2009年5月31日日曜日

今月の本棚-9(5月)

 2ヶ月以上かかって英文のハードカバーをやっと読了した。英語を読み理解することの遅れもあるが、一番難渋したのは目の疲れ(文字や行がずれて二重になる)が酷く、15分ともたない。実はこの現象は現役時代と一昨年の滞英時にも経験している。二度とも専門医の診察を受けたが、初回は眼鏡の不具合(結論は眼鏡以上にPC利用時の画面と目の距離の問題であった;老眼鏡で書物を読む場合、自然に見やすい位置に書物を動かしているが、PCの場合は顔を動かして調整する必要がある)、昨年春は悪いところは無いとの診断だった。今回自分で考察してみて、どうやら目を縦に動かす時(縦書きの和書)と横に動かす時で目の疲労に大きな差があることが分かった。まだまだ洋書調査が必要なので、どうしたらいいのか悩んでいる。

<今月読んだ本(5月)>

1)Dowding(Vincent Orange):Grub Street Publishing
2)すべて僕に任せてください(今野 浩):新潮社
3)機械仕掛けの神(ジェイムス・R・チャイルズ):早川書房
4)「理工系離れ」が経済力を奪う(今野 浩):日本経済新聞出版社
5)オペレーショナル・インテリジェンス(松村 劭):日本経済新聞社
6)「流転の王妃」 の昭和史(愛新覚羅 浩):主婦と生活社


<愚評昧説>
1) Dowding
 ヒュー・ダウディングの伝記である。ではダウディングとは何者か?第二次世界大戦中の英空軍戦闘機軍団長である。大戦を生き延びたドイツ陸軍最高司令官ルントシュッテット元帥は、今次大戦の何処がドイツにとって戦いの潮目だったか?と問われた時「独英航空戦」と答えている(質問者は「スターリングラード」を予測していた)。ダンケルクを辛うじて脱した陸軍はぼろぼろの状態、海軍力は無傷とはいえ、空軍力が打ち負かされればそれも安泰ではなく、英仏海峡は飛行機で一飛び、舟艇や空挺で世界最強のドイツ陸軍が押し寄せてくる。この航空戦は英国にとっても国の興廃をかけた天王山であった。1940年7月から始まり9月にピークを迎え、翌年春まで続くドイツ空軍の攻撃をなんとか退ける。この時期米ソは中立状態、英国は孤軍奮闘でドイツに対抗している。
 この勝利はダウディングの前歴、空軍省の実質的な政策決定機関、航空審議会のメンバー時代から防空科学委員会(ティザード委員会)を支援し、レーダー開発や新型戦闘機開発を含む防空システム(この中にはOR推進に関わる活動が多々ある)構築に傾注してきたことも大いにあずかっている。ダウディングが今日、ワーテルローのウェリントン、トラファルガーのネルソンと比せられる、救国の英雄と言われる所以である。
 しかし、この英雄は英独航空戦の山場を過ぎると次第に空軍省内で疎んじられ、軍団長のポジションから引き下ろそうとする動きが活発化、1940年12月その職を解かれ閑職に追いやられる。1942年7月には退役リストに載せられ、ジョージ六世から元帥(終身現役)推挙の要請が出るものの空軍省はこれを認めず大将で退役する。政府と王室はこれを償うように1943年5月彼に男爵の爵位を与えているが、戦後功のあった将官の多くが元帥に叙せられたものの、一旦退役した彼にその機会は無かった。
 何故彼はかくも冷たい仕打ちを受けたのか?この因を“Stuffy(気難し屋)”とあだ名された彼の人格に求めるものや、フランス危急の時現地へ飛んだチャーチルの懇請にもかかわらず、戦闘機隊の派仏を拒否したこと(事実とはやや異なるが)に対する仕返しなどとする説がある。しかし、この伝記を見るとチャーチルは彼を高く評価しており、軍団長を降りた後も二人で親しく食事などしながら意見を聞いていたようだ。見えてきたことは、いずれ“決断科学ノート”で触れることになると思うが、専守防衛の考え方が英空軍の教義(爆撃制圧第一主義)と相容れないことで空軍省主流派の反感を買い、生真面目な性格とそれに基づく言動が相俟って、戦略・戦術のあらゆる面でいわれない批判を浴びることになってゆく。何処にでもある組織力学の犠牲者の姿がそこに在った。
 ORとの関係でこの伝記を見ると、格別ORがクローズアップされるシーンは無いが科学技術には大変理解のある軍人で、彼なくしてあの効果的な防空システムは無かったのではないかと思わせる。
 退役後は英独航空戦の分析などに関する講演や著述活動(これらの活動にも空軍省はあれこれイチャモンをつける)に力を注いでいるが、やがて宗教的な世界(Theosophy;神智学)に入り、仏教・ユダヤ教・ギリシャ精神を融合した新宗教に取り組むようになっていく。この辺りは日本海海戦で頭脳を絞りつくし霊的な世界に入り込んでゆく、秋山真之(中将で退役)を髣髴させるものがある。
 蛇足だが、ダウディングとわが国との関係をこの伝記で初めて知った。彼は神父で学校経営も行っていたスコットランド人家庭の出身、サンドハーストの陸軍士官学校を卒業(ボーア戦争で短縮卒業)した後、砲兵士官(成績が悪く希望の工兵になれなかった)としてジブラルタル、セイロン、香港などに勤務している。この香港勤務中日露戦争が起こり、休暇を取って日本に来ている。結局観戦は叶わず、箱根の温泉(混浴!)や富士山登山(天候不順で登頂成らず)などを楽しんでいる。

2)すべて僕に任せてください  畏友今野浩先生(現中央大学理工学部教授、前東工大教授)のエンジニア小説である。副題は-東工大モーレツ天才助教授の悲劇-。理工学部版“白い巨塔”と言ってもいい(本文より引用)。一過性の学生として過ごした大学でも年とともに学会活動など通じて、大学運営のドロドロした部分を垣間見る機会はあった。それぞれの専門分野での派閥や親分子分関係も少しずつ分かってくる。先生の評価も企業人の視点と研究者・教育者仲間の評価に大きな違いがあることもしばしば知らされた。文部省や教務事務官との関係もややこしいらしい。博士号取得に関して謝礼などが授受される新聞記事などを目にすると、聖人君子の見本のように見えた大学教授も一気に俗物に変じてしまう。しかし、知っているようでほとんど知らなかった世界であることをこの本であらためて知らされた。こんな大学の内面を実名(学校、個人)で登場させ、大学の在り方を一考させる、ユニークなアカデミック・サスペンスとも言えるトーンで話が展開していく。
 主人公は「天才くん」と仲間に呼ばれる、ややエキセントリックだが極めて優秀な若い応用数学研究者である。ヒョンなことで筆者の下で2年間期限付きの助手になり、金融工学関連の研究に励むことになる。天才肌である上に一年間で4000時間(一年は8760時間)も勉強すると言うのだから、最先端の金融工学理論をたちまち吸収、この世界の若きスターに躍り出る。海外の権威者にも認められていく。
 話がおかしくなるのは期限の2年も間近になり、当初は助教授で迎えると言う新設大学のポストが講師に格下げされるところから始まる。また海外留学も条件だったがこれも反古にされる。仲介者は東工大出身の副学長、大学設置審議会(つまり文部省)もからめた問題へと発展していく。ここで筆者は彼のために一肌脱ぎ、主人公は東工大に留まり研究活動にまい進し、さらに筑波大学の講師へと転身していく。しかし、若い講師・助教授を待ち構えているのは大学運営に関わるもろもろの雑事だ。人の良い主人公は次々とそれらを背負い込むことになる。自ずと研究活動が鈍っていく。2年半後東工大経営システム工学科の助教授ポストが空き、筆者がそこへ主人公を当てようとすると、レフリーつき論文数が不足であることが分かる。なんとか“準レフリー付き”で体裁を整えこのハードルを乗り切る。この局面では経済学と工学の境界域論文審査(国際的な)のからくりなども紹介される。
 学問の領域は専門分化が進めば進むほど、一方で領域をまたがる学際的な研究が求められる。金融工学が経済学と工学の融合領域であることから、この研究のために筆者や主人公らは「理財工学科」の設立を目論み、取り敢えず期限付きの「理財工学センター」として実を結ぶが、ここに至るまでの学内や文部省との折衝も興味深い話題が紹介される。ビックリさせられたのは、東工大という一流大学の教授でも、本省のノンキャリ係長程度の格付けであることを知らされたことである。確かに行政と言う面で見れば、国際的に一流の研究者でも素人同然であるのは確かだが、何か釈然としない。
 さて、「理財工学センター」と言う水を得た筆者や主人公は世界的な金融工学研究機関を目指して活動を始めたやさき悲劇は起こる。あとは本文をお読みください。
 大学の研究者・教育者にもっと本業に傾注していただくには、日本の大学教育システムをどうしたらいいのか?これが“一考”の課題である。何とかしなくてはならない!

3)機械仕掛けの神
 副題は-ヘリコプター全史-とあり、これがこの本の内容を表している。レオナルド・ダ・ヴィンチのデザインしたネジの原理で空気中を上っていく傘のような機械がある。全日空のマークとして長く使われていたのでご存知の方も居よう。この会社の母体の一つが日本ヘリコプター輸送(略称;日ペリ)だったからである。ヘリコプターのアイディアはそんなに古くからあるのだが、それが実用になるのは遥かに飛行機より遅い。実用的なものが出現するのは第二次世界大戦中である。回転翼の基本原理、操縦のメカニズム、その複雑な機構に利用される材料の開発、いずれをとっても飛行機以上に難題が横たわっていた。
 この開発に情熱を燃やした人々は、これが自動車のように個人用空中輸送用に使われることを念じてその開発に取り組んだ。「道路の渋滞を尻目に、あなたの庭先からオフィスに出かけられますよ」と。残念ながら、狭小な場所から離着陸できる機能と引き換えに、その複雑なメカニズムはほぼ同様の輸送能力の軽飛行機の数倍の価格となり、夢の実現は叶わなかった。
しかし、救急・救難、悪地形への輸送、空挺作戦などこの機械でなくては出来ない用途は多々あり、我々はこの機械から多くの恩恵を受けている。
 この本は“ヘリコプター全史”と銘打つように、この機械(オートジャイロを含む)の開発の歴史、回転翼の原理やメカニズム、操縦方法、製造者・メーカー、用途(特に軍事や救難)、環境問題(主として騒音)などについて、素人に分かりやすく解説したものである。難しい理論は無く、図も多く、よく出来たポピュラー・サイエンス物である。

4)「理工系離れ」が経済力を奪う  小学生の時からエンジニア志望(模型つくりの延長線;最初は鉄道技術者)であったから、理系に進むことが当然と考えていた。一族に技術者は皆無。高校3年次、受験を前にクラス担任から文系(それも人文科学)が適性といわれたが迷うことは無かった(それで受験では苦労したが)。大学に入学した時、何人かのクラスメートが文系から急遽理系に志望を変えて進学していたことを知った。理由は前年の人工衛星“スプートニック”ショックである。彼ら同様、専門課程に進むと必須の力学系(水力学、熱力学、材料力学)では苦労した。やはり進学指導に関するアドバイスは間違ってはいなかった。計測・制御をゼミ・卒論で選んだのは機械工学科本流勝負を避けた結果である。
 折からの高度経済成長期、理工系はわが世の春、就職には苦労しなかった。しかし当時の東燃は一流大学から人材が集まる会社で、先輩たちには凄いエンジニアたちが揃っていた。果たして落伍せずにやっていけるか?幸いしたのは情報技術の勃興・発展である。この利用領域は当に文理融合領域なのである。プラント運転のコンピュータ化を進めるとき、無論緻密なプログラミング技術が求められるが、それ以外にも種々の仕事があった。新しい運転方式の設計(たとえば、異常に対する自動・手動の限界設定)、そのための運転員の選抜・組織作り、マン・マシーン・インターフェースの設計などは、コミュニケーション力、心理学や社会学の範疇を含み、自身では気付いていなかった能力が俄かに湧き出てきた。爾来45年、ある種のITプロジェクト・マネージメントが専門となり、会社の発展にも寄与したと確信するまでになった。本来なら文系に進むべき人間が、理系に進むことによってささやかながら世のためになった例がここにある。
 本書の帯には「国富の4分の3は“彼ら”が稼いできた!」とある。にもかかわらず引用されている「理系白書」によれば大学卒の文系との生涯賃金格差は5千2百万円あると言う。この国は有史来文高理低の社会である。それでも1950年代から80年代は優秀な人材は理系を目指した。それが“ジャパン・アズ・No.1”を実現した。これが今や大崩壊しつつある。1989年東工大卒業生の29.8%、東大機械系3学科の約半数が金融機関(銀行、証券、保険)に就職し、2008年東大工学部理科一類1260名の2年生から58名の経済学部転籍者が出ている。私大の理工系学部は既に縮小期に入り、受験者は激減している。エンジニアが報われない国に何が起こるか?!サムソンの半導体王国は、日本を流出したエンジニアの協力の賜物だと言われている。優れた自動車技術者はやがて中国で活躍することになるだろう(これは評者の見解)。
 何故こんな現象が起こっているのか?先に紹介した「すべて僕に任せてください」の筆者、今野浩氏が、学び、奉職・勤務した東大・東工大・中大での実態を踏まえて、前出の小説とは角度を変えて、理工学教育の危機を掘り下げている。
 氏は何度かこの欄でも紹介してきたように、わが国における金融工学の第一人者、文理融合系の学問・教育の草分けとしてご苦労してきた方である。決してエンジニアが報われないことにひがんでこのような書を著したわけではない。日本と言う国が置かれた(あるいは与えられた)環境は、広い意味での理工学応用((環境や金融などを含む)に依るしか無い。 給料を上げることが解決策ではなく、技術王国を築いた20世紀のエンジニアが、若者に対してエキサイティングだった自らの経験をもっと語るべきだと結んでいる。全く同感である。メールをお送りしているエンジニアそして製造業で苦楽をともにした文系の方々にもお読みいただき、21世紀の日本を支える若者たちを理系に向けよう!

5)オペレーショナル・インテリジェンス 副題は-意思決定のための作戦情報理論-とあるのだが、“理論”はやや大げさな感じがする。筆者は自衛隊を陸将で退官した軍事情報の専門家のようだが、この本はよくある軍事に材料を求めて企業経営者・管理者の啓蒙に供しようとする意図で書かれている。それに加えて、その他の一般人に現在のわが国安全保障体制の問題点を専門家の立場から訴えようとする面もあり、“理論”としての体系が今ひとつきっちりしていない。
 経営者・管理者の決断と数理をライフワークとする評者として、この“理論”に惹かれて購入したがその点では期待はずれだった。しかし、筆者が現役時代体験(北朝鮮、インド・パキスタンなど)した多くの事例は、さすがに臨場感があり、情報収集・処理の要諦をよく抑えていることに感心させられた。

6)「流転の王妃」 の昭和史 昭和32年12月愛新覚羅慧生の無理心中が報じられた時、母が「あの赤ちゃんだわ!溥傑さんがよく抱いて散歩させていた」と叫んだ。溥傑さんとは満州国皇帝(清朝最後の皇帝:ラストエンペラー)の弟である。慧生と言うのはその長女、つまり皇帝の姪である。彼女は私より約8ヶ月早い昭和13年4月生まれである。12年に結婚した両親は当時満州国の首都新京に住んでいた。どうやらその住まいは皇弟溥傑のお屋敷に近かったらしい。
 この本はその溥傑に嫁いだ、嵯峨侯爵家令嬢、浩の書いた自身を巡る昭和史である。水泳仲間のYさんが満州育ちの私のために貸してくれたものである。読後感は「良い本を読んだなー」とYさんに感謝している(こういう本を自分で買うことは無い)。
 理由はいくつかある。先ず、典型的な政略結婚(本人はもとより嵯峨家の人々も全く関知しないところで話が進められた)であったにもかかわらず、二人の間に深い愛情が育まれ、暖かい家庭が築かれ、それが終生変わらなかったこと。溥儀・溥傑を始めとする清朝の流れを汲む一族に暖かく迎えられ、敗戦の混乱の中でもその関係が保たれたこと。満州国皇帝と天皇家の間には相互に信頼関係があったこと。これを壊し日本の属国のように扱う(溥傑氏は皇弟として扱われず上尉;大尉として扱われる。運転手付き自家用車も禁じようとするが、張総理が何とか関東軍を説得する)のは専ら官僚、特に関東軍であったこと。それもあって彼女らの住まいは一般人と余り変わらない場所、つくりだったようである(だから両親が垣間見ることもあったわけである)。また、戦後の混乱する満州での逃避行は我々民間人に劣らず酷いものだったことに共感さえ覚えた。溥傑氏がソ連抑留を終わり北京へ帰ると浩さんも東京からそこへ移り、二人仲睦かしく老後を過ごすようになる。唯一残念なことは慧生の死で、これについても丁寧に当時の様子が描かれている。
 満州国の歴史についてはずいぶん書籍を集めているが、こんな身近に感じる本は無かった。また、これからの東アジアの国々との付き合い方に手本になるような生き方・考え方を学んだ。

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