1.神々の半島 紀伊半島は和歌山県・奈良県・三重県にまたがる日本最大の半島である。それほど高い山は無いが幾重にも続く山々は深く、温暖な気候と豊富な雨量で、山は木々に埋め尽くされている。その山々は海まで迫り、人々の生活圏を細い線と小さな点にとどめている。飛鳥・平安の時代から都近くに位置しながら、そして下っては徳川の御三家と言う位置にありながら、この地形が現代に至るまで、いにしえとあまり違わない姿を今に残している。
関西空港がオープンするまで、東京で開かれる全国知事会議参加者で、一番時間がかかるのは和歌山県知事などと揶揄されてきた。身近な知人・友人にも和歌山県に行ったことのない人は多い。それもこの山深い土地ゆえであろう。紀伊半島の外周を走る紀勢本線が一つながりになったのは1959年、その5年後東海道は新幹線の時代である。当時の国道の大部分は未舗装で、絶壁を削り、幾重にも九十九折れて峠を越えて行った。
この独特の深い自然環境が呼び込んだのであろう、ここには古くからの宗教・信仰に関わる遺産が数多く残っている。代表的なのは、和歌山県では高野山、熊野三社(本宮、速玉大社、那智大社)とそれへのアクセス路、熊野古道。奈良県では女人禁制で有名な大峰山、三重県では何と言っても伊勢神宮。ここは言わば神々の住む半島である。
この半島(和歌山県)に私が足を踏み入れたのは昭和36年(1961年)の7月、4年生の夏である。7月の初め卒論指導の助教授から就職希望業種を聞かれた。鉄鋼業を希望したところ「鉄はもっとごつい奴の行くところ。君は化学かな?」と言われた。いずれにしてもプロセス工業で働くことが希望だったので「お任せします」と言ったところ、東燃を薦められた。当時の工学部4年生は工場実習が慣わしだったので、会社・工場理解のためと和歌山工場の実習を兼ねてこの地を訪問することにした。交通費・滞在費(幾ばくかの日当と宿泊・三食つき、寮のおばさんが洗濯までしてくれた!)は会社が負担してくれる。それを使って帰りには紀伊半島を周ろう。こんな魂胆もあった。
東京から夜行列車で大阪に出て、今の環状線(当時は完全な環状になっていなかった)で天王寺へ出る。ここから東和歌山(今の和歌山)駅までは阪和線の電車があったが、予め本社で指示されたのは蒸気機関車の牽く紀勢線直結の列車だった。大阪府と和歌山県の境を成す和泉山脈の山中渓(やまなかだに)辺りから景観が変わり、峠を越えると紀ノ川沿いの平野が広がる。「遠くへ来たなー」と実感する。しかし、それはまだほんの入口だった。そこからが紀勢線の出発点、単線の普通列車は周辺に僅かに建物のあるだけのとんでもなく辺鄙な駅に停車しながら南下していく。やがて山が海に迫り素晴らしい景色が堪能できるが、文明の証はほとんど見かけなくなる。途中にあった冷水浦(しみずうら)駅は無人駅だった。やっと工場の在る初島駅に着いたのはもう午後2時を過ぎていた。気だるい午後、有人ではあるが避難用の山小屋のような小さな駅舎、線路の反対側にはトタン葺きの選果場の建物が一つ。足早に散っていった数人の乗客はもう誰もいない。「いやー大変な所へ来てしまった!就職したらこんな所で暮らすのか!」これがこの地に降り立った時の第一印象である。駅には勤労課の担当者が私を待っていてくれた。「道中問題なかったかい?田舎でびっくりしたろう!」この人は東京育ち、こちらの心中をすっかり見透かしていた。紀州への第一歩はこうして始まった。
5月20日から24日にかけて、この自然環境厳しい半島の一端で社会人・エンジニアとしての人生をスタートさせ、念願の車を入手し駆け巡った、思い出深い年月と場所を辿るロング・ドライブに出かけた。私の“センチメンタル・ジャーニー”である;♪Gonna take a sentimental journey Gonna set my heart at ease ♪
2009年6月4日木曜日
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