2010年2月27日土曜日

決断科学ノート-32(迷走する工場管理システム-6;先行する和歌山工場の苦悩-2)

 洗剤やトイレットペーパー騒動のように、73年の第一次石油ショックはあらゆるものの価格に影響を与えたが、それを原料、エネルギー源とする石油精製や石油化学は特にそのインパクトは大きかった。原油価格が3倍になったからと言って、売値を3倍に出来るわけではない。製造原価に占めるエネルギー消費の抑制(省エネルギー)が急務となった。
 この点では計測・制御・情報分野の仕事にとって、この激変はある種追い風とも言えたのである。従来工場で自家消費するエネルギー源は、生産工程で発生する排ガスや低品位の残渣油、原価はタダ同然であった。排ガス・廃熱回収への投資はなかなかペイしなかったし、売れない重質油を倹約しても経済効果は知れていた。それが3倍のリターンをもたらすようになったのである。それも、コンピューターや計測制御機器が備わっているところでは、応用ソフトの開発費(社内のSEが行う)を除けばほとんど追加投資無しで、直ちに着手・実現できた。これはプラントの制御ばかりでなく、原価管理用のデータをきめ細かく分析し、運転方法の調整・管理に役立てるような仕事にも及んだ。経営陣がやっとコンピューターや計測・制御の有用性に開眼する絶好の機会を提供してくれるようになってきた。
 生産管理(月次計画、スケジューリング)システム開発で苦悩する和歌山工場でも、省エネ活動へこの工場管理システムを活用することに期待が集まった。しかし、話はそう簡単に進まない。
 和歌山工場の歴史は戦前に遡る。戦後の再開時に計測制御機器は更新されてはいるものの、その装備は必要最小限に留まり、かつかなりの計器は現場に設置され、計器室まで信号がつながっていないものが多い。また古いプラントの計器は空気式がほとんどで電気信号にするには変換器を必要とする。運転員が2時間毎の現場点検で情報を集め、それをログシートに記入、一日のデータとして翌朝管理部門に報告される。それをカードパンチしてコンピューターに入力する。その間には誤りも生じるし時間もかかる。つまり運転情報の数・質両面で劣り、きめ細かい管理データーとして利用するには制約だらけなのである。この環境を改善するには新たな設備投資が必要となる。そのためには更なる経済性検討を行わなくてはならない。とても急場の役には立たない。
 もともと本社を含む生産管理部門は、計画立案・スケジューリングは自分たちの本来の仕事と思っているし、現行の業務処理方式がベストと信じている。工場管理システムに対する期待は、“信頼のおける実績データをタイムリーに”提供してくれることにあった。ただこの部分(データ収集分析体系の改善)だけで工場管理システム導入の経済性を出すことが難しかったので、計画管理から実績処理までを一体としたプロジェクトにした経緯があった。しかし、このシナリオが計画管理系開発のもたつきと石油ショックで崩れてしまったのである。
 実績処理体系作りを急がせる経営陣・管理部門の声は、この和歌山工場の状況を変えるべく今度は別の問題を惹起する。有田工場運転要員のシステム部門への転用である。
 数年前から第二工場とも言える有田工場の運転要員として大量の高卒者が採用され、既存プラントで教育訓練を受けていた。それをシステム要員として活用せよと言うのである。
 本人の希望・資質などを考慮して人選が進められたものの、その戦力化への道は容易ではなかった。和歌山計画は当初計画とはまるで合致しない足取りになっていく。
 これはいろいろな形で川崎工場管理システム計画に波及してくる。
(次回;凍結された川崎計画)

2010年2月22日月曜日

決断科学ノート-31(迷走する工場管理システム作り-5;先行する和歌山工場の苦悩-1)

 前回述べた“統一仕様”検討前後、川崎工場がスコーピング・スタディを進めている時、60年代後半から本社コンピュータで試行を重ねていた和歌山工場管理システムは、その実行予算申請最終段階で第一次石油ショックに遭遇する。当初の計画は既存工場に倍する有田工場建設を前提としていた。大掛かりな建設計画に組み込まれる設備投資は予算審査も全体計画の中で捉えられるのが通例で、経済性評価基準も緩くなりがちである。また、生産量が増えるし人員も増えることが前提となるので、経済性改善効果算出のベースが大きくなり、容易に査定基準を超えることが出来た。これらが全て石油ショックでご破算になってしまったのだ。
 既存の工場だけで出せる経済効果は半分に減じ、新たな省エネルギーや人員削減効果を更に積み上げなければならなくなる。一方、設備投資額は大幅に圧縮しなければならない。このような作業に最も重要な役割を担う、プロセス・システム・エンジニア(PSE;数理より化学技術の専門家)は、焦眉の急の既存工場の省エネ活動に投入され、止むを得ず数理・情報技術者が中心に進めることになる。本社の予算審査の要は化学工学バックグランドのエンジニアだから、なかなか歯車が噛み合わない。
 次の課題は工場用コンピュータの仕様・機種決定である。最重要条件は工場線形モデル(LP)を“効率良く”扱えることである。工場の装置群を数学モデルで表記すると数千におよぶ一次線形方程式になる。これを“早くかつ安く”解けることが必須条件なのだ。早く解くために最も効くのは主記憶装置の容量である。しかし、当時の汎用機はこの容量で価格が決定的に違ってきた(今のPCでもその傾向はあるが)。だから比較的小さな記憶容量で大きな問題を解く手法が数理技術者によって種々工夫されてきた。ただこれらの手法はそれぞれのコンピュータメーカー・機種に大きく依存した。結局、和歌山ではこのLP処理が決め手となってIBMが採用されることになった。
 本社のメイン・コンピュータもIBMだったから、それを使った試行段階からの経験・知識が生かされ、プロジェクト推進スタッフも慣れた機械なので、開発はスムーズに進む予定であった。しかし、ことはそう単純ではなかった。予算をギリギリに詰めたことから、主記憶の容量も必然的に小さくなった。IBMのSE(営業SE)と充分検討して決めた筈の仕様が甘かったのである。何とかこの問題を解決すべく、IBMはこの分野を専門にする数理SEを投入したが、結局主記憶の増設しか解決策はなかった。追加予算のために新たな経済効果をひねり出さねばならなくなったのである。後年、この時の数理SE(女性)と当時の話をすることがあった。彼女曰く「営業が全く無茶な売込みをしたんですよ」とのことだった。
 もう一つの難所はスケジューリング・システムである。既に本ノート-29でも書いたように、工場の生産管理の工夫しどころ、従って利益を左右する根源はここにある。各装置の特徴・構成を充分把握したベテラン計画員(スケジューラー)が長年その任に当たり名人芸を発揮してきた。これを数理技術者が聴き取り、プログラム化するのである。今なら人工知能技術や図形処理ツール、表計算ソフトなどを利用することになるのだが、当時はそんな道具は無い。全てプログラム言語(この場合はフォートラン)で書いていくのだ。原油の変化、配管の追加、装置の効率低下や故障なども考慮しなければならない。一度完成したものも環境変化が起こる度に修正が必要になる。原油処理、白物、黒物、ブレンディングそれぞれ分割して作った(和歌山の場合これに潤滑油も加わる)プログラムは、開発のみならず運用段階でもこまめにメンテナンス(修正)しなければならない。安定的な運用は前途遼遠、いつまでたっても日々の実用に供する形に仕上がらない。
 和歌山工場管理システムの肝は、LPを使って月次の最適生産計画を作り、スケジューリング・システムでこの月次計画を日程計画に割り振るところにある。二つの中核システム開発・定着遅延はプロジェクト全体に対する厳しい批判につながっていく。そして、それは次ぎなる課題を提起することになる。
(次回;先行する和歌山工場の苦悩-2)

2010年2月17日水曜日

決断科学ノート-30(迷走する工場管理システム作り-4;生産管理論争-3;統一基本仕様)

 和歌山工場と川崎工場の工場管理システム構築には、生産管理手法の違いのほかに、取り組みのフェーズに違いがあった。このようなシステム開発の場合、先ず全体構想を描くスコーピング・スタディ(SS)、次いで技術的・経済的実現性を明らかにするフィーズィビリティ・スタディ(FS)、そして開発実行段階へと移っていく。
 川崎工場がその構想概要(SS)を見せ始めたとき、和歌山工場は既にFSを終え実行予算の枠取りの段階にあった。しかし、両者の生産管理手法の違いに加えて、第一次石油ショックによって(それぞれの計画における主として経済的な見直しは済んでいたが)、両工場の計画を見直すと伴に、生産管理の方法についてその統一を図るべしとの声が、本社製造部(TSK生産管理部を含む)、情報システム部から起こり、その基本仕様をまとめることになった。
 通常東燃グループで新しい技術的課題に取り組む際には、Exxonグループ内での事例やそのエンジニアリングセンター(Exxon Research & Engineering;ERE)における研究開発情報を参考にするのだが、精製プロセスの大型細密LPモデル開発やプラント設計モデルの研究は行われていたものの(個々のプラント設計モデルをつないで工場モデルを作り、それによって生産管理を行う構想が伝えられていたが、計算量が膨大になるので話題の域を出ていなかった)、日常的に工場で利用する新しい生産計画用ツール(スケジューリングを含む)は存在しなかった。
 そこで独自仕様開発のため、本社・工場の関係課長によるステアリング・コミッティ(舵取り・評価委員会)を創り、その下に実務者レベル(本社、各工場1名、計3名)のワーキンググループを設けてこの作業が進めることになった。私は川崎工場の実務者としてこのワーキンググループに参加することになる。先行していた和歌山工場に作業場所を設け、約2ヶ月集中的に統一仕様作りに取り組むことになった。
 製造部門(工場の管理部門を含む)の関心は、ヴェテラン担当者がもっとも時間を費やす②スケジューリングの支援ツールとプラント運転後の④各種運転実績データ収集・分析作業支援ツールにあった。それに対して技術・情報部門の挑戦課題は、①最適生産計画の立案方法と③プラント運転におけるその実現策である。骨格が①-②-③-④となることは比較的スムーズに決まった。
 問題はそれぞれの中身である。③④に関しては両工場それほど大きな違いはないが、①②に関しては、前2回の報告のように、和歌山は線形工場モデル(①)+スケジューリング担当者のやり方をプログラム化(②)、川崎は一体化非線形モデルで①②を一気通貫(③の機能も一部カバー)で扱う構想を持っていたため、その整理は難航した。
 結局統一仕様として、①の部分は工場“線形”モデル、②もカルキュレータを使う和歌山案が採用されることになるのだが、将来の技術検討課題として非線形モデル案も付記することになったのである。これは川崎計画のSSでも、計算機の能力も含めて実用性を確証することが出来ず、経済性算出をする際、線形モデルを使わざるを得なかったことによる。
 この統一生産管理仕様作りは、異なる部門・事業所間の意思統一、担当者の考え方の整理に大いに役立ち、15年後に情報サービスビジネスを立ち上げてからも、外部ビジネスに利用できるほどのものとなった。
(次回:先行する和歌山の苦悩)

2010年2月9日火曜日

決断科学ノート-29(迷走する工場管理システム作り-3;生産管理論争-2;川崎工場の考え方)

 組織発足に当たって「生産管理だけが対象ではない」と室長から説明があったものの、生産管理が工場管理革新の目玉であることは、和歌山と変わりは無い。そしてこのために工場数理モデルが必要なことも同じである。
 違ったのは、川崎では石油精製・石油化学の“一体化モデル”が必要なこと、そのモデルを非線形モデル(一次式でない)で作り上げる構想からスタートした点である。
 この非線形モデル提言の背景は、石油精製が“分離”を主体にするプロセスに対して、化学が“分解・合成”が中心になること、スケジューリング(生産活動の時間的割付)がガス化しやすい製品を扱う石油化学と、液体を扱いタンクでの保存が比較的長く可能な石油精製では異なることがそのおお元にある。言い換えれば、石油精製が長い時間軸の最適化を志向するのに対して、石油化学では出発点となるナフサ分解装置は、より短い時間のきめ細かな操作で生産効率向上を目指す傾向がある。それは“製造(管理)”というよりは“運転”に近い感覚になる。
 加えて、TSKはグループ初のプラント最適化制御をナフサ分解装置(SC)に適用し、それに成功していた。その中核を成すのは非線形の細密なプロセスモデルなのだ。また、少し遅れたが和歌山工場でも、精製プロセスで最もメカニズムが複雑な流動接触分解装置(FCC)を対象に、同種の最適化制御システムの開発が進められていた。
 室長の構想は、両社の心臓部(SC、FCC)はこれら非線形の細密モデルを使い、他は従来の線形モデルを利用して、川崎工場一体化モデルを作る。このモデルを工場経営環境変化に合わせて走らせ、工場全体の利益を最大化する操業上の拘束点を探り、その限界値を維持していけば全体最適化が実現できると言うものであった。一見論理的にはまともな案である。二つの会社の工場を一人で見ている工場長の期待にもぴったり嵌まる。
 しかし、実際には問題だらけなのだ。 “一体化工場最適操業”と言う考え方、一定期間(ひと月、10日間、日々)のスケジューリングを行わず経済上のプラント操業拘束点に着目するプラント運転管理、非線形・線形モデルの統合、最適解を得るための計算・探索手法、複雑で巨大なモデルを走らせるコンピュータ、どれもこれも一筋縄ではいかない難問ばかりである。
 それでも、モデル開発や最適化手法、コンピュータ性能はシステムズ・エンジニア固有の問題として、その分野の専門家・専門組織に委ねられたものの、一体化管理やスケジューリング(拘束点管理)に関する問題は、両社の製造部門を巻き込んで、激しい論争を呼ぶことになる。
 TSKは東燃の100%子会社、その意味では全体を考えながら経営が行われるべきである。年度予算策定に際しては石油精製・石油化学一体化モデルを使って方針を決めていたし、経営環境変化に際しても両本社で協議して対応策を検討してきた。しかし、日常のオペレーションはそれぞれ独立した会社として行ってきたので、工場だけで一体的に生産管理が行われることに疑義が挟まれることになる。特に、一本社一工場(厳密には和歌山にもTSKのプラントは在るが)のTSKはともかく、三ヶ所(当時)に製油所を持つ東燃にとって、“単一の工場利益最大”と言う目的が、“全社利益最大”と整合性がとれない恐れがあるのだ。これがかなり高度な経営上の論点になった。
 もう一つは、スケジューリングに対する考え方である。工場生産計画は、先ず一ヶ月を一つの括りとして最適の生産計画を作り、それを原料(原油)入手予定や製品需要見通し、設備保全計画、タンクの使い分けなどを考慮して、日割りして個々のプラント運転条件を決定する。これがスケジューリングである。石油精製では、このスケジューリング作業を何人かのベテラン管理員に振り分け、原油、白物(ガソリンや灯油)、黒物(重油)別に作成しそれを統合する。和歌山工場の生産管理システム作りでは、このベテランの作業を忠実に再現するプログラムを開発する方向で計画が進められていた。
 これに対して、川崎案は先に述べたように、TSKのパイプラインでつながった(ほとんどタンク在庫の無い)顧客への製品供給をベースとする、全工場の収益拘束点を見極め、その限界値を維持し続ける運転を指向するので、“日割り”の考え方が極めて薄くなってしまう。これは根本的に従来の東燃のスケジューリング方式とは異なる。
 “一体化”では本社製造部門の考えと、“スケジューリング”では現場最前線ベテラン生産管理担当者のやり方と異なるこの構想は、確かに革新的ではあったが、強い抵抗に遇うのは必然であった。

2010年2月4日木曜日

今月の本棚-17(2010年1月)

<今月読んだ本(1月)>
1)落下傘部隊(秋本実);光人社(文庫)
2)黄昏の狙撃手(上・下)(スティーヴン・ハンター);扶桑社(文庫)
3)したくないことはしない-植草甚一の青春-(津野海太郎);晶文社
4)ヒトラーの秘密図書館(ティモシー・ライバック);文芸春秋社
5)寺田寅彦-バイオリンを弾く物理学者-(末延芳晴);平凡社
6)鉄道ひとつばなし(原武史);講談社(新書)
7)たった独りの引き揚げ隊(石村博子);角川書店
8)高い城の男(フィリップ・K・ディック);早川書房(文庫)
9)日本における戦争と石油(合衆国戦略爆撃調査団);石油評論社

<愚評昧説>
1)落下傘部隊 
 新しい兵器(例えば戦車)と兵種(戦車兵・戦車隊)の成長・発達を調べ整理することで、“情報技術の経営における役割や在り方”を探ることを現役時代からやってきた。航空機と航空兵(やがては新軍種の空軍誕生まで発展する)の歴史も当然取り上げてきたが、落下傘部隊は航空機と言うハードウェア本体からやや外れた兵種なので、あまり目を向けてこなかった。また現代の“空挺”はヴェトナム戦争に代表されるように、専らその中心はヘリコプターで、落下傘ではない(伝統的な歩兵・騎兵もその意味では空挺部隊に変じている)。落下傘が大規模に使われ活躍するのは、第二次世界大戦に始まり(ドイツは第一次大戦で試みたが)その終結で終わったともいえる(小規模特殊任務、隠密任務では依然重要な位置を占めるが)。従って目に触れる資料も少ない。
 この本は、19世紀に気球乗組員の非常用として誕生した落下傘史から始まり、第二次世界大戦の重要作戦における活躍までを記したものだが、その大半はわが国陸海軍のこの分野における技術開発、部隊育成と戦闘状況解説に費やされている。有名な海軍のメナド攻略作戦(セレベス島)、陸軍のパレンバン空挺作戦(スマトラ島)は特に作戦細部まで、勇ましい戦記ものとは違った角度で、分析的に描かれている。
 しかし、私にとってこの本の価値は戦闘解説部分よりは、落下傘そのものや携行兵器の開発・構造などを丁寧に説明しているところにある。事故(ほとんどは傘が開かないことと着地時の衝撃で生じる)を如何に防止するか、軽量・小型の携行兵器開発の苦心談、専用輸送機の開発など、有効な実戦部隊として行動できるためのトータル・システム作りの苦労が、外からでは気がつかぬところに多々あることを知った。例えば、落下傘のサイズ・生地・裁断・縫製・吊策と人体の結合方法、畳み方など、一見単純に見える落下傘が、集団行動を求められる空挺部隊と航空機搭乗員の単独非常脱出用では異なり、それぞれの開発に犠牲を伴う試行錯誤の長い歴史があった。
 それにしても、陸軍と海軍が同規模の空挺部隊を持つ国は日本しかなかった。海軍のメナド作戦(1940年1月)は陸軍のパレンバン作戦(同2月)に先んじて行われたが、一番乗りを海軍に奪われるのを嫌った陸軍に発表を抑えられ(奇襲攻撃の効果が失われると)、同時発表ではパレンバンに功を奪われた格好になる。占領した油田・製油所の利権はそれぞれに帰属した。役所のライバル意識・縦割り行政の凄まじさを、こんな本で知らされるとは思わなかった。

2)黄昏の狙撃手
 愛読している、海兵隊退役下士官、ボブ・スワーガー・シリーズの最新作である。原題は「Night of Thunder;雷鳴の夜」、アメリカの自動車レースで最も人気のあるストックカーレース(NASCAR;ナスカー)を背景にしたサスペンス。“雷鳴”はレーシングカーの爆音、舞台はテネシー州ブリストル市、ここで薬物事件を追っていたボブの娘(新聞記者)が事件に巻き込まれる(自動車事故で意識不明)。地元警察はレース絡みで多発する小事件に追われ、捜査は進まない。見舞いに駆けつけたボブは単独で謎解きにかかる。絡むカルト宗教団。最後はボブの早撃ちでハッピーエンド、と思いきや最後の最後にもう一山。あとは読んでのお楽しみ。
 スティーヴン・ハンターのスワーガー・シリーズは既に和訳が10冊を超えている人気シリーズだ。父親はアール・スワーガー、硫黄島で戦った海兵隊員、退役後アーカンソーで警官になるが殉職する。ボブはヴェトナムで戦い、海兵隊五指に入る狙撃手、かつ早撃ち。一時は南部地方都市の保安官もしていたが今は悠々自適(馬の飼育が当たり財を成す)。これが単独(時として老判事が味方につくこともあったが、シリーズの途中で殺される)で巨悪と対決していく。典型的なアメリカ・ヒーローである。
 作者、ハンターはワシントン・ポストなどで映画批評などを担当した記者で、批評部門でピューリッツァ賞を得ている。骨格は単純な(あまり政治・社会・心理的な背景の無い)勧善懲悪物だが、細部のプロット・描写、例えば銃器や自動車あるいはインターネット利用などが上手く、どれも気分転換・息抜きそして一寸した好奇心を満たすのに最適である(一作だけ買わなかったのは「47人目の男」 これは日本にやってきてヤクザ(右翼)と日本刀でわたりあう!典型的な外国人悪趣味)。
 今回は、追放された名レーサーが悪役を演ずるので、運転シーンを大いに楽しんだ。

3)したくないことはしない-植草甚一の青春-
 映画・ジャズ・ファッションなどの評論家として、60歳代を過ぎてから、団塊の世代の人気が高まり、老人アイドルとなった人物の、若き日に焦点を当てた伝記である。
 常盤新平のエッセイを通じて、ペーパーバックを多読・乱読して、海外最新情報を独自の視点で発信している「面白そうなじいさんだな」と思ったが、その頃本人の書いたものを読んだことは無い。自分が年寄りになってみて、「彼の生き方、チョッと羨ましいな」と言う気分で読むことになった。
 1908年下町(日本橋)生まれの生粋の江戸っ子。裕福な商家の三代目、跡取りとして育てられるので、子供時代は我がままいっぱいの生活を謳歌する。勉強中毒と言われるほど本を読むのが好きだった。しかし、親(それ以上に祖父)の意志で商業学校(府立第一商業)へ進む頃から、漠然と“将来”に悩み始める。好きな学科は英語。これは断突の成績だが、他の専門科目は興が湧かない。祖父の死、関東大震災、父親の事業失敗、継ぐべき家業は無くなり、好きな道(建築に興味がある)に進むべく第一高等学校を受けるが失敗(商業学校卒業では当時ありえぬ進路)。左翼思想にかぶれ、演劇青年へと転じて、25歳の時(1933年)神田の映画館支配人助手の仕事にありつく。この映画館が東宝直営館になることで東宝社員になる。英語が出来ることから、海外情報を集め映画作りの材料・ヒントを現場に提供する仕事に就く。資料集めは半端ではなく、戦争が始まると大使館等から処分されたと思われる原書を片端から購入している(古本を買い過ぎてタクシーに乗り込む写真がある)。
 戦後は更に語学(英語のみならず、フランス語もかなりできたらしいし、ロシア語にもチャレンジしている)が生きてくるのだが、本来組織に馴染まぬ性格で、東宝を飛び出し一匹狼の評論家生活に入っていく。この時代の生活は大変だったようだが、それでも本の購入は止まらない。“ニューヨーカー以上にニューヨークを知っている”男は66歳(1974年)まで外国に出かけたことは無かったのである。全ては書物から得た知識のみであった。
 その好みは常に“前衛(アヴァンギャドル)”にあり、膨大は情報をスクリーニングする年輪があったから、時代感覚は一過性で無い(若者言葉や流行歌などに全く関心を示していない)、真の最先端をきっちり捉えることが出来たのだ。これが60年代後半団塊の世代と老人を結びつけたカギであろう。
 今や団塊の世代も60歳を過ぎた。植草甚一に熱狂した人たちは、彼を超えたであろうか?若者と“新しさ(単なる流行ではない)”を共感できるだろうか?
 これから少し植草甚一の著作を読んでみようと思う。

4)ヒトラーの秘密図書館
 ヒトラーはその死まで15000冊を超える書籍を持っていた。相当な読書家であったことは間違いないのだが、無論全てを読んだわけではないし、自ら求めたわけでもない。ほとんどは献本である。これらの書籍は、主にベルリンとミュンヘンの私邸、それに彼が好んで使っていたベルヒスガーデンの山荘に保管されていたのだが、終戦時その大部分が四散してしまう。軍が押収する前に、ソ連、アメリカ、イギリスの兵隊達が記念品として持ち出したり、その際捨て置かれたりして消えてしまったのだ。
 それでもまとまって残った本が、アメリカ議会図書館に1200冊、ブラウン大学に80冊在る。後者はドイツ降伏後ベルリンに最初に入ったアメリカ人が、総統地下壕から持ち出したものである。
 歴史研究家でジャーナリストの筆者が、議会図書館にあるこの蔵書の存在を知るのが2001年、次いでブラウン大学の蔵書を知る。それらの一部を閲覧した時、明らかに所有者の筆跡と思われる書き込みやアンダーラインを見つける。そこには長広舌を滔々と揮う男のイメージとは違い、独り静かに書物に向き合い、ページを繰る手を一瞬止めて考え込む別の男の姿が浮かび上がってくる。
 調査活動はこの二ヶ所の蔵書に留まらない。個人や外国図書館所有の本、ヒトラーの身近に仕えていた生存者への聴き取り調査、彼の思想形成に影響を与えたと思われる書物の著者やその社会・時代背景などにおよぶ。こうした調査を基に、第一次世界大戦時の兵士からその死まで、歴史的テーマ10を取り上げ書物との関係を解いていく構成になっている。
 第一章では、ベルリンを訪れたことも無い勤勉な兵士が、休暇を楽しむために購入した「ベルリンガイド」やヒトラーが描いたといわれる戦時兵舎となった農家のスケッチ。第三章では、ミュンヘン一揆後囚われの日々書き綴った「わが闘争」にまつわる秘話(一般には第二巻までだが、第三巻があった?)。第四章;“ユダヤ人絶滅計画の原点”ではアメリカ人マディソン・グラントの「偉大なる人種の消滅」(1925年出版)が大きな影響力を与えたことを物語る。そして最終章は、18世紀半ばオーストリア・フランス・ロシア連合軍の前に滅亡の危機に瀕したプロシャを瀬戸際で救った「フレデリック大王」で結ぶ。この本はベルリン陥落を前にゲッペルスが贈ったのだが“奇跡は起きなかった”。
 ヒトラーは高等教育を全く受けていない。軍隊経験も下士官である。その彼があの大戦争をあそこまで統率できたのは、その蔵書の半数、約7000冊が軍事書であり、これがその力の根源であることも本書で明らかになった。将軍たちは、知識では彼に全く太刀打ちできなかったのだ。
 やったことの良し悪しはともかく、歴史上書物からあれほどの力を導き出した為政者はいない。読書軽んずべからず!

5)寺田寅彦-バイオリンを弾く物理学者- 
 自慢にはならないが、高校生以降近代日本文学で読んだ本はほとんど無い。記憶にあるのは「坊ちゃん」「暗夜行路」「蟹工船」「潮騒」、ぐっと下って「太陽の季節」(これは三年生の時だから、近代と言うより現代として読んだ)くらいである。私小説、純文学、芥川賞に全く興味が湧かない。そんな中で何故か寺田寅彦を読み、今では赤茶けてしまった文庫本をまだ持っている。読んだ動機は、多分“理系”の“学者”が書いた“短編”小説だからだったとおもう。読後感としてのキーワードは、好奇心・探究心、心根の優しさである。他の作家の作品を読んでも、粗筋しか記憶に残らないのに、不思議に彼にだけは作者への思いが残っている。特に“心根の優しさ”が。
 新刊書の棚に本書を見た瞬間、あの時の感覚が蘇った。副題にある“バイオリン”、“物理学”にも惹かれた。実を言うと、寺田寅彦の物理学者としての業績は「天災は忘れた頃にやってくる」と言う警句以外に何も知らなかったので、そちらの方のことを知ることが出来ると期待した。そして期待は充分満たされた。ノーベル賞級の学者だったことを知り、何故か嬉しい気分になった。
 寅彦は明治11年(1878年)父42歳、母36歳、姉二人の後久々に生まれた跡取り息子である。当時の平均寿命(男女とも50歳前後)から見れば奇跡の誕生である。父の転勤(陸軍の会計官)で東京、名古屋、高知、東京と転居を繰り返し、父の予備役編入に伴い両親の郷里、高知で少年時代を過ごす。都会育ちで、経済的に恵まれた環境はかえって高知では虐めの対象にされる。姉二人の中の跡取り息子に対する両親・祖母の溺愛、中学受験の失敗、追い討ちをかける胸の病。“優しい心根”はこうして育まれていく。
 一年遅れの中学進学は、入学試験成績抜群で2年生編入、最優秀で卒業し第五高等学校(熊本)に無試験入学(本来ならば高知中学卒業生は三高に進むのだが、この年京都大学設立を控え一時三高が廃校になる)。この短い間の学制変更が当に運命の岐路だった。五高の英語教授は夏目漱石、物理と数学を教えるのは田丸卓郎(のちに東大でも指導を受ける)。田丸に音響学教材のバイオリンを見せられ(簡単な曲の演奏もあった)虜になってしまう。玩具のような黎明期の国産バイオリンを購入、高校の裏山に登っては練習に励む(これが「三四郎」の寒月先生のモデル)。工学部志望が物理に転ずるのも田丸先生の影響である。
 東大に進むと更に病膏肓、ピアノやオルガン演奏まで手がけるようになる。また漱石の紹介で子規にも会い音楽談義を楽しんでいる。しかし楽しいことばかりではない。五高生時代、親の言付けで形ばかりの結婚式を挙げ(新妻は高知に残す)、やっと東京で所帯を持てたのも束の間、幼い長女を残して二十歳の若妻は胸の病で亡くなってしまう。
 再婚、自身の病(肺病再発、胃潰瘍)、ドイツ留学、物理学での恩賜賞受賞、二度目の妻の死、再々婚、関東大震災。波乱万丈の人生の中にいつも音楽と文学がある。
 偉大な教養人の姿を、余すところ無く伝えると伴に、あの“心根の優しさ”が二人の若妻の死と残された幼子への慈しみ、それに音楽への深い愛情から来ていることに思い至らせてくれた。読み応えのある良質の書である。

6)鉄道ひとつばなし
 鉄道を主題にものを書く時は、立ち位置をはっきりさせておかないと、鉄ちゃんオタクにチクリチクリやられるのだと友人の作家がこぼしていた。因みに、彼は「私は“歴史”を主題にしています」と宣言して、その筋の批判をかわしているそうである。
 本書の著者をこの論で整理すると、時刻表と犯罪トリックの話題などあり“時刻表派”的であるものの、総じて“文化派”というところであろうか。
 書き出しに、「わが国に“時間”という概念が定着するのは、鉄道開通時期と密接に関係する」とし、面白い例を紹介している。 “時刻”はいずれの地でも同じようにあった(丑三つ時のように)が、日常生活における10分前とか5分後とかの表現は、開通の早かった東北地方に先ず現れたことをあげている。このほかにも東武日光線と東急田園都市線が地下鉄半蔵門線経由でつながる時、東急沿線でこのことを宣伝する動きが全く無かったのに対して、東武沿線では早くから、“大手町・渋谷直通”を声高に喧伝していたことを両沿線の文化の違いで解説してみたりしている。また、ナチス党大会が何故ニュルンベルクで毎年開催されたかを、ニュルンベルクの鉄道結節点としての価値にありとする説を開陳する。
 こんな面白い話をてんこ盛りしたこの本は、出版社のPR誌にコラムとして連載されたものを集大成したので、一つ一つがショート・ショートで独立しており、時間を気にせずどこでも気楽に読めるところが良い。
 既に第二巻目が出ているようなので、早速Amazonに発注する予定だ。

7)たった独りの引き揚げ隊
 私自身引き揚げ者ということもあり、この種の本はかなり読んできた。既に終戦後65年を経た今、新しい材料はもう無いだろうと思っていたが、この本は今まで聞いたことの無い、驚くべき内容だった(2009年11月発行)。
 日本人の父、コサック系白系(反共産)ロシア人を母とする、日露混血11歳(引き揚げ中は自称10歳で通す)の少年が、独りでハイラル(満・蒙・ソ国境に近く、ノモンハン事変ではその後方中心基地)からハルビンを経て、新京(現長春)→奉天(現瀋陽)、最終乗船地コロ島(このルートは全く同じ)に達し佐世保(博多)に上陸するまでの実話である。
 何故11歳の少年が独りで引き揚げることになり、それをやりとげられたのか?それは彼が“コサック”だったことにカギがある。
 コサックはともと人種的にロシア人とは異なり、ロシア社会で差別を受けていたが、勇猛で騎馬に優れていたことから、皇帝の親衛隊など支配階級の周辺で特異な存在となっていた。それが共産革命で、赤軍に追われる身となり満州の辺境地帯に多数逃げ込むことになった。父親が日本人でも母の影響は強い。子供のときから遊ぶ仲間はコサック。裸馬に乗って草原を走り回り、コサックの風習に馴染んできた。良い水場を探し、食用になる草を見分け、パチンコで鳥やウサギを狩る。生きるための知恵は遊びの中で自然に身についている。優れた視力・聴力による危険予知能力はコサックの生来の資質。加えて日本語、ロシア語が駆使でき中国語や蒙古語を理解できる。迫害され続けた民族の、強靭な生命力を備えていたのだ。
 ソ連侵攻の日(8月9日)、父は既に現地召集で不在(私の父の場合その日の午後臨時召集がかかった)、早朝友達と馬で駆け回っている時(子供は夏休み中)、ハイラルの町は爆撃を受け、母は幼い弟3人を連れて馬車で同族が住む地方へ脱出(私の場合;社宅(自動車会社)の人たちと暗くなってからトラックで新京の遥か南方にある公主嶺へ疎開した)。家に戻ると誰も居ず、町は混乱の極みにある。ここから最初の一人旅が始まる。最初はハイラルからハルビンまでだ。間には大興安嶺と言う深い森林地帯がある。ここで倒れた日本人が大勢いたことは、あの時の混乱が語られる時しばしば話題になる。
 ハルビンには、事業を手広く行っていた父の住居兼事務所がある。何とかここに辿り着くと、そこには親戚家族が既に住み着いている。女子供だけのところへ転がり込んだので、生きるための算段は自分でしなければならない。(しかし、ここに住んで一冬越せたのは幸運だった。あの厳寒を、確りした建物の中で過ごせなかった避難民が、満州各地で大量に死んでいる)
 この住居に突然父親が現れる。臨時召集者はシベリア送りにならずに済んだのだ(私の父のケースと同じ;父の場合は降伏直後に召集解除になった)。この父親は関東軍に毛皮や衣類を納める仕事をしており、他の事業も手がけるほど商才のある人だが、今度は趣味だった絵の才能を生かし、スターリン、後には毛沢東の肖像画を描いて大当たりをする。ひきも切らぬ注文で人まで雇うほどに大繁盛。そんな中で日本人引き揚げが始まる。しかし、父は注文をさばくまでここに留まると言うし(実は、ロシア人女性と親密な関係になっていることもある)、同居の親戚も父に従う。本人は、先の見えないハルビンの生活に嫌気がさしているので、帰国第一陣に加えてくれるよう父に懇願する。
 地区隊長が一応保護者となり、1946年8月下旬ハルビンを出立するのだが(私の場合は7月下旬だった)、ここから彼の真の苦難が始まるのである。荒野に停車した列車(私もたびたびこの停車を体験した。機関士の中国人が金品を要求していたのだと後で知った)を下りて用を足した時、日本人達から「ロスケのガキはどっかへ行け!」と追い払われ、置き去りにされてしまう。
 自分の満州での生活、特に引き揚げ体験(8歳)といたるところでオーバーラップする。芥川賞を得た三木卓の「砲撃のあと」以来これほど当時を身近に感じた本は無い。一方でこれほど違いを感じた話も無い。文中何度も「日本人はヤワだ」と言う意味のことを語っている。全くその通りだと思う。本人は「この時が一番輝いていた」と言うのだから適わない。
 日本そして日本人のこれからが心配になる一冊であった。

8)高い城の男
 “もしあの戦争で枢軸国が勝利していたら”を下地にした、ある種のSFである。この下地から軍事サスペンスを期待して購入したのだが、その期待は全く裏切られた。ストーリーの展開も分かりにくく、最後まで山が無いまま読み終わる。
 時代は1970年代頃のようだ(原書出版は1962年)。アメリカ大陸は三分割され、東はドイツ圏、西(ワシントン、オレゴン、カリフォルニアとネヴァダの一部)は日本圏、中部は辛うじてアメリカの主権があるようだ。舞台は日本が支配する西(太平洋連邦)が中心で進む。ドイツではヒトラーは老化で力を失い、官房長官だったボルマンが首相、しかし病重い彼の命脈も尽きようとしている。後継を狙う、ゲーリング、ゲッペルス、ハイドリッヒ(実際にはプラハで暗殺されたが、ここでは生きている)。誰が新指導者になるかによっては、最後の決戦(ドイツ対日本)の可能性がある。日本側にこれを伝える密使がミュンヘン発のロケット旅客機でサンフランシスコにやってくる。
 こうやって粗筋だけを書いてみるとそれなりに面白い構成なのだが、大部分は日本支配地区に居る日本人と鬱屈したアメリカ人の細々したやり取りが多く、全く盛り上がらない。
 むしろ、この小説がアメリカ最高のSF賞;ヒューゴー賞受賞作品に何故選ばれたかを考えることの方が数等面白い。それは、多分次の二つの要素からきているのではないだろうか?①登場する多くのアメリカ人が、日本の指導により、意思決定する際“易経”で卦を占う場面がいたるところに出てくること、これは欧米人にとっては思わざる知的好奇心を刺激されたであろう。②この小説の中に登場し、重要な役割を演ずる「あの戦争で連合国側が勝っていたら」をテーマとするもう一つのSF小説の存在である(“高い城の男”はこの作中SF小説の作者)。SFの二重構造(一気に現実に戻るという仕掛けはよくあるが;例えば、浦島太郎や猿の惑星)と言うのは斬新なのかも知れない。
 原著の出版が1962年、それ以前に易経や禅などの勉強をしているようなので、構想が練られたのはその2,3年前だろう。1950年代末に見る当時のドイツと日本。文中ではドイツは火星植民を始めているのに、日本はまともなプラスティック射出成型機も作れない。スプートニックでミサイル・ギャップを知らされ、フォン・ブラウン等ドイツ技術者に頼らざるを得ない当時のアメリカだから、こんな奇妙な小説が書かれたのであろうか? こんなところまで勘ぐると“時間の無駄”ではなかった。

9)日本における戦争と石油
 1990年代、OR歴史研究の資料集めを始めた頃購入した本である。購入時東燃和歌山工場の被害状況のところだけ読んでそのままになっていたものを、あらためて精読してみた。原著は、アメリカ合衆国戦略爆撃調査団の石油・化学部門の現地調査報告書である。これに訳者が丁寧な注や補足を行っている。
 本調査は終戦直後の1945年11月に行われ、報告書は翌年2月に提出されている。しかし、内容の重要性に鑑み長く秘匿されていたものがやっと公開され、この訳本が出版される運びになった。それほど軍事作戦上重要なことは本書を読んでみたら、直ぐにわかることである。
 報告書の内容は2部構成になっており、第1部は「日本の戦争における石油の役割」として、真珠湾攻撃以前の日本の石油産業、戦時下の石油産業、空襲による被害、を全体として分析し、第2部では各製油所の被害調査・分析としている。
 当時の全製油所(化学工場;主として石炭液化)を訪ね、いつ、どの製油所に、何機で侵入し、高度はどのくらいで、どんな種類の爆弾を、何発投下し、何処に当たり、どんな設備に、どんな被害が発生したか。これを克明に現地調査し、聴き取り調査をして、爆撃効果を分析するのである。
終戦直後に乗り込んでこそ得られる生々しい情報(写真を含む)は、確実にその精度・信頼度向上をもたらし、戦略・戦術のさらなる改善につながっていく。ORが結実していくには、このような丹念なフォローアップが欠かせないことを、この報告は教えてくれる。
 ただ、この調査団が何度も言っていることは、「爆撃は有効だったが、そこには処理する原油や製品はもはや無く、単に設備を破壊しただけだった。もし油があったら、被害ははるかに大きかったはずだ」と言うことだ。海上封鎖によって南方の原油は国内の製油所まで届かなかったのだ。その意味では爆撃以前に戦いは終わっていたのである。  
(図は東燃和歌山工場爆弾命中図。工場図は二分割、赤丸が爆弾投下位置)
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