2017年8月17日木曜日

信長回想ドライブ1200km-12


12.信長ゆかりの地を巡る
今回ドライブ記のタイトルは“信長回想”である。初日は甲州を通り、武田と信長の接点(ある意味転換点)を思い起こして奥飛騨に至った。ここは美濃から近いので戦う前に信長に従うことになった地域。次は越中を目指した。謙信・信玄の時代から領地争いが絶えない地であったが、柴田勝家率いる織田軍が富山城を攻め落とす。これでここも織田の与党になる。加賀・能登は謙信が自家の内に取り込んでいたから、功を上げた後家臣前田利家の領地となる。厄介だったのが越前である。信長は政略結婚で妹の市を、近江を地盤とする浅井長政に嫁がせ、越前朝倉を狙う。しかし近江と接する越前の朝倉とは不戦同盟を結んでおり、最後の決断は義兄信長よりも家と家のつながりの長く深い朝倉義景と組むことを選ぶ。信長は怒り義弟を攻める。
長政は朝倉に助けを求め、姉川(現長浜)の戦い、金ヶ崎の戦い、一乗谷の戦いと転戦するが、小谷城の戦いを最後に、織田・徳川、秀吉軍に敗れて自害する。夫の死後信長の命で柴田勝家に嫁がされる。この一帯には、その後信長の跡目相続を巡る羽柴秀吉と柴田勝家の賤ヶ岳(しずがたけ)の古戦場もある。お市の方は賤ヶ岳敗戦後自害)する。今日の午後は、それらを訪ねるドライブである。
北陸道敦賀ICで自動車専用道に乗り、2時半賤ヶ岳SAで一休み。古戦場は一度一般道に下りないと行けない。あとのこともあるのでこのSA立ち寄りで良しとする。収穫は七本槍の一人に脇坂安治が居ることを知ったことである。脇坂は関ヶ原の後も生き残り、播州龍野藩を得る。私の本籍であり、父の旧制中学校同級生に殿様の末裔(脇坂君)も居たと聞いている。
次に向かったのは長浜。中心地には何かあるだろうと長浜ICで下りたのだが、長浜城はコンクリート造りとあったのでパス。小谷城址も山の中に石垣の一部が残るだけとガイドブックに書かれている。駐車場からかなり上りになるらしいので、ここもパス。
ここだけは!と計画時から決めていた、実宰院(じっさいいん)に向かうことにする。長浜市中心部でナビがおかしくなり、かなり時間を費やしてしまう。もう日が西に傾きつつある。ホテルへのチェックイン通告時刻は5時。まあ、これはきっちり守る必要もないのだが、性格が時間にこだわる質だから、どうしても先を急ぎたくなる。ナビにお寺の名前を入力すると距離も時間もごく近くであると告げる。しかし、田舎の最短道路行程は予期せぬことの連続。田畑の中の未舗装道路ばかり走らされる。地上高の低いスポーツカーでは腹をこするような道ばかりだ。むろん行き交うことなど全くできない。ただ幸いなのはどの道も見晴かせるから、早めに回避策をとることが出来る。たまに来るクルマは軽トラックばかりでなんとかやり過ごせた。
そうしてたどり着いた実宰院。ガイドブックには駐車場有(バスも可)とあったから「どんな立派な寺なんだろう」と期待していた。ナビが「案内地付近です。ここで案内を終了します」と言って終わった。すぐそばに確かに廃屋のような寺があり、周辺どこにもクルマは止められるが、とても観光スポットには見えない。
実宰院はお市の方と浅井長政の間に生まれた三姉妹が父親の自害後逃げ込み、匿われ、ひと時を過ごした所なのだ。もともとは長政の姉が出家して住んでいた庵とのこと。三姉妹は;茶々(秀吉側室の淀殿)、初(常高院、京極高次正室、京極家を再興)、江(崇源院、徳川秀忠正室、家光(三代将軍)を生む。NHK大河ドラマの主人公にもなっている)。
ここを発って、一旦琵琶湖東岸を北に向かい、湖岸に沿って西行き、最後に西岸を南下して、ホテル到着は5時半少し前だった。周辺にはほとんど人家なし。関西の別荘地の一つらしい。緑と静かさが良い。
今日の走行距離;254km

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(次回;ロテル・デュ・ラク)

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