2016年11月18日金曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第3部;社長としての9年)-6


4SBC社のこと-2
SBC社の滑川にある計算機センター(北陸システムブレインと言う子会社)を訪ねたのは19935月。案内してくれたのは既によく知っていた本社の部長であるとともに、この子会社の役員を務める人。説明を聞くほどにこの地の出身者であるHSMさんの評判の高いことに感心させられた。今でいう“地方創生”に貢献しているのだ。「なかなかやるじゃないか!」そんな思いを抱かされた。
仕事の上でのSBCとの関係は主に東燃グループのプロジェクト(総合的な全社生産管理や新経理システムなど)をお願いしていた。すでに我が国バブル経済は弾けていたが、IT関連ビジネスはまだ人手不足の状態が続いていたので、この資本関係は両社にとって当にWin-Winの提携であった。関連強化の証は、東燃グループの経理担当者で定年が近い人を、HSM社長に乞われて担当役員に送り込むことにも表れていた。このような経営環境がSMZ社長退任後、私が後任になってからもしばらく続くことになる。しかし、日本経済は我々の気付かないところで厳しさを増していたのである。
当時の株式公開基準は、店頭市場(現JASDAQ)でも、公開前3年間の経常利益が毎年2億円、3億円、4億円を漸次超えていることが必須だった他に、資産を相当額保有していないと適わなかった。SBCはそのために滑川の計算機センター兼研修センターを建設し、首都圏に寮などを保有していたが、これらの資金はほとんど銀行からの借入金だった。一方銀行は不動産バブルによる不良債権整理に追われ始めており、SBCに対する貸付金の返済を強く求めるようになってきていたのである。こうして増資株式取得評価時には問題なかった財務バランスが崩れ始めるのである。
社長就任直後はグループから送り込まれていた経理担当役員のFKWさんがやってきて「担当しているプロジェクトの支払いを前倒して欲しい」と言うような依頼する程度だった。東燃グループの基本的支払い方式は、契約時・中間・検収時の3段階(現金払い)であったから、この申し入れを受けることに特別問題はなく、受け入れることにした。しかし、23ヶ月経つと予定には組んでいるもののまだ着手していないプロジェクトについても部分先行着手したことにして、何がしかの手付金が欲しいと言い出すようになる。これもなんとか融通をつけて数か月。この頃になるとFKWさん以外に資金繰り専任の役員(某石油会社経理・財務担当役員の退職者)が別途雇われ、その人が前面に出てくるようになり、穏やかにではあるが「おたくは大口株主なんですから・・・」と万障繰り合わせ支援するのが義務であるようなことを口にする。創設来資金繰りでまったく苦労したことのないSPIN役員にとっても「これはただ事ではない」と身構えるようになる。
年末近く、HSM社長、FKWさん、それにこの専任役員がそろって来社。最後のお願いと言って切り出したのは「メインバンクのSKR銀行が、東燃さんが保証人になってくれるなら、融資返済について考慮すると言っているのですが・・・」とのこと。経理・財務経験の全くない私でも「東燃(子会社も含め)は絶対にこれには応じられない」と直ぐに分かった。
東燃の大株主、ExxonMobil(この時点では合併していない)の経理・財務管理は日本の会社とはかなり異なる。株式投資や不動産投資は必要最小限(国策、自社の施設として営業上必要なもの;工場用地、社宅・寮など)に限定、政治資金禁止、資金運用禁止、税の支払いも厳しくチェックされる。多額の内部留保を新規事業開発に投入した前社長は解任されている。とても他社の借金の保証など認められるわけがない。一応その場は「聞いてみますが、まず無理でしょう」と答え、東燃の経理・財務担当役員のFJMさんに問うと予想通り「NO!」であった。
結局SBCは翌年(1995年)春倒産した。創業者のHSMさんは尊敬すべき人物だっただけに、彼を救えなかったことに忸怩たる思いが今も残る。


(次回;英オイルコンサルタントKBC社;しばらく旅行に出るので時間が空きます。次回は12月に入ってからになります

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