7.東燃の経営環境
SPINは東燃の100%子会社である。東燃株式の50%はExxonとMobil(以下E/Mと略す)が均等に持っている(いずれも日本法人ではなく米国法人)。1994年私をSPIN社長に登用してくれたNKH社長がこの年、E/Mによって解任され代表権のない名誉会長に祭り上げられてしまう。経営方針の違いにあることは明らかだった。我が国石油産業の将来を慮っていたNKHさんは1980年代初期の平取締役時代から新規事業開発の必要性を標榜、常務、副社長と昇進をかさねる過程で利益をそこへ重点投資していった。これがE/Mの考え方と齟齬をきたしてきたのである。
彼らも第一次石油危機前後、一時期新規事業投資に傾斜していたこともあったのだが、ことごとく失敗、本業回帰した過去を持つからである。’80年代NKHさんの新事業開発を許容していたのは、まだ探索段階でそれほど投資額が大きくなかったこと、’87年以降始まっていた石油業規制緩和まで精製も販売もある程度利益確保が保証されていたこと、にあった。しかし、’90年代に入ると給油所建設、一次精製設備許可、原油処理枠などの規制緩和が次々と打ち出され、従来のような経営形態では利益維持が厳しくなってくる。一方で新規事業は、新研究所の建設、事業要員の採用、製品化試行など投資が膨らんできていた。NKHさんもこの経営環境変化は充分理解していたので、本業の効率改善に一層努力するよう各方面に具体的な策を提示し、それに取り組ませていたのだが(例えば、関係会社経理部門・システム計画部・SPINが協力して清水工場に経理センターと計算機センターを移設;人員合理化と賃料の高い本社のスペースを空けて清水工場の既存設備を活用)、大株主は待ちきれなかったようである。
NKHさんの後任は1歳若いTMBさんが子会社社長から復帰した。工場の製油部門も含め製造畑が長く本業(精製業)一筋に来た人、E/Mの期待する人だったに違いない。今までの流れを一気に変えることは無かったものの、新事業関連は次第に縮小の方向に舵が切られ、個人またはグループで東燃を離れ始めていく。これと歩調を合わせるように、本業強化のプロジェクトが立ち上がる。最若手の取締役SGYさんが率いる“チェンジ・プロジェクト”がそれである。チームメンバーの主体は昭和40年代末から50年代初期に入社した有能な中堅社員、SPINの将来が彼らにかかることになる。
まず彼らが取り組んだのが、製油所全体の経営効率評価である。Exxonとは資本のみならず技術提携もしていたので、グル-プ内の比較は以前から行われていたのだが、ERE(Exxon Research & Engineering)でこの指標を開発したリー・ソロモンと言うエンジニアが独立し、ソロモン・アソシエイツなる会社を設立、その指標算出方法を“ソロモン・サーヴェイ”と名付けて他社にも売り込み、参加企業に全体の中の自らの位置を定量的に知ることが出来るようなサービスを提供していた。チェンジ・チームはこれを利用して、和歌山工場、川崎工場の各種効率(エネルギー、品質、保全など)を測り、競争力強化の一助とした。
これから分かってきたことは、保全はひとまず置いて、エネルギーと収率に関してかなり高い位置にあるものの、トップクラスと比べるとまだ改善の余地があることだった。どこをどう改善すべきかの詳細はソロモン・サーベイでは明らかにされない。そこで次に取り組んだのが、前回紹介したKBC社のPIP(Performance Improvement
Program)利用である。KBCとのコンタクトを東燃よりも先に始めていたことから、KBCからこの話に協力を求められることになる。チェンジ・チームの担当者はIWSさん。私よりは10歳ほど若い人だが、以前から懇意にしていたので、両者をつなぐ役割を担うことになる。SPINのビジネスに直接かかわる案件ではなかったが、その後に展開していく子会社に関するチェンジ・プロジェクトの中で、このチームとSPINが特に密接な関係を持ち、直接うかがい知ることのできない、大株主の意中を推し量る情報がもたらされることになる。
(次回;東燃の経営環境変化;つづく)
0 件のコメント:
コメントを投稿