8.東燃の情報システム動向
経済はバブルを膨らまし、情報サービス産業の成長は目覚ましく、それに伴い外部の仕事が順調に伸びているとはいえ、小規模な子会社が独り立ちできるまでの道のりは決して平坦なものではなかった。ここで少し時間軸を戻し、私が役員に任じられた1988年春から1991年までの東燃グループ内情報システムに関する動きを人事と社内システムに着目して整理してみたい。
この年同期で本社経理部長を務めていたFJMさんが取締役に就任、経理・財務と情報システムを主管することになった。同時にそれまでシステム計画部長だったTKGさんは石油販売子会社の役員としてその任を離れる。後任は東燃テクノロジー(TTEC)システム部発足時からの同僚で、SPIN設立後初代の技術システム部長としてTCS(東燃コントロールシステム)販売を担ってきたTKWさんが登用された。
この異動はこの時期最適の人事だった。技術変化が急速に進み、大型内部プロジェクトであるインテリジェントリファイナリー(IR)計画が本格的に動き出し、外部ビジネスが多忙を極める時期、高度な技術上の意思決定と人的資源の最適配分を的確に行える人材は彼をおいてほかになかったからである。前任者のTKGさんもSPINスタートで大幅に機能を変えたシステム計画部のマネージメントを上手く立ち上げてくれたが、本来製造畑の人でITの基礎技術や外部ビジネスには精通していなかった。これに反しTKWさんは通産省が情報処理技術者試験を発足させたその年に最も高度な特種試験に一発で合格するほど優れた知識を有していたし、TSCプロジェクトではシステム開発のリーダーとして見事にその任を果たし、引き続きその外販ビジネスに携わってSPINの置かれた環境もよく理解していたからである。
TKWさんの最初の大仕事はIRのコンピュータシステム決定である。IRの基本機能は全社ベースの広義の生産体系(原油手配、生産計画、受注出荷、在庫管理、品質管理、プロセス技術管理)刷新。和歌山工場ではIBM汎用機ベースのWINDが動いていたし、川崎工場はHPのミニコンピュータ利用したCOSMICSがその役割を果たし、本社では富士通の汎用機がその一翼を担っていた。新機能のあるべき姿は前年から専任チームでかなり詳細部分まで詰められていたが、当時の全社メインフレームである富士通汎用機にこれらすべてを負わせることには、TCSとの接続性とExxon技術プログラム活用を勘案するとリスクが大きかった。また、本社機能は富士通、工場はIBMと言う整理も、両者のサービスを最大限に引き出すと言う点に関して見直しを迫られていた(つまり“連隊旗”の地位を失ったIBMのサービスに不満があった)。結論は事務系・OA系は富士通、生産・技術系はIBMと言う2本の連隊旗を持つことに決定する。これはSPINにとって両社システムの仕事をうけられる体制が確立したことにもなり、その後のビジネス展開に大いに役立つことになる。
IBMが富士通に置き換わったのは遥か昔1983年である。決定的な理由はOA分野における日本語処理の遅れにあった。それから5年以上経ちIBMPCは一段と飛躍、DOS環境下で日本語処理機能に大きな差はなくなっていたが、次の問題としてPCのOS問題が浮上してきていた。DOSからスタートしたグラフィカルインターフェースWindowsがPCの事実上の標準となる中でIBMは独自OSとしてOS-2 を発表(これもIBMとマイクロソフト共同開発)、これを本命として大々的に販促にかかった。とは言っても米国でも日本でもIBM社内で公然と批判(アプリケーションの数や将来の発展性)する勢力があったほど問題のある製品だったが、システム計画部はOS-2の採用を決める。
SPINにとってはIBMとの関係強化、新技術習得と言う点でこの決定は一定期間追い風となったが、その後のWindows発展・普及を顧みれば寄り道だったような気がする。これは決定が行われてかなり経ってから知らされるのだが、東燃社長のNKHさんは若い頃米国留学中初期のコンピュータを学び関心が高かったこと、日本IBMの社外取締役を務めたことがあり同社トップに知己がいたこと、さらに身内に若いSEが居り、そこから最新情報を得ていたこともあって、OS-2 採用に懐疑的であったようである。
(次回;Intelligent Enterprise構想)
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