<今月読んだ本>
1) 国語元年(井上ひさし):新潮社(文庫)
2)Achatung-Panzer!(戦車に注目!)(Heinz
Guderian):Arms &
Armour Press
3)海賊の世界史(桃井治郎):中央公論社(新書)
4)化学者たちの京都学派(古川安):京都大学学術出版会
5)盗まれる大学(ダニエル・ゴールデン):原書房
6)知立国家イスラエル(米山伸郎):文藝春秋社(新書)
<愚評昧説>
1)国語元年
-薩長に征伐されて堪るか!東北人井上ひさしが描く、標準語制定騒動顛末劇-
私の方言事始めは6歳のときである。父は兵庫出身だが学生時代に東京に出てきていたし、母は生粋の東京育ち。我が家の会話は概ね標準語だった。国民学校(小学校)1年生の夏休み8月9日ソ連軍が満州に侵攻してきた。臨時招集された父は非正規軍だから、15日には解隊無事我が家に戻ったが、正規の軍人の多くはその後シベリヤに抑留された。しかし、そんな正規軍の中にもどさくさに紛れて、兵士を解放した部隊もあったようである。父の会社の、そんな部隊に所属していた部下が、何人かの上官や同僚と伴に我が家に避難してきた。隊長(中隊長?;非職業軍人)は大阪の人、副官(軍曹)は秋田出身。隊長に“ぼんぼん”と呼ばれ、軍曹の朝の挨拶は「おはようごぜーまし」で始まる。関西弁とズーズー弁が突然日常の中に入り込んできたのだ。特に軍曹のズーズー弁は分かりにくく、生真面目な人だっただけに、ときに滑稽な感さえした。
昭和21年の晩秋日本に引揚、母の実家が在った西荻窪にしばらく留まり、近くの桃井第2小学校に通っていたが、翌年春千葉県松戸市に住まいを移し、北部小学校に転校した。今でこそ東京のベッドタウンだが当時は典型的な農村地帯、言葉も川(江戸川)一つ隔てて変わり、“べーべー言葉”。私の東京言葉は「あまっ子(女の子)」とからかわれ、しばらく苛めに遭ったりもした。小学校6年生の時、先々の進学を慮り上野広小路近くの黒門小学校に越境転校、今度は典型的な下町育ちの連中に「田舎っぺ~」と蔑まれることになる。爾後御徒町中学、上野高校へと進んだので、私の話し言葉はこの一帯で育まれていった。良く言えば“歯切れがいい”、悪く言えば“荒い”言葉遣いなのである。就職して和歌山へ向かう際、関西育ちの父が「おまえの言葉は(関西人には)喧嘩を売るように聞こえる時があるから、注意するように」と忠告され、松山中学に赴任した“坊ちゃん”がフッと過ぎった。そして7年間和歌山弁のシャワーを浴びることになる。しかし、小学校から大学まで使ってきた下町調東京弁が改まることはなかった。さぞ「生意気な奴」と思われていたのではなかろうか。
個人的な方言体験を長々と書いてきたのは、本書の内容がその方言を標準の話し言葉に一元化しようとする話だからである。著者は著名な劇作家だが、私にとっては初めて読む作品、その気になったのは“国語統一”と言うテーマにある。「そんなことがあったのか!」と。これはフィクション、それも“ト書き”まである戯曲の台本である。しかし、文末にある丁寧な解説(岡島昭浩大阪大学教授)を読むと、人物モデルが居たことや展開されるストリーがかなり史実に近いことが分かる。結論から言えば、本書の結末同様、その試みは挫折するのだが、明治初期から20年頃まで森有礼の「英語採用論」や青田節の「方言改良論(方言撲滅論)」が現れ、(外国人向け)「簡易日本語」提言があったことを紹介し、本書はこれらを下地に書かれていたのではないか推察している。「国語統一」そのものに興味を持つ私にとっては、この解説(12ページ)こそ読みどころであった。だからと言って戯曲そのものが、面白くなかったわけではない。
時は明治7年、文部省学務局四等出仕小学唱歌取調掛、南郷清之輔が“全国統一話し言葉制定取調”の命を受けるところから話は始まる。清之輔は長州出身(長州弁)だが薩摩の南郷家に婿入り、義父と妻は鹿児島弁、元士族の女中頭は江戸山の手言葉、下女の一人は江戸下町方言、もう一人は羽州米沢弁、迷い込んで下女になる遊女は大阪河内弁、下男(車夫)は南部遠野弁、書生の一人は名古屋弁、さらに故あって子供の時に渡米して英語が母国語に近い者が音楽を専らとする。ここへ紛れ込むのが京言葉の没落公家と元会津藩士、当然会津弁である。家内で日常会話は通じても、それを一つにまとめることは容易ではない(会話表現はある程度標準語だが、カタカナで方言ルビがふられている。舞台ではどちらが使われたのだろうか?)。先ず手掛けるのは発音だ。東北人は“イ”と“エ”が一緒になる。これを矯正するため母音口唇法から始める。これが一応終わると、次は言葉そのものの共通化だ。“ふんどし”だけでも一つに絞り込めない。当時は薩長藩閥時代、880語を維新に功績のあった、薩摩(200)・長州(200)・土佐・肥前それに江戸弁やその他に振り分けるが、元会津藩士が大反対。加えて学務局長は名古屋出身で怒りを買い、その案もご破算になる。訛りが出るのは活用の語尾にあると断じ、その統一を図る。終止形は“ス”、否定形は“ヌ”、過去形は“タ”、未来形は“ダロウ”、丁寧な表現には最後に“ドーゾ”と言うように。しかし、これで女性を口説いたり、強盗に入る場面を試みると全くうまくいかない。こんな抱腹絶倒の場面が続いたのち、ついに統一化案策定そのものが廃止になり、清之輔が精神を冒され、「唱歌こそ共通語のもと」とわめきながら幕となる(これはかなり本質を突いている。モデルの人物が言ったことか?あるいは井上ひさしの考えなのか?)。
NHKのドラマになったのが1985年、単行本が出版されたのが1986年、舞台で演じられたのは遥かにそれら以前だろう。演劇を日本で観たのは1970年以前に2回だけ(新劇とミュージカル)、もしこれが再演されることがあったら是非出かけてみたい。これが読後感である。
2)Achatung-Panzer!(戦車に注目!)
-恐るべき先見性!ドイツ装甲軍生みの親が開戦前に記した次世代陸戦啓蒙書-
ITサービス企業経営引退後2003年から2007年まで計測制御機器会社の海外ビジネス顧問を務めた。前半2年は専らロシア、一度の出張は大体2週間、間に土日が入る。それ以前から海外出張の週末の休みを過ごす場所として、好んで出かけたのが乗り物や戦争に関わる博物館である。モスクワには二つの軍事博物館がある、一つは歴史のある中央軍事博物館、もう一つは広大な戦勝記念公園内に冷戦後出来た独ソ戦を中心にした記念館やモニュメント、それに屋外展示場があり、巨大な列車砲から占守島(千島列島東端)に配備されていた日本軍の95式戦車まで各種の兵器が並べてある(残念ながら屋外展示物の保存状態はあまり良くない)。その中で他にないユニークな見世物が記念館の独ソ戦の節目となる10場面の大型ジオラマである。レニングラード攻防戦、モスクワに迫る独軍、反撃に転じたスターリングラードの戦い、最後は赤軍によるベルリン陥落で終わるのだが、中央ホールの周辺に一場面毎に大ホールが配され、それらを順次周回して、戦いを身近に仮想体験できるよう図られている。私が最も惹かれたのは1943年7月にロシア南西端クルスクで戦われた大戦車戦の場面である(独作戦名;ツィタデル(城塞))。正確な数字は不明だが、自走砲も含め独軍は2800両、ソ連軍は3000両の戦車が参加したと言われている。起伏のある大平原に数え切れぬほどの戦車が走り回り、火を噴き、黒煙を上げて擱座しているシーンは、山がちで島国の人間には想像を絶する世界であった。「よくこれだけの戦車があるものだ!」と。
原著はその生みの親が1937年少将(51歳)の時に表した、戦車戦に関する啓蒙書である。自伝や回想録ではなく、黎明期にある新兵器に関する哲学・思想であるところに意味がある。対象読者は独陸軍の指導部や政治家、あるいはジャーナリスト、戦車を補助兵器としか考えない守旧派軍中枢部と世論を覚醒させることが目的であった。無論ドイツ語で書かれていたものを、出版編集者(英人)の解説によれば、何と1992年初めて英訳になり世に出たのだとある。ナチス政権成立後(1933年)の独国防軍の急速な拡大と近代化を見る時、大戦勃発前に原著が翻訳されていなかったことが信じられない。もし、英・仏・露が戦前本書を研究していたら、電撃戦の様相はかなり異なった展開になったのではなかろうか?別の見方をすれば、世界の陸軍主流は誰も注目しないほど、先を行っていたのかもしれない。
グーデリアンはプロシャ出身ではあるが、この国の陸軍主流である伝統的な軍人の家系ではない。たまたま父親が軍人であったことからその道に入り、幼年学校、士官学校と進み、1908年少尉に任官、最初の配属が通信隊であったことが、のちの装甲軍創設に重要な意味を持ってくる。無線が戦車集散統制のカギを握る道具となったからである。大尉で第一次大戦を終えた著者はヴェルサイユ条約の下で大幅な縮軍と制約を受けた国防軍(10万人)に残ることが出来、輸送部隊に勤務することになる。輸送+通信、ここが独装甲軍発想の原点になるのだ。これからの陸戦は前大戦のような城塞や塹壕に籠る固点攻防戦ではなく、機械力を利用した機動戦になるはずである(この卓見が本書の核)。こんな考えが輸送隊整備・運用の中から浮かび上がってくる。第一次世界大戦来の戦車先進国は英仏、J.F.C.フラー(英戦車戦スペシャリスト)を始めとする先人たちの文献を当たるとともに、末期に戦われた戦車戦の事例分析を徹底的に行う(本書の2/3はこれに使われ、残り1/3が独国防軍における著者の装甲軍構想に割かれる)。戦車個体の構造・性能、装甲板、装備する銃砲、歩兵・砲兵・工兵との関係、騎兵が主力だった偵察任務の代替、対戦車兵器・砲撃利用法(直射)、通信と指揮・命令方式、燃料・弾薬補給、集団運用の細部、飛行機との協調などなど。
この分析研究から生み出されるのが、独立軍種に近い装甲軍である。集中した機動力で敵の急所を一気に突くことで戦闘を短期間で終わらせる。このためには、偵察用の装甲車両が先陣を切り、随伴歩兵・工兵も装甲兵員輸送車で同道、砲兵も自走砲化して一緒に動く。当然司令部や幕僚も高度な通信機能を備えた車両で戦闘部隊を追う。ここには他兵種の補助兵器に甘んじる発想はない。当然だが歩兵・騎兵・砲兵から轟々たる反対の声が上がる。軍上層部は概ねこれら兵種の出身者だからまともに扱おうともしないし、現実には予算も生産力もこれを実現できる状況ではない。それが変わるのは1933年ナチスが政権を握り、ヒトラーがこの構想に注目するようになってからである。既得権を持つ兵種からの注文は多々あるものの、3師団から成る装甲軍が認められ著者はその一つの師団長に任ぜられる。1936年少将に昇進、温めてきた思いを外に向かって発する機会がやってきたようである。
その後の実戦は、特に兵器整備において差があるものの、戦略・戦術としては出版時の著者の考え方を踏まえたものになっている。電撃戦と言う言葉は一言も出てこないが、装甲軍による開戦時のポーランド侵攻、フランスを陥し、英仏連合軍をダンケルクに追い詰めた西方作戦、独ソ戦の初期の快進撃を見る時、本書の先見性にあらためて驚かされる。本書出版後の出来事であるが、独ソ戦に反対したこと、モスクワ攻略戦時作戦中止・越冬を進言してヒトラーの怒りを買い、装甲監と言う指揮権のないポストに追いやられたこと、それでもツィタデル作戦ではグーデリアンに意見を聞いていること(これも反対する)、最後に陸軍参謀長に登用することなど、彼への信頼性は極めて高かったと推察できる。また戦後まで生き残り、ソ連・ポーランドは戦争犯罪人(大量殺人)として裁こうとするが、西側が反対し数年で保釈されている。その後回想録書いており、本書が計画とすると回想録は実績、この対比をしてみたく、目下それを入手し読み始めている。
3)海賊の世界史
-ギリシャ神話から現代のソマリアまで、西半球海賊史2500年-
野暮用で出かけ時間潰しの必要があったので、近くの書店で調整することにした。大体、文庫を見て新書に移り最後が単行本の順序である。新書コーナーでパッと見たとき「“海軍”の世界史」と誤認して手に取った。よく見たら“海賊”だった。海軍と海賊は無縁ではないし、こんな世界史を今まで目にしたことはなかったから早速購入した(読後参考文献を見て、この世界を扱った本が意外に多いことに驚いた)。高校の世界史で習った倭寇やスティーブンソンの「宝島」のモデルと言われるキャプテン・キッドのことなどに関する雑学入手を期待してである。狙いは半分外れ、半分当たった。“はじめに”で「西洋史中心で日本をはじめとする東アジアは扱えなかった」とことわりがあった。一方でキッドについてはかなりの紙数が割かれ、大西洋・カリブ海・インド洋での活躍が地図入りで解説され、最後は絞首刑に処せられる絵まで添えられている。
大航海時代までの西洋の海はヨーロッパ、北アフリカ沿岸部の大西洋と紅海を除けば地中海に限られる。従って本書の書き出しは紀元前5世紀のギリシャ人歴史家ヘロドトスの書き残したところから始まる。つまりこの時代からエーゲ海に交易の船を見境なく襲い、沿岸都市を略奪して廻る海賊が跋扈していたのである。船は小型のガレー船(手漕ぎ船)、これで船団を組んで獲物を狙うわけである。ギリシャ中心の海賊譚は、ホメロスの「オデュッセイアス」、トゥキュディデスの「戦史」と続き、物語や伝説の中の海賊をクローズアップする。この時代の海賊は“賊”と決めつけるよりは“海洋都市国家の支配者”と言った趣がある。
次はローマ帝国が支配する地中海。カルタゴとの勢力争いで生ずる空白域で海賊が支配力を消長させる。カルタゴ滅亡の後の北アフリカからイベリア半島はやがてモスレムに抑えられ、これによっても大国の力の及ばぬ地域が出てくる。さらにノルマンのバイキングが英国、フランスに進出、一部は地中海まで遠征し拠点を築く。一方でジェノヴァやヴェネツィアのような海洋都市国家が勢力を伸ばすとともに、各地の海賊と合従連衡を繰り返す。そしていよいよ大航海時代到来。南北アメリカの富を狙って各国が競い合う、遠征型・国家支援型海賊登場である。多くの人の海賊イメージもこの時代のものではなかろうか。原住民にしてみれば征服者も海賊と全く変わらない。本書の中で“私掠船”なる言葉が出てくるのはこの時代から。著者は“いわゆる海賊(海の盗賊)”とこれとを使い分ける。国王・女王を含む投資者が略奪のスポンサーとなり、船の積み荷ばかりではなく、敵対国家の植民地経営拠点を襲う。この辺りから海軍との境界も曖昧になってくる。キッドは私掠船船長から海賊に転じたため犯罪者として追われ、処刑されることになるのである。
この後著者が取り上げるテーマはチョッとユニーク、北アフリカ地域と欧米の関係だ。もともとイスラムの勢力が強かったこの地域は18世紀オスマントルコの支配下にある。しかし、その力は形式的で実権は地方の権力者の手にある。沿岸各所の海賊が地中海ヨーロッパとそれらの船を襲う。このため西欧諸国は個別に地方権力者と協定を結び、双方の旗を掲げる船に対する海賊行為は行わないことにする。しかし、米国が独立、それまでのユニオンジャックが星条旗に変わったことで米国船が襲われ始め、ついに軍艦が何度も派遣され、何とか和平にこぎつける。近代における北アフリカ地方と米国の関係など、全く知らなかっただけに、大きな拾い物をしたようにこの部分を楽しめた。
最後は現代の海賊についてソマリアの話で締めくくる。論点は国際海洋法の成立過程である。海賊と国家の結びつきが強かったことから、これに対する国際交渉は各時代にあり、海賊が在ったからこそ国際海洋法が出来たと結論付ける。
著者は国際関係史、マグレブ地域(北アフリカ)研究の専門家(中部大学准教授)。外務省専門調査委員としてアルジェリアに滞在しており、この調査結果が本書に反映されているので、そこが読みどころと言えるだろう。
4)化学者たちの京都学派
-ノーベル賞二人、文化勲章三人を生み出した土壌はいかに築かれたか-
昭和20年代前半に小学生だった者にとって、湯川博士のノーベル物理学受賞(1949年;昭和24年)は生涯忘れられない出来事ではなかろうか。私はこの時5年生であった。まだ占領下にある時、日本人初のノーベル賞受賞が持つ重みは計り知れない。同時に脳裏に焼き付いたのは京都大学である。東京周辺の小学生が知っている大学は東京六大学くらいである。「野球は弱いが、勉強は日本一の東大」との認識が揺らいだ一瞬でもある。しかし、その後社会人になるまで京大関係者(学生、卒業生、教官)に一度も会うことがなく、今一つ京都大学は薄い存在だった(無論入試最難関校の一つであることは知っていたが)。石油会社に入社してこの状況は一変した。技術系同期入社25人の内3人が京大卒、和歌山工場に配属になると、製油部長を始め、技術の要である製油技術係長は京大大学院卒、その他にも優秀な化学系先輩エンジニアが数多いたのである。ここから京大と私の深い関係が始まる。
当時はコンピュータ利用の黎明期、プラント設計や運転解析、さらには制御にシステムズエンジニアリング(SE)手法適用が話題になり始めた時期でもある。しかし、いまだ大学にこれを専門にする学科やコースはほとんど存在せず、体系的これを学んだエンジニアは社内にいなかった。そこで入社翌年(昭和38年)技術部幹部の発意で工場内にこれを学ぶ研修コースを設けることになった。依頼先は件の係長と縁が深い京大工学部に当時在った衛生工学科システム工学研究室(高松武一郎教授)である。受講生は10名程度。毎週金曜日の午後から土曜日の昼まで約半年、大学院生を主体とする講師陣の講義を受けたのである。お蔭で京大が一気に身近な存在になり、化学プロセスSEの世界でこの時培った関係がその後大いに役立つことになる。
日本人初のノーベル化学賞受賞者は京大工学部燃料化学科出身の福井謙一教授である(1981年)。先にチョッと触れた入社時の和歌山工場製油部長が同級生と言うことで、当時社内で話題になった(受賞時東燃石油化学役員)。こんな近しい京大化学の世界が取り上げられる本書を知って、即手配し入手後即読んだ。
本書は科学歴史物によくある形で構成されている。一本の幹から枝葉が分かれて新分野が開拓され著名人が輩出されて行く形である。その幹を成すのが、人物では喜多源逸、葉っぱに相当するのが福井謙一や野依良治ら。学問としての幹は工業化学、そこから繊維化学、燃料化学などが分かれて枝となり、さらに葉として高分子化学や有機合成化学、石油化学として茂っていく。
喜多源逸は1883年奈良県で生まれ、奈良尋常中学校(現郡山高校)、三高を経て東大工科大学(工学部)応用化学科に進む。卒業後も学校に残り1908年助教授に任ぜられる。ここまでは順調な歩みと言えるが、教授との教育観の違いから関係が悪化していく。教授の考え方は工業立国を急ぐ国策に沿う製造技術重点主義、喜多の目指すものは基礎重視の研究開発主義、この対立が因で発足間もない京都大学工科大学工業化学科に1916年移る。ただし、やめた経緯もあり職位は助教授のままである。幸い基礎重視は学内で認められ理科大学(理学部)化学科との交流はスムーズに進み、喜多の構想が実現していく。教授に昇格するのはMITを始めとする2年間の海外留学を終えて帰国後の1921年になる。この留学も少し通例と変わっている。当時京大に限らず化学分野は若手助教授クラスがドイツに渡り、特定テーマを絞り込んでその分野の権威の下で研究を行うのであるが、第一次世界大戦終了の年であったこと、研究者としてはかなり年齢をくっていたこと(35歳)から、米国とフランスの大学数カ所に滞在するものだった。従って研究は応用化学分野の組織体系や研究開発マネージメントの調査に力点が置かれることになる。基礎と応用の融合、研究開発管理、この二つに喜多が情熱を注ぐことで“京都化学スクール(学派)”が開花していくわけである。理化学研究所主任研究員制度発足時の初代化学担当主任研究員(1922年)、京大化学研究所長(第2代;1930年)、工学部長(1939年)の地位・役職を利用しての新分野開拓、企業との共同研究、国策への協力、これらを通じての有能な若手研究者育成、当に八面六臂の活躍である。
喜多の経歴や業績を丁寧にたどった後、本書は3人の人物に焦点を当ててそれぞれ章立てする。直弟子である桜田一郎(1926年卒、京大教授)、孫弟子にあたる福井謙一(1941年卒、京大教授)、それに野依良治(1961年卒、名大教授)。桜田はビニロン発明で文化勲章受章、福井と野依はノーベル賞(と文化勲章)受賞者。彼らに絡んで、6人の学士院会員、13人の化学会会長、が場面々々で登場し、喜多との関係が語られる。私にとって最も興味深かったのは福井謙一教授、父が喜多の遠戚に当たるところから、数学が得意だった謙一の進路を相談すると「数学が得意なら化学に進みなさい」と助言され、その道を選んだとある。計算化学、化学物理、量子化学を究め、まるで理学部数理物理学専門家のような分野に分け入り、フロンティア軌道理論でノーベル賞を受賞する。基礎重視の喜多の教育哲学が葉だけではなく花まで咲かせたわけである。しかし、京大の化学教育・研究形態が完ぺきだったわけではない。1960年代以降何人かの京大研究者が東大、東北大に移っている。彼らはこの時初めて京大以外の学風を知ることになるのだが、東大へ移った者は京大の権威主義(教授の持つ権限の大きさ)を批判し、東大のおおらかさを称賛する。また、東北大では基礎と理論を過大視する京大のやり方が虚学と写っていたと述べている。この辺りは著者のクールで鋭い調査分析力を感じさせる。
内容に関しチョッと不満が残ったのは、化学工学(化学機械)の話が少ないことである。石炭液化研究では実用プラント建設・運転の経緯・顛末も詳しく語られるのだが、学問としてこの分野がどう展開していったのかが不明である。東大を飛び出した理由が反製造技術だったからであろうか?
著者は東京工業大学合成化学科を卒業後オクラホマ大学でPhDを取得し帝人勤務ののちいくつかの大学教員を務めた経歴を持つ科学史家。引用文献、注がしっかりしており(時にはページの80%くらいこれに使う)、化学分野の史料価値が極めて高い一冊と言える。
5)盗まれる大学
-中国マネーにすがる大学、溢れる留学生、探るFBI-
30歳前後から業務と関係の深い学会活動に参加してきた。主に工学系である。併せてこの頃からリクルート活動も含め研究室に出入りするようになった。1980年代後半までどの研究室も若い院生が多数おり活気に溢れていた。様子が変わってきたのはバブル経済崩壊の少し前だっただろうか、博士課程の院生が減りそこを中国からの留学生が埋めるような状態が起こり始める。先生方によると、ポスドクの就職が難しいことが主因だが、豊かになることで工学部の研究室が3k職場もどきに見られてきたことも見逃せないとのこと。一方で留学生はなべて真面目で優秀な者が多いと聞かされた。この趨勢は日本経済の停滞と国立大学の独立法人化でさらに進んでいると聞く。「欧米では・・・」の“出羽守”達に言わせれば日本だけの状況にも取れるが、実は米国でも人とカネの問題は似たような状態にあることが本書を読んでよく分かった。そこに中国やロシアなどにつけ込まれる隙が生ずるのである(必ずしも国策としてばかりでなく、野心に満ちた個人を含めて)。
サブタイトルの“中国スパイと機密漏洩”から察すると、よく聞く中国によるハイテク技術持ち出し・盗用がまず浮かぶし、事実内容は中国に関することが多い。しかし、原著のタイトルは“Spy Schools”でどこにも“中国”はなく、もっと奥深い意味があることが、読んでみるとよく分かる。さすが、ピュリッツァー賞受賞のジャーナリストが書いたものだと。
本書の構成は2部から成る。第一部はサブタイトルに近い、中国へのハイテク流出と孔子学院による文化進出、これらに絡まる中国諜報機関の関わりに対し警戒を喚起する内容。第二部は、米諜報機関(FBI、CIA、軍など)による、米大学内でのスパイリクルートと防諜活動およびそれらと大学自治を巡る問題を扱い、全体としては第二部こそ本書の肝なのである。つまり、米諜報機関や海外諜報機関のはかりごとに対して米大学の守りが脆弱であることを暴露するものなのである。この視点は我が国ではおそらく今まで全く紹介されていなのではなかろうか。私が読んで良かったと思うのもこの第二部である。
前書きに続く第一部の導入は、デューク大学工学部における先端光学電子技術研究(国防省から基礎研究費が出ている;一種のステルス技術)の中国への流出事例で始まる。持ち出したのは大学院博士課程で学んでいた留学生、研究活動そのものにはさして貢献しないものの、巧みな話術と行動力で院生の中で次第にリーダー格にのし上がっていく。やがて指導教授に中国の大学との共同研究を持ちかける。教授は資金面で魅力のある彼の提案に乗り、応用面で完全に主導権を握られてしまう。背景には基礎研究を応用に発展させるための資金不足と電子工学を目指す米国人学生の少なさがある。当時のデューク大学電子工学科志願者の80%は中国人、また2013年米国大学工学分野における博士号取得者の56.9%は外国人なのだ!この留学生は持ち出した技術を利用して事業を拡大、国からも一目置かれる存在になっている。
孔子学院の進出も米側には同じような背景がある。今や米国の大学もグローバル競争下にある。中国人留学生を呼び込めるかどうかは学校経営に大きく影響する。加えて、ビジネス・就職チャンスを考え、米国人学生の中国語学習熱は過熱気味だ。最も手近な中国の大学との連携は学内に孔子学院を誘致することである。その後ろに中国諜報機関が潜んでいる可能性など疑うこともしない。知名度が低く、主たる産業もない地方では大学のみならず、自治体全部が中国人留学生で支えられるところまで出てきている。識者は無論これを危惧するが、下々は今日明日のことしか考えない。こうして草の根レヴェルで中国シンパが増殖していく。行き過ぎを抑えるために動いているのはFBIを始めとする連邦政府機関の一部だけなのだ。第二部ではそれらの動きを追う。
米諜報機関の縄張りは、国内FBI海外CIAである。しかし、グロ-バル競争の中でこの境界は曖昧になってきている。多くの米大学が中国に海外分校を置きだしているからだ。両機関はスパイを追うだけでなく、スカウト・養成もしなければならない。つまり、留学生や在米研究者は最も取り込みやすい対象者でもあるのだ。材料は;カネ、永住権・市民権、家庭問題、チョッとした犯罪行為(旅費精算の虚偽)、本格的なスパイ証拠 などである。求める情報は、上記の事由に応じて、帰国した際得た一般情報から米国内スパイ網まで幅広い。問題は大学行政との関係である。FBIやCIAが学内に入り込むことに対する大学の反応は時代々々で変わってきている。諜報機関にとってヴェトナム戦争時が最も厳しく、冷戦崩壊後は少し緩んできているが、学校ごとに状況は異なる。依然として断固反対から積極的に協力するところまであり、同じようなアプローチは出来ない。ハーバード大学から南フロリダ州立大学まで様々な実態・実例が明らかにされる。
最も問題なのが社会人対象の大学院。海外からの留学生や在米公館・企業から派遣される者の中にスパイがしばしば含まれる。FBIやCIAも学生として職員を送り込むのだが、これには周到な準備が必要だ。大学は入学審査に職業に関する種々の情報を求めてくるからである。CIAは主に国務省職員とするが、危うい場面がしばしば起こる(大学に察知される。現役の国務省職員が参加する。クラスメイトに経歴を疑われる)。この話では、特にハーバード大学行政大学院(ケネディスクール;雅子皇太子妃もここで学ばれた)が取り上げられ、対象国も中国は出てこず、冷戦前のソ連とその後のロシア(産業スパイ)、東欧(国籍や言語をごまかしやすい)、反米色の強いラテンアメリカ(プエルトリコ人は米国籍)などの事例が取り上げられなかなか面白い。
聴き取り調査、文献調査、引用注が充実しており、情報の信頼性が高く、ノンフィクションの範となるような作品である。訳もこなれていて読み易い。
“Spy Schools”は“スパイが活動しやすい今の米大学”の意ととれた。日本の大学はもっと甘い気がする。盗みたくなるようなものが溢れていないのだろうか?
6)知立国家 イスラエル
-知られざる先端技術開発国家。知的エリートは徴兵制の下で芽を吹く-
新聞の書評欄などを読んでいると著名人の“座右の書”なるものを見かける。私にとってこれに近い一冊がイザヤ・ベンダサン著「日本人とユダヤ人」(山本書店刊;店主は山本七平;イザヤ・ベンダサン=山本説が有力)である。購入したのは1971年、前年に出版されベストセラーとなった本である。それまでユダヤ人・イスラエルと言えばシェークスピアの「ヴェニスの商人」に出てくる阿漕な金貸しシャイロックやナチスによるホロコーストそれに中東戦争の関わりくらいしか知識がなかったが、この本によってユダヤ人とイスラエルに関する認識が随分改まった。強烈な印象を刻んだのは冒頭の一章にある「安全と自由と水にはコストがかかる」との話である。著者の言わんとすることは「日本人はこれらをタダだと思っているが、ユダヤ人にはカネをかけても守るべき最重要事項である」とその違いを述べ、以降を展開していくのである。読後感は「ユダヤ人に学ぶことは多いな~」である。
ちょうどこの頃から外国人(主に米国人エンジニア)と付き合う機会が少しずつ増えていき、エンジニア(特にIT系)の世界にユダヤ人が多いことを身近に感じるようになる。ただ、他の米国人と格別変わっているところはなかった。初めてイスラエル出身のユダヤ人に出会ったのは1983年バークレーのビジネススクールに参加した時である。クラス全員で20名、内13名が米国人、外国からはサウジ2、英国、デンマーク、豪州、イスラエル、日本各1名。学期スタート後2週間はディナーを学校近隣のレストランで摂り、お互いの親睦を深める場が設定されたが、イスラエル人(銀行員)だけはこれに加わらず、授業料の内からこの費用返却を求められたと事務局の女性が語っていた。また、1ヵ月ほど過ぎた頃数日間の休みがあり、外国人4人(英、デンマーク、イスラエル、日本)でヨセミテドライブを行ったが、この時も食事は一人で摂り仲間に加わることはなかった。こんなことから欧州人や米国人の一部から「あいつはユダヤ人だから・・・」の言葉が発せられる場面を何度か経験した。あとにも先にも生粋のイスラエル人の知人は彼ひとり、守銭奴シャイロックが現代に蘇り
“何も学ぶことなく”時間が経過していった。ITサービス会社を立ち上げ、その経営に携わっていた1990年頃、既に米・英・仏のソフトウェアを扱っていることを知っていた知人から「イスラエルの製造業ソフトが面白い」との助言をもらった。調べてみると組立加工業向けばかりで、こちらが望むプロセス工業用ではなかった。数学や物理学の優れた科学者を輩出している民族だけに、IT分野でも無視できないと注目はしていたが、現役時代さらに踏み込む機会はなかった。爾来約30年、“知立国家”に惹かれた。「何か学べるに違いない」と。
著者は東工大経営工学科卒業後三井物産に就職、主に航空宇宙分野を担当してきた人。イスラエル駐在経験はないが、米国駐在中多くのユダヤ人・イスラエル人と接触する機会が多く、海外ビジネスのコンサルタントに転じてからは、何度か彼の地を訪問、先端産業を中心に人脈を築き、本書もこれらの知見に基づき書かれている。
内容は、IT・バイオを主体に、産業政策や企業活動、教育体系、および背景にある歴史と社会環境さらにそれらと関わる国際関係(特に米国)を比較的浅く広く紹介する。あえて“浅く”と加えたのは、現在のイスラエルが抱える問題(特に、パレスチナを中心とする中東問題、国内政治経済問題)や民族としてけた外れ(イスラエル人自身“人口当たりでは世界一”と自慢するものが多々ある)に優れた人材を生み出してきた根源を探る点で、こちらの期待を満たしてくれるほどではなかったからである(ユダヤ教には一応言及しているが他書からの引用)。
一方で、今まで読んできたユダヤ・イスラエル物ではあまり見かけたことのない視点で掘り下げた徴兵制と絡めた高等教育、人材育成の話は新鮮で、大いに考えさせられる(これも優秀な人材育成ではあるが、過去の各界著名人がこの過程で生み出されたわけではない)。この国は男女ともに高校卒業後兵役に服す義務があるが(男子3年、女子2年弱)、高校在学中何度も共通テストがあり(知能、心理、体力)、ここで篩い分けが行われて配属先が決まるのだが、トップグループ30名程度は、“タルビオット(頑強な要塞の意)”と称する課程に送り込まれ、最新兵器開発のためのエリート教育を3年間受け(無論フィールドトレーニングもある)、卒業後6年間軍務に服する義務がある(この間修士、博士取得の機会あり)。次のクラスは“8200部隊”で諜報機関モサドと並ぶ軍の諜報部隊、高校卒業時の成績が1%以内の者が採用され、主にIT(言語・応用数学・暗号などを含む)関連の教育が施され、サイバー戦の第一線に配属されるのだ(兵役義務4年)。このような若者が任期を終えると、さらに大学に進んだり企業に就職したり、起業したりするわけである。
本書では特に先端技術の起業にかなり紙数を割いているが、上記のようなエリート教育から生み出されるものの他に、冷戦構造崩壊後のロシアからのユダヤ系移民が一役かっていると言うのも興味ある情報である。ただし、ここから移民政策による我が国経済活性化に敷衍するところは「チョッと違うのではないか?」と言いたい。また、ベンチャーの成功が狭い国内では限りがあり、これが世界に散った(特に米国)同胞との連携で支えられている点も、そのまま我が国に適用できる範とはならない。依然としてそこには「日本人とユダヤ人」の違いが存在するのである。だた、過度に平等を求める我が国の社会環境を慮ると“基本的人権侵害”と糾弾されそうだが、理系重視のエリート選抜・育成には惹かれるものがある。藤井6段は将棋界以外にも多数潜在しているに違いない。
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