14.E/M合併と東燃経営
1994年私はSPIN社長に任命された。当時の東燃社長はNKHさん。その直後にNKHさんは大株主のExxon/Mobil(以下E/M)によって会長に祭り上げられ、後任社長に私の入社一年先輩(大学院卒なので年度扱いは3年上)のTMBさんが就任した。この予期せぬトップ入れ替えは、NKHさんの新規事業への傾注にあったと言われている。常務まで昇った後子会社の社長であったTMBさんが復帰したのは、石油精製の本流である製造畑出身であったからであろう。E/Mは既に本業回帰を強く進めており、これに適う人材として登用されたわけである。この年から年々E/Mの経営介入は高まり、常勤役員の一部にも外国人が加わるようになって来ていた。TMBさんのもとで立ち上がった“チェンジ”プロジェクトは石油化学を含む東燃グループ全体のドラスティックな経営改善を目指すもので、SPINが横河電機に株式譲渡されたのもこの一環と考えていい。これによる横河電機の期待は代表的なユーザーである東燃との関係強化にあったとするのは当然のことである。1998年7月の譲渡以来両者の考えはほぼ目論み通り推移していた。
それに激震が走るのが1999年の年末である。世界最大の石油会社であるExxonと後続するメジャーの一つMobilの合併である。1909年の反トラスト法によってロックフェラーのスタンダードオイルは33の会社に分割され、スタンダードオイル・ニュージャーがのちのExxonに、ニューヨークがMobilになって以来のトラスト復活に等しいことが起こったわけである。この背景にはグローバルな石油企業の再編成があり、反トラスト法の適用が大幅に変化していたことがある。
長く東燃が日本人による経営を持続できたのは、ExxonとMobilの間に在る経営方針の違いを巧みに利用してきたことにあるのだが、TMBさんの時代になるとこれが少しずつ崩されて行き、ついに2社が合併することで、Exxon方式に切り替わっていく。2000年7月にはエッソ石油の子会社の位置にあったゼネラル石油と合併し東燃ゼネラル石油が誕生、日本法人のエッソ石油、モービル石油もこれに合体する。2001年4月にTMBさんが社長を退くと、いよいよ米国人の社長が乗り込んできて、経営は完全な外資型に変わってしまう。工場でも課長クラスは英語を使えないと一人前には扱われなくなってしまうほどだ。
このような激変は情報システム関連も例外ではなく、統合経営情報システムはExxonがSAPをベースにカストマイズした世界共通のSTRIPESに置き換えるプロジェクトが立ち上がるが、SPINにその仕事は廻ってこない(サーバー機能はUSに在るので、動き出してもコンピュータ使用料が入ってこない)。さらに日常的なユーザーサポート(ヘルプデスク)機能まで、アウトソーシング競争に敗れ、日本語対応可能なタイの会社に奪われてしまう。残っている経営陣や管理職が頑張ってくれるが、それにも限度があり、確実に東燃向けサービスは落ちていった。ただ幸いだったのは、SPIN設立当初からグループ外へのビジネス展開を積極的に進めていたので、2001年頃にはグループ向け売上割合は全体の20%のレベルまで減じており、一方既存システムの完全な置き換えまでには数年要するので、何とか対応策は講じられる見通しは立った。
この合併は横河電機にも大きなショックであったことは間違いないのだが、SPIN全体の経営が難局を乗り越えつつある状況では特に経営に深入りしてくることはなかった。むしろ、別の視点でこの合併の影響を懸念し始めていた。それはプラント運転制御システムに関することである。1980年代東燃はIBM・横河と共同でTCS(東燃コントロールシステム)を完成させ、関係会社を含め全社展開をしていた。これは当時Exxonエンジニアリングセンター(ERE)がHoneywellと開発中のシステムと激烈な競争の下で決したものである。両者を選択していた時代はIBMを用いたものもExxonグループで導入されていたが、その後HoneywellのTDCS-3000システムがグローバルスタンダートとなっていた。導入開始から20年を経過していたTCSの次期システムがどうなるか?これこそ横河のコアービジネスゆえに、一方的に見積もり参加も出来ぬような状態だけは避けたい、と横河のみならず東燃担当部門、SPINも念じていた。
結局この答えは、私がSPINを去る2003年まで出ていなかったが、その後Exxonはあれこれ機種選定に干渉しTDCS-3000システムの採用を認めさせてしまう。東燃から横河への譲渡に関わった誰もが予期も期待もしない事態が、この合併劇で起こってしまったのである。
(次回; 新役員と後継者問題)
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