■書籍流
これを書いているのは3月12日、前日は東日本大震災10年の日だった。あの日あの時間、午前中は水泳、いつものように昼食後二階自室でリクライニング椅子に横たわり、ボツボツ寝入るところだった。ゆったりとした、しかし経験したこともない大きな振幅の揺れがきた。部屋は南北に2間東西に1間半の6畳間、東西両面は天井まで作り付けの本棚と机に占められているが北のドアーに並んでガラス戸の本箱が在り、これには当時揺れ止めをしていなかったから、それが動き出したので、咄嗟に椅子から飛び起き抑えにかかった。直後に東西の本棚から本がバラバラと落ちてきた。もし、寝入っていれば顔面直撃、メガネをかけているから大怪我をしたかもしれない。数日後友人の一人から「書籍流は大丈夫でしたか?」と地震被害伺いのメールが入った。蔵書の多い知人宅で、土石流ならぬ書籍流のトラブルが起こっていたようである。
渡部昇一15万冊、井上ひさし;14万冊、谷沢永一(関大教授、書誌学);13万冊、草森紳一(評論家);6万5千冊、司馬遼太郎;4万冊、立花隆;3万5千冊、番外は膨大な量を保持していた文化人類学者の山口昌男、山形の廃小学校を買い取りそこに蔵書の一部を移したが冊数不明だ。多くは母校や没後図書館や記念館にそれらが保存されているが、大量の書籍を個人で維持管理するのは大変なことだ。特に地震対策において“想定外”が多発していたに違いない。
19世紀英国の書誌学者(印刷業者でもあった)ウィリアム・ブレイズは、書籍の敵10種を書き残している。①火の暴威、②水の脅威、③ガスと熱気、④埃と粗略な扱い、⑤無知と偏狭(価値ある本を燃料に)、⑥紙魚(シミ)の襲撃、⑦害獣と害虫、⑧製本屋の暴虐(蔵書家が再製本する際)、⑨蒐集家の身勝手(切り取りなど)、⑩子供と召使の狼藉、がそれらである。ここに地震は含まれない。彼の地では大地震が起こったことはないから、本が崩れ落ちることで傷んだり使い物にならぬことなど想像もできなかったのだろう。
しかし、さすが日本!私の手元には蔵書と地震の関係を記したものが2冊ある。一冊は東日本大震災前に発行された草森紳一著「本が崩れる」、もう一冊は東日本大震災後3万冊を600冊まで処分した文筆家の紀田順一郎がその顛末を語る2017年刊「蔵書一代」である。草森の生年は1938年、紀田は1935年、私は1939年、それほど違いの無い年代、過去の地震体験に重なる話もあり、身近な感を持った。特に紀田の母は関東大震災当時10歳、私の母と同じ歳、場所は横浜(紀田)と千駄木町の違いはあるものの、生々しい恐怖の体験を私たちに伝える口調に近いものがある。
先ず「本が崩れる」、永代橋際にあるマンションは40㎡程度の2LDK、独居老人のその部屋に3万5千冊の本が収まっている。収まるというより埋まっている状態であることが何葉もの写真(崩れる前後、瞬間を撮ったものもある)で分かり、それだけで圧倒される。部屋は無論、廊下も玄関も本でいっぱい、電話機、靴や帽子がその上に乗っている。話は風呂場(浴室・脱衣・洗面・洗濯)に何とか入ったものの、廊下に積まれた本の山が崩れて出られなくなるところから始まる。書籍流のなせる珍事だ。そこから脱出するまでの間、蔵書や執筆活動に関するあれこれを語るのが本書の内容、地震もその一コマだ。
著者は北海道の生れ育ち(郷里帯広の生家に3万冊が別途収納されている)、中学生時代十勝沖地震(1952年3月、M8.2)を体験している。それ故入居当初は寝室(和室)の頭部周辺だけは書棚・書物を置かないようにしていたのだが、次第にそれも叶わなくなる。ある日徹夜明けで布団の中でうつらうつらしていると強い揺れを感じ、パッと目を開けると本が落ちてくる、夢中でそれを振り払い、しばし布団で顔を覆っていると「まるで吠えるような音を立てて本が崩れ、遠くの方から著者に向かって、ごっそり列の束がそのまま倒れかかってきた」のである。幸い無傷ではあったが、しばらく身動きもならない。動けるように一冊ずつ片付け何とか寝床から脱出。書棚に入らず積み上げてあった書籍の7割方は崩壊、完全復旧に二十日を要したと言う。職人手配の時間はともかく、屋根の修理よりはるかに大仕事なのだ。2008年没、阪神淡路大震災には触れているが、東日本は知らずに逝った。
「蔵書一代」も紀田の蔵書管理の苦闘を物語る内容だが、やや書誌学の色彩が濃く、古書の扱い、海外や図書館の蔵書事情なども詳しく論じる。
1974年第一次石油危機の直後、地盤も勘案し土地代も含め年収の7倍以上をかけて自宅を建てる。鉄筋コンクリート造延床面積113.5㎡、鉄筋にしたのは耐震と書物の重量を考えてのことだ。しかし、阪神淡路大震災で耐震性に不安を持ち専門家に調査を依頼すると「現在の耐震基準では不合格、補強には5百万円、出来れば1千万円欲しい」と言われ断念する。種々対応策を検討した上、ニューシティ計画が進められていた岡山空港近くの吉備高原に500㎡の土地を入手、仕事場兼書庫(書庫だけで70㎡)を作ることになる。リモートワークの先駆けだ。ここを選んだのも地盤が決め手である。1997年4トントラック2台で取り敢えず1万冊の書籍をそこに移動し仕事を開始する。夫人は書庫を見て「あなたが死んでも、この本をあなたと思って、守っていてあげるからね」とかつて聞いたことのないセリフが飛び出し当惑するほどなのだが・・・。バブル経済がはじけると出版業界の様相は一変、遠隔地に居ては仕事のチャンスが減じ、費用ばかりかかる。寄る年波で片道525kmの旅も辛いし、地方での健康管理も問題になってくる。結局2011年東日本大震災の後ここを撤収することを決し、一部の蔵書(段ボール箱200個)は現地で廃棄処分し残りは横浜へ持ち帰ることになる。それからさらに数年、いよいよ老後を考えシニア―向けマンションに移ることになるが3万冊の蔵書を収める場所はない。ついにこれを600冊に減らす「永訣の朝」がやってくる。運び出しアルバイト二日で延べ8人を要した蔵書が去っていくとき、著者は気を失い道路に倒れ込んでしまう。
本書の中では先述した「本が崩れる」が紹介されるほか、蔵書14万冊関西在住の谷沢永一が阪神淡路大震災に遭遇、「膨大な書棚からほとんどの本が落下し、元に戻す目途もつかない」との体験談も記されている。
キケロの「書籍無き家は、主人(あるじ)なき家のごとし」を引用しつつ、一方で若き日目にした老記者が老人施設入所に際し僅か6冊の古典を携えていた新聞記事を思い起こし、自らの「最期の蔵書(「臨終の書」)」が残した物の中にあるだろうかと自問する。これは乱読活字中毒者への厳しい問いかけでもあった。
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