<今月読んだ本>
1)日本4.0(エドワード・ルトワック);文藝春秋社(新書)
2)FEAR(Bob・Woodward);Simon &
Schuster
3)英語の語源(石井米雄);KADOKAWA(文庫)
4)プラットフォームの経済学(アンドリュー・マカフィー、エリック・ブリニョルソン):日経BP社
5)土 地球最後のナゾ(藤井一至);光文社(新書)
6)汽車旅の酒(吉田健一);中央公論新社(文庫)
<愚評昧説>
1)日本4.0
-地経学視点と少子化対策こそ国家安全保障の要だ!-
米朝首脳会談がシンガポールで行われてから間もなく6カ月になる。カギとなる非核化を含め課題解決期限は確か“半年”だったはずである。しかし、メディアの報ずるところからは、日本固有の“拉致問題”を除いても、前向きに動いているようにはうかがえない。会談前トランプ大統領が金正恩委員長を“ロケットマン”と揶揄していた時期には、米本土への脅威を除くため北朝鮮侵攻も辞さないとたびたび口にしていた。もし決裂となれば核施設空爆、さらには体制崩壊を目的とする、陸上戦闘が行われるのだろうか?その時我が国は?政府のどこかでこれに対する備えは検討されているのだろうか?ここまで来てフッと思い出したことがある。就職して間もない頃(1960年代半ば)に大きな政治問題になった“三矢研究”と称する、当時の防衛庁(現防衛省)制服組(自衛官)によって行われた第2次朝鮮戦争勃発を想定した図上演習である。韓国軍の一部が反乱、韓半島は共産化し危機が西日本に迫る、一方で北方ではソ連軍の動きが活発になる。これに自衛隊と米軍が対抗するシナリオであった。この極秘研究を暴いたのが当時の社会党、“シビリアンコントロール不在”と騒ぎ立て、多数の防衛官僚・自衛官が処分を受けた。当時父が防衛庁勤務(事務官だが)だったこともあり釈然としない気持ちが残った。専門家(自衛官)が一朝有事に備えてこの種の“研究”を行うことが何故いけないのか、と。今もあの時の後遺症が治癒していないようでは困る!堂々と国家安全保障策に関する議論が、専門家を含め活発に行われてほしい。こんな時目にしたのが世界的に著名な戦略家が我が国の安全保障に関して著した本書である。
著者のエドワード・ルトワックは1942年生まれのユダヤ系ルーマニア人。あのユダヤ人に厳しかった時代をどう切り抜けたか不明だが、高等教育は英国で受け(ロンドン大経済学修士)、英軍にも勤務している。その後米国に渡りジョンズ・ホプキンス大で博士号を取得し、シンクタンクの戦略問題研究所時代から戦略家として知られるようになり、国防総省顧問や軍の教育機関教官を務めている。戦争学の泰斗英戦略問題研究所創始者であるマイケル・ハワード、ヘンリー・キッシンジャーなどと並ぶ現代を代表する戦略家の一人である。
著者の論で有名なキーワードは“ポストヒロイック・ウォー”と“ルーティン・プレシージョン”。前者は、兵士の生命を重視するがゆえに“英雄”的な戦いを避けるタイプの戦争、後者も根底は生命重視(兵士のみならず一般市民の)にあり、それために精密兵器を駆使した軍事拠点に絞り込んだ戦い方を意味する。本書の後半部分は、この二つに核抑止力の極限状態(手詰まり)を論じ、核を使用した国は世界を敵に回すことになるので、大国間で大戦争が起きることはなく(ならずもの国家、北朝鮮の可能性は否定していない)、大規模な戦いがあるとすればそれは経済戦争で、地政学に加えて地経学的視点から安全保障策を練る必要がある、と省庁・閣僚の位置づけから直近のトランプ大統領の中国政策にも言及する。この後半部分は日本に限るところは少なく、むしろ旧来からある戦争論・戦略論への批判の趣きが強い(孫子の兵法は除く;孫は戦わずして勝利する方法を重視していたので、ポストヒロイック・ウォーや地経論に通ずるものがある)。また、持説である“ポストヒロイック・ウォー”と“ルーティン・プレシージョン”が湾岸戦争以降現実になっているにもかかわらず、米軍においてそれが過度に徹底され、軍事行動開始までに時間がかかり過ぎ、その間に犠牲になる兵士の数がばかにならない米国の現状を糾弾するとともに、イスラエルのスピーディな行動を高く評価する。
さて日本である。こういう順序に展開してくれれば分かり易いのだが、本書は日本の安全保障の問題点から説き始める。つまり著者の戦略思想が後回しになるのだ(多分販売戦略?にあるのだろう)。日本4.0とは江戸時代、明治維新以降、太平洋戦争終戦後、をそれぞれ1,2,3と見て、中国の台頭や北朝鮮の核でいよいよ第4の時代に入ることを意味し、その4.0時代は「いずれも困難を乗り切り、稀にみる繁栄をもたらした。だから・・・」となる。ただし、それに至る前途に北朝鮮の核、不安定な韓国情勢(著者は直近の韓国安全保障策に疑問を呈している。例えば、軍事予算の使い方;輸出用自国産兵器開発に過大投入)、さらには中国の軍事力強化が立ちはだかっている。どうする?「国連は全く頼りにならないと考えよ」 先の核兵器非実用論を踏まえ「核武装すべきでない」「(かつてイスラエルがイラクの原発施設を攻撃したように)ピンポイントの先制攻撃力を持つ」 この考え方は“ルーティン・プレシージョン”に基づくものだ。大戦争が難しい状況下では実効がある「ダウンサイジングされた特殊部隊を設けよ」 これは米軍の大規模な特殊部隊の失敗例(イラン救出作戦など)、2012年テヘランで核物理学者暗殺をしたイスラエルの特殊作戦成功例、を踏まえての提言である。ここで現在の自衛隊に欠けているのがヒューミント力(人を介しての諜報能力)とスカウティング(監視活動)力。先制攻撃を成功させるために不可欠な能力である。「このために若者を海外に送り偵察活動を行わせよ」と。日本人であれは相当の右派でもここまで公言出来ないだろう。一流の戦略家の具体的な助言、個人的には是非そんな国防策が支持され、堂々と行える国になってほしいと思う。
以上は、広義の軍事力からの安全保障策だが、日本に限って強く警告するの“少子化問題”である。「何のために国の安全保障か?それは将来の国民のためである。日本の安全保障問題の根幹にこの意識が薄い」と。括目させられた論点である。ここでも、人口増加に力を入れているイスラエルとの対比が援用される。
読んでみて分かったことだが、本書は一つのテーマの下で書き下ろされたものではなく、複数の講演(録)や訳者との対話を一冊にまとめたものである。従って、前後関係の不調和や内容の重複があり、読み物としてはまとまりが悪い。しかし、一方で興味のあるテーマをつまみ食いするような読み方も可能なので、ある意味濃い内容にも関わらず気軽に読めるところが良い。
2)FEAR
-“恐怖”こそ権力把握のカギと考えるトランプ大統領、その政権内の実情は如何に-
1970年5月末結婚式の祝辞の中で海外出張を知らされた。6月半ばあわただしく後輩の一人と米国ニュージャージー州に在るエクソンの技術研究センターに旅立った。無論初めてのことである。週末レンタカーを借りてワシントン観光に出かけ、ポトマック河畔のハワードジョンソン(モーテル)に予約もなしに飛び込み宿泊の可否を聞いたところ、幸いツインの部屋を確保できた。すぐ目の前には洒落たマンションのような建物が在る。これが後に世界に知られることになるウォーターゲートコンプレックス、民主党本部がここに居を構えており、1972年“三流のこそ泥”が選挙対策情報を得ようと盗聴器を仕掛け、ハワードジョンソンでそれを聞いていたのだ。これを暴いて1974年ニクソン大統領(共和党)を辞任に追い込んだのが当時ワシントンポストの記者だったカール・バーンスタインと本書の著者ボブ・ウッドワードである。この報道で二人はピュリッツァー賞を受賞するばかりか、共著「大統領の陰謀」は映画にもなり、ロバート・レッドフォードがその役を演じている(バーンスタイン役はダスティン・ホフマン)。その後独立したボブは、ブッシュ(父、子)、クリントン、オバマなど歴代大統領やCIAなどを題材に、多くの著作を発表し注目を浴び続け、その最新作が本書である。この本の出版が近いことを知りAmazonに8月下旬予約を入れたところ「10月半ば~12月半ば」との返事が来たが、幸い10月半ば手元に届いた(日本訳の出版は12月初旬になりそうである)。
「真の力は、使いたい言葉ではないが、“恐怖”である」著者が2016年3月、選挙戦が始まる前、ドナルド・トランプにインタヴューした際彼が発した言葉が本書のタイトルとなっている。選挙戦では喧嘩を売るように政敵を煽り、それを叩き潰すスタイルはトランプ独特の戦術、政権を獲ると閣僚や上級スタッフを日々戦々恐々とした空気の中に置き、気に入らなければ首を切る。外国の指導者に対しても、品の無い表現で思いを発露する。誰に対しても“恐怖”で意思を通そうとする姿勢を、著者はその題名に込めたのだろう。これが本書の通奏低音となっている。
第1章こそ2010年と言う大統領(選)とは無関係な時期から始まるものの、それ以降の章(42章で構成)はほとんど2016年後半の選挙戦から2018年3月半ばまで2年足らずの間のトランプ大統領および政権内の出来事を取り上げて、その内実を極めて客観的な書き方で明かしていく。各章に題目・見出しは皆無。この抑えた筆致が、かえって内容の信憑性を高めてく。果たして日本語訳はどのようなものになるだろうか?
まえがきの前に記された“読者へ一言”で、「情報源は明かせないが、本書は多数の関係者へのインタヴューを中心に、会議議事録や個人の日記などに基づいて書かれた」とことわった上で「トランプ大統領は本書のためのインタヴューを拒否した」と結んでいる。しかし「情報源は明かせない」と言いつつも、読み進んでいけば「XXXがそのように発言した」と言う表現や「ア~これはYYYが情報源だな」と推察できる場面も多く、その場に居るような臨場感を随所で味わえる。稀にみる異色なトランプ大統領、あのウォーターゲイト事件でニクソン大統領を辞任に追い込んだ辣腕記者が、何か世人が知らぬ恥部を白日の下にさらしてくれるのではなかろうか?この本の前評判はそんなところにもあったような気がする。しかし、この種の下種の勘繰りは見事にかわされ、特ダネや驚愕するような出来事が露わにされることはない。
内容は、大統領としてトランプは何をしたいのか、その考えはどこから来ているか、それを実現するための策や人選は如何に進められたか、重要な政策決定に際してそれらスタッフの言動はどんなものだったか、その言動はその後の各人にどんな結果をもたらしたか、さらにはそれら政策・意思決定は今どのようになっているか、をいくつもの資料と関係者へのインタヴューを基に、出来るだけ正確に再現する構成になっている。
見えてきたのは、経済問題が最大の関心事;財政、貿易、雇用問題への強いこだわり、安全保障も目先の経済的視点と移民・難民問題に絡めて捉えられ、しかもそれらの相互関係を深く考えず、個別テーマ毎に下問し即効性を狙って意思決定する、自己顕示欲の強い大統領とそれに振り回される上級スタッフや閣僚の姿である。政権内がぎくしゃくするのは重要案件を包括的に論ずる組織になっておらず、総じて政治問題に経験の浅い者それぞれが自策・持論を、弱腰を許さない大統領に忖度し、売り込むことから生じている。
話題は、安全保障問題、貿易不均衡問題、不法移民・難民問題、中東・アフガン問題、米中関係、北朝鮮と核、対韓政策、それにロシア疑惑などで、それぞれの背景・経過・結果(政策)はほぼメディアで報じられるところと大きく異なるところはない。読みどころは、それらが決まる過程で誰がどのように発言し行動したのか、を“会話”中心に記述していくところにあり、「よくこんなところまで聞き質したな~」と感心するばかりだ。
最初の外国訪問国はサウジアラビア。これには大型の武器売却商談が絡んでいる。サウジの使節団と米国の実務対応部署(主に国防総省)の交渉は難航している。すると娘婿のジャレッド・クシュナーがムハマンド副皇太子(現皇太子)に携帯電話をかけて一気に解決してしまう。国家安全保障担当補佐官、国防長官のあずかり知らぬところで、である。商談成立返礼をかねた大統領の表敬訪問、国務長官、国防長官それに担当補佐官も反対だが実現してしまう。皆面目まる潰れだ。
同盟国、中でも対韓政策は難しい。北の核、貿易不均衡やTHAAD(高高度防衛ミサイル)問題もあり、トランプ大統領は強硬策(米軍撤退)を主張するが、国務省も国防省もこれをなだめるのに四苦八苦する。これも含め包括的(経済援助や外交政策含む)な安全保障政策に関して、関係閣僚や統合参謀本部議長による大統領啓蒙の場がペンタゴンの一室で行われるが結果は失敗。大統領が部屋を去ると国務長官のティラーソンが「あの“モルモン野郎(正統なキリスト教から見るとモルモン教は狂教)”!」とつぶやく。
一方で移民・難民問題では娘のイヴァンカと婿のジャレッドは大統領とそれに影響を与えていた首席戦略官バノンの強硬な意見に反対である。これに対して大統領は「あいつら民主党員だからな~」と周辺にこぼす。この身近なファミリーと政権首脳の関係も微妙だ。ジャレッドは一応上級顧問と言う公式な肩書を持っているがイヴァンカは単なる無任所補佐官、オーバルルームへの出入りは制約を受ける。これをスタッフに咎められると「私はファースト・ドーターよ!」とかわされてしまう。「ファースト・ドーターなんて有りか?!」の感を著者も持ったようだ。
参謀と言うよりは副官のような役割に甘んじ、組織運営に傾注していた首席補佐官のプリ―バスも6か月後に辞任し、「大統領はホワイトハウスをPredator(捕食動物;シュワルツネッガー主演の映画にでてくる、異星から来た人食い生物)の集団にした!」と難じる。
先に「知られざる恥部を暴くような内容ではない」と書いた。しかし、何度も出てくる話題は“ロシア疑惑”。個人弁護士まで雇ってこれに対応するがセッション司法長官や特別検察官のロバート・ミュラーの追及を本書執筆の段階ではかわせず、最終章は「ミュラーは訴追をあきらめず」「大統領は証言しない」と終わる。中間選挙後セッション長官が辞任したことも考えると、著者は“ここに何かある”とのメッセージを読者に送りたかったのかもしれない。
中東(アフガンを含む)、中国、韓国については頻繁に取り上げられているが、日本は欧州同様ほとんど登場しない(北朝鮮の核の脅威に触れるところはあるが)。しかし、今後の2国間貿易交渉では、厳しい状況に置かれるのではないかとの懸念が残る。それは国家経済会議委員長で実質的な経済担当補佐官であったゲイリー・コーン(ゴールドマンザックス出身、ユダヤ系)が4月に辞任していることである。この人は自由貿易信奉者で大統領からはしばしば「彼はグローバリストだ!」と揶揄されながら、頼りにされていた人物(プロローグで、強硬派が書き大統領の承認を得るために机上に置かれた韓国文大統領宛文書をコーンが密かに持ち出すシーンがある)。それに対抗していたのが経済顧問でガチガチの保護主義者(特に対中国)ピーター・ナバロ(大学教授、政策アナリスト)。彼は依然として大統領ブレーンを務めている(本書の中でも「ロス商務長官はナバロの言いなり」と記されている)。対中国はともかく、コーンなきあと我が国に対しても厳しい要求を突き付けてくる可能性は高い。
3)英語の語源
-英単語記憶の極意、こんな考え方の辞書が欲しい-
昭和20年(1945年)4月に国民学校(小学校)に入学し、その年の8月に終戦。小学校卒業は昭和25年、日本が独立を回復したのは翌昭和26年。アメリカが輝いていた時代に感じやすい時期を過ごしたから、アメリカそして英語に対するある種の憧れは今の若い人以上に高かった。にも拘らず諸々の事情で英語が苦手になってしまった(言い訳に過ぎないが)。第一の理由は、新制中学にまともな英語教師が居なかったこと。体育の先生がしばらく教えていた。第二は、そんな中学の事情もあって都立高校の入試に英語が無かった!信じられますか?第三は、父が外語出身で成績評価は先ず英語だった。理系志望で反抗期が始まっていた私は「受験科目の英語以外はいい成績を取ってやろう」と英語への努力を怠った。ツケは高校に入って回ってきた。爾来英語コンプレックスは拭えず、それ故に今でも英語がそばにないと何故か落ち着かない。本書を平積みの新刊文庫本の中に見つけ、即購入したのはそんな事情による。
本書は題名から想像するような重い内容ではない。著者が学長を務めていた神田外国語大学のホームページに掲載していた英語エッセイをまとめたものである。取り上げられる言葉は辞書のようなAから始まるようなものではなく、話題になる時事英語をランダムに俎上に乗せて軽妙に解説するものである。113話から成り、一語に使われるのはだいたい2ページ。ただし、その語に関連する言葉が平均五つくらい取り上げられるから、総計6~700語が収められている勘定になる。内容は、厳密に語源を追うものばかりではなく、関連用語の説明に終わるものもある。
例えば関連用語解説で終わる例のひとつ“水”;それがギリシャ語hydrorから発したとはじまり、hydrogen(水素)、 hydrant(消火栓)、 hydrophobia(恐水症)に行き、ここからphobia(恐怖症)に転じて、xenophobia(外国人恐怖症)と飛んで、「xenosは外国人を表すギリシャ語」と、水とは全く関係ないところに落ち着く。最後までwaterは出てこない。
多くの英語はこの例のようにギリシャ語やラテン語に発することは想像の内であるが、ラテン語も古ラテン語から時代とともに変化して、どの時代のラテン語が英語に転じたかを欧州史・英国史を辿りながら論じていく。Trainはラテン語のtrahereが由来、本来「引きずる」「引っ張る」などが原義であったが、ここから時を経て「しつける」「訓練する」などを意味するようになっていく。さらに19世紀蒸気機関車が発明されと、古い「引っ張る」が復活して「列車」になるのだ。
本書の面白さは多分に著者の経歴に負う。東京外語を中退し外務省に入省(つまりキャリアの外交官)。駐タイ大使館勤務などを経たのち京都大学東南アジア研究センター教授・所長、上智大学教授などを歴任している。この間英・仏・独・伊・ギリシャ・ラテン・タイ・ビルマ・カンボジャ語を習得、その世界では「語学の達人」として知られた人である(2010年没)。
何処から読んでも良いし、楽しい。何度でも読みたくなる。言語だけでなく歴史の勉強にもなる。これが読後感である。
4)プラットフォームの経済学
-最新ITとGAFAに操られる日々、マシンと人社会の関係はどうなっていくのか?-
私の現役時代、ITの世界でプラットフォームと言えば、先ずOS(DOS、MacOS)、次いでワードプロセッサー(Ward、一太郎)や表計算(Lotus123、Excel)、さらに進んでインターネットのブラウザー(Navigator、Explore)というところだった。しかもこれらは有料であった。しかし今ではTwitter、Line、Facebookあるいは各種のGoogleアプリケーションもそう呼ばれるようになってきた。ここまではビジネス上の利用度が高まって来ても“商売”と言う範疇ではなかった。しかし、無料で利用環境を入手できるAmazon・楽天などに依る通信販売、さらには売り手買い手をマッチングさせる、オークション・個人取引(Yahoo、メルカリ)やUberのような輸送サービス、Airbnbのような宿泊サービスが出現し、伝統的なビジネスモデルと競い、これがIoT/AI/ビッグデータやクラウドファンディング(ネットを介した小口大衆投資)、仮想通貨(ビットコイン)と組み合わされ、従来のやり方を凌駕してくると、経済システムそのものが大変革してくることになる。事実Amazonの物品販売、Uberのタクシー代替機能は、既に既存業界に脅威を与え始めており、国家がその規制に乗り出すところも出てきている。
本書はそんな新たなプラットフォームとそれを生み出した最新IT技術を経済学観点から分析し、来るべき社会を論ずるものである。構成は3部から成り、第1部は産業発展史的な視点から人間とマシンの関係を論じ、第2部では新たに出現しつつある各種のプラットフォームを具体的に取り上げて、着々と地歩を固めつつある状況を示し、第3部で在来型ビジネスと新ビジネスを対比して共存の可能性を探る。
第1部では、導入部に今までの産業革命の基となる、蒸気機関、電力、通信を取り上げ、これらが普及し社会を変革してきた経緯を辿り、現在のIT(特にAI)による革命が、前者に比べ際立って短いことを、特に二つの面で強調する。一つはハードウェアの進歩(ムーアの法則;半導体の集積度は1年半で倍増する;これについてはスピードが鈍ってきているとの説も最近散見されるが、著者らは従来の考えに基づいている)。もう一つはAI実用化の予想外の早さである。ここから、マシンと人間の役割の変化に言及し、「人間が判断し、マシンがそのための情報を提供する」と言われてきた従来の考えを逆転させ「マシンが判断し、人間がそれをチェックする」方向を示唆する。しかし、これは人間不要を意味するものではなく、人間にしかできない役割を探ることにある。
第2部では、 サービス業で著しいITを基盤とする新ビジネスを先ず古典的経済学(需給関係と価格)から解析し、もし価格がタダになったときの需要爆発(一人勝ち)を行動経済学の視点から見直すべきと提言する(皆が勝ち馬に乗ろうとする)。そしてこれがやがてモノ作りの世界にも波及してくると予見する。例えば、クラウドファンディングを集めて試作品を3Dプリンターなどで手軽に作成して投資の見返りとして市場を探るような小規模マーケットイン型製造業が出現、急激に規模を拡大するようなケースだ(GEにおける社内ベンチャー)。その上で、既にハードウェア専業メーカーの製品がロボット技術などの普及で、どこでもできようになり、新興国でさえ儲からない構造になってきていると警告する。この部の要点は、ビジネスの直接対象であるモノやサービスに対してそれを扱う手段に過ぎないプラットフォームが取引の主役に躍り出てきたことに依る経済的・社会的インパクトへの注意喚起である。
第3部のタイトルは“クラウドとコア”。既存ビジネスの様々な組織(企業、企業内組織、取引関係など)が長年にわたり培ってきた知恵/専門知識/仕組み/能力を“コア”と定義し、これにたいしてプラットフォームに代表される新しいビジネスが不特定多数の支持で成り立っているところから、これを“クラウド(Cloud(雲)ではなくCrowd(群衆・仲間)”と呼び、コアがクラウドに主役の座を譲ることになるのかと自問する。経済活動におけるクラウドの特質は権力・既得権からの自由にある。中央銀行の特権である紙幣発行の権限を逃れる仮想通貨の誕生がその象徴だ。取引関係の根源は“信用”にある。これを確立するための重要な要素がブロックチェーン、すべての取引経歴を記録し、それをリアルタイムで確認できる。しかし、現実はこのシステムの要となるブロックチェーン記録用コンピュータの過半が中国に在る。権力・権威からの開放どころではないのだ(本書に書かれてはいないが、仮想通貨が中国で普及している理由は、自国通貨に対する信用度が低いため)。これ以外にもクラウドファンディングの先駆者DAOは取引に関する“完全な契約”を作ることが難しく見事に失敗している。人的組織が介在するコアならばそれが避けられた可能性が高かったと著者たちは考える。
原題は“Harnessing our Digital Future(ディジタル時代をいかに御すか)”。三つの着眼点、人間とマシン/モノやサービスとプラットフォーム/コアとクラウド、のバランスを解く方程式が見つかっているわけではないと率直に認めながら、少なくともテクノロジーはただの道具に過ぎないと断じ、「おじいちゃんの時代には無かった仕事を考え出すのは人間だ」と結ぶ。きわめて常識的なこの結論はチョッと拍子抜けだが、経営・経済学者に依る調査分析ゆえに技術偏重に陥らず、具体例中心の分かり易く解説から、変革期真っただ中に身を置く今が見えてくる。
著者は二人ともMITの研究者・教授。前著に「ザ・セカンド・マシン・エイジ」(未読)があり、これはその続編と言う位置づけ。
5)土 地球最後のナゾ
-あまりに身近な存在、しかし何にも知らなかった存在;土に関する入門書-
2003年ロシアのビジネスに関わりだし、8月下旬モスクワからウクライナのオデッサへ飛んだ。着陸時、如何にも農業に適していそうな黒土を眼下に見て「こんな土地だからロシア帝国も、ナチスドイツも欲しかったんだな」と、この地帯をめぐる歴史が頭を過ぎった。世界史で文明発祥の地が川と密接に関わることを教えられた。特にエジプト文明を支えたのはナイル川河口の三角州、上流から流れてきた肥沃な土がそれをもたらしたと教科書にも書かれていた。こんな浅薄な歴史認識にガツンとやってくれたのが本書である。チョッとオーバーではあるが、あの世へ行く前に本書に触れられことに感謝したい気さえ持った。
生まれた時から空気同様いつも身近に在る土(つち)。農業や土木に深く関わる人以外にはあまりにも当たり前の存在である。それだけに、一般人の興味を惹くものではなく、土に関する入門書のようなものを目にしたこともないし、小中学校の理科の授業で土そのものに関して何か学んだ記憶もない。本書は“土壌入門”とも言える内容だが、極めて奥が深い。土の成り立ち・種類・成分・特質から発し、それが農業(林業、牧畜などを含む)・植物分布は無論、地形・地質の変化、動物分布、文明・国家・都市の誕生発展、人口動態、戦争の原因に密接に関わってきたことを分かり易く教授し、それぞれの国(日本自身を含めて)の国土や歴史に新しい見方を与えてくれる。
学問的(米国農務省土壌分類)に土は12種類;未熟土、若手土壌、永久凍土、砂漠土、泥炭土、チェルノーゼム(黒土)、粘土集積土壌、ひび割れ粘土質土壌、黒ぼく土、強風化赤黄土、オキシゾル(鉄・アルミと粘土でできた赤土)、ポドゾル(砂質酸性土)。これらすべてが日本に存在するわけではない。著者はこの12種を調査(表層から1m位までの土層を観察し、生成過程を推論する)・採取するために、世界を駆け巡る。目的は壮大、やがて100億人に達する人口を養うためにどんな策が考えられるかを研究するためである。
どこにどんな土があるか、農業生産に適した場所(水、人手、輸送などから)か、土壌と植物(樹木・穀物・野菜・果物)との関係はいかなるものか、役に立つ土の厚みはどのくらいか(適度な厚さが必要)、土の改良は可能か(植物が土質を変えることもある)。スコップ持参で辺境の地を訪れ、そこに長期滞在し、場合によって作付けまで行って、土地の農業生産力(潜在力を含む)を探る。誤解から住民や官憲とトラブルを生ずることもある。また、土壌に関する国際標準作りのメンバーに志願し、日本が一色に塗られてしまわないよう活動したりしている。
ウクライナの黒土と日本のそれとはまるで違う。ウクライナはチェルノーゼム、これは水さえ十分あれば生産力抜群(土の皇帝)、しかし日本の黒土は黒ぼく土(火山灰から生み出される)、酸性が強く、時間をかけて他の土と混ぜたり、転作したり、施肥を行ことで豊かな実りをもたらす土地に変じているのだ。水を張る水田も酸性を弱めたり、病原菌を断つ効果ある。
いくら地味が肥えているチェルノーゼムでも厚みが薄いと何度も掘り起こすうちに土質が変わってしまう。スタインペックの“怒りの葡萄”で有名なダストボールはその結果である(これが世界初の土壌研究所設立動機となる)。水さえあれば土質は変わるのか。オーストラリア土漠地帯牧草地化の話が面白い。地下から水をくみ上げ緑化に成功するが、やがてその牧草地は牛の糞だらけになる。本来なら分解して肥料になるはずなのだがそうはならない。問題はふんころがし(昆虫)にあった。長いこと固い土壌で暮らし、そこに生きるカンガルーの硬い糞を食べてきた土着のふんころがしにとって、牛の糞はお好みでなかったのである。ヨーロッパやアフリカから牛糞に慣れたふんころがしを輸入してオージー牛ビジネスが軌道に乗ったのである。
土地をめぐる利権争いも様相を大きく変えている。有史来第2次世界大戦までは有用な土地を占有することが戦争の狙いだった。いまでは中国・インドが肥沃な土地を各地で買い占めたり、リビアが石油と交換でウクライナの広範な土地を確保したりしている。また、ウクライナ近隣ヨーロッパでは土そのものを買い取り、掘り起こした土だけ自国へ輸送するようなことも行われている。そうして得た貴重な土地も地下水のくみ上げ過ぎで塩分を含むようになり荒廃するケースもある。
アマゾン川は長さ・水量ともナイル川に勝る。ここに文明が発しなかったのは土にあることを本書で知らされた。
著者は京大農学部で研究をスタートさせ、現在は国立研究法人森林研究・整備機構森林総合研究所主任研究員。
多数のカラー写真が理解を助け、ユーモラスな語り口が読み進める力を与えてくれる。地味な研究分野ゆえ、財源確保それにポスドク生活の安定化に苦労が絶えない。「100億人を養うことの研究者が一人扶持さえままならない」と自嘲するところに著者のおおらかでタフな人柄がうかがえる。研究が世界に広く認知され、食糧増産に役立つようになることを願わずにはいられなくなった。
6)汽車旅の酒
-要注意!読んでいるだけで酩酊・泥酔・二日酔い-
近距離電車内で飲食する人を見ると嫌悪感をおぼえる。日中の空いた車内でもそれは変わらない。そんな私でも、出張途上その日仕事が無いことが分かっていると、昼日中クロスシートの長距離列車内で、缶ビールと駅弁やつまみで時間を過ごすのが楽しみだった。始めるのは乗車した時ではなく必ず走り始めてからである。もともとそれほど酒好きではなく強くもない体質だが、旅先では一杯やりたくなる。クルマ以外の観光旅行では昼から飲むことも今や当たり前になっている(だからクルマ旅の時は夕食時しか飲めない酒の旨さは格別だ)。つまり私にとって“旅と酒”の相乗効果ほど高揚感を味わえるものは無い。このことは、私に限らず、多くの有名作家たちの紀行文にもしばしば語られている。代表的なのは、本欄でも何度か取り上げている内田百閒の「阿房列車」シリーズ、駅で・車内で・食堂車で・宿泊地でと面白い話が満載である。しかし、“酒”に主体を置けば、本書に勝るものにお目にかかったことは無い。酒豪とはこういう人なのだろう。読んでいるだけで酩酊さらには泥酔した状態になってくるほど、旅に出ると飲んで飲んで飲みまくる。凄い!
この人の名前や作品に触れたことのある人の大部分は70歳代以上の歳だろう。戦後我が国復興に功のあった吉田茂元首相の長男である。若い人には麻生太郎副総理の伯父さん(妹の子)と言った方が分かり易いかもしれない。外交官だった父親の関係で、フランス語に精通しているほかケンブリッジ大学でも学んでいる(中退)。英文学者・作家として数々の評論・小説・翻訳・エッセイをものにしており、本書もその一つである。
ここに収められたものは、旅行誌「旅」に掲載されたものが最も多く、この他文芸誌、タウン誌、新聞などに載った作品27編(この内2編は短編小説)から成る。時代は概ね1950年代後半から1970年代前半まで。既に新幹線は営業しているが、それは批判の対象としてであって、取り上げられるのは専ら在来線長距離列車による旅である。旅の動機の多くは文芸誌の講演旅行、それに触発された個人旅行、チョッと例外的なのは仲間を誘って年中行事となっていた金沢訪問、と言ったところ。もともと鉄ちゃんではないので、乗り物そのものに深入りすることはなく、飲み食い(圧倒的に飲む場面が多い)が中心となる。
この人の旅と酒を大雑把に一般化すると以下のような具合だ。夜行寝台で東京駅から金沢に向かうとする(東海道線・北陸線)。列車に乗る前にホテル(多分ステーションホテル)で生ビールを一杯やる。車内で飲むためにウィスキーをひと瓶と瓶ビールを持参。小田原で紙コップの生ビールを両手に一つずつ。寝るまでに瓶ビールを開け、ウィスキーをちびりちびりやって就寝。朝駅に着くと友人が宿の主人とお出迎え、宿には朝から酒席が用意されており、風呂にも入らず飲み始める(日本酒)。昼過ぎ犀川を見下ろす友人の別邸を訪れ、ここでまた酒宴(日本酒)。夕方になると市内の料亭で本格的な宴会(日本酒)、この席のあとはバーに出かけて仕上げをする(洋酒)。時には造り酒屋を訪問、仕込み中や熟成した酒を賞味する。翌朝起きると朝食の膳にはビールが添えられている。話題は酒の話(特に日本酒)と同席した友人・知人との語らいが中心、これに料理(酩酊してほとんど覚えていないが・・・)と食器類(特に陶器)、それから列車と言う具合である。「酒旅の汽車」が相応しいほど、酒、酒、酒である。
読んでいて気になったことが二つ;この人はアル中ではないのか?売れっ子作家では全くない。支払い(費用)はどうなっているんだろうか?と言う点である。第一の疑問に関しては文庫本解説者がこう述べている「後半生は週に一日、曜日を決めて昼は神田・神保町、夜は銀座に出て、その日は徹底的に飲んだ。来客のある日のほかは、家ではめったに酒杯を口にしなかった」とある。アル中ではなかったようだ。カネの話は文中に時々出てくる。現金(原稿料)を手にして旅に出るが、使い果たしてしまい帰りの交通費を友人に借金する話や戦前フランスに滞在中電報為替に依る送金を依頼し、届くまでの厳しい(貴重な名酒が飲めない)日々を綴っている。著作リストを見ると1954年に「宰相御曹司貧窮す」なる本を出しているから、首相長男と言えども懐に余裕があったわけではないと推察する。こちらの実態はどうだったのだろうか、疑問は解けていない。
酒、特に日本酒に関心の高い人にはお薦めするが、下戸は読むだけで血反吐を吐く恐れがあるので要注意だ(解説に「戦後9年目の夏、ビール・キングのコンテストに出場して鯨飲、帰りに立ち寄ったバーでウィスキーを1本、家に着いてブランディーを半瓶あけ、翌朝吐血した」とある。また、年中行事化していた、河上徹太郎(評論家)、観世栄夫(能楽師)、辻雛留(料亭辻留若主人)との金沢旅行で、散々飲んだ後、鯛の骨酒(鯛一匹を焼き上げ、大杯に乗せ、それをほぐしたあと、燗をした酒で満たす)を回し飲みして、翌朝雛留が吐血したことを、巻末に観世栄夫が寄せた“金沢でのこと”に記している)。
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