ここのところOR起源調査のため原書に取り組んでいるので読書が進まない。2ヶ月で読んだ本は以下の5冊である(これ以外に同一筆者(日本人)によるミステリー(と称する)を2編読んでいるが、自分で購入した本ではないし、評を残すほどのものではないので割愛する。
<今月読んだ本(3、4月合併)>
<今月読んだ本(3、4月合併)>
1)ヴェルサイユ条約(牧野雅彦):中央公論新社(新書)
2)砂漠の狐を狩れ(スティーヴン・プレスフィールド):新潮社(文庫)
3)ダブリナーズ(ジェイムス・ジョイス):新潮社(文庫)
4)モスクワ攻防1941(ロドリック・ブレースウェート):白水社
5)ポール・フレールの世界:カーグラフィック(別冊)
5)ポール・フレールの世界:カーグラフィック(別冊)
<愚評昧説>
1)ヴェルサイユ条約 2月の本欄でご紹介した「ワイマル共和国」同様、ORの起源と深く関わるナチス政権誕生の背景理解のために読んだ本である。1月末出版でたまたま目にしたこともあり購入した。前書が主としてドイツ国内の政治情勢が主題だったのに対しこの本は第一次世界大戦参戦国の国内事情(特に終戦処理を巡るウィルソン大統領と他国のリーダーたち)とドイツ側で講和に深く関わった政治学者マックス・ウェバーの言動に主眼が置かれている。
あの戦争でドイツが課せられることになる過酷な条約締結の裏側は、ドイツ為政者に関する点ではほぼ前書の内容通りである。1918年3月~7月の西部戦線における大攻勢の失敗、厭戦気分の横溢、ブルガリアの降伏後急に講和を求めだす軍首脳。一方にウィルソンの講和提案があり、ボルシェビキ革命で戦線を離脱し単独講和を結んだソヴィエト政権と交わした講和条件(主として領土のみ)も睨みながら落としどころを探ることになる。ここには講和はあっても降伏は無い。ウィルソン提案とドイツの思惑はスタート時点では歩み寄りが可能なように見えた。このような背景から、講和を求めるドイツ政府の第一声は“全交戦国”に対してではなく単独にアメリカに対して行われる(10月3日)。これに対するアメリカ側の回答が10月8日に出されるが、独米双方の考え方の違いやウィルソン案に対するヨーロッパ連合国(仏英)の不同意などがあり、休戦条約が交わされるのは11月11日までかかってしまう。またアメリカ中間選挙での民主党の敗北はウィルソンの権力基盤を奪い、それ以降の条約交渉を複雑にしていく。ヴェルサイユ条約の発効は、最初のドイツの投げかけから1年3ヶ月後の1920年1月10日である。何故こんなに時間がかかったのか?これが本書の内容である。
先ず“戦争責任”と“皇帝退位論”が初期の交渉段階で大きな問題となる。あの戦争の動機に他国を征服する意図は無かった。同盟の鎖の中で参戦することになってしまったと言う思いはドイツに強い。実はウィルソンもそれに近い考えであった。また専制君主ではなく立憲制を布いていた国で皇帝の責任をどこまで問えるのかも議論のあるところであった(それ以前の、プロシャにおけるビスマルク首相の力を見てもそれは否定できない)。戦争の敗戦国として、他国に対する覇権や一部領土の喪失、戦場復元の支払いはやむを得ないとしても、まさか一方的に責任を負わされ、想像を絶する賠償金を支払うことになるとはドイツばかりではなく連合国側にも当初は予想していない。何故それが誰もが予期せぬ方向に向かっていくか?
それまでの戦争が君主の戦争であったのに対し、この戦争は国民国家の総力戦であった。君主や騎士階級が戦争の主役で無いだけに、戦後処理に国民感情は無視できない。少なくともウィルソンは穏やかな和平案を提示したし、英国のロイド・ジョージも当初は強硬案に批判的であったという。しかし主戦場となり膨大な戦死者を出したフランスのクレマンソーはドイツ解体に近い条約締結にこだわった。そうこうするうちに仏に劣らず大勢の戦死傷者出したことやUボート封鎖戦略で苦しんだ英国民の声が次第に高まり、ロイド・ジョージが変心することになる。ついにはウィルソンもこの二人の主張を受け入れざるを得なくなる。
マックス・ウェバーこの条約締結に至る種々の局面で、公式・非公式に“専門家(政治学者)”として発言しており、戦争責任や皇帝退位論ではドイツの主張に近いところにあった。これらの主張の中で変わらないのは「政治的決定は常に少数の者の冷静な頭脳によって行われるべき」と言うことである。これは英国側で賠償問題に関与した経済学者ケインズも言っていることで、衆愚化する現代の政治環境にも当てはまることであろう。その意味でナチスと言う狂気の集団はドイツ大衆のみならず、連合国大衆の意思の結果とも言える。
「民主的な世界が理想社会なのか?」がこの本の読後感である。
(2)砂漠の狐を狩れ
原題は“Killing Rommel(ロンメルを屠れ)”である。あの北アフリカ戦線で戦った“砂漠の鬼将軍、神出鬼没の前線指揮から“砂漠の狐”とあだ名されたロンメルを巡る戦争サスペンスである。もともと植民地治安軍の性格が強かった英陸軍は、この猛勇果敢な司令官に指揮された独アフリカ装甲軍に押し捲られる。アレクサンドリアそしてカイロに迫る“狐”に対してゲリラ戦法で挑んだのが英国陸軍の特殊長距離砂漠挺身隊、隊員たちは“砂漠の鼠”と呼ばれた。史実である。アメリカ製のTV番組が流行った一時期人気のあった「ラットパトロール」はこれをモデルにしたものだし、この小説もこの“鼠”達が主役である。
陣頭指揮、最前線で戦うロンメルは幾度も危機的な状況に置かれるが、いつも奇跡的にそれらの難から逃れる。また激しい戦闘後の一時的な停戦で戦場の死者や負傷者の回収に当たる姿勢は、敵方からもその騎士道精神を賞賛される。チャーチルでさえそれを讃える談を発するので、いつの間にか英軍兵士の間に“不死身神話”が語られるようになる。「これではいけない!奴を殺せ!」これが一匹の鼠である主人公に下される命令である。
この小説の面白さは史実を丹念に調べたその戦闘行動シーンにあることは確かだが、それ以上に興味を惹かれたのは、主人公の生い立ち(両親を早く亡くした没落上流階級、アイルランド系)やその階級の使命感を随所に織り込んでいる点である。パブリックスクール(ウインチェスター校)からオックスフォードに進んだ同窓のエリート達が率先して最前線に赴く中で、先輩後輩の間で何気なく交わされるような会話にも知的な好奇心がくすぐられる局面があったりする。そして一瞬それが戦争サスペンスであることを忘れさせるほどである。少し長くなるが、その一例を、パブリックスクールから大学を通じてのユダヤ人先輩(アフリカ戦線で再会する)が、大学時代に彼の人生の迷いをからかうシーンで語る言葉で紹介してみたい。「ユダヤ人の絶望は貧困から生じるもので、大金で癒すことが出来る。アイルランド人の絶望はちがう。なにものもアイルランド人の絶望をやわらげることはできない。アイルランド人の不満は、自分の境遇が原因ではない。それなら努力や幸運ですばらしいものにできるかもしれない。そうではなく、存在の理不尽さそのものに原因があるんだ。死さ!善意にあふれる造物主が何故われわれに生命を与えながら、その生命に期限をつけることができたのだろう?アイルランド人の絶望に治療法は無い!(中略)だからアイルランド人は名高い酔っ払いで、すばらしい詩人なんだ。(後略)」
筆者は、元英領たったトリニダード・トバコ共和国出身、アメリカで大学教育を終え、さまざまな職を経て作家に転じた人である。解説によれば、史実を丁寧に追う歴史小説を得意とするようで、本書が戦争サスペンスとしては初めてとのことではあるが、登場人物、砂漠の自然、部隊編成、兵器、著名な戦闘シーンなど少し専門知識のある者にも調査・考証がしっかりしていることがわかる。構成・展開も飽きさせず一気に読み続けたくなる秀作であった。
この本のもう一つの優れた点は訳者の力である。単に訳がうまいだけでなく、翻訳のための下準備がよく行き届いている。その一例は、この特殊部隊の隊員にニュージーランド人が多く居た背景説明(解説)で知った。それは当時の本国人に比べ、豪州人、ニュージーランド人は単独行動に強く、自動車運転ができる者の割合が高かったことにあるが、豪政府は個人として英軍に加わることを原則禁止していたが、ニュージーランドはその制約が無かったこととしている。ほかにも些細なことかもしれないが独軍の機甲部隊を“装甲”、英軍のそれは“機甲”と使い分けていることなども“さすが!”と感じた。
次作が待たれる。
(3)ダブリナーズ
20世紀を代表するアイルランド人作家、ジェームス・ジョイスの処女作(短編集)である。今までの日本語訳タイトルでは「ダブリン子」や「ダブリン市民」となっていた。本格的な文学者の本などまず読まない者が何故こんな本を読むことになったか?広告で目にした最新の文庫本だったことも大きいが、何と言ってもアイルランド人・アイルランド民族に対する特別な関心がこれを読ませたといっていい。英国でも米国でも長く二流市民の座におかれ、差別されてきた民族である。特にイギリス統治下(17世紀から1938年まで)では不在地主の貴族たちに過酷な年貢を課せられ生きることすら容易ではなかった。カソリックゆえに食い詰めて渡ったアメリカでも苦労してきた。JFケネディが大統領になったときは“初のカトリック教徒”と現オバマ大統領同様の衝撃を社会に与えた。第二次世界大戦では中立を宣言していたがナチスドイツを心情的に支持する者が多かったという。個人的に関心を持ったきっかけは1983年バークレーMBAコースに参加した際、英国からの参加者に「Englandか来たんですね?」と切り出したところ、不快気に「I’m from UK.United Kingdom!」と応えられたところから始まる。彼はアイリッシュの末裔(何代か前に英国籍になっているが)だったのである。このように鬱屈したアイルランド人気質はまた優れた文学者・作家を輩出している。ジョイスの他に、オスカー・ワイルド、イェイツ(ノ)、ベケット(ノ)、バーナード・ショウ(ノ)、古いところではガリバー旅行記を書いたスィフトなどがそれらである(ノ:ノーベル文学賞)。
こんなこともあって、一度アイルランドに行ってみたいという気持ちを待ち続けていた(現在も)。2007年渡英した際、当初の計画では滞在中に出かけることを目論んでいたが、ヴィザのトラブルもあり行けず仕舞いに終わった。そこで目にしたのがこの本である。「せめて本の上でアイルランド訪問をしよう」と求めた。
「ダブリナーズ」が出版されたのは1914年、およそ一世紀前ということになる。当時(それ以前)ジョイスがダブリンで体験したと思われる出来事を材料に15編の短編をまとめたものである。市民生活を宗教、独立運動、恋愛、子供と学校、仕事と職場など焦点を変えながら描いていく。無論観光案内ではないし、全編を貫くテーマがあるわけでもない。共通するのは何か重苦しいく暗い雰囲気である。多分当時のアイルランド人・ダブリン市民の気分はこんなものだったのだろう。彼の人生がヨーロッパ大陸を転々とするところからもこの国・この土地に対する愛憎半ばする思いであったと想像できる。読んで楽しい作品ではなかったが、アイルランドを理解する一助にはなったような気がする。
ジョイスの作品は言葉遊びやパロディが多いので、翻訳は大変苦労が多いようである。この本の訳者、柳瀬尚紀氏は単なる翻訳者ではなく、ジョイス研究家である。いわばシェクスピア研究家の坪内逍遥が訳したハムレットと同じである。翻訳にはこの原作者の言葉遊びをさらに訳者が一ひねりする場面があり、これに気がつくかどうかがこの本を面白く読めるかどうかのカギでもある(評者はほとんど読後に解説で知った)。翻訳モノの奥の深さを知らされた次第である。
(4)モスクワ攻防1941 モスクワのシェレメチェボ国際空港(中心部から北西に約35km)から市内に向かう道は、やがてモスクワとレニングラード(現サンクトペテルブルク)を結ぶレニングラード街道に合流する。ここからさらに市内に近づくとこの街道とモスクワ大環状道路が交差する。この交差点の少し手前に戦車防杭を模した巨大なコンクリート製のモニュメントが在る。さらに行くと今では大型ショッピングセンターなどが出来ており、周辺には団地が現れ、市街へとつながっていく。2003年初めてロシアへ出張した時目にした忘れ難い光景である。第二次世界大戦時ドイツ軍はここまでモスクワに迫ったのである。
独ソ戦の激戦地として先ず浮かぶのは、戦いの転換点となったスターリングラード(現ヴォルゴグラード)、篭城戦のレニングラード、大戦車戦で有名なクルスクなどであろう。意外と首都モスクワの戦いが映画などでクローズアップされる機会は無かった。事実終戦直後の「英雄都市」顕彰にもあずかっていない(1965年顕彰)。何故か?
1941年6月22日ドイツのソ連侵攻作戦“バルバロッサ”は発動された。ここに至るまでソ連指導部にはその予兆を告げる情報が溢れていたにもかかわらず、スターリンは頑としてそれを信じようとしなかった。この年の5月それまでモロトフに委ねていた人民委員会議長(首相)の地位を自ら引き受け、党・国家両者の最高ポストに就いたスターリンのこの考えに、反論できる者は皆無だった。不意打ちを食らったソ連軍は、北・中央・南のいずれの戦線でも壊走する。モスクワを目指すのはフォン・ポックが指揮する中央軍集団;装甲師団9、自動車化師団6を含む50個師団は7月10日までにはベラルーシ全土を占領、モスクワに通じる要衝スモレンスク(モスクワから400Km)を攻略している。モスクワではレーニンの遺体疎開が密かに進められる。しかしスモレンスクはナポレオンもてこずった16世紀構築の強力な城壁に守られており、完全制圧に2ヶ月を要することになる。これはドイツ参謀本部の予想をはるかに超えもので、後のモスクワ攻防戦に効いてくる。それでもモスクワまで護衛戦闘機をつけることが可能になったドイツ空軍は昼夜にわたる都市爆撃を敢行する。
スモレンスクの掃討、南部軍集団との戦線調整、整備・補給に2ヶ月を要した後、フォン・ポック司令官は9月16日モスクワ占領作戦を発する。タイフーン作戦である。三個装甲集団、78個師団、総計200万に近い兵力がモジャーイスク街道(この途上には古戦場ボロジノもあり、市内ではモスクワの銀座通りともいえるアルバート通りにつながる)、キエフ街道、ワルシャワ街道それにレニングラード街道からモスクワを目指して進撃、10月中旬ボロジノを落とす。もうモスクワは眼前である。初雪は10月8日、1812年より早かった。
ウクライナと西ロシアの産炭地は既にドイツに押さえられ、発電所にも危機が迫る。空爆で破壊された窓からは寒風が容赦なく吹き込んでくる。
これ以降4月までモスクワは耐えに耐えて危機を脱する。
当初の大敗北の分析(赤軍とその指導者の経歴を含む)、侵攻直後のスターリンの自信喪失(開戦から2週間スターリンは茫然自失状態であったようだ。それ隠すためモスクワを英雄都市としなかったのではないかと筆者は推察している)とそらからの回復、東方からの予備軍の移送、民兵師団創設、非情な軍令、一般市民生活、工場の疎開、首都機能移動、空襲と防空施策、食料・燃料事情、両軍の戦術・戦闘などを聞き取りあるいは資料調査でまとめた臨場感溢れるノンフィクションである。やや難点と思われるのは、国家レベルの視点と個人からの聞取りとの結びつきに煩雑(話題の内容ばかりでなく、時間的な前後関係も含めて)なところがあり、読み物としての流れがスムーズでないことがあげられる。
筆者は、ケンブリッジでロシア語とフランス語を専攻した英国の外交官であり、冷戦中は一等書記官としてモスクワに駐在し商務を担当、冷戦後88年から92年にかけて駐ソ大使を勤めた人である。それだけに調査研究はしっかりしたもので(引用参考資料の解説部分が相当量ある)このテーマの文献として後世に残るものであると確信する。また翻訳者もスラブ語専攻で旧在日ソ連大使館に勤務した経験を持つ人、年齢的にも大戦勃発時大学を卒業しているので当時の国際環境を正確に理解している様子が、訳注や訳者あとがきからうかがえる。
“決断科学研究”の事例集としてもこの本にめぐり会えてよかった。
(5)ポール・フレールの世界 ポール・フレールは1917年生まれのベルギー人で、国際的(英・仏・蘭・西・独・伊語を流暢にはなし、読み書きできる)に著名なモータージャーナリストである。戦前ベルギーの大学を卒業その後南仏やベルギーで自動車関連の仕事についていたようだ。戦後はF1やルマンでレーサーとして活躍しながらジャーナリズムの世界に入っていく。F1ではベルギーグランプリ2位が最高だが、ルマンでは1960年フェラーリで優勝している。レース活動から引退したのが1963年、爾来モータージャーナリズムに専念し昨年2月逝去した。享年90歳。この本は「ジェントルマン・ドライバー、セレブレーテッド・ジャーナリスト」と賞賛されてきた、彼の未発表原稿を中心に構成された追悼集である。
幼い時代の自動車に関する思い出、戦後初期に参戦したF1の世界、ポルシェやフェラーリとの関わり、優勝を含むルマン24時間レース、台頭する日本車、友人や夫人の回顧談などから構成されており、“近代ヨーロッパ文化の一翼を担ってきた自動車”を十二分に楽しむことが出来た。そこには“技術と経済”から見つめる自動車と全く異なる世界が存在する。
彼の終の車(複数台所有)の一台に、軽量化のために空調やオーディオを外したホンダCR-Xがあり、日常的に好んで使っていた(何と!距離計は14万キロを超えている)という話は日本人として嬉しいことである。志しがある会社で、志しがある人が開発した車は、志のある乗り手にはよく分かるという好例といえる。今や売れる車の生産に狂奔するわが国メーカーにそれはほとんど期待できない(志しが有る乗り手が少ないこと、志のある乗り手が育つ環境醸成(行政)が出来ていないことも問題だが)。
1)ヴェルサイユ条約 2月の本欄でご紹介した「ワイマル共和国」同様、ORの起源と深く関わるナチス政権誕生の背景理解のために読んだ本である。1月末出版でたまたま目にしたこともあり購入した。前書が主としてドイツ国内の政治情勢が主題だったのに対しこの本は第一次世界大戦参戦国の国内事情(特に終戦処理を巡るウィルソン大統領と他国のリーダーたち)とドイツ側で講和に深く関わった政治学者マックス・ウェバーの言動に主眼が置かれている。
あの戦争でドイツが課せられることになる過酷な条約締結の裏側は、ドイツ為政者に関する点ではほぼ前書の内容通りである。1918年3月~7月の西部戦線における大攻勢の失敗、厭戦気分の横溢、ブルガリアの降伏後急に講和を求めだす軍首脳。一方にウィルソンの講和提案があり、ボルシェビキ革命で戦線を離脱し単独講和を結んだソヴィエト政権と交わした講和条件(主として領土のみ)も睨みながら落としどころを探ることになる。ここには講和はあっても降伏は無い。ウィルソン提案とドイツの思惑はスタート時点では歩み寄りが可能なように見えた。このような背景から、講和を求めるドイツ政府の第一声は“全交戦国”に対してではなく単独にアメリカに対して行われる(10月3日)。これに対するアメリカ側の回答が10月8日に出されるが、独米双方の考え方の違いやウィルソン案に対するヨーロッパ連合国(仏英)の不同意などがあり、休戦条約が交わされるのは11月11日までかかってしまう。またアメリカ中間選挙での民主党の敗北はウィルソンの権力基盤を奪い、それ以降の条約交渉を複雑にしていく。ヴェルサイユ条約の発効は、最初のドイツの投げかけから1年3ヶ月後の1920年1月10日である。何故こんなに時間がかかったのか?これが本書の内容である。
先ず“戦争責任”と“皇帝退位論”が初期の交渉段階で大きな問題となる。あの戦争の動機に他国を征服する意図は無かった。同盟の鎖の中で参戦することになってしまったと言う思いはドイツに強い。実はウィルソンもそれに近い考えであった。また専制君主ではなく立憲制を布いていた国で皇帝の責任をどこまで問えるのかも議論のあるところであった(それ以前の、プロシャにおけるビスマルク首相の力を見てもそれは否定できない)。戦争の敗戦国として、他国に対する覇権や一部領土の喪失、戦場復元の支払いはやむを得ないとしても、まさか一方的に責任を負わされ、想像を絶する賠償金を支払うことになるとはドイツばかりではなく連合国側にも当初は予想していない。何故それが誰もが予期せぬ方向に向かっていくか?
それまでの戦争が君主の戦争であったのに対し、この戦争は国民国家の総力戦であった。君主や騎士階級が戦争の主役で無いだけに、戦後処理に国民感情は無視できない。少なくともウィルソンは穏やかな和平案を提示したし、英国のロイド・ジョージも当初は強硬案に批判的であったという。しかし主戦場となり膨大な戦死者を出したフランスのクレマンソーはドイツ解体に近い条約締結にこだわった。そうこうするうちに仏に劣らず大勢の戦死傷者出したことやUボート封鎖戦略で苦しんだ英国民の声が次第に高まり、ロイド・ジョージが変心することになる。ついにはウィルソンもこの二人の主張を受け入れざるを得なくなる。
マックス・ウェバーこの条約締結に至る種々の局面で、公式・非公式に“専門家(政治学者)”として発言しており、戦争責任や皇帝退位論ではドイツの主張に近いところにあった。これらの主張の中で変わらないのは「政治的決定は常に少数の者の冷静な頭脳によって行われるべき」と言うことである。これは英国側で賠償問題に関与した経済学者ケインズも言っていることで、衆愚化する現代の政治環境にも当てはまることであろう。その意味でナチスと言う狂気の集団はドイツ大衆のみならず、連合国大衆の意思の結果とも言える。
「民主的な世界が理想社会なのか?」がこの本の読後感である。
(2)砂漠の狐を狩れ
原題は“Killing Rommel(ロンメルを屠れ)”である。あの北アフリカ戦線で戦った“砂漠の鬼将軍、神出鬼没の前線指揮から“砂漠の狐”とあだ名されたロンメルを巡る戦争サスペンスである。もともと植民地治安軍の性格が強かった英陸軍は、この猛勇果敢な司令官に指揮された独アフリカ装甲軍に押し捲られる。アレクサンドリアそしてカイロに迫る“狐”に対してゲリラ戦法で挑んだのが英国陸軍の特殊長距離砂漠挺身隊、隊員たちは“砂漠の鼠”と呼ばれた。史実である。アメリカ製のTV番組が流行った一時期人気のあった「ラットパトロール」はこれをモデルにしたものだし、この小説もこの“鼠”達が主役である。
陣頭指揮、最前線で戦うロンメルは幾度も危機的な状況に置かれるが、いつも奇跡的にそれらの難から逃れる。また激しい戦闘後の一時的な停戦で戦場の死者や負傷者の回収に当たる姿勢は、敵方からもその騎士道精神を賞賛される。チャーチルでさえそれを讃える談を発するので、いつの間にか英軍兵士の間に“不死身神話”が語られるようになる。「これではいけない!奴を殺せ!」これが一匹の鼠である主人公に下される命令である。
この小説の面白さは史実を丹念に調べたその戦闘行動シーンにあることは確かだが、それ以上に興味を惹かれたのは、主人公の生い立ち(両親を早く亡くした没落上流階級、アイルランド系)やその階級の使命感を随所に織り込んでいる点である。パブリックスクール(ウインチェスター校)からオックスフォードに進んだ同窓のエリート達が率先して最前線に赴く中で、先輩後輩の間で何気なく交わされるような会話にも知的な好奇心がくすぐられる局面があったりする。そして一瞬それが戦争サスペンスであることを忘れさせるほどである。少し長くなるが、その一例を、パブリックスクールから大学を通じてのユダヤ人先輩(アフリカ戦線で再会する)が、大学時代に彼の人生の迷いをからかうシーンで語る言葉で紹介してみたい。「ユダヤ人の絶望は貧困から生じるもので、大金で癒すことが出来る。アイルランド人の絶望はちがう。なにものもアイルランド人の絶望をやわらげることはできない。アイルランド人の不満は、自分の境遇が原因ではない。それなら努力や幸運ですばらしいものにできるかもしれない。そうではなく、存在の理不尽さそのものに原因があるんだ。死さ!善意にあふれる造物主が何故われわれに生命を与えながら、その生命に期限をつけることができたのだろう?アイルランド人の絶望に治療法は無い!(中略)だからアイルランド人は名高い酔っ払いで、すばらしい詩人なんだ。(後略)」
筆者は、元英領たったトリニダード・トバコ共和国出身、アメリカで大学教育を終え、さまざまな職を経て作家に転じた人である。解説によれば、史実を丁寧に追う歴史小説を得意とするようで、本書が戦争サスペンスとしては初めてとのことではあるが、登場人物、砂漠の自然、部隊編成、兵器、著名な戦闘シーンなど少し専門知識のある者にも調査・考証がしっかりしていることがわかる。構成・展開も飽きさせず一気に読み続けたくなる秀作であった。
この本のもう一つの優れた点は訳者の力である。単に訳がうまいだけでなく、翻訳のための下準備がよく行き届いている。その一例は、この特殊部隊の隊員にニュージーランド人が多く居た背景説明(解説)で知った。それは当時の本国人に比べ、豪州人、ニュージーランド人は単独行動に強く、自動車運転ができる者の割合が高かったことにあるが、豪政府は個人として英軍に加わることを原則禁止していたが、ニュージーランドはその制約が無かったこととしている。ほかにも些細なことかもしれないが独軍の機甲部隊を“装甲”、英軍のそれは“機甲”と使い分けていることなども“さすが!”と感じた。
次作が待たれる。
(3)ダブリナーズ
20世紀を代表するアイルランド人作家、ジェームス・ジョイスの処女作(短編集)である。今までの日本語訳タイトルでは「ダブリン子」や「ダブリン市民」となっていた。本格的な文学者の本などまず読まない者が何故こんな本を読むことになったか?広告で目にした最新の文庫本だったことも大きいが、何と言ってもアイルランド人・アイルランド民族に対する特別な関心がこれを読ませたといっていい。英国でも米国でも長く二流市民の座におかれ、差別されてきた民族である。特にイギリス統治下(17世紀から1938年まで)では不在地主の貴族たちに過酷な年貢を課せられ生きることすら容易ではなかった。カソリックゆえに食い詰めて渡ったアメリカでも苦労してきた。JFケネディが大統領になったときは“初のカトリック教徒”と現オバマ大統領同様の衝撃を社会に与えた。第二次世界大戦では中立を宣言していたがナチスドイツを心情的に支持する者が多かったという。個人的に関心を持ったきっかけは1983年バークレーMBAコースに参加した際、英国からの参加者に「Englandか来たんですね?」と切り出したところ、不快気に「I’m from UK.United Kingdom!」と応えられたところから始まる。彼はアイリッシュの末裔(何代か前に英国籍になっているが)だったのである。このように鬱屈したアイルランド人気質はまた優れた文学者・作家を輩出している。ジョイスの他に、オスカー・ワイルド、イェイツ(ノ)、ベケット(ノ)、バーナード・ショウ(ノ)、古いところではガリバー旅行記を書いたスィフトなどがそれらである(ノ:ノーベル文学賞)。
こんなこともあって、一度アイルランドに行ってみたいという気持ちを待ち続けていた(現在も)。2007年渡英した際、当初の計画では滞在中に出かけることを目論んでいたが、ヴィザのトラブルもあり行けず仕舞いに終わった。そこで目にしたのがこの本である。「せめて本の上でアイルランド訪問をしよう」と求めた。
「ダブリナーズ」が出版されたのは1914年、およそ一世紀前ということになる。当時(それ以前)ジョイスがダブリンで体験したと思われる出来事を材料に15編の短編をまとめたものである。市民生活を宗教、独立運動、恋愛、子供と学校、仕事と職場など焦点を変えながら描いていく。無論観光案内ではないし、全編を貫くテーマがあるわけでもない。共通するのは何か重苦しいく暗い雰囲気である。多分当時のアイルランド人・ダブリン市民の気分はこんなものだったのだろう。彼の人生がヨーロッパ大陸を転々とするところからもこの国・この土地に対する愛憎半ばする思いであったと想像できる。読んで楽しい作品ではなかったが、アイルランドを理解する一助にはなったような気がする。
ジョイスの作品は言葉遊びやパロディが多いので、翻訳は大変苦労が多いようである。この本の訳者、柳瀬尚紀氏は単なる翻訳者ではなく、ジョイス研究家である。いわばシェクスピア研究家の坪内逍遥が訳したハムレットと同じである。翻訳にはこの原作者の言葉遊びをさらに訳者が一ひねりする場面があり、これに気がつくかどうかがこの本を面白く読めるかどうかのカギでもある(評者はほとんど読後に解説で知った)。翻訳モノの奥の深さを知らされた次第である。
(4)モスクワ攻防1941 モスクワのシェレメチェボ国際空港(中心部から北西に約35km)から市内に向かう道は、やがてモスクワとレニングラード(現サンクトペテルブルク)を結ぶレニングラード街道に合流する。ここからさらに市内に近づくとこの街道とモスクワ大環状道路が交差する。この交差点の少し手前に戦車防杭を模した巨大なコンクリート製のモニュメントが在る。さらに行くと今では大型ショッピングセンターなどが出来ており、周辺には団地が現れ、市街へとつながっていく。2003年初めてロシアへ出張した時目にした忘れ難い光景である。第二次世界大戦時ドイツ軍はここまでモスクワに迫ったのである。
独ソ戦の激戦地として先ず浮かぶのは、戦いの転換点となったスターリングラード(現ヴォルゴグラード)、篭城戦のレニングラード、大戦車戦で有名なクルスクなどであろう。意外と首都モスクワの戦いが映画などでクローズアップされる機会は無かった。事実終戦直後の「英雄都市」顕彰にもあずかっていない(1965年顕彰)。何故か?
1941年6月22日ドイツのソ連侵攻作戦“バルバロッサ”は発動された。ここに至るまでソ連指導部にはその予兆を告げる情報が溢れていたにもかかわらず、スターリンは頑としてそれを信じようとしなかった。この年の5月それまでモロトフに委ねていた人民委員会議長(首相)の地位を自ら引き受け、党・国家両者の最高ポストに就いたスターリンのこの考えに、反論できる者は皆無だった。不意打ちを食らったソ連軍は、北・中央・南のいずれの戦線でも壊走する。モスクワを目指すのはフォン・ポックが指揮する中央軍集団;装甲師団9、自動車化師団6を含む50個師団は7月10日までにはベラルーシ全土を占領、モスクワに通じる要衝スモレンスク(モスクワから400Km)を攻略している。モスクワではレーニンの遺体疎開が密かに進められる。しかしスモレンスクはナポレオンもてこずった16世紀構築の強力な城壁に守られており、完全制圧に2ヶ月を要することになる。これはドイツ参謀本部の予想をはるかに超えもので、後のモスクワ攻防戦に効いてくる。それでもモスクワまで護衛戦闘機をつけることが可能になったドイツ空軍は昼夜にわたる都市爆撃を敢行する。
スモレンスクの掃討、南部軍集団との戦線調整、整備・補給に2ヶ月を要した後、フォン・ポック司令官は9月16日モスクワ占領作戦を発する。タイフーン作戦である。三個装甲集団、78個師団、総計200万に近い兵力がモジャーイスク街道(この途上には古戦場ボロジノもあり、市内ではモスクワの銀座通りともいえるアルバート通りにつながる)、キエフ街道、ワルシャワ街道それにレニングラード街道からモスクワを目指して進撃、10月中旬ボロジノを落とす。もうモスクワは眼前である。初雪は10月8日、1812年より早かった。
ウクライナと西ロシアの産炭地は既にドイツに押さえられ、発電所にも危機が迫る。空爆で破壊された窓からは寒風が容赦なく吹き込んでくる。
これ以降4月までモスクワは耐えに耐えて危機を脱する。
当初の大敗北の分析(赤軍とその指導者の経歴を含む)、侵攻直後のスターリンの自信喪失(開戦から2週間スターリンは茫然自失状態であったようだ。それ隠すためモスクワを英雄都市としなかったのではないかと筆者は推察している)とそらからの回復、東方からの予備軍の移送、民兵師団創設、非情な軍令、一般市民生活、工場の疎開、首都機能移動、空襲と防空施策、食料・燃料事情、両軍の戦術・戦闘などを聞き取りあるいは資料調査でまとめた臨場感溢れるノンフィクションである。やや難点と思われるのは、国家レベルの視点と個人からの聞取りとの結びつきに煩雑(話題の内容ばかりでなく、時間的な前後関係も含めて)なところがあり、読み物としての流れがスムーズでないことがあげられる。
筆者は、ケンブリッジでロシア語とフランス語を専攻した英国の外交官であり、冷戦中は一等書記官としてモスクワに駐在し商務を担当、冷戦後88年から92年にかけて駐ソ大使を勤めた人である。それだけに調査研究はしっかりしたもので(引用参考資料の解説部分が相当量ある)このテーマの文献として後世に残るものであると確信する。また翻訳者もスラブ語専攻で旧在日ソ連大使館に勤務した経験を持つ人、年齢的にも大戦勃発時大学を卒業しているので当時の国際環境を正確に理解している様子が、訳注や訳者あとがきからうかがえる。
“決断科学研究”の事例集としてもこの本にめぐり会えてよかった。
(5)ポール・フレールの世界 ポール・フレールは1917年生まれのベルギー人で、国際的(英・仏・蘭・西・独・伊語を流暢にはなし、読み書きできる)に著名なモータージャーナリストである。戦前ベルギーの大学を卒業その後南仏やベルギーで自動車関連の仕事についていたようだ。戦後はF1やルマンでレーサーとして活躍しながらジャーナリズムの世界に入っていく。F1ではベルギーグランプリ2位が最高だが、ルマンでは1960年フェラーリで優勝している。レース活動から引退したのが1963年、爾来モータージャーナリズムに専念し昨年2月逝去した。享年90歳。この本は「ジェントルマン・ドライバー、セレブレーテッド・ジャーナリスト」と賞賛されてきた、彼の未発表原稿を中心に構成された追悼集である。
幼い時代の自動車に関する思い出、戦後初期に参戦したF1の世界、ポルシェやフェラーリとの関わり、優勝を含むルマン24時間レース、台頭する日本車、友人や夫人の回顧談などから構成されており、“近代ヨーロッパ文化の一翼を担ってきた自動車”を十二分に楽しむことが出来た。そこには“技術と経済”から見つめる自動車と全く異なる世界が存在する。
彼の終の車(複数台所有)の一台に、軽量化のために空調やオーディオを外したホンダCR-Xがあり、日常的に好んで使っていた(何と!距離計は14万キロを超えている)という話は日本人として嬉しいことである。志しがある会社で、志しがある人が開発した車は、志のある乗り手にはよく分かるという好例といえる。今や売れる車の生産に狂奔するわが国メーカーにそれはほとんど期待できない(志しが有る乗り手が少ないこと、志のある乗り手が育つ環境醸成(行政)が出来ていないことも問題だが)。
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