昭和43年から44年にかけては和歌山工場拡張の最盛期(第二製油所の建設計画があり大規模な埋め立てが行われていたが、石油ショック到来でその計画も中断。爾来和歌山工場ではこの時の規模を上回るプラント建設は行われていない)、しかもコンピューターが続々と導入された。責任ある立場を与えられ、充実した毎日であった。ベースアップ、長時間残業それに頻繁な出張。経済的に、独り者には十分な生活だった。尤もこの頃には同期入社の大部分が結婚しており、それへの備えも必要だったのだが・・・。
東燃(と言うよりわが国製油所)初の実用DDCシステムを間接脱硫装置群に導入、スタートアップを無事終えた10月、念願だった本格的スポーツカー;ダットサン・ブルーバードSSS(スーパー・スポーツ・セダン;スリーエス)に乗り換えた。コンテッサは購入来大きなトラブルも起こさず、健気に長距離ドライブをこなしてきたが何せ非力だった。昭和41年製のSSSは、中古車だったがエンジンは1600cc(90馬力)、コンテッサの倍の能力である。このグラマラスな高性能車にすっかり魅了されてしまった。
日産は41年8月プリンスと合併し、サーキットはスカイライン2000GTとフェアレディに、ラリーはこのSSSにと言う使い分けをしていた。当に三桁の国道向けの車と言えた。
日産のラリーの歴史は古い。工学部機械科の学生が中心に活動していた、学生自動車工学研究会(通称;学自研)と言う組織が在ったことは前に触れた。各校の学自研は学連を構成し、大学3年の時その委員をやっていた。その2年前、つまり1958年ダットサンがオーストラリアで開催されたサザンクロス・ラリーで優勝し、当時大きな話題になった。学連委員が集まった一夕、日産の社員で東大学自研OB、このラリーでドライバーを務めた大谷さんと言う方の話を聞いたことがある。一流大学出のエンジニアがレーシングドライバーになるなど当時は考えられない時代だったから、“運転もエンジニアリングの内”との話に大変感銘を受けた。その時の車はダットサン210である。
石原裕次郎主演の映画「栄光の5000キロ」は、当時世界の三大ラリーの一つサファリ・ラリーが舞台である(その他はモンテカルロラリーとRACラリー;英国ラリー)。ここで1966年(昭和41年)ダットサン410がクラス優勝している。私が43年に手に入れたブルーバードSSSはこの410なのだ!デザインはあのイタリアの名匠ピニンファリーナ、今までの日本車には無いシックな佇まいだった。無論レース仕様車は各部に手を加えてあり、市販品とは全く違うが外見は同じである。気分だけはラリードライバーである。自動車を持つ喜びの一つがこの“気分”に浸ることなのだ。
この車では、次回紹介する紀伊半島ドライブ以外にも、難路・酷路に苦楽を供にしている。43年末の帰省では、富士で東名を下りて富士五湖から道志みち(山中湖から津久井湖に抜ける;当時はほとんど未舗装)をわざわざ走り、八王子に出て松戸まで帰った。
昭和44年3月、統合潤滑油装置の稼動後、有り余る休暇を消化するために、白馬でのスキーを兼ねて高山→松本→白馬→糸魚川→能登半島→金沢→白川郷→岐阜のコースで一人旅のグランドツーリングを計画した。高山から松本へ至る北アルプス越えの道は、連休前で安房峠の除雪が出来ておらず、急遽コースを変更して、神通川沿いに富山を経由糸魚川から大糸線に沿う糸魚川街道で白馬に至ろうとした。しかし根知で雪に阻まれ、根知駅にこの車を託して、白馬へは大糸線で行きスキーを楽しみ、その後残りの予定コースを走破した。この時は酷い道ばかり走ったので、能登半島の能都町でショックアブゾーバーをやられてしまい、修理・交換を余儀なくされた。
最後の大旅行は、本社転勤を前に連休実施した、四国・山陽・山陰ドライブである。そのルートは、和歌山から徳島にフェリーで渡り、吉野川を遡行し、大歩危・小歩危を通って高知市に至る。ここから海岸伝いを走る56号線をしばらく行って足摺岬に達する321号線に別れ、土佐清水→宿毛まできたところで、またしてもショックアブゾーバーがおかしくなり交換。宿毛で56号線に戻って宇和島→大洲→松山に達した。三桁の道はほとんど未舗装の上アップダウンが凄くカーブだらけだった。松山からフェリーで柳井に渡り、秋芳洞→萩→出雲を経て中国山地を縦断して尾道→福山へ出る。ここから再度フェリーで四国・多度津に渡って高松→徳島に至りフェリーで和歌山に戻った。室戸岬方面を除けばほぼ四国の外周は回ったことになる。この時は職場の同僚と二人旅であったが、運転は全コース一人だった。
この連休明け、7年にわたる長い和歌山生活に別れを告げるとともに、この車を同期のIWZ君に譲った。
(写真はダブルクリックすると拡大できます)
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