10.大阪支店開設
SPIN創設に際して、それを立案検討していたプロジェクトチームは、本社情報システム部のメンバーばかりではなく、事業所(関係会社・工場・研究所)のシステムズ・エンジニアを一緒に出ていく案を第1案としていた。理由はいくつかあったが、中でも重視したのが、既に外販が軌道に乗っていたTCS(東燃プロセス制御システム)ビジネスを担えるメンバーが工場に多く居たからである。ただ当時(1985年)はまだグループ内のTCSプロジェクトも、和歌山・川崎両工場で進められていたので、工場の反対が強く、最終経営会議では「最初は本社中心、新会社の経営状況と工場での新システム稼働の落ち着くのを待って移管を改めて検討する」と断が下った。
創設から7年、確実に状況は変わり当初案実現の時が来る。先ず、SPINは順調に業容を拡大、特にプロセス工業に的を絞った戦略が上手く進んで、はっきりと業界でその存在が認められてきた。次いでグループ内のTCSプロジェクトも山を越し、社外へ人を出せる余力が出てきた。加えて、株主(エッソ・モービル)からの本体経営効率化への圧力は一段と強くなってきており、要員減が一つのカギになってきていた。“事業所SE部門をSPINに移す”件は、こちらから持ち出す前に、本社サイドから要請してきた。
一方で広義の化学プロセス産業は伝統的(石炭やその他の鉱物資源を出発点としてきたため)に重心が西にあり、顧客も工場操業関連システムに関しては近畿・中国・北九州に多くの得意先あるいは商談対象が多く存在するのが現実だった。そしてそれらの顧客の中から「ボツボツ関西に営業と運用保守支援の組織を作ってほしい」との声も出始めていた。
そこで浮かんできたのが和歌山工場を拠点とするSPIN関西事業所構想である。これなら工場へのサービスは万全でグループ内の支持は得やすい。それに事務所費用も実費で済む。しかし、大阪湾岸から瀬戸内水島地区辺りまでをカバーするには、工場のある有田市では不便この上ない。下手をすると東京からよりも時間がかかる。これではグループ外事業拡大にはそれほど寄与しない可能性が高い。
次善の策として社内から起こったのが大阪支店構想である。ただ現実には大きな問題があった。当面の収入を伴う仕事は和歌山工場からのものが圧倒的に大きな割合を占める。支店要員も営業を除けば和歌山工場の従業員に出向してもらうことになる。これらのメンバーの中には有田よりさらに南に住居がある者もおり、大阪市内中心部への通勤は片道2時間を超えることになり大きな負担を強いることになる。和歌山工場中心か、外部顧客重視か、支店構想検討はしばし混迷の度を深める。
決め手になったのはやはり異動要員の声である。馴染んだ和歌山工場の仕事に愛着はあるものの、外向けの仕事にも挑戦してみたい。それに会社の合理化には協力したい。通勤のことを考えると現状よりは遥かに厳しくなるが紀勢線と直結する阪和線の沿線なら受け入れてもいい。こう言う意見が多数だった。これで天王寺に支店を設ける案が決まった。天王寺駅から徒歩5分程度の所に適当な物件が見つかりそこをオープンさせたのが1992年4月。初代支店長には技術系の営業をSPIN創設来担当していたYMT(Y)さんが当たること決まり、彼は夫人ともども大阪に転居して、ここでの支店活動に立ち上げに注力してくれた。
この支店の当初の役割は和歌山工場のサポートと営業が中心であり、外部に対しては象徴的なものであったが、SPIN商品・サービスが拡充するに従い、ここでPRやトレーニングなども行うようになり、関西以西の顧客に評価してもらえる事業拠点となった。
(次回;ポストTCSへの動き)
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