1969年5月連休明け、7年余にわたる和歌山工場勤務を解かれ、川崎工場拡張工事のために本社建設部に転勤した(9月には勤務地を川崎工場に移す)。同時にSSSを手放し、しばらく車無しの生活に入った。自動車に対する愛着・興味が失せたわけではなかったが、和歌山でのように日常的に楽しいドライブが出来る環境ではないと推察したからである。実家には駐車場が無かったし、都心では通勤に使うような時代でなくなりつつあった。建設プロジェクトに入れば時間的にも余裕がなくなる。それで特別不自由は感じ無かった。
それでも長距離ドライブの機会があれば参加した。和歌山の寮仲間の一人、SKDさんが一足先中央研究所(埼玉)に転勤しており、二代目(この型式で日野は乗用車の生産をやめる)のコンテッサ(クーペ)を所有していたので、この年の秋同じ和歌山時代の寮仲間、NKGさんと3人で、研究所を基点に志賀高原→飯山→十日町→沼田→金精峠→日光→秩父を巡る山岳ドライブを楽しんだ。これが独身最後のグランドツーリングである。
この年晩秋に見合いをし、1970年5月末に結婚した。当時の新婚旅行先は専ら国内、特に南九州がメッカだった。しかし、我々の場合は時間と費用の関係で軽井沢に数日宿泊しレンタカーで浅間、万座、志賀高原を回ることにした。おおよそのルートは前年秋のドライブで承知している道である。この計画は、図らずも結婚披露宴で知らされる爆弾宣言に対処するために絶妙のものであった。それは来賓の一人、本社技術部次長から発せられた「新郎を6月初旬から欧米に海外出張させる」と言うものであった!本人が全く知らない話である。披露宴のあとで直属の上司(課長)も「話は出ていたんたが、未だ固まっていなかったから、まさかここで発表されるとは思わなかったよ」と言うくらい唐突なものだった。近場で短期の旅行計画が幸いして、何とか出発までにパスポート取得が出来た。それに、これも初めての国際運転免許証も。
6月10日、今では信じられないくらい大勢の人に見送られ、同僚のTKWさんと羽田を発ちNYに向かった。無論二人とも初めての海外である。アラスカのフェアバンクスで給油と入国審査、同日午後遅くケネディ空港に着いた。長期出張していた先輩が車で迎えに来ていてくれていた。マンハッタンへ向かう、複雑に入り組んだ大河のようなハイウェイを走りながら“自動車の国”アメリカを実感した。
エクソンの研究・技術センター(ERE)はニュージャージーの田舎町に在る。車無しでは仕事にならない。初日(11日)にしたことは、レンタカーを借りることである。借りた車はオールズモビル(GMの一事業部だが今度の倒産で整理される)・カットラス。彼の国ではコンパクト・カーだが日本人の感覚では大型車。取り回しが大変と思ったが、道路整備の格段の良さ(当時)とオートマティックでパワーステアリングが相俟って、日本で運転したことの無かった、アメリカ車の扱いやすさを知った。
一日EREで会議をした翌日はもう週末(アメリカは当時から土曜日は休み)。宿泊先のNJのモーテルで無為に過ごす手は無い。いきなりワシントンまで一泊旅行に出かけた。片道200マイル強、有料道路やフリーウェイを走って、3時頃には飛び込みで、後にニクソン盗聴事件で有名になるウォーターゲートの、ハワードジョンソン(モーテル・チェーン;現在はジョージタウン大学の施設に改築されている)にチェックイン。翌日アーリントン墓地やスミソニアンの航空宇宙博物館を見て、ボルティモア、フィラデルフィア経由でNJに帰り着いた。若さのなせる業と言える。
その後一旦フランスに渡り、再びアメリカに戻り、ヒューストン郊外の製油所訪問をした。この時も空港で車を借り、工場訪問後の移動日、ジョンソン宇宙センターを見学して夕方の便でフェニックスへ飛ぶことになっていた。この宇宙センターから空港へ向かう途上、地元の高校生の運転する車と軽微な接触事故を起こした。現場検証の後、白バイに先導され、警察署に出向いて簡易裁判を受け、罰金を払い、やっとの思いでフライトに間に合ったのも、いまでは懐かしい想い出だ。もう時効だから明かしても良いだろう。
フェニックスではGEのコンピューター工場訪問があったが、この時も車を借りた。工場訪問の翌日は土曜日、早朝モーテルで「これからグランドキャニオンへ行ってくるよ」と宿のオヤジに言うと、「楽しんでおいで!帰りは明日だね?」ときたので、「いや、今夜中には帰るよ」と答えると、「エッ!往復450マイルもあるんだぞ!」と信じられないという表情。
朝早く出発したので、途中セドナという町のドライブインで朝食を摂っていた。赤茶けた荒野には珍しく、渓流(色は赤!)もあり緑の多い小さな町だった。そこへ白人のオジサンが寄ってきて「日本人か?これからどこへ行くのか?」と聞く。アリゾナの田舎ではまだ日本人は珍しかったのであろう。「Yes!グランドキャニオンへ」と答えると。「我が家に日本人の若者が寄宿している、今日は休日、彼は長い間日本人に会っていない。一緒に連れて行ってくれないか?」と言いながら名刺を差し出す。タイトルに“Builder”とある。どうやら大工さんらしい。この大工さんの息子(米空軍の管制官;この時は除隊して上智大学で勉学中)と件の日本人(航空自衛隊の管制官)が日本で同じ基地に居り、その関係でアメリカ永住権を取得するため、大工さんのところに寄宿していることが分かる。「ウェルカムだ!」と答えると、一旦自宅に戻り、彼を伴ってやってきた。観光の帰途大工さんの家へ寄ると、夕日に映える赤い砂岩の山々が見渡せる豪邸であった。庭はあの赤い渓流につながっている。しばしここで寛いで、真っ暗闇の夜道を何時間も走ると、突然漆黒の中に宝石箱の輝きが現れた。フェニックスである。ダッジ(クライスラーの大衆ブランド車)・チャージャーで見事450マイルを一日で往復した。
帰国はサンフランシスコ、ハワイ経由で7月3日、独立記念日の前日、ほぼ3週間、初の海外出張はアメリカドライブ旅行とも言えるものだった。
その後も数えきれないほど渡米し、あちこちで運転した。
面白い組み合わせのドライブ行は1983年10月バークレーの仲間、デンマーク人、英国人、日本人とイスラエル人(彼だけ運転しなかった)、4人で出かけたヨセミテ日帰り400マイルのドライブである。左ハンドルに慣れたデンマーク人と右ハンドルの国から来た英国人・日本人は交互に運転とナヴィゲータを務めるのだが、日英以外はしばらく息が合わず、ヒヤヒヤしどうしだった。早朝5時に出てろくな昼食も摂らず、夜9時帰還のタフなドライブだった。一昨年渡英した際、英国人の友人と四半世紀ぶりの再会を果たした時、往時を偲んで大笑いしたものである。
最も長く走ったのも同じ年の11月で、バークレーのビジネススクールを終え、家内を呼んでソルトレークで車を借り(これもダッジ)→ザイアン国立公園→パウエル湖→モニュメントヴァレー→グランドキャニオン→フーバーダム→ラスヴェガスと回った、全行程1200マイルの西部の旅である。長大な長距離トラックと併走するインターステート・ハイウェイ、数十分間大平原の中で対向車も人も見かけない地方道、モニュメントヴァレーでの短時間集中豪雨とインディアン保護区内の学校への緊急退避、ヒッチハイクで主要道路(そこから長距離バスに乗ると言う)へ出る熟年のナヴァホ・インディアン夫婦を乗せたことなど、想い出多き旅だった。ラスヴェガスではナット・キング・コールの娘、ナタリー・コールのショウを楽しんで、このグランドツーリングの仕上げをした。
この時は最後にハワイで数日過ごし、ここでもレンタカーを借りたが、これが最初で(多分)最後の日本車、トヨタ・コルサは貧相・非力な小型車だった。アメリカにはやはりアメ車が似合う。時代にそぐわず、GMやクライスラーが窮地にあるのは残念だ(フォードの車をアメリカで運転した記憶が無い)。
こんなアメリカでのドライブを楽しんでいた時思ったことは、リタイアしたらキャンピングカーで大陸横断をしてみたいと言うことだった。しかし、今では見果てぬ夢である。
(写真はダブルクリックすると拡大出来ます)
それでも長距離ドライブの機会があれば参加した。和歌山の寮仲間の一人、SKDさんが一足先中央研究所(埼玉)に転勤しており、二代目(この型式で日野は乗用車の生産をやめる)のコンテッサ(クーペ)を所有していたので、この年の秋同じ和歌山時代の寮仲間、NKGさんと3人で、研究所を基点に志賀高原→飯山→十日町→沼田→金精峠→日光→秩父を巡る山岳ドライブを楽しんだ。これが独身最後のグランドツーリングである。
この年晩秋に見合いをし、1970年5月末に結婚した。当時の新婚旅行先は専ら国内、特に南九州がメッカだった。しかし、我々の場合は時間と費用の関係で軽井沢に数日宿泊しレンタカーで浅間、万座、志賀高原を回ることにした。おおよそのルートは前年秋のドライブで承知している道である。この計画は、図らずも結婚披露宴で知らされる爆弾宣言に対処するために絶妙のものであった。それは来賓の一人、本社技術部次長から発せられた「新郎を6月初旬から欧米に海外出張させる」と言うものであった!本人が全く知らない話である。披露宴のあとで直属の上司(課長)も「話は出ていたんたが、未だ固まっていなかったから、まさかここで発表されるとは思わなかったよ」と言うくらい唐突なものだった。近場で短期の旅行計画が幸いして、何とか出発までにパスポート取得が出来た。それに、これも初めての国際運転免許証も。
6月10日、今では信じられないくらい大勢の人に見送られ、同僚のTKWさんと羽田を発ちNYに向かった。無論二人とも初めての海外である。アラスカのフェアバンクスで給油と入国審査、同日午後遅くケネディ空港に着いた。長期出張していた先輩が車で迎えに来ていてくれていた。マンハッタンへ向かう、複雑に入り組んだ大河のようなハイウェイを走りながら“自動車の国”アメリカを実感した。
エクソンの研究・技術センター(ERE)はニュージャージーの田舎町に在る。車無しでは仕事にならない。初日(11日)にしたことは、レンタカーを借りることである。借りた車はオールズモビル(GMの一事業部だが今度の倒産で整理される)・カットラス。彼の国ではコンパクト・カーだが日本人の感覚では大型車。取り回しが大変と思ったが、道路整備の格段の良さ(当時)とオートマティックでパワーステアリングが相俟って、日本で運転したことの無かった、アメリカ車の扱いやすさを知った。
一日EREで会議をした翌日はもう週末(アメリカは当時から土曜日は休み)。宿泊先のNJのモーテルで無為に過ごす手は無い。いきなりワシントンまで一泊旅行に出かけた。片道200マイル強、有料道路やフリーウェイを走って、3時頃には飛び込みで、後にニクソン盗聴事件で有名になるウォーターゲートの、ハワードジョンソン(モーテル・チェーン;現在はジョージタウン大学の施設に改築されている)にチェックイン。翌日アーリントン墓地やスミソニアンの航空宇宙博物館を見て、ボルティモア、フィラデルフィア経由でNJに帰り着いた。若さのなせる業と言える。
その後一旦フランスに渡り、再びアメリカに戻り、ヒューストン郊外の製油所訪問をした。この時も空港で車を借り、工場訪問後の移動日、ジョンソン宇宙センターを見学して夕方の便でフェニックスへ飛ぶことになっていた。この宇宙センターから空港へ向かう途上、地元の高校生の運転する車と軽微な接触事故を起こした。現場検証の後、白バイに先導され、警察署に出向いて簡易裁判を受け、罰金を払い、やっとの思いでフライトに間に合ったのも、いまでは懐かしい想い出だ。もう時効だから明かしても良いだろう。
フェニックスではGEのコンピューター工場訪問があったが、この時も車を借りた。工場訪問の翌日は土曜日、早朝モーテルで「これからグランドキャニオンへ行ってくるよ」と宿のオヤジに言うと、「楽しんでおいで!帰りは明日だね?」ときたので、「いや、今夜中には帰るよ」と答えると、「エッ!往復450マイルもあるんだぞ!」と信じられないという表情。
朝早く出発したので、途中セドナという町のドライブインで朝食を摂っていた。赤茶けた荒野には珍しく、渓流(色は赤!)もあり緑の多い小さな町だった。そこへ白人のオジサンが寄ってきて「日本人か?これからどこへ行くのか?」と聞く。アリゾナの田舎ではまだ日本人は珍しかったのであろう。「Yes!グランドキャニオンへ」と答えると。「我が家に日本人の若者が寄宿している、今日は休日、彼は長い間日本人に会っていない。一緒に連れて行ってくれないか?」と言いながら名刺を差し出す。タイトルに“Builder”とある。どうやら大工さんらしい。この大工さんの息子(米空軍の管制官;この時は除隊して上智大学で勉学中)と件の日本人(航空自衛隊の管制官)が日本で同じ基地に居り、その関係でアメリカ永住権を取得するため、大工さんのところに寄宿していることが分かる。「ウェルカムだ!」と答えると、一旦自宅に戻り、彼を伴ってやってきた。観光の帰途大工さんの家へ寄ると、夕日に映える赤い砂岩の山々が見渡せる豪邸であった。庭はあの赤い渓流につながっている。しばしここで寛いで、真っ暗闇の夜道を何時間も走ると、突然漆黒の中に宝石箱の輝きが現れた。フェニックスである。ダッジ(クライスラーの大衆ブランド車)・チャージャーで見事450マイルを一日で往復した。
帰国はサンフランシスコ、ハワイ経由で7月3日、独立記念日の前日、ほぼ3週間、初の海外出張はアメリカドライブ旅行とも言えるものだった。
その後も数えきれないほど渡米し、あちこちで運転した。
面白い組み合わせのドライブ行は1983年10月バークレーの仲間、デンマーク人、英国人、日本人とイスラエル人(彼だけ運転しなかった)、4人で出かけたヨセミテ日帰り400マイルのドライブである。左ハンドルに慣れたデンマーク人と右ハンドルの国から来た英国人・日本人は交互に運転とナヴィゲータを務めるのだが、日英以外はしばらく息が合わず、ヒヤヒヤしどうしだった。早朝5時に出てろくな昼食も摂らず、夜9時帰還のタフなドライブだった。一昨年渡英した際、英国人の友人と四半世紀ぶりの再会を果たした時、往時を偲んで大笑いしたものである。
最も長く走ったのも同じ年の11月で、バークレーのビジネススクールを終え、家内を呼んでソルトレークで車を借り(これもダッジ)→ザイアン国立公園→パウエル湖→モニュメントヴァレー→グランドキャニオン→フーバーダム→ラスヴェガスと回った、全行程1200マイルの西部の旅である。長大な長距離トラックと併走するインターステート・ハイウェイ、数十分間大平原の中で対向車も人も見かけない地方道、モニュメントヴァレーでの短時間集中豪雨とインディアン保護区内の学校への緊急退避、ヒッチハイクで主要道路(そこから長距離バスに乗ると言う)へ出る熟年のナヴァホ・インディアン夫婦を乗せたことなど、想い出多き旅だった。ラスヴェガスではナット・キング・コールの娘、ナタリー・コールのショウを楽しんで、このグランドツーリングの仕上げをした。
この時は最後にハワイで数日過ごし、ここでもレンタカーを借りたが、これが最初で(多分)最後の日本車、トヨタ・コルサは貧相・非力な小型車だった。アメリカにはやはりアメ車が似合う。時代にそぐわず、GMやクライスラーが窮地にあるのは残念だ(フォードの車をアメリカで運転した記憶が無い)。
こんなアメリカでのドライブを楽しんでいた時思ったことは、リタイアしたらキャンピングカーで大陸横断をしてみたいと言うことだった。しかし、今では見果てぬ夢である。
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