆記したように)で解説していく。
この人のデザインの根底に“利用者の視点で”がある。これはななつ星ではないが、鉄道車両デザイン全般に対する配慮として、子供や老人の利用を重視している具体例が出てくる。子供と母親が並んで座った時の椅子の高さや大き、あるいは観光列車における子供の専用席や遊び場などがスケッチとともに紹介される。この考え方は車両に留まらず駅舎やその周辺にもおよんでいく。特別な仕掛けをしなくても鉄道好きの子供は多いが、こういう雰囲気に触れるともっと好きになり、将来大事な顧客に育ってくれるだろう。
旅客車両の命は“椅子”とここにいかに注力しているかの話もおもしろい。実現した各種の椅子がイラスト入りで登場。通勤・通学電車の木製革張り椅子を採用しようとすると「コストが高くなるし直ぐに高校生に傷つけられてしまう」「安く作る方法はある。しかも質感を高めることが出来る。丁寧に作られていることが分かれば、いたずらなどしない」結果は著者の読んだ通りとなる。
話をななつ星に戻す。製作に関与した匠は100人以上。木工・金工・ガラス職人・陶芸家(洗面用の鉢は有田焼)、一癖ある職人気質あるいは芸術家肌の彼らをその気にさせ、しかるべきコストで仕事をさせるには、それなりの気配りや使い方がある。時には家具屋の実家で身に着けた加工や組立方法をやって見せたりする。この辺りになると工学部で学んだエンジニアのおよばぬ工芸家の世界とも言える。
やることはモノ作りばかりではない。列車編成さえ、ベテラン鉄道マンと侃々諤々議論を戦わせ自説を通す。最終的には、先頭から機関車・ラウンジカー・食堂車・客車5両が並ぶ編成になるが、食堂車の位置が問題になる。著者はここに示した順に編成することを提案するが、鉄道マンはこぞって中央部に置くことを主張する。最後尾がパノラマカーのデラックススイート(車両最後部は一枚ガラス!)、最も料金が高い。そこの客が一番遠くなるのは困ると言うのだ。著者はこれに「メインゲストは皆に迎えられ最後に席に着くもの」と反論。各旅客車両の廊下には美術工芸品を展示して、遠方からの長い移動を楽しませる工夫もする。
一部、  もの作り哲学や顧客サービス志向精神を開陳するところは鬱陶しい感じ無きにしも非ずだが、全体にカッコをつけず正直な人柄が伝わってくる文体とふんだんな挿絵や写真(カラー)で鉄道デザインの細部(特にななつ星)を楽しんだ。

6)フランス産エリートはなぜ凄いのか
仕事柄海外における理工系高等教育には関心があったし、外国人のエンジニアや研究者との交流の中にも「どこそこの大学で学んだ」というような話はしばしばあった。それらを通して何となく各国のこの分野における格付けが出来上がっている。例えば、米国ではMITCALTEC、カーネギー・メロン、スタンフォードなどが高格付け。英国ではオクスフォードとケンブリッジが代表的だがこれらは工学系と言うよりも理学のウェイトが高く感じられ、工学(特に化学)系ではインペリアル・カレッジが旧植民地を含め人材を輩出している印象が強い。中国では清華大学、上海交通大学が長い工学系教育の歴史を誇り、韓国ではソウル大学、高麗大学、延世大学、浦項工科大学それに大学院教育専門のKAIST(韓国先端科学技術大学院大学)の評価が高い。
ところが科学技術先進国であるドイツ、フランスは訪問の機会もほとんどなかったので今ひとつはっきりしない。例えばドイツ、明治・大正期の日本人は医学も含めここで学んでいる人が多いし、20世紀戦前、英米人でさえドイツ留学で箔をつける傾向にあった。断片的なこのような時代の情報から、ベルリン大学、ミュンヘン工大、ゲッティンゲン大(航空)、アーヘン工大(冶金)などが工学教育・研究では高いレベルにあったと推察するが、現代は全く不明である。フランスに至ると、数学に優れ砲兵になったナポレオンが学んだエコール・ポリテクニック(理工科学校)くらいしか思い浮かばない。
欧州の高等教育がよく理解できない理由は、訪問の有無以外に学制(進学過程)の複雑さにもある。ドイツに関しては以前本欄で紹介した「住んでみたドイツ、82敗で日本の勝ち」の中に小学5年終了時に選別が行われ、大学へ進学するためには“ギムナジゥム(中高一貫)”に進んだ後、その卒業試験に合格する必要があり、その先は大学を自由に選べ、複数の大学で単位を取ることも可能とあった。こうなると“どこそこ大学を出た”と言うことは(一般論として)それほど重要ではないのかもしれない(本書で大学間格差が極めて少ないことを知らされた)。ではフランスはどうなのだろう?こんな動機で本書を読むことになった。
バカロレアと言う高校卒業共通資格試験があり、ドイツ同様その試験に合格すれば大学へ進学できることは知っていた(つまり大学入試はない。卒業するには規定の単位取得は必須)。またポリテクニックのように“大学”ではない高等教育機関(グランゼコール)が存在することも知っていた。しかし、バカロレアが一種類ではないこと、その資格取得後の進路が多岐なことは想像以上で、一つのグランゼコールを出た後また別のグランゼコールに進むケースもあることなど、この国の高等教育の複雑さを垣間見ることになった。
先ずバカロレア取得後の進路;一般大学、グランゼコール(準備予備校を経て)、短期高等教育機関(短大相当?)、各種専門学校がある。前2者は一般バカロレア取得者、後2者は別種のバカロレ取得者が対象。ここで注意すべきは一般大学には入試はないが、グランゼコールには入試があり、予備校(2年)で対策しない限りこの受験にほとんど合格できないことである。この準備予備校は高校に併設されているが、評価の高い予備校は、他校からの転入が可能で入試が行われる。つまりグランゼコールに入学するためには、バカロレアで高い点数を取るか他校の予備校コースの入試をパスして予備校生となり、その後グランゼコール入学試験に合格しなければならない。しかもグランゼコールの定員は大学とは桁違いに少ない。確実に“受験地獄”は存在するのである。
一般大学とグランゼコールの違い(例);パリ大学は第1(ソルボンヌ校)から第13校(パリ北校)まであり、1校で数万の学生を抱えるマンモス校ばかり(第10校ナンテ-ル校35千人)。教育環境は劣悪で中退率は50%、教授に専用の研究室もない。ただし授業料に相当するのは登録料のみでほとんどただに近い。一方の
グランゼコールは、ポリテクニックの他にエコール・ノルマル・シュペリウール(高等師範学校)、エコール・デ・ミーヌ(鉱山学校)、エコール・デ・ポンゼション(土木学校)、エコール・サントラル(中央学校)などはいずれも長い歴史を持ち、戦後生まれではENA(国立行政学院)が代表的なグランゼコールである。1学年の生徒数は150名~400名。ポリテクニック、ノルマル、ENAは給料が支給される(軍務(ポリテクニックは国防省所管)・教員・官吏勤務の義務があり、それを務めぬ場合は返済要)。ほとんどが国立(戦後私立もビジネス系を中心に増えている)で卒業生は官僚になるものが多い(日本と違い、技術官僚天下;他国に突出した原子力発電推進などは彼らの力)。
入試はフランス語のみなので、外国人が正規の試験で入学するのは極めて難しい。日本人で“卒業”と称しているのは総て外国人特別枠適用者。
ポリテクニックからミーヌやポンゼションに進んだり(カルロス・ゴーン)、ノルマルからENAへ入る人もいる。これは最初のグランゼコールが基礎レベル中心で、高度な専門知識習得に不十分なところがあったり、社会人スタートを良い位置から始めたいとの考えから来ているようだ。特にENAは学校と言うより官僚訓練機関としての性格が強く、ここでの成績が配属先を決め、のちの昇進にも大きく影響してくる。
グランゼコールの卒業生からは、大統領・首相を始め政財官のリーダー続出、当に国家のエリート養成機関であることは間違いない。
ただこれだけエリートを峻別すると、やる気のあるのは一握りのトップだけという風潮を生むこと、研究よりは実務教育に人材が偏ることなど、国家の将来(現状もそうだが)に問題が生じてくると著者は結言する。同感である。また、EU共通の高等教育体系を作り上げるのも現段階では難しそうである。
グランゼコールを中心にフランスの高等教育の概観をつかむと言う点で、コラムを多用して補完説明するなど、読み易い本であった。軽薄なタイトル・帯からの印象より本文の方が数段しっかりしている。
因みに「21世紀の経済」で“格差社会”とクローズアップしたトマ・ピケティはノルマル(理科)を卒業22歳で博士号を取得している。超エリートの彼はこの制度をどのように見ているのであろうか?

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2015年10月25日日曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第Ⅱ部)-30


8.東燃の情報システム動向
経済はバブルを膨らまし、情報サービス産業の成長は目覚ましく、それに伴い外部の仕事が順調に伸びているとはいえ、小規模な子会社が独り立ちできるまでの道のりは決して平坦なものではなかった。ここで少し時間軸を戻し、私が役員に任じられた1988年春から1991年までの東燃グループ内情報システムに関する動きを人事と社内システムに着目して整理してみたい。
この年同期で本社経理部長を務めていたFJMさんが取締役に就任、経理・財務と情報システムを主管することになった。同時にそれまでシステム計画部長だったTKGさんは石油販売子会社の役員としてその任を離れる。後任は東燃テクノロジー(TTEC)システム部発足時からの同僚で、SPIN設立後初代の技術システム部長としてTCS(東燃コントロールシステム)販売を担ってきたTKWさんが登用された。
この異動はこの時期最適の人事だった。技術変化が急速に進み、大型内部プロジェクトであるインテリジェントリファイナリー(IR)計画が本格的に動き出し、外部ビジネスが多忙を極める時期、高度な技術上の意思決定と人的資源の最適配分を的確に行える人材は彼をおいてほかになかったからである。前任者のTKGさんもSPINスタートで大幅に機能を変えたシステム計画部のマネージメントを上手く立ち上げてくれたが、本来製造畑の人でITの基礎技術や外部ビジネスには精通していなかった。これに反しTKWさんは通産省が情報処理技術者試験を発足させたその年に最も高度な特種試験に一発で合格するほど優れた知識を有していたし、TSCプロジェクトではシステム開発のリーダーとして見事にその任を果たし、引き続きその外販ビジネスに携わってSPINの置かれた環境もよく理解していたからである。
TKWさんの最初の大仕事はIRのコンピュータシステム決定である。IRの基本機能は全社ベースの広義の生産体系(原油手配、生産計画、受注出荷、在庫管理、品質管理、プロセス技術管理)刷新。和歌山工場ではIBM汎用機ベースのWINDが動いていたし、川崎工場はHPのミニコンピュータ利用したCOSMICSがその役割を果たし、本社では富士通の汎用機がその一翼を担っていた。新機能のあるべき姿は前年から専任チームでかなり詳細部分まで詰められていたが、当時の全社メインフレームである富士通汎用機にこれらすべてを負わせることには、TCSとの接続性とExxon技術プログラム活用を勘案するとリスクが大きかった。また、本社機能は富士通、工場はIBMと言う整理も、両者のサービスを最大限に引き出すと言う点に関して見直しを迫られていた(つまり“連隊旗”の地位を失ったIBMのサービスに不満があった)。結論は事務系・OA系は富士通、生産・技術系はIBMと言う2本の連隊旗を持つことに決定する。これはSPINにとって両社システムの仕事をうけられる体制が確立したことにもなり、その後のビジネス展開に大いに役立つことになる。
IBMが富士通に置き換わったのは遥か昔1983年である。決定的な理由はOA分野における日本語処理の遅れにあった。それから5年以上経ちIBMPCは一段と飛躍、DOS環境下で日本語処理機能に大きな差はなくなっていたが、次の問題としてPCOS問題が浮上してきていた。DOSからスタートしたグラフィカルインターフェースWindowsPCの事実上の標準となる中でIBMは独自OSとしてOS-2 を発表(これもIBMとマイクロソフト共同開発)、これを本命として大々的に販促にかかった。とは言っても米国でも日本でもIBM社内で公然と批判(アプリケーションの数や将来の発展性)する勢力があったほど問題のある製品だったが、システム計画部はOS-2の採用を決める。
SPINにとってはIBMとの関係強化、新技術習得と言う点でこの決定は一定期間追い風となったが、その後のWindows発展・普及を顧みれば寄り道だったような気がする。これは決定が行われてかなり経ってから知らされるのだが、東燃社長のNKHさんは若い頃米国留学中初期のコンピュータを学び関心が高かったこと、日本IBMの社外取締役を務めたことがあり同社トップに知己がいたこと、さらに身内に若いSEが居り、そこから最新情報を得ていたこともあって、OS-2 採用に懐疑的であったようである。

(次回;Intelligent Enterprise構想)