<今月読んだ本>
1) 陸軍重爆戦隊奮戦す(「丸」編集部):光人社(文庫)
2) 鉄道への夢が日本人を作った(張彧暋;チョー・イクマン):朝日新聞出版社
3) パブリック・スクール(新井潤美):岩波書店(新書)
4)ポピュリズムとは何か(永島治郎):中央公論新社(新書)
5)科学報道の真相(瀬川至朗):筑摩書房(新書)
6)Gマン宿命の銃弾(上、下)(スティーヴン・ハンター):扶桑社(文庫)
<愚評昧説>
1)陸軍重爆戦隊奮戦す
-非力な戦力で健気に戦った陸軍“軽爆戦隊”-
当初は継子扱いされていた萌芽期の新兵器がやがて主力兵器に変わり、新兵種やさらには新軍種に発展する過程には、新技術が社会に役立つまでのそれと共通する課題とその克服があって、先導役として学ぶところが多い。特にITと経営の関係に長く携わってきた私にとり格好の教材であった。着弾観測や偵察の補助手段に過ぎなかった航空機が戦場の勝敗のカギを握るようになり、新軍種である空軍が誕生するまでの道のりには、数々のドラマが秘められており、IT利用推進の節目々々でここからヒントを得てきた。仕事を辞めて10年、いまだにこの分野への興味は尽きず、2月には米空軍の父「Hap
Arnold」を、先月は英戦略空軍の苛酷な戦いを描いた「The
Hardest Victory」を本欄で紹介した。では空軍独立論の最重要因子である爆撃機に関して帝国陸海軍の開発や運用状況は如何様だったのだろうか?これが本書を読むことになった動機である。
戦略爆撃と言う発想はもともと航空先進国(英・伊・独・米)の陸軍に発する。また我が国海軍に爆撃機(雷撃主体のものは“攻撃機”;1式陸上攻撃機)と分類されているのは、艦上機(単発)を除いて“銀河”一機種、これも対艦目的の急降下爆撃や雷撃用に開発された機体である。そこで陸軍に焦点を当てて重爆撃機を調べることにした。しかし、意外とそれに関する出版物は少なく、唯一Amazonで見つけたのが本書、タイトルに“重爆”とあるのが決め手となった。取り寄せた本を開いてみて「これは何だ!」となった。4発爆撃機を実用化できなかったことは知っていたが、取り上げられているものうち、本格的爆撃機と言えるのは97式爆撃機、百式爆撃機(呑龍)、4式爆撃機(飛龍)の3機種のみ(いずれも双発)、あとは99式軽爆撃機や地上軍直協の97式軽爆撃機(単発)、タイトルは当に羊頭狗肉以外の何物でもなかった。一応“重爆”と分類される97式や4式にしても何十機~何百機とまとまって運用されるケースは皆無、集団としての規模は最大でも飛行戦隊(36機)に過ぎず、実際の運用は中隊(12機)単位で、この程度ではとても爆撃だけで敵の拠点を潰すことはできない。地上軍のために、補給基地や飛行場を急襲し、その進軍や撤退を助けることが爆撃機部隊の主要任務であった。
内容はノモンハン事変、インパール作戦、ニューギニア戦線、陸軍特攻などにおける爆撃機戦隊の作戦に参加し、生き残った乗組員に対する聞き取り調査を基に5話から構成されている(重爆だけが取り上げられるのは1話のみ)。部隊や乗組員の構成、教育体系や戦歴(少年飛行兵養成機関出身の下士官が多い)、機体の特質や整備、航法や爆撃照準、空中での交戦、戦友の負傷や死などでそれぞれの戦場が語られ、陸上戦や戦闘機部隊の戦の陰に隠れた感のある、知られざる世界を垣間見せてくれる。これは本書を読んだ最大の収穫であった。
読んで分かったことは、爆撃機部隊の非力さである。最も生産量の多かった97式重爆でも2千機程度、4式重爆は7百機弱。英ランカスターの8千機弱、米国のB-17(1万3千機)、B-24(1万8千機)に及ぶべくもない。爆弾搭載量も97式重爆はたった0.75t、ランカスターは6.5~10t、B-17 は5t前後、B-24 は6t、これら英米機はすべて4発だが、双発の独ユンカース88は3t、ハインケル111は2.5t。空母から飛び立ち本土爆撃を敢行したB-25 でも1.5t(陸上離陸の場合だが)ある。とても“重爆”などと言える代物ではなかった。戦闘機、偵察機では優れたものを生み出していたものの、肝心かなめの攻撃力を欠いては独立空軍論など出る余地がないだろう(全くなかったわけではないが)。と言うようなわけで我が国爆撃機軍団?の実態を知ることはできたが、ここから何かを発想するヒントは得られなかった。
2)鉄道への夢が日本人を作った
-資本主義・民主主義・国民意識、みな鉄道で作られた?-
鉄道物に目のない私ゆえ、題名を見ただけで「面白そうだな!」と感じるとつい手が出てしまう。本書もそんな一冊である。しかし、楽天から届き、帯や目次を見ただけで「チョッと見当が外れたかな?」となり1年以上放置しておいたが、乗り物に関する本の手持ちがなくなり読むことにした。結果は「意外と面白いじゃないか!」と言えるものだった。どこが読みどころか?外国人(香港人)が鉄道と言うレンズを通して日本社会の近代化(明治以降戦後まで)を考察するところにある。
鉄道を近代化の象徴として取り上げた書物は決して少なくないが、多くは科学技術発展史的(特に交通史や産業史)、経済史(地方発展史を含む)的な性格が強いのに対して、本書は精神史や思想史と言える面に焦点を当てているところに特色がある。「現代日本人の精神構造とそれを素に出来上がった社会は(たった数十年で建設された)鉄道によってもたらされたのだよ」こんなことを外国人に言われたら「ギョッ?!」とする。本書の面白さ(必ずしも納得はしないが)はそこにあるのだ。
著者は1977年生まれの香港人。彼の地の名門校香港中文大学を卒業(哲学(学士)→人類学(修士)→社会学(博士))、現在はそこで社会学の講師を務めている。この間奨学金を得て、東大(社会学研究所)と慶大(総合政策学部)で、本書および日本文化(特にポップカルチャー系)研究の基となる調査・分析を行っている。本書はそれらの研究を通じてまとめられた博士論文(英文)を日本の一般読者向けに翻訳・編集したものである。著者の意図は「歴史社会学の視点から、ないしは歴史人類学の手法で鉄道を調べることで近代日本の世界観の成立を明らかにする」ことにあり、三つの点に対象を絞ってその仮説設定、証明を試みる。第一は経済制度としての近代資本主義、第二は政治制度としての民主主義、そして第三は統治制度としてのナショナリズム、がそれらである。
先ず資本主義、鉄道は重要なインフラストラクチャ―との理解はできても、明治政府の財政はひっ迫しており、そこへ投資する十分な余裕はない。華族や地方の名家、富裕層に出資させ鉄道が儲かり役に立つことを実証し、ここから投資とそれによるリターンを身近なものにし、その考え方が他分野に広がっていった。
儲かり役立つとなれば財政投資の大義名分もできる。それまでの薩長による藩閥政治が選挙による議会制度に代わると選挙民の関心を惹くために候補者・代議士は鉄道建設の夢を語るようになる(実現できるケースは限られているにもかかわらず)。そこに、地元の利害に密着した代議員制(つまり民主主義)が普及していく。平民宰相原敬はその典型、我田引鉄の先駆けとなり、列島改造論の田中角栄、現代の新幹線誘致活動へと続く。
維新までの日本人は、藩(藩主)への忠誠心はあっても、一つの国民としての意識は極めて薄かった(天皇中心ではなかった。参勤交代が徳川家の存在を知らしめ(乗り物による政治支配)、それを通したゆるい国家観が形作られていたに過ぎない)。明治政府はその権威を高める必要性を痛感し、それに天皇の威光を利用する考え方が出てくる。新たな乗り物、鉄道による行幸啓(天皇巡幸)こそ、近代日本ナショナリズム形成の根源であり、戦後復興にこれがどれだけ寄与したか計り知れない。
以上が三つの論点の抄意訳である。1,2の視点は既刊の鉄道物でも比較的目にする考え方で概ね納得できる。しかし、第3の天皇の鉄道による行幸啓から近代日本人の民族意識を導き出すプロセスは全く意表を突かれた。「本当にそう言い切れるのだろうか?」この疑問はいまだ解けていない。
因みに、指導に当たり(聴講生のようだが)、解説記事を寄せている慶大小熊英二教授はこの第3章に関して「やや未消化な印象をうける」と厳しい評価をしながら、「欠点が目につくということは、全体の構築には成功したということの証明でもある」と結んでいる。
3)パブリック・スクール
-消えるのか?大英帝国最後の砦-
英国ランカスター市に半年滞在したとき、街の東側の小高い丘の先に在るアパートに住んだ。丘の頂上と周辺は第一次大戦後リノリュームで財を成した一族の屋敷跡で、今は公園となっている敷地の一部に男子校(多分中高一貫校)が在った。私が滞英中身近に接した学校は、ランカスター大学を除けばここだけである。多分グラマー・スクールだったに違いない。生徒にも校舎にも伝統的なパブリック・スクールの格式・伝統は全く感じられなかったし、寮のような施設もなかったからだ。小説(大好きなスパイ小説にしばしば卒業生が登場する)や映画の中でしか知らない、かつてのアッパークラス、アッパーミドルクラスの子弟が学び、歴史を刻んだパブリック・スクールを一度覗いてみたいと思ったが、ついにその機会はなかった。2月の本欄で紹介した「わたしはこうして執事になった」に英国事情に通じた優れた解説を寄せていた著者が強く印象に残り、「あの人の書いたものなら」と仮想訪問をする気になった。
期待はたがわなかった。著者自身が英国に居住し寄宿制と通学制のパブリックスクール(女子校)に学んでいること。少女時代英国の“学校物語”小説のファンだったこと。長じて英文学を専攻したこと。これらの背景が短期滞在や文献調査では限界のある彼の地の教育事情・社会環境を踏まえた“パブリック・スクール研究報告”としてまとまっているのだ。だからと言って決してガチガチのノンフィクションではなく、“小説に見るパブリック・スクール”と名付ける方がより内容を正確に表していると言ってもいいほど、フィクションとノンフィクションの世界が、巧みに交錯して最後まで興味を持続させてくれる。
パブリック・スクールと言う言葉を初めて聞いたのは高校1年の英語の授業の時だった。「Public
だが公立ではないぞ!」から始まり、「英国の上流階級は教育だけでなく、体形から言葉までミドルやワーキングとは異なる」と階級社会の話を聞かされ、爾来「とんでもないエリート校」のイメ-ジを持ち続けていた。本書の内容もその時と違わず、階級制との関係が最後まで続く。しかもこの階級の実態(特に経済力と教育に関する考え方)が時代と伴に変化し、教育制度そのものも変わっていくので、読み終わってそれを整理・理解するのは大変だった。しかし、英国の教育事情とその歴史を知るという点で、取っつきやすい本であった。
最も古いパブリック・スクールは6世紀末に教会の付属施設として創設されたキングズ・スクール(キングズと名付けられるのは15世紀)。当時の学校は聖歌隊のためのソング・スクールとラテン語教育のためのグラマー・スクールの2種で最大の狙いはこれらを通じてキリスト教徒をリクルートすることにあった。つまり、貧しい家庭の子を誘い込む手段だったのだ。公立と思っていたグラマー・スクールが教会付属の私立校で、パブリック・スクールより歴史が古いことを先ず知らされる。そのパブリック・スクールが形を整え出すのは15世紀、ヘンリー8世によるカソリックからの英国国教会分離が契機となる。これも教会立なのだ。最も有名なイートン・カレッジ(大学ではないがカレッジが正式名称)も1440年に設立されている。
なぜ教会立(私立)なのにパブリックなのか?上流階級(の跡継ぎ;長男)の教育は専ら家庭教師や小規模な私塾で行われていたのに対し、それ以外の子供を教育するために広く生徒が集められたからである。完全ではないが“公募制”が採用されたところにその由来があるのだ。当初の教育目的は知識や教養ではなく、専ら“しつけ”にあった。質素な環境(寮)で厳しくしつけられる。小説や映画などでむち打ちのシーンが出てくるが、こんなことは日常茶飯事だったらしい。
様子が変わってくるのは産業革命後。中産階級が育ち教育に実益を求めるようになると知識・教養が次第に重んじられるようになる。またグラマー・スクールから大学進学への道も開けてくる。しかしここでも階級制は依然生きており、どのパブリック・スクールのどの寮出身かで、その先の展望に差が出てくる。(同じような教会立にもかかわらず)グラマー・スクールの発足が慈善活動だったことで下に見られるのだ。こんな状態が20世紀半ばまでつづく。
ところで女性の高等教育はどうなのか?高等教育に限らず、19世紀半ばまでほとんど女子のための教育機関は存在しなかった。かろうじてあったのは、(結婚相手を見つけるための)たしなみ教育機関(花嫁学校?)と家庭教師育成学校(上流階級の女性のみ)くらいである。女子のためのパブリック・スクールが誕生するのは戦後になってからである!(現在は男子伝統校も男女共学に変じている。例えば、ラグビー発祥の地、ラグビー・カレッジ)。なお、女子のグラマー・スクールもあるがこれはハイ・スクールと呼ばれる。
階級制と不可分ゆえに戦後の労働党政権下では何度も存続の危機に見舞われるが(私立校全廃を打ち出す)、最後の段階で、国に貢献した優れたリーダー(特に戦争における功労者;戦死者)を輩出したことで難を逃れ、現在160校ほどが残っている。しかし、英国人のアッパークラスやアッパーミドルクラスですら費用負担が重く、中国・ロシア・ウクライナ・ナイジェリア・湾岸諸国の富裕階級子弟の割合が急速に増えているようだ。
今次大戦前までのパブリック・スクールは、日本人には想像を絶する世界。しかし戦後になると、教育システムの激変はいずこも同じ、過度に平等を求めて混乱していく。現在の中高教育はパブリック・スクールやグラマー・スクールから全額無償の公立校コンプリヘンシヴ・スクール(3+2年制;居住地近くの学校もこれだったかもしれない)に移ってきているが、この荒廃は凄まじく、メイ首相はパブリック・スクールに戻ることを提唱しているとのことである。階級制や初等教育の格差は是正さるべきだが、古き伝統・文化の崩壊がBREITの因の一つであったと考えるのは下種の勘繰りか?
4)ポピュリズムとは何か
-ポピュリズムは、デモクラシーの後を影のようについてくる(M.カノヴァン)-
本欄を書き始める少し前フランス大統領選挙が行われた。国民戦線のマリーヌ・ルペン候補が決選投票に勝ち残ると、予想通り“ポピュリズム”がメディアを賑わした。Brexit、トランプ旋風とここ1年、この語がTV、新聞、雑誌・書籍に溢れる。民主制政治下で起こっているにもかかわらず、メディアや左翼知識人は“悪しき現象”と決めつける論調が多い。根底にあるのは“支持政党なし”が多数を占める現在の政治環境にあるにも関わらず、である。しかし、善悪はともかく何かもやもやした気分を払拭できぬ現象、「少し勉強してみよう」そんな気持ちで本書を手に取った。この語を含む数多ある書物の中で本書を選んだのは、著者歴から不安を煽る“売らんかな”と無縁と感じたからである(千葉大学法政経学部教授;ジャーナリズムの売れっ子でない)。そしてこんな選択基準こそ、ポピュリズムの根幹と共通する考え方であることを、図らずも知らされることになった。つまり、既得権を手放さず批判ばかりしているエリート(保守は無論、既存メディアから左翼知識人まで)に対する幻滅感である。
本書を貫く問題意識は「ポピュリズムはデモクラシー存立を危機にさらすものなのか?」と言うことである。そこで先ず巷間使われているポピュリズムなる語を整理して、2種の定義づけを行う。第1は;固定的な支持基盤を超え、幅広く国民に直接訴える政治スタイル(手法)。第2は;「人民」の立場から既成政治やエリートを批判する政治運動。著者は第2の視点で以後の考察を展開する。
次いで近代ポピュリズムの歴史をたどる。何とスタートは19世紀末に出現した米国“人民党(別名;ポピュリスト党)”から始まる。南北戦争後の社会変動による格差拡大が動機で、民主・共和両党の政策に飽き足らない人々の関心を集め大統領選でそれなりの得票を得るが、支持層が農業州の白人男性に限られていたため、凋落も早かった。次の舞台はラテンアメリカ、大地主や鉱山主による寡頭政治(それゆえの格差)に対抗し、カリスマ指導者(主として中間層出身)に中間層・労働者・農民が惹きつけられる。代表的な人物はアルゼンチンのペロン。しかし、強引な産業国有化政策推進で経済が破綻、戦後クーデターで政権を追われる(軍事政権によるポピュリズムの抑圧)。ラテンアメリカはごく最近のヴェネズエラのチャベス政権まで、このような状況から脱し切れていない。
そしてこれに続いたのが最も民主政が根付いていたヨーロッパにおけるポピュリズム政治の台頭である。1960年代後進国のポピュリズムを批判していた先進ヨーロッパに何故?フランスの国民戦線、オーストリアの自由党、オランダのヴィルデルス党、ベルギーのVB党、デンマークの国民党などが出現し伸長してくる背景・過程と党リーダの資質・略歴などを紹介しながら、民主主義との関係を質していく。「男女平等でないイスラムは民主主義を標榜する国に受け入れらない」「宗教最優先では民主政治は行えない」「税金も納めずに社会福祉だけは享受している。これは民主的で無い」リベラルゆえの反イスラム・反移民の声は、ナショナリズム一辺倒だったかつての極右政党とは異なる課題に有権者の関心を向けていく。これに加えて国民投票や欧州会議議員選挙システムが、従来の代表民主政の盲点を突く形で、既存政党による統治形態を脅かしているのだ。現状不満の根っこは、格差、置き去り、(階級間での)蔑みにある。
無論ポピュリズムは欧州で終わらず、振り出しの米国に戻り、いまや反グローバル化の動きがグローバル化してきている。我が国の政治でも、維新の党を立ち上げた橋下徹の言動は欧州のポピュリストたちと共通するところが多い。ポピュリズムは今や世界を覆う現象なのだ。
著者の考え方は決してポピュリズムを反デモクラシーと決めつけているわけではない。現代のポピュリズムにおける「リベラル」な「デモクラシー」との親和性に着目、それが「一過性」のものでないとし、ある種の「改革競争」を促すものとみなして既存政党の改革効果に期待している。私もそう信じたい。
極めてクールに、わかりやすくポピュリズムを分析・解説しており、現代政治入門書としてお薦めの一冊と言える。
5)科学報道の真相
-STPA細胞・大震災・地球温暖化から、我が国科学ジャーナリズムの問題点を探る-
2011年3月11日、あの大地震が起こった日は午前中水泳に費やし、昼食後いつものように書斎のリクライニングチェアーで本を読んでいるうちに眠り込んでいた。激しい揺れに本棚から数冊の本が落ちて目覚めると、ガラスのはまった飾り棚が動き出しており、慌ててそれを抑えにかかった。揺れが治まったところで居間に降りてTV(NHK)をつける。三陸沖が震源地の大地震であることは伝えていたものの、規模や被害状況はよく分からない。しばらくすると停電でTVが見られなくなった。福島原発が津波に襲われ壊滅的な打撃を被っていたことなど、その時点では知る由もない。断続的な通停電が続く中、原発の被災状況が伝わってくるが、当初内容はそれほど酷い印象を与えるものではなかった。「これはえらいことになるかも知れない」と思い始めるのは、翌日1号機の水素爆発が報じられた時である。それでも、わりと平静でいられたのは、NHK科学記者の落ち着いた報道姿勢にあったように思う。しかし、のちの事故調査委員会報告や吉田調書などによれば、事態ははるかに深刻な状態にあったことがわかる。官邸・原子力保安院や東電は報道管制を行い、メディア自身も意識的か否かは別にして、その広報機関と化していたのである。本書はこの大震災、STAP細胞事件、地球温暖化問題の三つを具体例にとり、我が国メディア(主として新聞)科学報道の実態と問題点を明らかにするものである。
著者は大学で科学史・科学哲学を専攻したのち毎日新聞社入社、科学記者、ワシントン支局特派員、科学環境部長、編集局次長を務めたのち、2008年早大教授(ジャーナリズム大学院)に転じた経歴を持つ。例に取り上げられた3件はいずれも大学人になってから起こったもので、これらを学問的な観点から分析するところに、単なる“内幕物”とは異なる質の高さを感じる。
先ず新聞社内における科学部の位置づけ。花形部門は政治部、社会部、経済部それに紙面を作る整理部。新聞社に科学部が創設されるのは南極探検や人工衛星スプートニクで科学が社会的に話題になり始めた1950年代、NHKはさらに遅れて1990年代になってからである。従って伝統や人材を欠き、文化部やスポーツ部と並んでマイナーな存在、紙面に記事が載る機会も少ない。記事になるとしても社会部や経済部の補完的な意味合いが多い。つまり、労多くして功少ない部門なのである。だからと言って、それを理由に問題報道の言い訳にしているわけではない。なお、本書ではNHK以外TV報道にほとんど触れない。大きな理由は、新聞社以上に人材がおらず力も弱いからである。NHKニュース以外TVを見ない私にもこの見解には納得する(科学に限らず民法TV局に報道記者など居るのだろうか?)。
STAP事件における報道の問題を整理すると、本来“学術誌掲載型”記事として扱うべきものを“ノーベル賞受賞型”記事にしてしまったところにその後の混乱の原点があるとする。後者の場合は実績が充分確かめられた結果与えられるので、研究の中身より受賞者周辺の話題を大きく取り上げことが許されるし、読者にも歓迎される。しかし、前者においては、新規性は高いものの事実確認はその後の研究に委ねられるので、研究発表内容に重点を置いた手法にすべきだった。異論・反論が出るのは当然との構えが必要で、“リケジョ”や“割烹着”で騒ぎ立てることではないのである。理研が記者会見の場を作り、その権威に盲従してしまったことにも報道として反省すべき点がある。さらにネイチャー誌が最初は却下し、修正後採用(レフリー判定は否だったにもかかわらず編集部(長?)が掲載決定を決める)、事件が大きくなると取り消し、と変転したプロセスとその背景を詰めることなく、うやむやに事件の幕引きを行ったことを、メディアの姿勢として強く批判している。今後の対応として、クラウド査読が論文の問題点を見つけ発信したところから、このような世界と科学記者の連携の可能性を示唆する。
原発事故報道批判の核心は“大本営発表”である。このこと自体は事件後しばしば指摘されてきたことで新鮮味はないが、マスメディアの記事とソーシャルメディアの発信内容を比較分析したり、4紙(朝日、読売、毎日、日経)を比べたりするところは興味深い。“炉心溶融”と言う言葉に着目、同意の用語の変化(メルトダウンが使われたり“炉心損傷”に変わったり)、情報源(官邸、保安院、東電、専門家、海外研究機関)を追及して、これら用語の新聞紙上における位置づけ(大見出し、小見出し、記事)と時系列変化、頻度を分析して、その背景にある動き(報道管制)を明らかにしていく。現れてくるのは“大本営”ばかりでなく各紙のそれへの追従度合である。ここから、専門家や権威筋情報に頼る“客観報道”のあり方を批判、科学記者も歴史的経緯から“原子力ムラ”に近い存在で、原子力問題を批判的な視点で見てこなかったと指摘する(おそらく自戒の念も含めて)。
地球温暖化問題は国内にとどまらず海外の報道分析も取り上げて、その問題点を「中立」「公平」の視点から考察する。論点は「温暖化の原因は人為的なものか否か?」である。NYタイムスを含め米国メディアは賛否両論をできるだけ公平に併記する手法(量的にも)をとる。しかし、人為説派はこれを不公平と見る。何故ならば研究論文の多数は人為説だからである。「少数意見を過大に扱っている!」と。しかし人為説派の主張の中にもいかがわしいもの(特に映像)が多く、ゴア元副大統領が制作した「不都合な真実」は英裁判所で内容が不正確との断を下されている。「研究論文の数が多いだけで人為説が正しいわけではない!」懐疑派からの反論である。メディアはこれにいかに処すべきか?
環境報道の次の問題は政治的なファクターが大きいことである。COP21(パリ協定)は直前に起こったパリ同時多発テロが後押し、最大の排出国米中が急遽賛成に回ったことで成立する。京都議定書以来の画期的出来事だが、我が国科学ジャーナリズムは自らこの問題に積極的に取り組んできたのか?
大雑把にまとめると、「中立」「公平」に関しては経済産業省(経済部)と環境省(科学部)をおもんばかったバランス報道(とは言っても米国に比べ懐疑派掲載頻度は極めて少ないが)、国際的視点からの報道はイベント型(大きな会議などのある時だけニュースにする)で内容は専らIPCC(気候変動に関する政府間パネル)に依拠している。つまり、他の報道同様権威に頼った広報に近いのが実態であった。
種々の問題を抱える我が国科学ジャーナリズム。科学技術も細分化が進みますます外から分かり難いものになってきている。ゆえに、新しい科学取材方法を模索する時が来ていると結ぶ。ただし、理念的なものはともかく、具体的な取り組み方は示されていない。この辺りが、科学に限らず我が国ジャーナリズムの限界なのかもしれない。
6)Gマン 宿命の銃弾
-ガンマン一家、“パブリック・エネミー”を倒した初代の過去を三代目が追う-
私の読む小説は3種類;戦争、スパイそれにスナイパー(狙撃手)である。境界が明確でないものも多いが、スティーヴン・ハンターが描くのは極め付きのスナイパー物である。1999年に日本語訳でヴェトナム戦争を戦った海兵隊軍曹が活躍するボブ・スワーガー・シリーズ第一作「極大射程」を読み始めてから18年、本作品で第15話になる。この間読まなかったのは2~3冊しかない。一時期遠ざかったのは、シリーズ物の弱点、材料枯渇・マンネリ化のせいか荒唐無稽な内容や異国情緒を売り物にするようになったからである。日本を舞台にした「四十七人目の男」は四十七士をとヤクザをモチーフにしており、日本人には読むに堪えない代物だった。しかし「蘇るスナイパー」あたりから往年の“狙撃”そのものに回帰、楽しんで読めるようになった。今回の作品は完全復活と言える出来栄えである。
Gマン、Government Manの略である。この語が巷間流布されるようになるのは、1935年ジェームズ・キャグニー主演のハリウッド映画「Gメン(日本語訳はなぜか複数)」によるといわれている。この映画が米国で作成される前年1934年、“パブリック・エネミー”として歴史にその名を残すギャング、ボニー&クライド(5月)、ジョン・デリンジャー(7月)、ホーマー・ヴァン・メーター(8月)、チャールズ・フロイド(10月)、ベビーフェイス・ネルソン(11月)、などが次々と司法省捜査局(FBIの前身)によって仕留められていく。この捜査局員がGマンと呼ばれていたのだ。本作品はその時代に生きたボブの祖父チャールズと70歳を超え依然現役ガンマンであるボブを巧みに交錯させながら、祖父の隠された過去を解き明かしていく物語である。
第一次世界大戦に従軍し数々の武勲をあげた祖父はアーカンソーの田舎町で生涯を終える。その居住地は第2次世界大戦の英雄ボブの父であるアールに相続され所有地を広げ、さらにヴェトナムから帰還したボブが牧場として拡大していくが、名馬育成のためにアイダホに移動、都市化が進むアーカンソーの土地を売りに出す。整地作業中に出てきた金庫。そこに祖父の知られざる過去をたどるカギが隠されていた(シェリフバッジ、新品の5千ドル札一枚、特別仕立てのコルト45、雑な地図それにシリンダー状の金属)。「ガンマンがなにやらお宝の在り処を探しているらしい」それを聞きつけた悪党一味がつけ回す。
時代は1934年に戻り、直前まで禁酒法下(禁酒法廃止は1933年)でカポネが権勢をふるっていたシカゴは、この法律廃止で若い一匹狼たちが跳梁する犯罪都市に変じている。司法省はこの取り締まりで捜査局存在を広く訴えることを画策する。登用されるのが射撃の名手として知られていた田舎町の保安官チャールズである。上記のパブリック・エネミー全員が次々と登場、チャールズと熾烈な銃撃戦を展開する。ボブにはこの過程は何もわかっていない。限られた手がかりを基にそれに近づいていく。この時代の切り替えが絶妙なのだ。現在を読んでいると過去を知りたくなるし、過去に没入していると現代に戻りたくなる。
著者はワシントンポスト紙の映画批評を長く担当、その分野でピュリッツァー賞を受賞するほどの映画通。当に映画を見る思いで一気に読んだ。多様な銃器の細部にわたる説明も読みどころの一つである。
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