<今月読んだ本>
1)道をたずねる(平岡陽明);小学館
2)通訳者たちの見た戦後史(鳥飼玖美子);新潮社(文庫)
3)オリンピア1996冠(コロナ)<廃墟の光>(沢木耕太郎);新潮社(文庫)
4)工学部ヒラノ教授の傘寿でも徘徊老人日記(今野浩);青土社
5)ヨーロッパ冷戦史(山本健);筑摩書房(新書)
6)現役引退(中溝康隆);新潮社(新書)
7)10代のための読書地図(本の雑誌編集部); 本の雑誌社
8)藤井聡太論(谷川浩司);講談社(+α新書)
<愚評昧説>
1)道をたずねる
-日本全国の建物・戸主をくまなく訪ね歩き、商用地図を作る。ゼンリンをモデルにした友情物語-
1980年初めて自分の家を建てた。三浦半島の先端久里浜である。大規模に丘陵地帯を開発した住宅団地で、おそらく千戸を超す戸建て住宅が建てられていた。ある時その団地全体をカヴァーし、一戸ずつ世帯主名が記された地図が新聞に挟まれ投函されていた。地図の四囲は久里浜駅周辺の商店や不動産会社の名前で囲まれていたからスポンサーはそれらであろう。基地の街横須賀市の一部ゆえ、ところどころに“外人”と書かれていたのが記憶に残る。この地図はその地を去る1996年まで数回配られ、その“外人”住居は時々によって更新されていた(無論日本人も変わっているのだが数が多くチェックすることはなかった)。最初の地図を見た時ふと思ったのは、この地図の基となるものは何だろう?市役所が保有する原図か何かを利用しているのだろうか?と言うことだった。現在のように個人情報にうるさい時代、簡単に役所がこんな情報を公開するとは考えられないが、当時特別違和感はなかった。現在の地に移ってそんなものが配布されることはなかったから、その地図のことは長く忘れていた。本書を知ったのは夕刊の寸評、「日本全国の全世帯を網羅する地図づくり」とあり、あの地図の記憶が蘇った。地図づくりの頂点は国土地理院だが、この小説のモデルは民間企業の“ゼンリン”とあったので、ビジネスとしての地図づくりに惹かれ読むことになった。
ゼンリンの出発点は大分県別府、1948年観光宣伝社が案内書に添付した地図(別府住宅案内図)が好評だったことから地場の地図屋に転じていく。この地図が評価されたのは全建物と戸主全氏名が記されていたことにある。創業者はその価値に気づき大分県を起点に九州の主要都市・観光地の地図を作製・販売してゆく。目標は日本全国の建物を制覇することである。実はこのような地図屋は全国に散在しており地域特化してそれなりに商売をしているのだが、他地区へ積極的に進出する考えを持っていなかった。そこがゼンリンと他社との違いである。それら零細・中小の地図屋をM&Aで取り込み1980年47都道府県をくまなくカヴァーする規模に達するのである。1996年東証2部上場、2006年1部に昇格、2021年3月の経営指標(単独)は、売上高;572億円、営業利益;14億円(ここ5年で最低だから何か事情があるのだろう)、従業員数;2436人となっている。事業拡大は決してM&Aだけで達成されたわけではない。紙の出版物から電子地図データーベース、GPSと連動するカーナビやスマフォ道案内などへ積極的に投資していったことが今日の当該分野における第一人者の地位を確立させたのだ。本書はこの企業発展過程をその中核を担った二代目社長をモデルとして描いた企業小説かつ青春友情小説である。
私が新聞の寸評で特に惹きつけられたのは、この種の地図は“一戸一戸足で確認して作り上げる”と言う点である。本書を読んでその大変さが身近に理解できた。それを担当する調査員と呼ばれる人々は、当に現代の伊能忠敬である。
ベースになるのは1/5000地図(森林基本図などほぼ白地図)、これを画板の上に置き首から下げてそこに建物と氏名(あるいは店名)を記入していくのだ。山奥では電線のある限界まで行くが無人の場合もある。集合住宅は1棟ではなく1戸ずつだから手間と体力のかかることおびただしい。大都会を攻めるのは事前準備(人・カネ・情報・推進方法)が決め手だ。複雑な地下街(最初の挑戦は名古屋駅周辺)など商店組合さえ正確な情報把握が出来ていない。中小都市(ここでは近江八幡市)でも数人でチームを組み安アパートを借りて数カ月かかる。東京都心では大量のアルバイトを集める必要があり、その募集広告だけで百万円もかかっている。こうして出来た初版はだいたい赤字、利益は改訂版(同一地域5年周期)からとなるのが一般的だった。しかし、経済活動が活発になると銀行や不動産会社は営業車1台に1冊備えるようになり、時には税務署からも注文がくるようになる。
創業者は全国制覇目前、1980年60歳で他界、まだ大学生だった二代目が後を継ぎ、この人がコンピュータ利用を推進し、今日につながる飛躍のきっかけを作っていく。
この二代にわたる経営者と会社経営の変遷はほぼ実際のゼンリンをそのまま援用しているようだが、話は二代目(モデルの人物は1945年8月生まれ)の中学校の同級生二人を含む3人を中心に進められ、調査員の一人となる同級生が主人公格で小説は出来上がっている。中学2年から二代目(60歳)と調査員(70歳)の死までだから、国土復興・改造の真っただ中、地図作り環境も激変、これに進学・就職・恋愛・金策の苦労・労働争議・経営幹部の裏切りなどが絡み、さらに主人公調査員の自身も知らない隠された生い立ちが後半ミステリーのように明かされる。私の興味は地図作りにあったが、小説としてもなかなかの作品である。
作者は1977年生れ。2013年オール読物新人賞受賞。本作品は週刊ポスト2020年1月10日号~9月25日号に連載したものを加筆・修正とある。
2)通訳者たちの見た戦後史
-外国語習得は動機と国際共通語としての認識が重要。ネイティブを過度に追うべきではない!-
初めて海外出張したのは1970年6月、1カ月ほど米国およびフランスに出かけた。この時の年齢は31歳。それまでに外国人と会話したことは、工場案内の際自分の関与したシステムを説明するくらいだったから、何とか最低限の用は足りていた。しかし、この時は年若い同僚と二人だけ、訪問先で対応してくれたアルメニア出身のエンジニアに「他の外国語は話せるか?」と問われるほど拙い英会話力だった。彼は仏語、独語も解したのである。戦禍の続いた欧州には「拳銃を頭に突きつけられて覚えた外国語」と言う言葉がある。「どこから来たんだ?」と問われた時質問者の言語で答えられなければ「ズドーン!」となる。外国語をモノにするには“動機”が重要であることの象徴的なたとえ話である。
ビジネスの世界を引退する頃(68歳)には、拙いものの、一人で商談できるくらいまで英会話力を高めることができたが、ここまで来るにはそれなりの“動機”があった。最初のそれは1970年代初め、隣接する兄弟会社(のちに合併する)の工場に労働争議がもとで外国人の管理者が乗り込んできたことである。「我が社がそうなったら」との思いでテープ学習やビジネスライティングに励んだ。第二の触発は1983年のカリフォルニア大学バークレー校への短期(約2カ月)MBAコース参加である。そして第三の動機は1985年の新設子会社(情報技術サービス)への移籍と経営、それまで自由に利用できた親会社の海外技術情報から遮断され、自ら生きる道(海外提携先)を探さなければならなくなったことである。程度の差こそあれ、いずれも「頭に拳銃を突き付けられた」思いだった。こんな習得過程だから私の英語力はたかが知れており、それだけに外国語の達人には今も興味が尽きない。著者はアポロ月面着陸の頃からよくTVで視てきた同時通訳者、その後大学教員に転じていたことは知っていたが「多分英語を教えているんだろう」くらいの認識しかなかった。出版社からの案内で久し振りにその名前を見て“戦後史”に惹かれ読んでみることにした。我が国国際関係史に何か通訳上の問題が隠されていたのではないか、と。
ひと言で言えば“羊頭狗肉”である。正確な題名を付けるとしたら「鳥飼玖美子自伝」が相応しい。実際基となる単行本の題名は「戦後史の中の英語と私」であるから正直に内容を反映している。狡猾な編集担当者(書名、帯はこれが決める)の釣り餌にまんまと引っかかった私が軽率だったのだ。だからと言って読んで損をしたと思ってはいない。むしろ著者の英語教育における現状批判は一読に値し、自分の来し方がそれほど間違っていなかったと、この歳になって確信させてくれるものだった。ポイントは“動機付け(決め手はないが内発的なものを喚起する)”と“国際共通語としての英語(例えば;発音をネイティヴスピーカー並みにする必要はない。重要なのは分かり易さである)”である。
著者は1946年生れ、父は海軍主計少佐で退役(その後は不詳)、母は父親(著者の祖父)が商社シンガポール支店勤務の時英国学校に通っているが開戦前に帰国。著者自身の経歴に現在の帰国子女に見るような海外長期滞在の経験はない。英語に興味を持つのは中学生(東洋英和女学院)になってから。近所(赤坂檜町)に米人宣教師が住んでおり、その英語教室に通い出したところからである。高校に進むと英語熱はさらに高まり津田英語会にも入会する。当面の目標は高校生対象の留学制度AFS(American Field
Service)受験である。一度失敗し二度目に合格、1963年ニュージャージーの高校に1年間派遣される。丁度ケネディ大統領が暗殺された年である。ここで語学以上に異文化交流に惹かれ、大学は上智大学外国学部スペイン語科に入学、2年生の時チョッとしたきっかけで通訳の仕事を手伝い、以後同時通訳者の道に進んでいく。これが彼女の前半生である。アポロ月面着陸(大学卒業4カ月前)前後を除けば直接関わった仕事に“戦後史”と言えるようなものは無く、大きな社会的出来事(例えばJFK暗殺)を自分史の中で回顧する程度である。
ただ同時代の先輩通訳には國弘正雄、西山千、村松増美、小松達也等がおり、彼等は政財界トップの通訳をしばしば務め、重要な国際交渉の一役を担っている。その裏話を時に著者に語っていたようで、それなりに面白い場面を間接的に垣間見ることは出来る(例えば、佐藤-ニクソン間の沖縄返還と繊維輸出自主規制の関係;「善処します」を「I will do my best」とやりニクソンは「最善を尽くします」と理解、一向に進まぬ自主規制に業を煮やし、それが頭越し米中和解につながったらし)。
その後しばらくNHKの英会話教室や歌番組の通訳・司会などに出演していたものの、結婚後育児のために仕事はそれが出来る範囲にとどめ、子離れしてから(43歳)母校が100周年を記念して大学創立の際教員として呼ばれ、さらにその後立教大学が異文化コミュニケーションを専門とする大学院を創設する計画に参加(51歳)、爾後定年まで勤め名誉教授として退任している(70歳)。この後半部分は英語教育に関する自説の開陳、政府の審議会でも積極的に発言している。幼時からの会話教育に反対、逆に中学英語教育でのネイティブ教員活用の積極化推進(英語以上に異文化交流、動機付けの可能性)、ネイティブ教育に発するテスト(TOEIC、TOEFLなど)導入に対する疑問(国際共通語としての英語は流暢や正確さを求めなくてよい。テストで高いスコア取ることが目的化するのは不本意)、この延長線で大学入試民間委託に猛反対(おそらくこの部分は本書出版に際して加筆されたと思われる)など、本書を読んで思わぬ収穫となった部分である。
3)オリンピア1996冠(コロナ)<廃墟の光>
-カネまみれオリンピックを四半世紀前にアトランタで見聞、鋭い目で巨大エンターテイメントを批判した先見の書-
これを書いているのは、コロナ禍・不祥事・IOC金権批判が渦巻くなかで強行された、異形オリンピックの最中である。本書の元は1996年、著者がスポーツ誌Numberの依頼で現地から送った記事。これが単行本として出版されたのが2008年、この文庫版は昨年開催予定に合わせて刊行されたが、1年延期となったため、改めてその後の状況をあとがきⅢとして追加し、本年再版されたものである。従って表題の“冠(コロナ)”は決してコロナ禍を揶揄するものではない。しかし、オリンピックのコマーシャリズム、ナショナリズムをこの時期から徹底批判していることと併せて、結果として時宜を得たタイトルとなった。
序章は古代オリンピックが行われたギリシャ・ペロポネソス半島のオリンピア(アテネから南西へ約200km)訪問記から始まる。著者は、遺跡は残るもののほとんど訪れる人もないオリンピアに数日滞在、古代オリンピックが腐敗と過度なナショナリズムで衰退したことに思いをはせる。次いで近代オリンピック生みの親クーベルタン男爵の足跡を追い、復興前の議論として競技派と体操派があり、最終的に競技派が勝利し、現代につながる勝敗・メダル重視の競技会になった伏線を示す。そして第1回近代オリンピックが1896年アテネで開催される。それから丁度100年目、本来ならアテネ開催が有力だった第26回大会は、金権亡者サマランチ会長の下、強引にアトランタに決まる(第1回・第2回投票はアテネがトップ)。3回前のロスアンゼルス大会は金権オリンピックの始まり、組織委員長のユベロスは米国を中心にスポンサーを大々的に募集、放送権も牛耳って収益アップを図り、その大部分は組織委員会が手にしてIOCの取り分はわずかだった。これを見たIOCは巻き返しを図りソウル、バルセロナ(サマランチの出身地)と続く大会で組織委員会の力を減ずるとともに、放送権とスポンサー認証権を手にし、カネまみれオリンピックに邁進していく。最大のスポンサーは米国のTV局、開催地や競技者の事情は二の次、TV局が求める開催時期・競技スケジュールが最優先されるのだ。
今回の東京も「何故最も暑い時期に?」と疑問を呈せられているが、この時も7月19日~8月4日、つまりMLBを除けば米国の主要プロスポーツはオフシーズンである。南部に属するアトランタは暑さもひとしおだ。選手のみならず取材陣もこの暑さに辟易とさせられる。ここはコカ・コーラの本拠地、関係者はいたるところで無料サービスを受けられるようになっている。しかし、著者は空港でのIDカード入手時から断固それを拒絶、最後までホテルや自分で求めたミネラルウオーターで渇きを癒す。金権オリンピック批判する以上簡単に妥協しないのはさすがだ。
先月同じ著者による“オリンピア1936<ナチスの森>”を本欄で取り上げた。著者誕生遥か以前の話だけに、自身で取材したのは名作として残る映画“民族の祭典”を製作したレニ・リーフェンシュタールとの対談だけであとは当時の資料に基づいた日本選手の戦いぶりで構成されている。しかし今回は日本出発から閉会式まですべて、自ら体験・見聞したことばかりである(クーベルタン回顧は除き)。それも競技そのものばかりでなく、練習や競技後の言動、各国ジャーナリストの報道、ボランティア活動、交通問題、人種問題さらに会期中起こった爆破事件など多岐におよび、オリンピックを単なるスポーツ・イヴェントに留まらず、社会的な視点から考察するところが本書の読みどころ。特にエンターテインメントに堕したその批判は、IOC首脳陣ばかりではなく、ドリーム・チームと言われた米男子バスケットボールチームにも向けられ、優勝するが誰もNBAの公式戦ほど真剣にやっていないと喝破、プロ参加でも最高の技が見られる場所ではないと断じる(これはサッカーなどにも言える)。また、過去の大会で短距離・跳躍で活躍したカール・ルイスの衰えを冷静に分析、スターを何とかリレーで起用しようとする米世論を批判的に追う(結局選ばれず)。また、柔道のポイント制導入が本来の姿を失い、見苦しく勝敗判定が分かり難いものになっており、国際化における問題点を指摘しているのも著者のスポーツに対する見識の高さを表している。
アトランタは近年のオリンピックで日本にとり最低の大会(金3(すべて柔道)、銀6、銅5)だっただけに、尚更その取材姿勢が生きている。私が今思い出せるのは女子マラソン有森裕子の銅メダルくらいだ。
たまたまこの年5月にアテネを、11月にアトランタを訪問している。アテネは中継点だったので2泊しただけだがそれでも第1回大会の競技場がホテルから近かったので出かけてみた。ここは本書ではひと言も触れられていないが、誰もいない観客席でぼんやり往時を想像してみた。もし、開催地を争っていたことを知っていたら、また別の思いになっていたかもしれない。アトランタではっきり覚えているのはマラソンコースとなった道路(ピーチツリー・ストリート)に引かれた赤い線が残っていたことである。アトランタにはその後何回か出かけ、文中に登場するホテルやレストランも利用したことがあるので、久し振りに紙上センチメンタル・ジャーニーを楽しんだ一冊でもあった。
4)工学部ヒラノ教授の傘寿でも徘徊老人日記
-傘寿に達したヒラノ独居教授、コロナ禍で大病を発するも運よく回復、早朝から所々徘徊、高齢者向け情報収集・発信に余念がない-
70歳定年退職を機に始まった“工学部ヒラノ教授”シリーズも本書で18巻目になる(別に一冊専門分野のものがある)。工学部の語り部と称するように前半は大学・学界の裏話が多く、一部は筆禍事件を起こすほどの内容。外野からほくそ笑みながら“工学部版文春砲”を愉しんだ。しかし、最近は、介護・終活・独居など我が身と重なるテーマが中心になり、他人ごとではなくなってきている。つまり役に立つ情報源に転じてきているのだ。本書の表題を見た時一瞬「同じもの?」と疑ったが工学部ヒラノ教授と徘徊老人日記の間に“傘寿でも”が赤字で挿入されており、最新版徘徊日記であることが分かった。独居老名誉教授、コロナ禍で大変な経験をしているのである。
所帯を持った後の私の独居経験は2003年5月~10月の滞英時である。しかも前半3カ月は家内も来ていたので実質は2カ月強に過ぎない。住んだのは湖水地帯に近いランカスター市、半年程度の滞在で家具付きとなると町の中心部に適当な住まいはなく、町外れのアパートの一戸を借りた。部屋からの眺めはほとんど放牧地、似たような集合住宅が数棟あるものの、付近は墓地や少年院があるような辺鄙なところ。一人身になって一番不安だったのは、一応救急車の呼び方は調べておいたものの、夜間体調不安を起こしたらと言うことだった。教授の日々にも同じ状況がうかがえ、尊厳死協会の登録も含め、数々の対策を講じているが、コロナ禍では予期せぬことも起きる。これはあとがきで明らかになることなので、終わりに書こう。
徘徊老人の一日は午前4時起床から始まる。先ずやることは体重測定、体重安定が健康管理の原点と考えているからだ。その後は洗面などのあと体温・血圧測定。簡単な朝食を済ませ5時から徘徊に出る。杖とリュックは必携、24h営業のスーパー(牛乳など鮮度が問題な食品・食材から仏壇に供える販売期限切れの切り花まで、出費ミニマムを旨とする。買ったものでリュックの重さは5kg前後になる)、公園(柔軟体操)を巡り帰宅は6時。新聞を読んで6時半からラジオ体操。この後が凄い!何と5時間の執筆活動を毎日続けているのだ。昼食を摂った後は映画/音楽(TV、DVD)鑑賞・読書(漫画を含む)など。午後4時半から再び近隣徘徊、ここまでで約1万歩歩く。5時過ぎからTVニュースやドキュメンタリー番組など視て、6時からワイン(他の酒類の時もある)を飲みながら軽い夕食、どんなことがあっても8時には就寝する。これに週二回(一回2時間程度)介護支援施設での歩行器利用や歓談がある。因みに教授は要支援(介護ではない)2(1より重い)で、この施設利用には区から補助が出る。
以上の日課を、施設での仲間との語らい、学生時代の友人たちとの思い出の日々と彼らの現状、現役時代の学界活動や数学特許に関する政府との戦い、音楽や映画に関する想い出、ウィーン単身赴任時の自炊生活、幼い時からの挫折体験、などと絡めて語られるので、徘徊・独居する教授の姿がどこかで我が身と重なり、これから自分は何をすべきか具体的な問題を突き付けられる(とは言っても行動を起こすわけではないが)。例えば、教授は手回しよく、数年前介護施設を所々調べ、埼玉県の施設と「79歳までに空室が一部屋になったら本契約をする」との仮契約を交わしているのだが、最近読んだ上野千鶴子著「在宅ひとり死のすすめ」に「“現在の介護保険制度が維持される限り”ヘルパーの支援を受けて、認知症になっても、在宅がずっと幸せ」とあるのを知り、本契約を思案中とある。介護施設を当たることもせず現在の介護制度も全く調べていない私にとって、「少しは対応策を検討開始しなければ」と喚起させる一文であった。
さて、思わぬ出来事である。教授が本書初稿を書き上げたのは昨年2月半ば、コロナがボツボツ問題になり始めた時期である。突然下血、以前2度ほど入院加療した大腸憩室である。自宅に居る時だったので始末をした後救急車を呼ぶが、前回入院の東大病院も住居地周辺の大病院もコロナ対応で入院不可、しばらくあちこち走り回った末に、やむなくことわられた東大病院に運び込んでもらったところ、その場でOKが出る。前回入院時の紹介者が病院長だったことが幸いしたのだ。「持つべきものは有力医師」が教授の結論である。私にかかりつけ医は一応居るものの、そんな有力者に知り合いはいない。どうすべきか?それが問題だ!
70歳過ぎの老人には有用情報満載、一読お薦めである。
5)ヨーロッパ冷戦史
-米ソ二大国の対立と見られがちな冷戦、欧州各国の動きはその陰に隠れていたが、いずれの側も複雑な内部事情を抱えながらの抗争であった。知られざる欧州内部から見たその実態を本邦初公開-
欧州大戦史に多大な関心がありながら、現役時代そこを訪れる機会はほとんどなかった。たまに出かけても仕事でスケジュールはいっぱい、チョッと週末やオフを利用して観光をと思ってもそんな時間を捻出できないほどだった。従って、「引退したら欧州を」の思いが強く、2007年の英国を皮切りに、翌年のイタリア、フランスと主要な国々を巡り、2018年ツアーながら待望のドイツ旅行を実現した。本来ならば第三帝国の軍事や政治そして科学技術の足跡を辿りたかったが、ツアーではそれもまま成らず、観光コースに旧東ドイツを含めることで我慢せざるを得なかった。そこで印象的だった訪問地は、ベルリン、ポツダムそれにドレスデンである。第二次世界大戦と言うよりは冷戦の舞台として見つめることになる。ポツダムは、日本人にとってはポツダム宣言の地として知られるが、ドイツ分割統治の出発点でもある。ベルリンはその縮図、やがて冷戦の象徴的な存在となる壁が築かれる。ドレスデンは冷戦史で特記するものはないものの、たまたまベルリンからバスで移動、昼食を摂ることになった場所周辺に残る無味乾燥なアパート群にそれまでのドイツと違和感をおぼえた。仕事でしばしば出かけた、ロシアの地方都市と同じような景観、当に共産主義国家の味気無さを思い起こさせ、見事に復元された街の中心部との違いが極端だった。
我々が見てきた冷戦は米ソ対立と同義に近い。しかし、欧州の国家・民族にとっては欧州内の東西対立、さらには東西それぞれの陣営内の国情の違いから時として生ずる対立を含む複雑な冷戦、双方とも決して米ソをリーダーとする一枚岩で戦ったわけではなかった。本書はそのような視点から、分断統治の始まった1945年を起点にブッシュ・ゴルバチョフに依り幕が下ろされる1989年までの冷戦変遷史(前史となるテヘランやヤルタ会談を一部含む)である。日本人にとって知られざる冷戦史、科研費対象研究の一般向け解説書であり、核軍縮、EU変遷・発展、ドイツ統一、NATO拡大、米欧関係、欧露関係など冷戦後の欧州現代史を理解する上で有用な一冊と言える。
ヤルタ会談は欧州戦における戦後処理と対日戦へのソ連参戦それに国際連合創設が主題だったが三巨頭それぞれの思惑は異なっていた。勢力圏を分割する考えはチャーチルとスターリンに共通するが、ルーズベルトはこれには批判的。彼の関心は対日戦と国連にあり、大英帝国維持を目論むチャーチルに同調する考えはなかった。つまり西側の足並みがそろっていたわけではない。また、ポツダムにおけるスターリンの中東欧統治案はドイツの中立化と緩衝国家成立にあったが、それは共産党一党独裁ではなく、国民戦線による左翼中心の政権を期待していた。「労働者独裁を強調するな」が外交関係者に示された指示である。ただしその範囲はバルカンからリビアの一部(交戦国であったイタリア植民地)に至る広範なもので、さすがに米英の強い反対にあう。
戦後欧州の安定化のカギはドイツの扱い。ソ連はあくまでも分割統治に反対する。中立化が阻害されると考えたからだ。本書の中で最も紙数が割かれるのはこの問題である。取りあえずの戦後占領政策にフランスを加えたのはチャーチル。米国が早期に欧州から大幅な兵力引き揚げを考えていると読み、対ソ勢力と期待してのことである。ノルマンディー上陸のあとドゴールはスターリンとの間に対独戦協力を交わしていたことやフランスの大国としての復権意識が、占領政策に限らず、西側の足並みを乱すことになる。
冷戦の起源は1947年3月のトルーマン大統領によるトルコ・ギリシャ支援を求めた議会演説にあるとされるが、この演説そのものをスターリンは問題視していない。むしろ欧州(特に仏、伊)の政権からの共産党排除が進んだことに危機感を強めたと著者は見る。そしてそれに続くマーシャルプランこそ決定的で明確な対立を生み出したとする。きっかけは軍事よりは経済にあったのだ。1948年6月に始まったベルリン封鎖(第一次)は西側によるドイツ通貨改革が最大の因、つまり経済戦争なのだ。この封鎖は翌年5月解かれるが、その背景はこの時点で核保有国は米国一国、スターリンは戦争の可能性を避ける決断を下す。
以上のような安全保障上の歴史を画す出来事の他にも、マーシャルプランに対するコメコン設立、NATO対ワルシャワ機構、西独独立と西独軍の発足、ポーランド・チェコスロバキア・ハンガリー・東独の於ける民主化運動、核兵器開発・配備・削減交渉、経済・政治共同体としての深化(ECSC→EEC→EC→EU)、いずれにも単純に東西と分けられないそれぞれの国の事情が絡み、陣営内の対立顕在化、陣営の違いを超えた連携さえ起っていく。
四分五裂・合従連衡を繰り返してきた欧州の長い歴史は一先ず置き、本書で冷戦史をたどるだけでも、彼等のしたたかで狡猾な安全保障・外交戦略が窺え、我が国対欧州関係を見直す動機付けを期待できる一冊と感じた。新書だが約490頁あり、参考文献・索引も充実、本分野の事典的役割も期待できる。久し振りに歯ごたえのある本だった。
著者は1973年生れ。ロンドン・スクール・オブ・エコノミックス(ロンドン大学)でPhD(国際関係史)を取得したヨーロッパ国際関係史の研究者、西南学院大学法学部教授。
6)現役引退
-プロ野球スター選手24人の最後の1年、それぞれの終わり方をデータで描く。みな精一杯頑張ったのだ-
これを書いている今、オリンピックたけなわである。もともと東京招致には、反対だったし、このコロナ禍の中で今一つ興がわかない。大谷の戦いぶりや高校野球の地方予選の方が気になるくらいだ。昭和世代の私にとって、自分ではろくにプレーしたこともないのに、スポーツと言えば何と言っても野球である。日本のプロ野球はオリンピック中お休みのようだが、メジャーリーグはスケジュールを変更せず継続中だ。米国オリンピックチームは真の代表選手で組まれているわけではないから、TVで観戦する気にもならない。私にとって、印象的な出来事は開会式聖火ランナーに、長嶋・王・松井がそろい踏みしたことだった。松井に支えられた長嶋の姿は痛々しかったが、3人とも今までのどんなゴールドメダリストより、日本を代表するスポーツマンと言える。因みに私は大洋時代からのベイスターズファン、強烈なアンチ巨人であるが個々の選手は別。3人とも大好きな選手だった。中でも王は1年違い、下町育ち故彼のことは中学生時代から噂を聞いており、早実以来ファンとなった。本書は、2008年までに引退した日本プロ野球の名選手24人を取り上げた彼らの最後の1年である。トップは王、トリは長嶋、残念ながら松井は若すぎたのか登場しない。
24人(最終所属)は;王(巨)・落合(日ハム)・一茂(巨)・古田(ヤ)・水野(MBLキャンプ)・原(巨)・石毛(ダ)・中畑(巨)・掛布(阪)・江川(巨)・田淵(西)・清原(オ)・桑田(パイレーツ)・村田兆治(ロ)・駒田(横)・西本聖(巨)・山本浩二(広)・渡辺久信(嘉南勇士;台湾)・バース(阪)・クロマティ(ロイヤルズ)・秋山幸二(ダ)・門田(ダ)・長嶋(巨)、である。何故これらの選手を選んだのかは全く説明がない。初入団を含めると巨人が多いこと、長嶋一茂や定岡のように一流とはとても言えない選手がいること、反面野村・金田・張本・鈴木啓司など大記録保持者が取り上げられていないことに疑問・不満を感じた。著者(プロ野球を主とするライター)が1979年生れであること、文春野球コラムで巨人担当だったことが人選に影響しているのかもしれない。
まだ現役一流選手としての余力を残しながら自ら一線を退いた者(王、山本浩二)、限界までやり尽くして去る者(落合、古田、原、石毛、田淵、清原、村田、秋山幸二、門田、長嶋)、退潮の中で最後の花を咲かせた者(中畑)、怪我・病気が引退を早めた者(掛布、江川)、第二の活躍の場を海外に求めた者(水野、桑田、渡辺久信)、トレードに反対不本意な終わり方をした者(定岡)、一方トレードで奮起、そこで実績を残した者(西本、駒田)、家族や母国事情で日本球界を去ったバース、クロマティ、30歳で引退した一茂の場合はコーチ批判と過呼吸症候群、監督の父が引導を渡す。きれいに分類できるわけではないが、引退事情は様々である。個人的には、一つのチームで過ごし、力を残しながら引退した王と山本浩二の生き方に惹かれるものがある。
現役時代の活躍ぶりにハイライトを当てた後、最後の数年を数字で辿って力の衰えを具体的に示し(デヴューから引退までのデータ付き)、身体的な問題点(特に怪我)や精神状態を反映すると思われる言動を引用・分析、そこから引退への流れを語る。見えてきたのは、皆体調維持に万全を期し、時には手術を受けたり年齢・資質に相応し新技法習得に努めるものの、30歳代後半から身体が悲鳴を上げている姿である。どんな優秀選手でも40歳を過ぎるとガタッと力が落ちる末期のプロ野球選手の厳しい日々を要領よくまとめる内容だった。引退後の生活には何ら触れていないものの、彼等と比べればサラリーマンの人生は「気楽な稼業ときたもんだ!」。
7)10代のための読書地図
-あれこれ200冊を超える書籍が取り上げられているが、読書の道筋が明確でない。それでも年寄りの常識が非常識であることは確かなようだ-
孫が二人いる。上(男)は13歳(中2)、下(女)は9歳(小4)。彼等へのプレゼント(誕生祝いやクリスマス)は物心ついたころから、本か文房具にしている。その甲斐あってか二人とも本好きに育った。上の子は小6の時夏休みの読書宿題感想文で学校代表に選ばれたし、下の子は図書室貸出ナンバー・ワンを続けている。しかし、中2を見ていると最近私が与える本よりも、本当は「鬼滅の刃」のようなものが好きらしく、自ら小遣いで求めるものはその種の本が多いようだ。そこで10代の読書傾向を知るべく本書を手にした。10代と言っても10歳から19歳までとなると小学校高学年から大学生までかなりの幅がある、いったい誰に読ませる本だろうとの好奇心も働いた。
構成は、第一部;3人の書評家・編集者による、小学生30編、中学生34編、高校生36編、計100冊の選出、第二部;18人の書店員(これが多数)・書評家・文芸評論家・編集者によるジャンル別(例えば、友だち、運動部、文化部、名探偵、科学、宇宙、学校、戦争など)の書籍紹介。一分野に4,5冊、5頁ほどを費やすので全体では90冊程度100ページ近くになる。その後は第三部としてまとまるわけではなく、本や読書に関するエッセイが続き、書籍にまつわる各種職業とそこへの道、感想文の書き方、47都道府県をテーマにした書籍の話、編者がピックアップした全国書店員アンケートで小学生・中学生・高校生向けの推薦図書や作家が紹介される。
読んでみて分かったのは、私が孫たちに買い与えている世界名作全集や日本文学全集あるいは偉人伝のジュニア版は極めて少ないこと、最近の日本人作家の創作が多いこと(ノンフィクションは高校生まで含めほとんどない)、それも数十巻にわたるシリーズ物が売れていること(驚くべき発行部数と金額)、中でもミステリーあるいはSFの割合が高いこと、などである。つまり、私の常識は二世代も経ると完全に非常識だったことを思い知らされる結果になった。全体として、あれこれ切り口を変えて推薦書を提示するので、道に迷うような地図である。複数の推薦者でジャンル別・対象年齢層別に選び、それぞれの本の概要・読みどころを解説するところはむしろ偏らず好ましいかも知れないが、それを編集責任者が、枝分かれはあってもいいが、一本の筋にまとめる形式を採って欲しかった。また著者の大部分はベテラン書店員(経営者を含む)、一方で教育関係者が皆無なのも気になるところである。
しかし、少年少女向けの知らない本を知ると言う点においていい勉強になった。その意味で対象読者は、小学校高学年から高校生、両親、そして我々のような祖父母、さらには10代を対象とする作家志願者にも役立ちそうだ。
読み終わったこの本、ガイドブックとして保持し、これからはプレゼントに際して本人たちにいくつかここに載っている書名をあげて選ばせようかと思っている。
8)藤井聡太論
-現代の若手天才棋士をかつての天才が分析する藤井聡太論・現代将棋論。競う相手も師匠もAIだ!-
子供の時から何故かゲームの類に全く興味を持たない。将棋は小学生の時、麻雀は大学入学時少々遊びルールも一応覚えたが短期間で終わっている。本書で二歩以外にも禁じ手があることを初めて知ったくらいだ。だからその手の本は先ず読まない。従って、本書も自分で求めたものではなく、親しい友人が「AIが話題になっているよ」と回してくれたものである。いくら将棋そのものに惹かれるものが無くても“藤井聡太”とくれば現代日本を代表する天才少年、著者も若き日の天才少年で最年少名人。直ぐに飛びついた。二人の天才、谷川は1962年生れ、藤井は2002年生れ、40歳の開きがあるが4段(プロ)になったのは14歳と同年である(藤井が半年早い)。天才は天才を如何に描いたか?
書き出しは藤井の凄さをデータで示す。“最年少”は報道でもよく知るところだが、意外と知られていないのが勝率、このところ4年の藤井の勝率は8割4分前後、段位が低い時は力に差があり高い数字も上げやすいが、強者の居並ぶ上位になるとこの数字は驚異的なのだ。谷川の年間最高勝率は7割8分4厘、一度も8割に届いたことはない。羽生もデヴュー当時平均8割、上位になるとそれは難しくなる。だいたいその年の勝率トップは4,5段が獲得、谷川は藤井の勝率を「想像を超える」と脱帽する。次は精神面での強さである。今までの歴史をたどると連勝が途絶えるとしばらく低迷するのが一般的だったといくつもの例を示し、藤井の場合その反動が無いことに着目、心理面での特異性を強調する。加えて、若さもあって体力や長考の集中力の凄さにも触れる。このあと、現役の最強棋士たちの実績を追い、彼等と藤井を対比させ、確実に彼らと同等あるいはそれ以上であることを窺わせる。渡辺明(1984年生)、豊島将之(1990年生)、永瀬拓矢(1992年生)、それに羽生善治(1970年生)、いずれも九段がその対象者、羽生は例外としても、いずれも10歳以上年長者だ。ここまで「藤井は別格」の導入部。
次いで藤井ブームを漸次参照しながら将棋界の変化を語る。ここでは、大山・升田・木村義雄・加藤一二三・中原聖・米長・谷川・羽生など時代を画した棋士と棋風を藤井と比較、藤井新時代へとつないでいく。各時代にはライバルが常に存在し、そこでの切磋琢磨が彼らを成長させ強靭にしてきたが、藤井にはそんな競争相手がいない(著者はその点を危惧)。彼を鍛えているのは先輩現役棋士とAIだけだ。
現在AI対棋士では八冠保持者でも勝てないほどAIが強い。しかし人間棋士の対局では“AI超え”の差し手さえ起り得る。2018年6月の竜王戦ランキング5組決勝戦で石田直裕5段を相手に藤井(当時7段)が打った手がそれなのだと谷川は詳しく解説する(将棋を知らない私にはそのすごさは分からないが)。相手が人間だと一見悪手でもこれで勝利を得ることが出来るのだ。この差し手で藤井は「升田幸三賞」を獲得している。
人間は流れ(その局あるいは過去の対戦相手の対局、あるいは相手の心理状態や体調)で駒を動かしていくのに対し、AIは盤面の現時点から最善手を決める。ここが人間とAIの最大の違いであり、そこに“AI超え”が生まれる可能性もあるのだ。一方で感情を一切排除し理詰めで駒を進めるAIは負け戦を分析したり、難局の解決策を見つけ出すには格好の教材、藤井を始め現代の棋士たちはAIをそのように使い、実戦よりはPCに向かう時間が増えているようである。藤井は「AIは対抗するのではなく共存すべき存在」と語っているが、これは他の分野においてもAI活用の肝と言える。AI活用のポイントは差し手に対する評価値にある。しかしこの数字を導き出すアルゴリズムは棋士にも分からない。谷川は藤井がそれを解明しようとしているらしいと推察する。さすが若き天才、最新技術の理解・利用も一味違うのだ。因みに藤井は自分で高性能PCを組み上げる技術力もある。
現代の将棋は、過去の棋士たちがそれぞれの得意の手法で戦ったのとは異なり、一つの戦法で乗り切れない時代、多様な戦法を身に付けるためにもAIは欠かせぬ道具になってきており、谷川も遅れ馳せながらそれを導入、研究に余念がないようである(当初はAI利用せず現役を終えると思っていたが)。
先にも書いたように私は将棋をやらない。棋譜や序盤・中盤・終盤の打ち方、詰め将棋の話などはほとんど理解できなかったが、藤井の凄さを通じ将棋界の変遷、その中に現れたAIの役割は、これからの高度情報化社会を具体的に紹介する一冊であることだけは確かである。
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